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橘氏にとって予想外だったことは、何よりも子供達が父親の無事な姿に不自然なくらい素直に喜びを示したことであった。なかでも華音は、気味が悪いくらい優しい態度で父親を出迎えるのだった。これには、さすがの橘氏も面食らってしまい、これは怪しいと、さっそく気を引き締めて掛かるのだった。あれ程警戒すべきだと思っていた華音が、そういう態度で父親を出迎えたということは、きっとそこに隠された意図があると考えて間違いないからだ。何か嫌な予感が脳裏を走るものの、そこは父親として、どんな質問にも余裕を持って対処できるだけの覚悟はすでに出来ていたので、彼女の口からどんな皮肉が飛び出そうと、どうにでも言い返してやると意気込んでいたのだ。ところが幕が開くと同時に華音の口からそれこそ今まで聞いたこともないような心ある優しい台詞が次から次と父親を襲ったのだ。それは明らかに彼女が前もって考えていたことをただ話しているだけだってことはよく分かったのだが、しかし父親としては彼女がいったいどんな風の吹き回しでそんな歯の浮くような心ある台詞を言うことになったのか、それはこの際不問にして娘のいかにも考え抜かれた心ある言葉の数々を黙って聞くことにしたのである。
「お父さん、退院おめでとう。すっかり元気になってほんとによかったわ。私もずいぶんと心配したんだから。お父さんが倒れたって聞いて、慌てて病院に駆けつけてみれば、見るも哀れなお父さんの姿を見て、ほんとに気も動転してしまい言葉も出なかったわ。身体だけはあんなに丈夫だったお父さんが、いきなり倒れてしまうなんて、いったい誰が信じられるって言うのよ。でも、ほんとによかったわ。顔色だって選挙に負けた時よりずっとよくなってるし、それに顔付きも以前の颯爽と戦っていたあの頃のお父さんに戻って来たみたいだし。でも油断は禁物よ。これからしばらくは十分休養を取って身体を休めなきゃ。そうだわ。お父さんもたまにはのんびりと旅行でも楽しんでみたらどう?今まで旅行なんか行ったこともないんじゃない?あんなつまらない女のことなどすっかり忘れてさ、一人のんびりといい景色を見ながら温泉に浸かるってのもいいもんよ……」
「そうそう、華音もたまにはいいこと言うわね。でも、何だか一人ってのも寂しいわね。そうだ、華音、あなたが一緒に付いてったらどう?だって、お父さんも話し相手が欲しいでしょうからね。ねえ、お父さん?」と、紫音は、華音がまた余計なことを言いそうだと慌ててしまったせいか、自分でも驚くようなことを口にしてしまったのだ。当然ながら、この奇想天外は案は、父親だけではななく華音にも激震が走ったのだ。
「ちょっと待ってよ。いったいどういうつもりで、そんな予定にもないことを言うのよ。話しがまったく違うじゃないの」と華音は、姉に抗議するのだった。
「例えばの話しよ。あなたも分からない人ね。そうしてやればお父さんも喜ぶんじゃないかと思っただけ。家族としての気持ちを問題にしたかったのよ。あなただって、そのくらいの気持ちを持っているんだってことを、お父さんに教えてやりたかったの。だって、あなたは、いつだってお父さんに突っかかるばっかりで、娘として愛情の欠けらすら見せたこともないじゃない。でもね、こんな華音でもお父さんのことはやはり心配してるのよ。私には分かるの。口じゃひどいことを言ってバカにしているようだけど、それは上辺だけのことでね。華音は私とは違ってそれこそ熱血漢ですからね。何でもかんでも食って掛からなきゃ気が済まない性分なのよ。でも実際は誰よりもお父さんのことを一番考えているんじゃないかって私は思っているの」紫音は、こう言って何とか事態の収拾を図ろうとするのだった。
「いや確かに華音はいい娘だよ。そんなことは改めて言うまでもないのだがね。しかし、私としてはお前の提案は、あまりにも華音の気持ちを無視したものだと思うよ。それに第一私は今のところ旅行に行きたいとは少しも思ってないんだよ。お前達の気持ちを無にするようで済まないとは思うんだがね。でも、お父さんは、なぜか知らないがとても嬉しいんだ。それが例えお芝居にしてもだよ。お前達がこうして曲がりなりにも、父親を慰めてくれるってことは、違った意味でそこに家族の愛情を感じてしまうからだよ」父親の橘氏は二人の会話を聞きながら、どうやら二人の間に密約らしきものがあったみたいで、それがここに来て一気に破綻してしまったと想像するのだった。まあ、華音のどう見ても不自然な言動には可笑しいとは思いながら、それでもやはり身に付いていないことはどこかでボロが出るといういい見本みたいなものだ。
「色んな意味で、お父さんのことを心配しているんですよ。華音にしたって、これで精一杯親孝行しているつもりなんですから、そこは素直に認めてやって下さい。だって、ここまで自分を変えてみるのもなかなか出来るもんじゃありませんからね。たとえそこに多少無理があるにしてもですよ。彼女の努力を買ってやるべきです」貴臣はこう言ってこの茶番劇に自分もさっそく加わるのだった。
「お前達の気持ちは、私にもようく分かったよ。いや実に素晴らしい家族だ。お父さんは実際感動したよ。いつもは意思の疎通もままならないくらいバラバラに暮らしているような家族でも、いざ父親が倒れれば華音でさえこの通り、父親のことを心配してくれるのだ。これほど嬉しいことはないじゃないか。なかなか現代では、家族と言えども当たり前のことが出来ていないのが現状だからね。わが家も確かに家族としては、それほど心情的に繋がっているとは思っていなかったが、それでもこうしてみんなが私のことを心配していてくれて、ほんとに父親としてこれほど嬉しいことはないよ。実にめでたい限りだ。これで、わが家も、いざとなれば家族が結束できるんだってことが証明されたってわけだからね。こういうことなら、たまに入院するってのも家族のためにはいいかも知れないね」父親は、笑いながら、これで自分の心配も杞憂に終わりそうだと、すっかり安心してしまったのだ。それにしても、華音のあの嫌そうな露骨な態度を見てしまうと、やはり父親として正直あまり気分がいいという訳にはいかなかったのだ。そこまで父親を拒否しなくてもいいだろうと苦笑するのだった。それでも、父親の立場として言わせてもらえば、紫音ならまだしも、華音はこっちから願い下げだと正直そう言いたくなるのだった。そう言えば、橘氏には家族で一緒に旅行した記憶などまるでなかったのだ。いや、子供たちは母親に連れられてよく旅行には行っていたのだが、橘氏は残念ながら一度もその輪に入ることはなかったのである。なぜか知らないが家族のそういう行事にはまるで関心を示さず、子供たちが一緒に行こうと言ってくれてるのに、仕事が忙しいからとか色んな理由を付けて断り続けていたのである。その報いが、こういうところに表れているのかも知れない。
「でもね、お父さん、あたしはあなたの娘として、そんなに恥ずかしいことはしていないつもりですよ。お父さんは、あまりあたしのことをよく思っていないかも知れませんが、それでも、あたしは、お父さんのことは、それほど嫌いじゃありませんから。こんなこと、今まで一度だって言ったことはありませんが、ほんとのことです」華音は、なぜか急にまじめな顔になって、何のつもりでこんなことを言うのかは分からないが、それでも言っていることは、まんざら嘘でもなさそうだった。しかし、この華音の意外な告白を切っ掛けに、なぜか父親が一番恐れていた方向へと話しが進んで行ったのである。華音は、まじめな顔でこう続けるのだった。
「あたしはね、お父さんのことがほんとに心配なの。だって、今回のことだって、あの女が原因だって話しじゃない。いい加減お父さんも早いとこ目を覚まさないと、あの女にひどい目にあわされるかも知れませんよ。それにしてもお父さんは、ほんとに禮子さんと結婚するつもりなんですか?」
「まあ、待ちなさい。いいかね華音、こういうことはお前のように感情的に考えてしまうと、それこそまとまる話もまとまらなくなってしまうものなんだ。結婚というものはね、ちょっとしたことで気持ちの行き違いが起こったりすると、あっというまに破綻してしまうことだってあるんだよ。だから、お互い冷静になる必要があるんだ。相手の気持ちに合わすというのも一つの手だよ。これは何も相手の言いなりになると言うことじゃないからね。お前達が、いったいどこまで分かって言っているのか知らんが、あまりいい加減な憶測でものを考えてもらっては困るんだ」
「もちろんですとも、ぼく達は何もお父さんの結婚に反対しているわけではないんです。ただ、この結婚は、ぼく達にはあまりにも不可解すぎました。こんなことでは、素直にお父さんの結婚が喜べないじゃありませんか。これは橘家にとってもいいことではないでしょう。それに、この結婚は最初から秘密が多すぎたんですよ。お父さんは憶測でものを考えるなと言いますが、これじゃどうしたって憶測で考えるしか他に方法がないじゃありませんか。いけないことだとは思いますけどね。ですから、これを機に、できれば何でお父さんがこんなことになってしまったのか、その詳しい経緯をぜひ聞かせてもらいたいんですがね」貴臣はこう言って、父親に説明を求めるのだった。
「あまり、私の結婚のことで、あれこれ言ってもらいたくないんだがね。この結婚は、私にとって、とても大事なものなんだ。お前達は、この結婚が不可解だとか秘密が多すぎるとか、まったく訳の分からんことを言うが、いったい、この結婚のどこが不可解なんだ?どこに秘密があるって言うんだ?変な言い掛かりをこれ以上言うんだったら、私はもう何も言わんからな。いいかね、私の考えは、何があろうと変わりようがないんだ。それだけは、お前達にはっきり言っておく。お前達は私のやることを黙って見ていればいいだけの話しだ。それに、なんかお前達は、私が倒れた原因を変にねじ曲げて理解しようとしてるんじゃないかね。どうせ、つまらん憶測で、あれこれ考えているからそんなことになるんだ。いいかね、そんなことは実際の真相とはまったく関係のない、全然信用するに値しないもんだ」
「ですから、その真相なるものを、ぜひお父さんの口からお聞きしたいんですよ。もちろん、ぼく達は、ある程度のことは聞いて知ってはいますが、でも、そこは本人から聞いたほうがずっと確かだと思いますからね」
「でもね、なぜ倒れたのかは医者だって分からないって言ってるんだ。本人に分かるわけないだろう。きっと頭のどっかの神経が悲鳴でも上げたんだろうさ。まったく現代の医学がこんなだから、かえって余計な憶測を呼んでしまうんだ。どうせ、お前達だって、誰かから話しを聞いて面白おかしく想像したんだろうが、そんなものは質の悪い作り話もいいとこだ。いいかね、これだけははっきり言っておく、私の倒れた原因なんてどうでもいいんだ。そんなことより大事なのは、私の気持ちに何の変化もないってことだ」
「お父さんのお気持ちに何の変化も起きなかったということは分かりました。それなら、話しを変えて、お父さんと禮子さんの間で、どんな行き違いがあったのか。それと、なぜ禮子さんが結婚を延期したいと言ってきたのか、その辺のところを、お話ししてくれれば、とても嬉しいのですが」貴臣は、こう言って、父親にとっては一番話しにくいことを、むりやりぶち込むのだった。
「行き違いとは、いったいどういうことかね?彼女との間に行き違いなどあるわけがないだろう。そういうことを言うこと自体が、そもそも間違ってるんだ。いいかね、よく聞くんだ。禮子さんが、確かに結婚を延期したいと言ってきたことは事実だ。しかし、それは彼女にそれなりの理由があってのことで、私はそれを素直に了承しただけだ。その間に、どんな考えの行き違いがあったと考えればいいんだね?彼女は結婚を延期したいと言って来た、それに対して私は素直に承諾しただけだ。まったく単純明快なやり取りにしか見えないんだがね」
「確かに、そこには何の行き違いもないようですが、しかし、ぼく達が聞きたいのは、禮子さんが、なぜそのようなことを言ってきたのか、その理由を詳しく聞きたいんですよ」
「それは、禮子さんの心情にかかわる問題で、私にはまったく分からないね」
「それでは、お父さんは理由も聞かないまま承諾してしまったんですか?」
「しかし、それのどこが悪いんだね?彼女がそうしたいと言ってきたんだ、黙ってそうしてやるのが普通だろう?どうして一々その理由を聞かなきゃならんのだ?」
「お父さんにとってはそうかも知れませんが、でも、そんな大事なことは誰だって、その理由を聞くのが普通じゃありませんかね」
「ふん、だからお前達は駄目だってんだ。いいか、よく聞くんだ。こういう場合はあえてその理由は聞かんほうがいいんだ。相手だって、きっと言いづらいに決まってるからな」
「つまり相手の心情に配慮したってわけですね。しかしそれはどうなんでしょう。こんな大事なことを相手に理由を聞かないまま承諾してしまうなんて、それは何て言うか実にまずいやり方なんじゃないんですか?」こう言って、貴臣は鼻で笑うのだった。
「何がまずいんだね?いったい、どこがまずいって言うんだ!」橘氏は、息子の態度があまりにも癇に障ったのか、突然怒鳴りだし、それこそ鬼の形相で貴臣を睨み付けるのだった。「さあ、言ってみろ、何がまずいんだ!お前のようなひよっこが利いた風なことをぬかすな!」
「まあ、そんなに興奮しないで下さいよ。ぼく達は本気でお父さんのことを心配しているんです。それがどうして分からないんですか?お父さん。いいですか、ぼく達は、お父さんの身に何があったのかすでにあらかた知ってるんです。ですから、何も隠す必要など少しもないんですよ。どうして、そう何でもかんでも秘密にしたがるんでしょうか?まったく呆れてものも言えませんよ」
「ふん、そんなこったろうと思ったよ。どうせ、お前達は、禮子から色んなことを聞いて知ってるんだろうからな。だったら、何だって私の口から無理やり聞き出そうとするんだ」
「ああ、禮子さんから……。そうですよ、でも、肝心なことは、やはりお父さんの口から聞くべきだと思うからです。だって、お父さんはぼく達の親だし、一番信頼できる身内だからです」
「お父さん。どうか私たちに何でも話して下さい。お父さんにとっては、あまり頼りにならないかも知れませんが、それでも、精一杯、お父さんのためになるよう頑張りますから、どうか私たちを信じて下さい。それに困ったことがあったら何でも話せって、いつか私に言ってくれましたよね。今のお父さんが、もしそうなら私たちに何でも話してくれなくちゃいけませんわ」紫音が、まるで父親を諭すようにこう言うのだった。
『まったく、なんでこんなことになってしまったんだ』と、橘氏は呆れるのだった。『あれほど気を付けていたのに、いったいどこで彼らの術中に、はまってしまったんだろう?きっと華音が悪いんだ。あんな余計な芝居をするから、こっちも意表を突かれてすっかり気を許してしまったんだ。それに、あれほどムキになるなと自ら戒めていたのに、それすら忘れて怒鳴り散らすとは、我ながら呆れてものも言えん。これでは完全に彼らの思う壺ではないか』しかし、橘氏としては、このまま彼らの要求に従って自分の心情を話すわけにはいかなかったのだ。それは親としてのプライドか、それとも男として自分の弱味は見せたくないという、単なる虚栄心の表れかそれは分からないが、それよりも、ここまで自分が追い詰められてしまったことに、親として何とも情けないと、橘氏は悔しがるのだった。ところが、ここになぜか知らないが、橘氏をこの窮地から救ってくれる救世主(いや悪魔かもしれない)が現れたのである。どういう経緯でそうなったのかは分からないが、柏木と禮子が一緒に姿を現したのだ。それも柏木はかなり聞こし召している様子で、足下も覚束ないくらいだった。




