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彼は、家に帰るなり、すっかり調子にのって娘達をリビングに呼び集めるのだった。夜も十一時を過ぎていて娘達にとってもいい迷惑だったのだが、父親の言いつけとあらば素直に従うしかなかった。それは昔からの決まり事で、父親が話しがあると言えばどんな時でも集まらなければならなかったからだ。それは今になってもそうなのである。彼の考えによればこの家に居る以上そうでなければならなかったようだ。そういう家の掟を勘案するに、ある意味この男には暴君的素質があったようだ。とくに酒が入った時はそうだった。酒で上気した父親は、ソファーに倒れ込むように座ると、娘二人を対面のソファーに座らせ、これから自分はとても大事な話しをするので心して聞くようにと、酒飲みにありがちな如何にも芝居がかった話し方で娘達を震え上がらせるのだった。というのも、これで話しが長くなることは間違いなかったからだ。
「あの、ちょっといいかしら?」と華音はよせばいいのに口を挟んだ。これが父親の上機嫌に水を差し、何となく剣呑な方向へと流れが変化してしまったのだ。父親は軽く舌打ちすると、この何かといえば親に楯突き、まったく言うことを聞かない華音というやんちゃなお馬鹿さんに、それこそ酔っ払い特有の焦点の定まらない濁った眼差しを向けると、お前はまた何か余計なことを言いいたいらしいがそんなことは今回は通用せんぞとでも言いたげな、どこか横柄な態度で娘を睨み付けるのだが、華音は慣れたものでそんな酔っ払いの脅しなど無視してこう言うのだった。
「お父さん、こんな時間にいったい何の話しをあたし達に聞かせてくれるんですか?もう十一時を過ぎているんですよ。できれば手短にお願いしますね。それでなくても明日早いんですから」華音は酔っ払いの話しが長くなることを何としてでも阻止するためにこう言って釘を刺すのだった。すると父親は腹の中でニヤリと笑いこう反撃したのだ。
「ふん、だったらお前はもういいよ。おれはお前より紫音に話しがあるんだから。正直にいってお前には用がないのだ。だからお前が居たくないというなら出て行ってもおれは止めやせんぞ。でもな、これだけはよく覚えておきなさい。おれは父親として二人の娘が大事だし、それに公平に接していたいと思っているので、あえてお前も呼んだのだ。それでも手短に話せというのなら、どうぞお休みになっても結構ですよ。そんなに明日のことが心配ならさっさと寝てしまいなさい。いいよ、行って」
これには華音もちょっと考えてしまったのだ。まさか自分のことがこうもはっきりと蔑ろにされるとは、今夜の父親はどこかいつもとは違うかも知れないと思ったのだ。ということは、ひょっとして例のことで何か進展があったのかも知れないとそう睨んだのだ。もし、そういうことなら自分はここに居なければならない。姉の紫音が父親に対してどう出るかそれを見届ける必要があったからだ。華音はとっさに態度を変え父親に言いすぎたことを弁解するのだった。
「いえ、ほんと言えば、明日のことなどそれほど心配しなくても大丈夫なんです。それにどうせ寝るのはいつも夜中すぎなんですよ。ですからお父様あたしの言ったことなど気にせず、どうぞお話しを続けて下さいな」
父親は、この華音の態度をいつものことだと思いながらも、お父様などと今まで一度だって言ったこともなくせに小癪なまねをしおってからにとイライラだけが増すのだが、もうこいつはほっとくに限ると思い、さっそく紫音に向かってこう切り出すのだった。
「あのな紫音、お前にとってとてもいい知らせを聞かせることが出来そうなんだ。前にも言ったと思うが、つまりその、なんだお前の結婚のことだよ。例のあの御曹司な、あのお方と偶然ある会合でお会いして、そこでお前のことが話題になったわけだよ。私があれほど望んでいたことが現実となったのだ。だから喜べわが娘よ。これでお前の未来は明るいものになるかも知れんのだ。いいかな心してよく聞くんだぞ。世の中とはな、お前が思っているものとは余程かけ離れたものなんだぞ。お前のような女にはその辺のところがまだよく分かってないとお父さんは思っているのだ。実にそこんとこが心配なんだ。心配で心配で夜も寝られんくらいなんだよ。変な男に引っ掛かるんじゃないかと思ってな。いや、何もお前を信頼していないわけじゃないんだ。お前がそんな自堕落などこかの馬鹿娘と一緒でないことくらい承知しているよ。お前は子供の頃から実に素直で良い子だったんだ。生前よく母さんがお前と一緒に散歩しているとな、歩いている人達がなぜか自然と寄ってきて、まあ、なんて可愛いお嬢ちゃんなんでしょうってよく言われたもんだ。するとお前はそれに対してどうしたと思う?お前はニッコリと微笑んでペコリとお辞儀をしたんだ。まあ、なんて礼儀正しい素直な良い子なんでしょうって、そりゃ町中の評判になったくらいでな。まだお前が小さい頃のことだ。もっとも、私はそれを後で母さんから聞いたんだが、それでも、私にはそれで十分だった。十分にわが娘の素質を感じたのだ。この子は大きくなっても素直で礼儀正しい女になるだろうとな。私は、その時そう確信したのだ。だから今のお前を見て、確かに昔のあの時の確信は正しかったのだと思うよ。いや、実に素晴らしい女性になったと。素直で人の言うことをよく聞く大人の女性になったと。草葉の陰で母親の霊もきっと喜んでおられると思う。そこでなんだが、どうなんだお前の気持ちは。今度のあの立派な御曹司との、そのお前の気持ちを、よかったら聞かせて欲しいんだが……」
父親はここまで話すと、さすがに喉が渇いたらしく、さっきから眠そうな顔で欠伸を噛み殺していた華音に、水を一杯所望するのだった。確かに彼はその時、何かとても充足した気分になっていたのかも知れない。その頼み方が先程までの華音に対する態度とまったく違って実に礼儀正しかったからだ。これにはさすがの華音も呆れてしまい、いつもなら文句の一つも言うところを黙って水を取りに部屋から出て行くのだった。
「どうだ、話してくれないか。お前の気持ちを」父親は重ねてそう聞くのだった。
「そのお話ですが、もうしばらく考えさせてくれませんか。いえ、もし出来れば、そのお話お断りさせていただきたいのですが」
その言葉は父親にとって、あまりにも意外だったのだ。いや、それ以上に恐るべき言葉のように思えたのだ。もっとも、この一言によって娘の幸福が失われるかも知れないという親ならば当然感じるはずの失望感を抱いたからではないのだ。そんな娘に対する気遣いよりも、この一言によって自分の思惑が、もろくも崩れ去ってしまうかも知れないという恐れのほうを何よりも心配したからである。わが愛する素直で聞き分けのよい娘の意外な一言が、どれほどこの父親を震撼させたことか、それは想像するに余りある。彼はどうしても娘の言葉が信じられず、ただ虚空を馬鹿みたいに睨んでいたが、いきなりブルッと身震いするとやっと我に帰るのだった。どうやらすっかり酔いが醒めてしまったらしく何か急に寒気がしてきたのだ。その時、華音が水の入ったコップを持って部屋に入って来た。彼女はコップを父親に渡すと、その父親の顔にある種の異変を読み取ったのだが、すぐさま何が起こったのかと、とっさに紫音の顔も見るのだった。やはり紫音の顔にも同じような異変がくっきりと現れていて、自分がいなかったほんの短い時間にいったい何が起こったのかと、その場に立ったままジッと二人の顔を見比べるのだった。
「華音、いいからそこに座りなさい。今お父さんはとんでもない、いや、信じられないような言葉をお前の姉から聞かされたのだ。簡単に言えば、私は恥をかかされたのだ」
「恥をかかされたなんて、まあ、何てことおっしゃるんですか、お父さん」紫音は、父親のその言葉にすっかり驚いてしまい、どう反論すればいいのかとっさには言葉も出ないのだった。
「お父さん。あたしがいない間にいったい何があったんです?だって一分も経っていないじゃない。そんな短い間に、どんな大事件が起きたって言うのよ。まったく信じられないわ」
「いや、お前の言うことはいちいちもっともだよ。しかしな、世の中の重大な変化は実にほんのちょっとした時間で決まってしまうことがあるもんだ。だから恐ろしいのだ。些細な日常的な瞬間の中にこそ大事件の萌芽が隠されていると言ってもいいくらいだからな。いや、そんなことより、お父さんはまだ決して諦めたわけではないぞ。いいかい紫音、よく聞きなさい。これは父親の命令だ。お前の言うことがもし本当なら、お前はあの方とお会いして今言った自分の意思を直接言うべきだ。それぐらいのことをしてくれなければ私の顔が立たん。いいな、これが、お前に対するギリギリの譲歩だ。私は決して暴君ではない。だからお前の意思は尊重するつもりだ。分かったな!」
彼はこう言って一応自分の立場をはっきりとさせたのだが、そんなことよりも、もっとずっと心配すべきことが彼の頭の中をそれこそ洪水のような勢いで荒れ狂っていたのである。それはどこまでも信頼していた娘の謀反により、果たして自分のこれからの選挙活動の方針がどう変化し、どう影響してくるのかそのことをひどく心配していたのだ。いやそれにもましてやはり一番驚いたのは、なぜ娘が自分に楯突いたのか、そのことがどうにも納得いかなかったし不思議でもあったのである。父親はまるで予想外な出来事に足でも掬われたような気になってしまったのか、どこかフラフラした足取りで部屋から出て行くのだった。
「まあ、いったいどうしたって言うのよ。わけを聞かせてよ。早く!」と華音は、いかにもじれったそうな調子で急かすようにこう言うのだった。しかし、紫音のほうはいかにも心の整理がついてないといった顔をしてしばらく黙っていたが、ようやくもどかしそうに口を開くのだった。
「わけと言っても、ただお断りしただけよ。お父さんが、結婚のことでどう思っているか返事を聞いてきたので、私ははっきりとお断りしただけなの。それだけよ、あとは何も言ってないわ。その理由も言ってないの。言うもなにもお父さんの呆然とした顔を見ただけで何も言えなくなってしまってね。かえって気の毒に思えてしまって。なにかいけないことを言ってしまったようで、ほんとに困ってしまったのよ。でもそれより、どうしよう。あの方に直接会って、お断りの返事を言えって、そんなことが実際にできると思っているのかしら。そんなことまでなぜ私がしなけりゃいけないの。お父さんのほうから勝手に持ってきた話しじゃない」紫音は今にも泣きそうな声でこう訴えるのだった。
「そんなのは無視すればいいだけの話しよ」華音はにべもなくこう切り捨てた。「でも、それにしてもよく思い切って言えたわね。これまでのことを思えばとても考えられないことだもの。だって、今まで一度だって親に逆らうことのなかったお姉さんが、いったいどんな心境の変化が起こったって言うの?でも、嬉しいわ。お姉さんもようやく自分の足で歩き出したのだから。これが第一歩になるのよ。そして、どんどん歩いていくの。あなたの人生を。あなたの意志で、どこまでもね。応援するわよ。さあ、お祝いだ。と言っても何もないけど。とりあえずお姉さんの未来に乾杯ってとこね」