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こうして、二人の女が、お互い腹蔵なく、真っ正直に語り合った言葉の数々は、魔法のような威力で、その後の彼女達の人生に大きな影響を与えずにはいなかったのだ。すると、その影響が、さっそく禮子の行動に現れたのである。彼女は橘氏に結婚を少し先延ばしにしてくれないかと言ってきたのだ。橘氏はこの話しを聞いて正直なところかなり動揺したのである。なぜ彼は、たったそれだけのことで動揺してしまったのか。そこには、彼ならではの、かなり込み入った理由があったからだが、その詳しい経緯は追って明らかになると思う。ただ、ここに至るまでの禮子に対する感情が、そもそも一筋縄ではいかないものだったので、その反応もかなり複雑なものにならざるを得なかった、ということだけを指摘するに留めておこう。それにまた、彼の人生においても、選挙で負けたということが、やはり重要なポイントになっていたのだ。それは彼の性格に実に大きな影響を与えていたからである。そのことは、始めのうちは彼の性格もあって、それほど重くは受け止めてはいなかったのだが、それがために、その病はジワジワと確実に進行していったのだ。その結果かどうかは、まだ定かではないのだが、彼は入院するほどまでに追い込まれてしまったのである。こうした彼の異常な変化は、橘家の家族にもそれなりの驚きを持って迎えられたことは言うまでもない。もちろん、それぞれにその反応は違ってはいたが、それでもみんなが一致して驚いていたのは、父親の驚くべき変貌ぶりだったのだ。それは、彼の性格が以前とは別人のように、まるで迫力がなくなってしまい、あの選挙を境に一挙に十歳くらい精神的にも肉体的にも、すっかり老け込んでしまったのではなかと疑いたくなるのだった。
しかし、そういう心身の変調は、あの選挙が終わった当日の夜、みんなと別れ、一人自室に戻り灯りを消して、さて寝ようかと寝床に入った時からすでに始まっていたのだ。枕に顔を埋め目を閉じたのはいいが、自分の犯してしまった過ちや、僅差で負けた悔しい感情が何度も繰り返し襲って来て、神経ばかりが異常に昂ぶり、なかなか寝付くことが出来なくなってしまったのである。済んでしまったことを今更クヨクヨ考えたって仕方がないじゃないかと、自分に言い聞かせたりしてみるのだが、それが却って余計な反論を引き出してしまうことになり、しばらくは肉体と精神のいがみ合いが続くのだった。それでも、いつのまにか肉体の疲れが勝ちを占め、荒れた意識も自然と遠のいて行くのだったが、すぐに夢という冥府からの使者が現れ、たちまち彼を再び底なしの泥沼へと引きずり込むのだった。彼の神経も昼間の出来事で相当痛めつけられていたせいか、さっそく数々のヘンテコな夢にうなされる結果になったのだが、その中に一つだけ特別に気になる夢があったのだ。夢の中に、死んだ妻が姿を現したのである。(そんなことは今の今まで一度だってなかったのだが)彼女は頻りに紫音のことを話して来るのだった。それは娘の将来がどうなるのかとても心配しているといった内容で、母親として何の相談にも乗ってやれなかったことをとても悔やむのだった。彼は目を覚ますと、まず妻の様子が夢の中とはいえ、極めて暗かったところが気になってしまったのだ。そう言えば、あれは死ぬ間際まで紫音のことを気に掛けていたことを思い出すのだった。これはひょっとして何の役にも立たなかった無能な父親に文句の一つでも言ってやろうと、わざわざおれの夢にお出ましになったのかも知れないと彼は思うのだった。というのも、妻は生前から自分の夫が、どこまで娘達の将来を真剣に考えてくれているのかとても心配していたからだ。それは自分の命が、もうそう長くはないと分かってからというもの、その度合いが一層甚だしくなり、それがために却って死期を早めてしまったと言ってもいいくらだったからである。その点は彼としても責任を感じて、その後それなりに苦労してようやく娘を嫁がせるところまで漕ぎつけたので、これで妻の怒りも少しは鎮まってくれるだろうと思っていた矢先、夢にお出ましになったというわけなのだ。そういうこともあり、この時ばかりは、たかが夢だといってあっさり片付けられないものを感じたのである。
彼は時計を見て、まだ二時であることに驚き、やれやれ昼間の事だけでもやり切れんのに、夜くらい夢など見ずに静かに寝かせてもらいたいもんだと、ぶつくさ文句を言いながら舌打ちするのだが、それでも夢の印象が心から消えず、仕方ないので、だるそうに身を起こすと窓のカーテンを開け、所々に設置された照明にぼんやりと照らし出された庭を黙って眺めるのだった。彼は何も亡き妻を思い出して感傷的になったわけではないのだが、あれが生きていたらきっとおれの残りの人生も、こんな体たらくにはなっていなかっただろうと思うのだった。あいつは確かに人間としてなかなか抜け目のない政治家の妻とし最適な女だったし、もしもっと長生きしていたら、おれをちゃんとサポートして間違いなく選挙にも勝って市長の座に着いていただろうし、あいつも市長夫人として女の目線からおれに的確なアドバイスをしてくれたに違いないと思うのだった。もっとも、こうした如何にも自分勝手な調子のよい空想も、彼にとっては一種の無念さの裏返しであり、彼のように仕事一辺倒で家庭を蔑ろにしてきた男にとっては、悔恨の情とともに、妻の死がどれほど自分にとって大きな痛手であったかを、身に染みて感じるいい切っ掛けくらいにはなったのである。
彼にとって、市長になるということは実に大きな夢であったし、父親の政治に対する考えを笑いはしたが、それでも父親の志を継ぐという意味もないわけではなかったのだ。確かに人は自分とは違った意見に反発したり迷ったりしながらも、自分の夢を何とか実現させたいと思うものだし、それは年を取った人でも同じで、ただ彼らは若い人ほど素直ではないので、どうしても自分の夢に対して懐疑的になりやすかったのだ。そのくせ野心ばかりは人一倍強いときているので、自分に対する見方が必然的にひねくれてしまうのだった。彼としては次の選挙には当然出なければならないのだが、勝算と言えばただ投票数が拮抗していたということだけなのだ。これだけで果たして勝てるのだろうかと彼も懐疑的になるというわけである。しかし次の選挙といってもまだ大分先のことだし、今から心配してもしょうがないではないか。そんなことより彼も今回のことで相手のやり方もよく分かったので、同じ轍は踏まないだろうが、まだ自分の中にある人の良さという政治家としての甘い部分が唯一の欠点だと考えていたのである。思うにこれはきっと父親の血筋だろうと彼は分析するのだった。どこか悪党に成り切れないものが自分の中にあったのだ。そのためには、やはり自分も悪党になるくらいの気概を持たねばならないと彼も覚悟するのだった。彼はそのくらいの気概なら、まだ自分には十分あると確信していたし、そうでなければ、この歳になって結婚などするわけがないではないかと自分に言い聞かせるのだった。しかし、この結婚もすっかり状況が変わってしまったので、彼女の気持ちもきっと揺れ動いていることだろうと、彼もそれなりに心配していたのだが、なぜか知らないが彼はまだかなり強気でこの結婚のことを考えていたのである。今回の結婚の先延ばしにしてもそれほど心配はしていなかったのだ。そんなことは昨夜の彼女の言葉がその心配を綺麗さっぱり打ち消してしまっていたからだ。そんなわけで、この時点では、彼はまだかなり強気で結婚のことを考えていたのである。それにまた、男なら誰しも女にモテて、ちやほやされたいと思うものだし、彼もご多分に漏れず、そういう思いが若い頃からあったのだ。しかし、現実はなかなか思うようにいかず、彼もかなりそういう方面では辛酸をなめていたわけである。それが急にこの歳になって、若い素敵な女性と、まがりなりにも結婚できるところまで漕ぎつけたという、まったく信じられないような現実が、彼の強気な姿勢を裏で支え、優越感という心地よい錯覚に陥っていたとしても何ら不思議ではなかったのである。彼は鏡を見ながら、よくこんな独り言を呟いていたことがあったのだ。
『おれも、こう見えて、まだ男としてまんざら捨てたもんじゃないのかも知れんな』
人間の残念なところは、自分の姿を他人を見るように客観的に見れないということだ。別に鏡を見ればいいではないかと思われるかも知れないが、それがそう簡単にはいかないのだ。人は鏡を見ても、なかなか自分の素顔と何の感情も交えず正直に対面できないからである。つまり、人は鏡の自分を見る時、どうしてもその時々に浮かんで来る様々なイメージに唆され、自分の顔に対して何らかの価値判断をしてしまうからである。別の言い方をすれば鏡の魔力にやられてしまうということだ。それは神話の時代からそうで、神自身さえ鏡によって騙されたくらいなのだから、人間にしてみればそれは恐怖以外の何ものでもないだろう。鏡こそ人を自惚れから一気に悲嘆のどん底へ突き落したり、反対に虚栄心を煽って等身大以上の自分を、そこに見てしまうことだってあるからだ。お伽噺でも魔法の鏡として登場してくるが人を幸福にすることはあまりない。それくらい鏡の威力は強く、現代でもその現象に悩まされる人は後を絶たないというわけである。それは、ごく日常的に経験するからで、例えばドアを開けたら目の前に鏡があり、思わずびっくりするなんてことはよくあるからだ。それは自分の顔にいきなり出くわした時に感じる、あの何とも言えない奇妙な感覚。その人を戸惑わせずにはいないあの実に嫌な経験である。橘氏も、きっと寝ぼけて油断していたのだろう。同じような恐ろしい経験をしてしまったのだ。深夜、洗面所に行ったときに幽霊のような自分の顔に出会い、思わずびっくり仰天してしまったというわけである。
鏡に映った自分の顔が、これほど生気のない、年寄り染みた情けない顔だったとは今の今まで思ってもいなかったからだ。きのうまではあんなに溌剌と選挙を戦っていた自分だったのに、一日も経たないうちに、どうしてここまで見事に衰えてしまったのだろうかと、あやうく心臓が止まりそうになったくらいである。しかし、すぐさま、これはきっと寝不足のせいに違いないと、一応誰でも思いつくような理屈で自分を誤魔化してみるのだが、どうもそんな気休めな理由ではとても納得できずに、とうとう、これはきっと鏡そのものに原因があると疑いだしたのである。これはもちろん、バカげた話しに聞こえるだろうが、彼にとっては、そんなにバカげた話しではなかったのだ。どうして見る場所によって、こうも自分の顔が違って見えるのだろうと、彼も選挙期間中よく鏡を見る機会が多くなっていたので、そういう経験を何度もしていたからである。そういう現象は確かにあるのだ。彼も鏡を覗いては何とか自分の印象をよくするために、色んなポーズを取ってどうすれば政治家らしい顔になるのかと日々研究していたのである。社会的に信頼のある顔を得ようと一生懸命努力していたのだ。そうした涙ぐましい努力も、結局は、鏡の魔力にしてやられただけであり、彼が深夜そこに見たものは、イメージによって作られた昼間の顔ではなく、それこそ彼が日頃見ようとしなかったもう一つの彼の素顔だったのだ。この事実は彼の自信を根底から覆すほど強烈なものだったが、もちろん、そんな事実など到底受け入れられるはずもなかったのである。
彼はすっかり憔悴しきって、自室に戻ると、この突然降って湧いた衝撃の事実にどう対処していったらいいのか分からないまま、寝床の中でまんじりともせず、この事実が単なる錯覚であってくれたらと祈るような気持ちで夜の明けるのを待つのだった。もう一度自分の顔を確認しなければならない。昼間に見る顔と夜に見る顔とでは、まったく違った相貌を見せてくることはよくあるからだ。とはいえ、もしこの顔が本当だとして、この先ずっとこの顔で鏡が我慢しろと言ってきたら、いったいどうしたらいいのだろうか。それではあまりにも残酷な話しではないか。自分の人生はまだ終わったわけではないのだ。実際次の選挙のことだってあるし、結婚のことも考えなければいけないではないか。それなのに、こんな情けない顔でどんな勝負が出来るというのだ。もちろん、彼だって、この歳になれば顔の造作に悩んだところで、もはや手遅れだくらい分かっていたが、それでも、これから自分の人生を栄えあるものにしたいと思っている以上、阿呆らしい面構えの情けない爺さんでは困るのだ。何事も自信を持たなければ成功などまったく覚束ないからである。
そういったわけで、このとんでもないバケモノの出現に、さすがの彼もすっかり冷や汗をかいてしまったが、朝方、勇気を出して、もう一度そっと鏡を覗いて見るのだった。すると、そこには確かに昨夜と同じような、やつれきったお化けのような情けない顔が映っていたが、昨夜のような衝撃は受けなかったのだ。いったい、これをどう受け取ったらいいのだろうか。朝の光のもとでは鏡の魔力も衰えるということか。いやはや、これじゃまったく、おれの人生がまるで鏡そのものに振り回されているのと一緒ではないか。鏡は魔法のように人の心を弄ぶのだ。それなら、一層のこと魔法に掛からないために鏡など見ないようにしたらどうだろう。見るから余計な劣等感を背負い込むのだ。見なければ自分の顔に苦しむこともなく、堂々と思い通りの自分で居られるではないか。しかし、この世にはもう一つ、人の目という鏡以上の苦しみを生み出す厄介なものがあるのだ。これはなかなか一筋縄ではいかず、というのも鏡なら見なければ済むが、人の場合はそうもいかないからである。それに人がどう思おうと自分には関係ないといくら開き直っても、なぜか人の目は鏡以上に圧力を掛けてくるから却って始末が悪いのだ。実際、彼も朝からそのことでかなりソワソワしていたのだ。自分の家族はいいとしても禮子には自分の情けない顔は正直見せたくないと思っていたからである。
彼は、用心深くそっと食堂に入ったとき、早いこともあり、まだ誰も来ていなことに一先ずホッとするのだった。彼は、椅子に座ると、これからどのようにしてみんなと顔を合わせていくべきか、じっくりと考えるのだった。すると、そこにばあやが入って来たのだ。
「あらまあ、旦那さま、今朝はずいぶんとお早くて、ゆうべはちゃんとお休みになれましたか?なんだか元気がありませんね。顔色もあまりよくないし、第一、目が死んでます。どうやら、あまり寝ていませんね」と、そんなことでは次の選挙にまた負けてしまいますよといった、あくまでもこの家の主を励ますつもりで、どこまでも冗談っぽく言って笑うのだった。ところが、彼は、この時、ばあやの冗談を、まるで死刑の判決文でも聞く時のような、ゾッとする思いで聞き終わると、自分の悲惨な顔が脳裏に浮かび、まるで自分の人生がこれで終わったかのようにがっくりしてしまったのである。すると彼は、なぜこの歳になって、自分の顔で、こんなに苦しい目に遭わなければならないのだとわけが分からなくなり、実際に自分の人生がこのまま終わりでもしたら、それこそ死んでも死に切れんと、冗談を冗談として軽く受け流すことも出来ずに、ただ呆然とした眼差しで彼女を恨めしそうに見詰めるのだった。すると、彼は、この人の気持ちも知らないで、平然と冗談を飛ばしている彼女が、今いったいどんな気持ちで自分の顔を見ているのだろうと、そのことがなぜか急に気になり出したのだ。というのも、鏡で見た自分の顔と、彼女が今実際見ている自分の顔が果たして同じものとして見えているのだろうかという奇妙な疑問が、突然頭に浮かんできたからである。まったく人間切羽詰まると何を考え出すのか分からなくなるものだが、彼にしてみれば、そこに起死回生に繋がる何か切っ掛けとなるものが、ひょっとしたら隠れているのではないかと直感したのかも知れない。
「ああ、そうなんだ。まったく眠れなかったんだよ。おかげで、とんだ目に遭っちまってね。およそバカげた話しなんだがね。人にも言えないくらいバカげた話しなんだよ。でもね、たとえ私の目が死んでいようと、私はまだ生きたいと願ってるんだ。ねえ、ばあやさん。私はね、鏡なんかよりお前さんの言葉を信じるよ。鏡は、もうたくさんだ。それより、お前さんの正直な言葉がもっと聞きたいんだ。私には、まだやり残したことが沢山あるし、このまま何もしないで、ただ人がいいだけの間抜け面の爺さんのまま人生を終えたとしたら、それこそ死んでも死に切れん。橘家のためにも、このままじゃいかんのだ。ばあやさん、どうか正直に私の質問に答えてくれないか。私の顔はお前さんから見て、いったいどう見えているのか、ここは一つ、私を助けると思って正直に答えてくれないか」
「いったいまあ、どうされてしまったんですか?朝から、そんなおかしなことおっしゃって。びっくりするじゃありませんか。それに、そんな質問をいきなりされたって、いったい何て答えればいいのかまったく見当もつきませんよ。だって、旦那さまの顔は、いつもとそれほどお変わりありませんもの。そりゃ確かに疲れたような表情はちょっと見受けられますが。でも、それは仕方がないじゃありませんか。昨日まで大変な時間を過ごされてきたんですもの。誰だって少しは人相も変わるというもんですよ。それとも、私が変なことを言ったから、怒っていらっしゃるんですか?まったく嫌ですよ。冗談を真に受けたりして。いやな旦那さま」
「バカなことを言っちゃいかんよ。冗談を真に受けるなんて。そうではなく私はただ自分の顔が、お前さんにはどう見えているのか、それを聞きたいだけなんだよ。ただそれだけなんだ。実に簡単なことじゃないか。どうだね。私の顔がどのように見えているのか、それだけ教えてくれればいいんだ。たったそれだけのことだよ。まったく、私だってバカバカしいってことは百も承知だ。でも、どうしようもないんだよ。しかし、まあ、お前さんが呆れるのも無理はないがね。それじゃ仕方がない、そのわけを話すよ。それで納得したら言ってくれ。いいね。でも、家族には内緒だよ。笑われるのが落ちだからね。まったく私もね実際のところ呆れてるんだ。なにせ突然のことだからね。昨夜からすっかり調子が狂っちまってるんだ。なぜか知らんが鏡に映る自分の顔が変なのだ。選挙を戦っていたときは何でもなかったんだがね。確かに選挙に負けたことも影響してるのだろうとは思ってるんだが、それ以上に、突然自分の顔が昨日までの自分とはまるっきり違っているという妄想に、いや事実に苦しんでいるんだ。まったく、いい歳をしたおっさんが変なことを言ってるなんて思わんでくれ。人間年を取るとね、世の中の常識などに一々拘ってなんかいられなくなるんだよ。お前さんだって鏡くらい見ると思うんだが、そんな時、こういう経験をしたことはないかね?突然、鏡の中の自分にびっくり仰天するなんてことがさ。それがね、昨夜ふと洗面所の鏡を覗くとな、そこになぜか幽霊のような見るも無残な自分の顔が映し出されていたんだよ。その顔は、きのうまで張り切って選挙活動に励んでいたときの自分の顔とは、まったく別人のようで思わず心臓が止まりそうになってしまったくらいでな。私はね、決してふざけてこんなことを話しているわけじゃないんだよ。ただ自分の経験を話しているだけなんだ。そこんとこを、よく理解してくれなきゃ困るよ。もちろん、私だって、こんな話しがそう簡単に理解できるとは思ってやしないがね。でも、自分だけではなかなか処理できなくてね。どうしてもお前さんの意見が必要になったってわけさ。お前さんは昔からわが家には欠かせない人間だったし、死んだ妻も生前よく言っていたよ。彼女がいるお陰でどれくらい助けられたか分からないってね。もちろん、私だって、お前さんがいなければ、妻亡き後、橘家は一日たりとも立ち行かないってことは十分承知しているんだ。それくらい頼りにしているんだよ。それだからこそ、こんな、面倒くさいこともつい頼んでみようかなって、そんな気分になってしまったのだ。まあ、そういうことなんだ。どうだね少しは納得してくれたかね?」
彼は何がなんでも、彼女を納得させようと、かなり無理をして自分の窮状を勢い込んで訴えたのはいいが、なぜか突然後悔し出したのだ。というのも、この家の主ともあろう者が、いくら窮していたとはいえ、まるで思春期の男の子みたいに自分の顔の悩みを打ち明けてしまうなんて、どう見てもまともではないと思い始めたからである。要するにきまり悪くなってしまったのだ。しかし、もうこうなった以上そんな余計なプライドなどかなぐり捨てて、あとはただ彼女がどう見ているのか、その判断に賭けるしかあるまいと、すべてを彼女に託すのだった。お陰で、とんだ役回りを仰せつかってしまった気の毒な彼女ではあったが、しかし、話しを聞くうちに、この闇はかなり深いことを理解して、ここで変に躊躇したら、それこそ何か極めてまずいことが旦那さまのみならず、この橘家そのものにも起こる気がして、ここは一つ自分のありったけの知力を結集して、この難題に立ち向かわなければいけないと覚悟を決めるのだった。




