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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 禮子も、この事があって以来自分の考えを一切封印してしまい、橘氏と顔を合わせても不自然なくらい話題にしなかったのである。というのも、彼女としては自分の考えに何の変更もなかったのだが、やはり相手のことを考えれば、しばらくは、この問題は控えておいたほうがいいと判断したからだ。

『たった、これだけのことでこの有様だ。もし、本当のことを言ったとしたらいったいどうなっちゃうのかしら。ほんとにご愁傷さまだわ。でも何か変にこじれて自分が悪者になってしまうのもまずいしね。そんなことにでもなれば、ますます自由に動けなくなってしまうだけだもの。それでは困るのよ。あなたとは、この先しばらくは、つかず離れずの関係でいなければならないのだから』とはいえ、こんなことを考えている彼女だが、本人にはそれほどはっきりとしたビジョンがあったというわけではないのだ。ただ彼女の本能がなるべくなら今の状態を続けていたほうが好都合だとそう思わせたのである。

 橘氏は、それからしばらく入院していたが、検査の結果どこも悪いところがなかったので、めでたくもようやく退院できる運びとなった。ところが父親が入院していた間に、家族たちは実に興味深い話しを聞くことになったのである。その話の出どころは家政婦のばあやで、例によって彼女の地獄耳はあの時の二人の会話を抜け目なくしっかりと聞いていたのだ。

「いったい、これをどう解釈したらいいんでしょうね」と、貴臣が謎解きでもするような興味津々な態度で、まずこう切り出した。

「決まってるわよ。あの女はとうとう本音を漏らしたんだわ」と華音が、疑う余地などないと言わんばかりの口調で、こう答えるのだった。彼女は、あのビンタ事件以来、別にこれといって変わったところもなく、いつも通りに生活していたのだ。紫音とも普通に会話していたので、例の件は二人の間ではすでに解決していたらしく、あまり大事には至らなかったようだ。弟とも、いつものように上から目線で接していたし、相変わらずのバカげた皮肉を言っては彼を意味もなく怒らしていたのである。

「だって、それ以外にどう考えればいいのよ」

「でも、禮子さんは、何も別れたいと言ったわけではないのです。ただ少し結婚を延期したいと言ったに過ぎません。姉さんの言う本音とは、いったいどういう根拠に基づいたものなんです?」

「根拠も何も関係ないわ。ただ、あの女が、ようやく正体を現したってことよ。ほんとに、これからいったいどうなるのか実に楽しみだわ」

「それじゃ紫音姉さんは、どう思います?」貴臣は、もっと、まともな意見が聞きたくなって、紫音の意見に期待するのだった。ところが彼女はこの話を聞いた時、とうとう始まったのだ。それもこんなにも早くと思ってゾッとしたのである。あの夜、お互いが思いのままに語り合ったそのことが、ここに一つの表現となってその姿を現したからだ。もちろん紫音とて、禮子がいったい何を考えているのかまったく予想もつかなかったが、ただ彼女が何の考えもなしに結婚の延期を言ったわけではないことだけは、確かだと思われたのである。

「禮子さんも、言ってるように、きっと今のままで結婚するのが不安だったのかも知れません。女なら、誰だっていざ結婚するとなると、色んなことを考えてしまい不安になるものよ。それは、禮子さんのような人でもそうだと思うの。だから、このことをあまり深く考えてしまうとかえって間違ってしまうかも知れないわ。ですから今はもっと慎重に私たちは考えていかなければいけないと思うの。いいわね、お父さんが退院されても、あまり、余計なことは言ってはいけませんよ。とくに、華音、あなたには、そこんとこを何よりも注意してほしいの。それに、あなたも、たまにはお父さんに優しい言葉でも掛けてやったらどうなの。退院を機にさ、娘としての愛情を示してやりなさいよ。たとえば旅行を勧めてみるなんてどう?きっと喜ぶわよ」

「それにしても、お父さんは何が原因で倒れてしまったんでしょうね。まさか、禮子さんが結婚を延期してくれってことが原因なんてことではないですよね。もし、そうだとしたら、これは、よっぽどそのことがショックだったということにもなりますからね。でも、変だな。だって結婚を止めたいといったわけでもないのに、大の男が、たったそれしきのことで突然倒れたりするものなんでしょうか?だって、それがもし本当だとしたら、お父さんも、とうとう焼きが回ってしまったってことになりそうですからね。ほんとにこれからいったいどうなってしまうんでしょう、まったく先が思いやられますね」

「あの自信家の暴君でさえ選挙に敗れたとたん、傍目にも分かるくらい意気消沈してしまったじゃない。あれほどの楽天家が、ここまで落ち込むのかとずいぶん心配してしまったけど、でも、その懸念を取り除いてくれたのが、あの女だったのよ。あの夜のこと、まだ憶えてる?私もあれには正直驚いてしまったわ。お父さんは、彼女の叱咤激励にすっかり感動して涙も流さんばかりだったじゃない。その女が、いきなり結婚を延期してくれって言って来たのよ。それも相手は美人で頭がよく、政治家の妻としては、それこそ打ってつけの女だと本人が絶賛している以上、もし結婚の延期が、そのまま結婚の破談にでもなったら、それこそ目も当てられませんからね。そりゃ、倒れてもおかしくないわよ。お父さんにとってあの女は、これからの自分の人生が、最後に輝けるかどうかの大事な切り札なんですからね」華音はこう言って、始めてまともな意見を口にして見せるのだった。貴臣はそれを聞くとさっそく自分の穿った考えを自慢そうに語り始めるのだった。

「つまりですね。お父さんは、きっと、延期という言葉の裏に何か不吉な意味を嗅ぎ取ってしまったのかも知れませんね」

「不吉な意味って、いったい何よ」

「それは要するに、あなたとはもうこれで終わりにしましょうっていう意味です。人間は実際のところ、相手が何を考えているのか分からないのだから、どうしたっていらぬ憶測をしてしまうものですよ。それがたとえ間違っていようと、その時の本人がそうだと思えば、もうどうしようもありませんからね。お父さんも一番信頼していた人間に裏切られたことで、何か彼女に対して手を打って来るかも知れませんね。もっとも、まだ裏切ったとは言えませんが、それでも、お父さんがそう思っていたら、それこそ何か不祥事でも起こさないとは限りませんからね。それとも、反対に、あっさりと禮子さんの軍門に降り、彼女の言いなりになって、これからの人生を生きて行くことにでもなるのでしょうかね。溺れる者は藁をも掴むではないが、それを掴んだら必ず沈むと分かっていても、やはり掴んでしまうのが人間ですからね」

「それは違うわよ。あの女は藁なんかじゃない。はっきり言って火薬よ。お父さんは、あの女にいづれ吹き飛ばされるに決まってるわ」

 橘氏は、すっかり元気になって、以前に比べて顔色もよくなり、自分の体調が選挙前の状態にまで戻ったように感じるのだった。彼としても、理由は分からないながら、この入院がある意味自分を苦しめていた悲観的な考えから抜け出せる、いい切っ掛けになったのかも知れないと思うのだった。入院した原因を考えれば、あまりいい気分にはなれないのだが、それでも、持ち前の楽観的な考えが戻って来て、自分が倒れたことが切っ掛けで、彼女の気持ちも変わるかも知れないと、彼女に抱いていた憎しみもどこへやら、一転して二人の関係がよくなることに期待を掛けたりするのだった。しかし、ここで一つ問題が出て来たのだ。つまり、何が原因で倒れたのかは、現代の医学を持ってしても解明できなかったからである。これはある意味、彼にとっては、あまりいいことではなかったのだ。つまり、身体的には、どこにも問題がないという診断が出されたことで、ひょっとして、その原因が心因性によるものかも知れないと医者に言われたからである。もちろん、医学に言えることはそこまでで、あくまでも可能性としての話しなのだが、そのことがかえって厄介な問題を引き起こす原因になるかも知れなかったのだ。おそらく誰もが最初に思うことは、彼女の言動が、倒れる切っ掛けになったのではないかと憶測するに違いないからである。肝心の本人は、その辺のところをどう思っていたかと言うと、正直に言ってしまえば、かなりの確信を持って彼女の言動が原因だと思っていたのである。『あの女が、あんなことを言わなければ、こんな惨めな経験などしなくてすんだのだ』しかし、そんなことは口が裂けても言えるわけがなかったのだ。もちろん医者にも言っていない。ところが、すでに家族たちはすべてをご存じなわけで、ただ何も知らない本人にしてみれば、そこのところが問題で事の真相がどこまで正確に伝わっているかが、何よりもこれからの彼の態度を決定すると思っていたからだ。『たぶん禮子は詳しく話しているだろうしな。いや、あの女のことだ、おそらく肝心なところは黙っていると思うが、それでもかなり正確に説明するだろう。そうなりゃ、あいつらはすべてを知ることになる、と考えていたほうが無難だろう。そう考えていたほうが、あいつらの話しにうまく対処できるはずだ。おそらく、あいつらは、手ぐすね引いて待ち受けているに違いなからな。とくに華音には要注意だ。あの鬼検事だけは、ほんとに何とかしてほしいよ。まったく遠慮というものを知らん女だからな。実に厄介な女だ。しかし、まあ、紫音が何とかうまく話しを合わせてくれるだろう。一番いけないことは、あまりムキにならんことだ。そんなことにでもなれば、それこそ、あいつの思う壺だからな』

 彼は、こうして必ず起こるであろう家庭裁判での弁明を、ベットの上で頻りにあれこれ考えるのだった。しかし、そんなことは家族同士のほんのじゃれ合いみたいなもので、彼にしてみれば、それほど深刻に考えるようなことでもなかったのだ。彼にとって最大の問題は、禮子との関係を、これからどうしていったらいいのか、それがまるっきり分からなくなってしまったことだ。彼女の提案を呑んだにしろ、それを信じて本当にやっていけるのだろうか。彼は確かに今回の禮子の提案に一時は腹を立て、憎しみが彼に取り憑いてしまい、そんなことは絶対に許さんぞと彼も自分の男としての立場に目覚めて、勇ましい剣幕に我を忘れたものの、日が経つに従って彼もこれからはもっと現実的に彼女と向き合って行く必要があるのではないかと考えるようになったのだ。とはいっても、何も彼女の言うことをそのまま信じたわけではないのだ。やはり、どうしてもあのことが心に引っ掛かって、もはや素直に彼女を信じることが出来なくなっていたからである。

 その禮子だが、彼女も今回のことを重く見たのか、橘氏を一度病院に見舞っていたのだ。彼女は、受付で彼の病室を聞くと、自分のせいでまたもや彼をこんな目に遭わせてしまい、ほんとに二人の相性は絶望的に悪いと苦笑するのだった。重い足取りで、ようやくお目当ての病室に辿り着くと、気持ちを引き締め直そうと深呼吸して、その重い扉を開けるのだった。するとそこに紫音の姿を認めなぜかホッとしたのだ。もちろん、彼女とこうしてまともに顔を合わすのは、どうしてもばつの悪さを感じてしまうのだが、それでも、別の意味で彼女がそこに居るだけで、無上の安心感を覚えるのだった。おかげですっかりリラックスすることが出来て、それから、しばらくは四方山話に花が咲くのだった。もっとも、彼女は、自分のことは一切話すこともなく、終始、橘氏の健康のことを心配して形だけでもそれなりに気を遣ってみせるのだった。

 橘氏は、この突然のお見舞いを、いい兆候だと前向きに取るべきか、それとも、たんなる道義上仕方なくとった行動なのか判断に苦しむのだったが、彼女の如何にも、あっけらかんとした態度を見ていると、どうやら自分は勝手に、彼女を誤解しているのではないかと疑い始めたのだ。そこで、いい機会なので、例の話しの真意を聞きたいと思い、話しをそっちに持って行こうとするのだが、なぜか彼女はうまいこと話しを逸らせて、肝心の話しには一切触れさせもしなかったのだ。すると、彼女は一瞬まじめな顔になって、自分のしたことが、どれほど彼を混乱に導いてしまったか、それを思うと今回のことで、二人の間に変な亀裂でも生まれてしまったのではないかと、今になってみると、それだけが非常に心配なんですと、しんみりとした口調で話すのだった。これに対して、橘氏は、どうやら自分は変に誤解してしまい、結果的に入院するはめになってしまったが、こうなった原因があなたにあったなどと間違っても思わないでくれと、なぜかそこだけをバカみたいに念押しするのだった。この、どう見ても核心から外れた奇妙な会話も禮子にとってみれば、二人の関係がこれから変な方向に行かないことを望んでいるというメッセージにもなり、そのメッセージを橘氏は、彼女が自分との関係を終わらせたくないんだと、いいように解釈することによって、彼女の狙い通りの方向に向けさせることができたのである。

 紫音は、黙って二人の話しを聞いていたが、禮子が言った亀裂という言葉にすぐさま反応して、自分もあの時、きっと彼女との間に、亀裂を作ってしまったに違いないと思ったが、しかし、この時の禮子の様子を見ていると、あの夜のことが思い出され、なぜかあの時の自分が、恐ろしいくらい子供染みて見えてくるのだった。禮子は、なぜあれ程のことがありながら、変なわだかまりなど一切見せずに、こうも打ち解けた態度で楽しそうに話しが出来るのだろう。それに引き替え、自分は、あの時、あまりにもいさぎよすぎたのだ。まるで、これから彼女と真っ向勝負してやろうといった、気負いだけで彼女と向き合っていただけなのだ。喧嘩などする度胸もないくせに、妙な覚悟に取り憑かれ、彼女とどこまでも戦ってみせると勇んで啖呵を切ってはみたものの、そんなことは今考えれば、まったくのお門違いなものでしかなかったのだ。亀裂にしても、ただ勝手に自分がそう思っていただけかも知れない。少なくとも今の彼女を見る限り、その可能性は低いと言ってもいいのではないだろうか。紫音は、彼女の楽しそうに話す顔を見ながら、自分と彼女との関係がこれからどうなるのか。いや、父親と彼女の関係もそうだ。いやもっと言えば、柏木と彼女の関係も絶対に考えておかなければならないのだ。この奇怪な四人の関係が、いったいこれからどうなって行くのか。このもつれは、何事もなく自然に解消されてしまうのか。それとも、あまり考えたくはないが、解消どころかますます酷くなり、もはやどうすることも出来ない状態にまで行ってしまうのか。そうなった場合、果たして自分はどう行動するつもりなのか、そんな取り留めのないことを考えながら、途方に暮れたようなもの悲しい目で禮子をジッと見詰めるのだった。

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