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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 確かに、娘が突きつけてきた疑念は、新たな懸念材料となって父親を苦しめることになってしまったのだが、それにしても禮子は、いったいどんな理由があって、あのことを紫音に話してしまったのだろうか。それは橘氏にとって、実に不可解極まりないことでもあったからだ。第一、そんなことを娘にバラす必要など、そもそも何処にあるというのだ。しかし橘氏は、そこには彼女にとって、あくまでもちゃんとした理由が潜んでいるに違いないと考えるのだった。というのも、あの女が何かの弾みで、うっかり口をすべらすなんてことは、まず考えられないからである。そうである以上、これには極めて重要な意味が隠されているに違いないと橘氏は秘かに思うのだった。もっとも、それがいったいどういう意味合いのものかは、まったく見当もつかなかったのだが。しかし、それにしても、どうして、こうも後から後から、よくない出来事が立て続けに起きるのだろう。不幸は単独ではやって来ない、とはよく言ったものだ。こうした気分的にも嫌な出来事が重なると、さすがに橘氏も不安になり、これから何かまた嫌なことが起こるのではないかと思い憂鬱になるのだった。というのも、昨日まであれほど意気盛んに頑張っていたのに、それが落選を切っ掛けに一挙に坂道を転げ出したように思えたからだ。昨夜感じた自分の老いというのもそうだ。昨日までは、自分の老いなどそれこそ意識に上ったこともなかったのに、あの鏡に映り出された自分の無残な顔が自分の本当の姿だと見せつけられたようで、今まで感じていた自分の若さなどまったくの幻想だと思いゾッとしたのである。あれ以来彼はまだ一度も鏡を覗いていないのだ。鏡を見て、また落ち込むのも正直バカらしいと思ったようで、こういう橘氏をどう見るかは人によって違うだろうが、ただ彼としてはまだ自分の人生を諦めるわけにはいかないと、そう思っている証拠にはなるのかも知れない。しかし彼のそういう生きる上でのまっとうな執着も、なぜか微妙にねじれて行く運命にあったようだ。『まったく、昨日まであった、あの自信はいったい何処へ行ってしまったんだろう。人生というものは、こうも一瞬で変わるものなのか』

 橘氏は、それ以来、なぜか急に弱気の虫に取り憑かれるようになり、ちょっとした生活上の変化にも敏感に反応して、家族に文句を言ったり、理由もないのに突然癇癪を起こしたりするのだった。とはいえ、彼にしても、そういう自分に戸惑ってはいたのだ。何も好き好んで、家族に当たり散らしているわけではなかったからである。でも、そうでもしなければ、今にも自分が何かに押し潰されそうで怖くてしょうがなかったのだ。確かに、この一連の出来事は、橘氏の人生におけるターニングポイントにはなったのである。つまり、すべてのことが彼の思いとは違う方向に進みはじめたからだ。そして、ついに、その方向を決定的にしたのは、禮子からの思いもよらない知らせだった。彼女は、みんなに挨拶もしないで、黙って橘家を立ち去って二日ほど経ったある日、相変わらずの派手な格好でふらりとやって来て、それほど悪びれた様子もなく、橘氏に向かってこう話し始めたのだ。

「この間は、挨拶もなしで黙って帰ったりして、ほんとにごめんなさいね。急にメールが入って来て、東京まで急いで出掛けなければならなくなってしまったのよ。でも、その用事もやっと終わりましたので、あなたにお詫びしなくちゃっていけないと思って、急いで戻って来たわけなんです。私もね、これでずいぶん忙しい身体なんですよ。それで、どうなんですか、あなたも少しは落ち着きましたか?でも何だか顔色があまりよくありませんわね。あの夜も、ずいぶんと落ち込んでいたようですが、あの時よりも気のせいかしら、少しやつれたんじゃありません?ほんとに心配させないで下さいね。もし、何なら、しばらく休養でもして、ゆっくりしてみたらどうなんです?時間だってたっぷりあるんだし、それとも、運動でも始めて、少し身体でも鍛えてみるってのもいいかも知れません。あなただってまだ若いんだし、そうですよ。六十なんて近頃では、まだ年寄りの内には入りませんからね。そうすれば、あと二十年くらいは頑張れますよ。やはり、あなたもここいらで、生活をちょっと変えてみたほうがいいのかも知れませんね。ご自分の健康のためにも、そうなさったほうがよろしいんじゃありませんか?」

「確かに、私もね、最近どうも調子が悪くてね。あれ以来、すっかり気が滅入っているんだよ。でも、禮子さんの顔を見て、何だか気持ちがパッと明るくなったように感じるんだ。あなたには、ほんとに迷惑を掛けたと思っているんだよ。関係のないあなたまで巻き込んでしまい、ほんとに申し訳なかったと思っているんだ」

「いや、そんなことちっとも気にしてませんわ。ただ、私もね、あれからいろいろと考えてはいるんです。ほら、二人の結婚のことだって、まだちっとも話しが進んでないじゃありませんか。いや、だからって、何も催促しているわけじゃありませんからね。第一、選挙が終わったばっかりで、いきなり結婚の話しなんて、そりゃ無理でしょうしね。いや、ほんとに誤解なさらないで下さいね。結婚を急がせているわけじゃありませんから。むしろ逆ですわ。ぜんぜん急ぐ必要などないと私は言いたいんですよ。だって、時間はたっぷりあるんですから。そうでしょう?」

「そりゃそうだ。何もそう急ぐことはないんだ。あなたの言うとおりだよ」橘氏は、この時、彼女が意外にも自分から結婚の話しを持ち出したことで、すっかり嬉しくなってしまったのだ。

「それでなんですが、あなたにちょっとした提案があるんですよ。その、お互いのためにも、二人の結婚を少し延期すべきじゃないかって思ってるんです。だって、このままズルズルと二人が結婚しても、何か問題が起こりそうでとても不安なんですよ。ですから、少し時間を置いて、お互いの気持ちを整理して、それからでもいいのではないかと考えたんです。どうです?あなただって、次の選挙まで時間があるんだし、何も急いで私と結婚する必要もないじゃありませんか。もちろん、この結婚が、あなたにとって、とても大事だってことくらい、私もちゃんと理解していますわ。ですから、何もあなたの気持ちを無視して、こんなことを言っているわけではないんです。むしろ、あなたなら分かってくれると思っているからこそ、こんな無理なお願いをしているんですわ。ですから、そんな顔しないで。何もあなたが嫌いになったわけじゃないんだから。嫌ですよ、そんながっかりした顔なんかなさって、あなたらしくもない。お互い人生は思うようにはいかないってことくらい身に染みて分かっているからこそ、こういうことも言えるんだってことを分ってほしいのよ」彼女は、相手の気持ちに十分配慮しながらも、それでいて自分の考えは、どこまでも曲げないという強い意志を示しながら、やんわりと同意を求めるのだった。

 橘氏は、彼女のこの提案を、それこそずっと以前から、すでに予感していたように思えたのだ。何かそんなふうなことを言って来るような気がしたのである。しかし、それにしても、彼女のこの提案は今の彼にとって、たとえ延期という言葉をそのまま信じたとしても、とてもそれだけで片付けられないものを、そこに読み取ってしまわずにはいられなかったのだ。それは、娘から突き付けられたあの疑惑と、どこかで繋がっているようにも思えたからである。ところが、この時の橘氏は、彼女の何とも言えない独特の言い回しによって、すっかり骨抜きにされてしまっていたのだ。それに彼女の有無を言わせない力強い言葉は、反論すら許されないほどの切れ味で、首の皮一枚で何とか繋がっていた彼の自信を、あっさりと切り落としてしまったのである。というのも、彼は、何のためらいも見せず、いとも簡単に彼女の提案を了承してしまったからだ。これなどは、まさしく彼の実際の思いとは、まるで反対のことをしてしまったことになるわけだが、そのことすらあまり意識していないようだった。それくらい彼はすでに自分の立場を失いかけていたのである。しかし、そんなことより彼は、ただある一つのことをしきりに考えていたのだ。なぜ、禮子は紫音にあのことを話してしまったのか、これが解ければ彼女が今何を考えているのか、すべて分かるのではないかと考えたのだ。それさえ分かれば、彼女がなぜこのような提案をしてきたのか、それもおのずから分かるはずだと思ったのである。

 それは確かにそうかも知れないが、実際問題として、今の彼には、とてもそんな知的遊戯に耽る余裕などなかったのである。そもそも、そんなことを考えるより、もっとほかにやるべきことがあるのではないのか。そういう冷静な判断すら、もはや彼には持てなかったのだ。そのくらい彼の精神状態は混乱の渦の中に巻き込まれてしまったのである。しかし、彼女の提案を了承してしまった以上、それがどんなに不本意なことであっても、それに従って、これからの予定を立てなければいけなくなったわけである。しかし、それがいったい何だと言うのだ、と彼は自分に反論するのだった。彼女がそうしたいと言うのならそうさせてやればいいではないか。何も彼女は結婚しないと言っているわけではないのだから。確かにそれはそうなのだが、本当に彼は腹の底から、そう思っているのだろうかと疑いたくなるのだが、どうやら、ほんとの気持ちはそれとは真逆で、彼女が言った提案など一ミリも信じていなかったのである。延期するということは、つまり結婚などしないという意味だと頭から決めつけていたくらいだから。そのくせ彼女に、その理由を聞く勇気がなかったのだ。下手に問い質して、もし話しがこじれたりでもしたら、それこそ彼女の思う壺だと思ったからだ。こうした相反する激しい感情が、橘氏の肉体に影響したのかどうかははっきりしないが、突然彼の顔色が見る見る変化して、呼吸が速くなったかと思うと、心臓が早鐘のように打ち出し、次第に頭がボーッとしてきて今にもひっくり返ってしまうような恐怖を覚えたのだ。彼は、しばらくジッとそのまま椅子に座って耐えていたが、身体が持ちこたえられなかったのか、そのまま床に倒れ込んでしまったのである。禮子は驚いてすぐさま家政婦のばあやに知らせ、ばあやは慌てて紫音に旦那さまが倒れたと大声で叫ぶのだった。家中が大騒ぎとなっていたその間、橘氏は薄れ行く意識の中で、今まで思いもしなかった奇妙な考えが、矢継ぎ早に浮かんで来るのだった。憎しみというものが起きる原因は色々あるとは思うが、橘氏のような場合は、その原因がたんに彼の憶測によって引き起こされたものではなかと考えられるのだった。

 橘氏は、夢ともうつつとも分からない狭間の中で、それこそ何とも説明のつかないおかしな考えが、次から次へと浮かんでは消えて行き、その一つにも意識を留めることはできなかったのだ。彼がそういう半意識の状態を彷徨っている間にも、彼を取り巻く家族を始め、禮子にしろ、ばあやにしろ、その衝撃を一旦は胸に仕舞いながら、慌てずに手際よく橘氏をソファーに寝かせ、紫音は震えながらも落ち着いて救急車を呼び、橘氏が意識を取り戻した時には、すでに病院のベッドの上にいたのである。窓の外は暗く時間は分からなかったが、彼は自分がどこに居るのか、最初分からなかったが、自分はどうやらあの後、病院に担ぎ込まれたらしいとようやく合点したのである。彼は自分がなぜ倒れてしまったのか、あまりよく憶えていないが、それでも、その切っ掛けが禮子のあの話しにあることだけはよく理解していたのだ。彼は改めてまた彼女の言ったことを考えてみるのだった。『それにしてもあの女はよくもおれに向かって、いけしゃあしゃあと結婚を延期したいなんて言えたもんだ。いや、もっと分からんのは、なんであの女は娘にあのことをバラしたのだろうか?おれを困らせようとしたのだろうか?何のために?別れるためかも知れない。もし、本当に別れたいと思っているなら、何も延期したいなんて言わないんじゃないか?いや、あの女のことだ。そこはうまくおれを丸め込もうとしたのだろう。だから、言葉巧みに、やれ休養しろとか、身体を鍛えろとか言ってきたのだ。あの女の言い草ではないが、そうすりゃ、あと二十年は頑張れるらしいからな。まったく、ふざけんのもいい加減にしろってんだ。こんな目に合わせといて二十年も頑張れなんて、それに、あの女は言うに事欠いて、おれに説教を垂れたんだ。人生は思うように行かないってことぐらいお前に言われなくたってよく分かってるさ。それも、当て付けのように、今のおれの立場を知りながら、あなたもそこんとこよく分ってほしいのよ、だとさ。まったく何ていけ好かない女なんだ。しかし、あの時おれは、何だってあんなにあっさりとあの女の言うことを聞いてしまったんだろう。おれはあの女に、いいように操られているのかも知れない。これはまずいぞ。あの女はいずれ、この結婚を破談にするつもりなんだ。くそ、そんな勝手なまねは断じて許さんからな……』彼はこうして、禮子に対して、今までにないほどの怒りを覚えるのだった。もはやそこには修復どころか、彼女との関係も、これで間違いなく破綻に向かって行くしかないように思われるのだった。確かに、こうなってしまうと、彼女とはもはや以前のような関係を続けることは不可能ではないかと思われるのだが、しかし、そこは人間のおかしなところで、憎しみを持ってしまったとしても関係は続けられるものなのだ。とくに橘氏のような人間はそうなのだ。彼の憎しみといっても、どこまで本気でそう思っているのか、すこぶる怪しいからである。むしろ、こういうことがあったことで、ますます離れられなくなってしまい、もはや彼女なしでは、憎むことはおろか、生きる事もできない、というほど矛盾に満ちた関係を持たざるを得なくなってしまうからだ。

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