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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 紫音は柏木の運転する車が走り去るとすぐに部屋に戻って来たのだ。貴臣はそのとき夜食を平らげてすっかり満足したのか、おやすみを言って、そのまま二階の自分の部屋に上がってしまった。すると、父親の橘氏も立ち上がり禮子にこう話し掛けるのだった。

「禮子さん、あなたには余計なご心配をお掛けしてしまい本当に申し訳ありませんでした。実際に、嫌な思いもされたでしょうから、そのお詫びは、いずれ何かの形でさせて頂きます。それに先程あったことは、どうか気を悪くしないで下さいね。あなたも、あの子の性格はご存じだし、あれも決して悪気があってしたわけではないと思うのです。もっとも、これもあなたからすれば親馬鹿ではないかと言われそうですが、そこはどうか大目に見てやって下さい。それに、今夜はもう遅いので、このまま泊まっていって下さいね。部屋はばあやに用意させますから。では、私はこれで失礼させていただきます。いや、きょうは本当に疲れました。私の人生始まって以来の疲れようです。実際歳は取りたくありませんね。では、先に休ませてもらいますね。おやすみなさい」彼はこう言って今にも倒れそうなヨタヨタした歩きっぷりで、部屋から出て行くのだった。

 とうとう部屋の中は禮子と紫音の二人だけになってしまったのだが、やはり時間も遅いことから、このままおやすみなさいを言って、それぞれの部屋に行くことも出来たのだが、どうやら二人とも、そんな気はさらさらないようだった。というのも、それには彼女らなりの理由があり、紫音が思い掛けず聞いてしまった弟の話しから、禮子の意外な面を知ったことが何よりも大きかったみたいである。それはとても新鮮な驚きであり今まで以上に彼女のことを知りたくなってきたからだ。一方禮子は禮子で、今まで想像すらしなかった紫音の強烈な姿を目撃したことで、ひどくその好奇心を刺激してしまったことが、この場に留まった一番の理由みたいである。そういうわけで、お互いこのまま大人しく眠りに付くことなど、とても出来ない相談だったのである。

「きょうは、遅くまでお付き合いしていただき本当にありがとうございました。選挙の結果はとても残念でしたが、この現実は受け入れるしかありませんね。でも、父もあれでずいぶんと苦しんでいるんですよ。私にはよく分かるんです。きっと今夜は色んなことを考えて眠れないんじゃないかしら。それに、あなたが、こんなひどい扱いを受けたことに対しても、かなり深刻に受け止めていると思います。ですから、あなたも、今回のようなことがあったからって、父への信頼をなくさないで下さいね。それに、妹のことはどうか許してやって下さい。私も、なぜか抑えきれず、妹に手を上げてしまいましたが、今思うと本当に後悔しているんです。でも、それ以上にあなたに対する態度が、あまりにひどいと思ったものですから……」

「いや、そんなことは別にどうでもいいのですよ。あの子にはあの子の考えがあってのことでしょうから。でも、本当におもしろかったですね。なにって弟さんのお話しですよ。あなたもお聞きになったでしょう?」

 この時、紫音は危うく、はい、とうなずきそうになったのだ。しかし、とっさに自分は眠っていたことを思い出して何とか踏み止まった。しかし、禮子には、ちゃんと分かっていたのだ。あの時、紫音は決して眠ってなんかいなかったことを。もちろん、本人が聞いていないと言えば、無理にそれを否定するわけにもいかなかったのだが。とはいえ、禮子にとって貴臣の話しは極めて重要な事柄に思えたので、彼女とそのことで実際に話し合ってみたかったのだ。そういうわけで、二人の会話はお互いの思惑もあってか、最初から、なかなか咬み合わなかったが、それでいて色んな感情の起伏を辿りながらも、結局は、二人の関係がどのように落ち着くのかまったく予断を許さないまま、最後まで緊迫した空気に包まれた極めて興味深い話し合いとなったのである。

「弟さんは、あなたが変わった変わったと頻りにおっしゃってたじゃありませんか?でも、何がどう変わったのかはよく分かりませんでしたけどね。あなた何かお心当たりありませんか?」

「いったい貴臣は何て言ったのでしょうか?そのへんのところを、もう少し詳しくお話ししてくれませんか?」

「いえ、詳しくも何もあの子の話しも何か曖昧で、自分の言うことはあくまでも仮説だけど、こうした変化の裏には、きっと男の存在があるとかと言った話しでしたわね。あなたも、おそらく腹の中で笑っていたのではありませんか?だってあなたのことを、こうもあからさまにみんなの前で話すのですからね。柏木さんも、苦笑されてたじゃありませんか。でもね、女が一番変わる理由が男にその原因があるというところだけ、妙にうなずいてしまいました。お宅の弟さんも、なかなか見るべきところは見てるなって、とても感心してしまいましたもの。確かに、そういう面もありますからね。女は男によって突然がらりと豹変しますからね。あなたも、そう思うでしょう?」

 紫音も、これには少々驚いたのである。彼女は明らかに自分が、弟の話しを聞いていたことを前提に、話しを進めようとしていると思わざるを得なくなって来たからである。もっとも、彼女に何らかの意図があって、そのように話しかけていたのかはまったく不明だったが。そういうこともあり、紫音はこのまま、とぼけて話しをしていくべきか迷ったのだが、本当は眠っていなかったことをここで認めるのも何か変に思えてきたので、このまま行けるところまで、とぼけ続けてやろうと決心したのである。こんなところにも、以前の紫音ならば、およそ考えられない変化が起こっていたと考えていいのかも知れなかった。この時、ばあやが顔を出してこう告げるのだった。「お部屋のご用意ができましたので、お知らせに上がりました。お部屋は二階の突き当たりでございます。それでは、お嬢様、何かございましたら、あちらにおりますので遠慮なさらずお声をお掛け下さい」

「ありがとう、ばあや。でも、あとは私がやりますので、ばあやはもう休んで下さい。きょうは遅くまでどうもありがとうございました。お疲れさまでした」

 ばあやは、実際疲れてはいたのだが、そこは律儀者の彼女のことだから、紫音が起きている以上眠るわけにはいかないと思っていたのである。しかし、彼女がそう言う以上従うしかないので、丁寧にお辞儀をして部屋を後にするのだった。とはいえ、旦那様のことを思えばとてもゆっくり眠ってなどいられなかったのだ。いったい明日から旦那様はどういう生活をするつもりなのか、それも心配になったのである。

「あの、ばあやさん、本当におもしろい方ですね。あの方とは昼間ご一緒させていただき、色々とおもしろい話しを聞かせてもらったんですよ。それにしても、あの方、ばあやと言うには、まだお若いようにお見受けしましたが、おいくつなんですか?」

「ばあや、というのは、まあ愛称みたいなものなんです。扶美子さんは、私たちが子供の頃から、この家でずっと働いていたもんで、気がついたらなぜかそう呼ばれていました。それでも、まだ五十代だとは思いますが。誰が言い始めたのかはよく分かりません。でも、考えて見れば家族同然に一緒に暮らしてきましたので、親しみを込めて、みんなそう呼んでいたのかも知れませんわ。お気の毒だとは思いますけどね。でも、本人はなぜか気に入っているらしいのです」

「何事も、自分の居場所がちゃんとあるというのが一番大事なんでしょうね。そうしないと、なかなか長続きはしないのかも知れません。ああ、そうそう。まだ、お話しの途中でしたわね。あのね、ええと、何でしたっけ?あっそうでした。なぜ、あなたがこれほど変わったのか、という弟さんの見立てでしたわね。ねえ、紫音さん。あなたご自分でもやはり変わったと思いますか?」

「そうですね。自分では本当のところよく分かりません。弟が言うほど、そんなに変わっていないとは思うのですが」

「そうですか。でも、あたしの見立てでも、やはりあなたはお変わりになったと思います。もちろん、これはあたしの勝手な想像ですけどね。だって、みんなの前で妹を思いっきり叩くなんて、やはり、これはやろうと思ってやれるものではありませんからね。変な話に聞こえるかも知れませんが、まるで、あたしが殴られたような錯覚を持ちましたもの。こんなことは、あなたの中で何かが本当に破裂したのでなければ説明がつきませんよ。誰もが想像すらしていなかったのではありませんかね。出来れば、あなたともっとこのことでお話ししたいくらいですもの」

「そんなにまで私のことに興味を持っていただけるなんて、とても嬉しい限りですわ。それでしたら弟がほかに何を言ったのか、よろしければもっと聞かせていただけませんか?何だか、ここに来てがぜん興味が湧いてきましたので」紫音は、いきなりこう言って、思いっ切り反撃に出たのだ。自分が、もし弟の話を聞いていたと確信しているのなら、いい加減なことは言えないはずだし、禮子にとって、あまり話題にしたくないエピソードも、彼女のことだから正直に話すはずだと、紫音は読んだのだ。もちろん、紫音はすべて聞いて知っていたのだから、なぜそこまで、そういうことに拘る必要があったのかは、まったくの謎だが。

「あら、そうですか。もっと、お聞きになりたいのですか?でも、あなただって、お聞きになっていらしたことだし、あたしが一々それをなぞってみても意味のないことではありませんかね」

「失礼ながら、私は何も聞いていませんわ。あの時は、すっかり夢の中におりましたから、あいにくこの世で何が起こっていたのかまったく知らないのです。ですから、ここは禮子さんがすべて頼りなんです。弟が何て言ったのかぜひ教えていただけませんか?」

「そうまで言うのでしたら、お話ししましょうかね。でも、あなたはやはりお変わりになりましたわ。何かこう女のいやらしさというものを、いつの間にか身につけてしまったようですからね。でもね、紫音さん、お互いここいらで自分にもっと正直になるべきだとは思いませんか?あなたがいったい何を考えていらっしゃるのかはよく分かりませんが、こんな面倒くさいゲームは、もうやめるべきではないでしょうかね」

 紫音は、ここまで言われてさすがにまずいと思ったのだろう、しばらく考えていたが、ようやく自分の過ちを認めたかのように、はっきりとこう言うのだった。

「確かに言われてみれば、あなたのおっしゃる通りかも知れません。私もずいぶんバカな真似をしてしまいました。どうか許して下さい。どうやら私にも、こんな恥ずかしいことを平気でする愚かな面が心のどこかにあるんでしょうね。自分でも驚いています。これじゃ、妹に偉そうなことは言えませんね。とても恥ずかしいです」

「さすが、紫音さんだわ。そういう素直さがあなたにはあるのよ。人間には確かによい面もあれば嫌な面もありますからね。あたしなんか、嫌な面ばかりが目立ちすぎて困っているんですが、今までのあなたは何かこう、実にいい面ばかりが目立っていたと言ってもいいのかも知れません。でもね、紫音さん、あなたにもようやく自分の嫌な面が、こうして表に出て来たところを見ると、どうやらあなたも本当に自分を変えようと思い始めたのかも知れませんね」

 禮子のこの言葉の意味を、紫音は まだそれほど深く理解するまでには至らなかったのだが、それでも、自分のことをよく見ていてくれていると思い、急に禮子のことが、自分にとって、どこまでも信頼できる姉のように思えてくるのだった。

 すると禮子は、この時、紫音という人間の不思議な魅力について、あるエピソードをふと思い出したのだ。それはいつだったか大分前になるが、橘氏に聞かされた例のお見合い写真のことで、その変わった物の見方に、誰の者でもない彼女だけの結婚観を垣間見たように感じたからである。それ以来、もし彼女と出会えたら、そのことを聞いて見ようと、ずっと心の片隅に仕舞い込んでいたのである。

「ところでね、紫音さん、あたし、あなたにお会いすることが出来たら、絶対聞いて見ようって思っていたことがあるの。それが今こうして、あなたと親しくお話しできるような間柄になって、その願いが叶うんじゃなかいとふと思ったら、とても嬉しくなってね。人生って不思議ね。こういうことが時よりあるのだから」

「まあ、絶対聞いてみたいなんて、いったいどんなことかしら。でも、なんか不思議な気がするわ。だって、まだ会ったこともない私に、それほどまで関心を示して下さるなんて余程のことじゃありませんか。いったいどんな話しなんですか?早く聞かせて下さい」意外な禮子の話にすっかり驚いてしまい、いったい何が聞きたいのだろうと、期待と不安が同時に高まるのだった。

「そんなに、あせらないで。夜は長いんだから。それにしても、今夜は、何かとても面白いことが起こりそうな気がするわ」こちらも、ある種の期待があったもんで、それなりに興奮してしまったようだ。「それじゃ話すわね。いい、もうずいぶんと前のことになるけど、橘さんが直接あたしに話してくれたことなの。あなたの結婚のことで、当時心配されていたらしく、そのことでとても興味深いことをおっしゃられてね。あなた覚えているかしら。お見合い写真のこと」

「お見合い写真?お見合い写真なら何度か見たことがありますけど。それがなにか?」

「ええ、そうよ。そのお見合い写真のことで、あなたの言った言葉があたしにはとても印象的だったの。この人はきっと結婚のことで色々と悩んでいらっしゃるんだわ、ってその時思ったからなの。覚えてる、その言った言葉を?」

「さて、何て言ったのかしら……ごめんなさい、覚えてないわ」

「あなたは、こう言ったのよ。『こんな写真一枚で人の一生が決まるなんてまったく不思議ね』って言ったそうよ。お父様はすっかり驚いてしまい、自分の娘がいったい何を考えているのかさっぱり分からなくなったと、しきりに嘆いていたわ。でも、あたしはその時こう思ったの。きっとこのお嬢さんは、世間とはまるで違った考え方で、自分の結婚のことを考えているのだろうって、そう思ったのよ」

「確かに、そんなことを言った覚えはあります。でも、その時、何でそんなことを言ったのかはまったく分かりません。おそらく、その頃は、はっきり言って結婚というものに疑問を感じていたからだと思います。それだけは、今でも断言できますから」

「それじゃ、今ではその疑問はすっかり解消されたってわけね?」

「解消されたというよりか、前よりは、ちょっとだけ自分も大人になっただけなのかも知れませんわ」

「それじゃ、疑問は解消されないまま、あなたは結婚なさるおつもりなの?」

「でも、そういう疑問は、おそらく一生掛けても解消なんてしないと思うんです。ですから、私も正直に言ってしまえば、ある意味、腹をくくったわけです」

「まあ、あなたの口からそんな言葉が出て来るなんて、これだけでも、あなたが変わったってことは、はっきりしましたわ」

「確かに、そうも言えるでしょう。あの頃の自分と今の自分を比較すれば、おそらくまるで違う人間かも知れないからです。あの頃は、私も何となく結婚というものに、ただ意味もなく疑問を感じていましたからね。お見合い写真のことだって、その延長で考えてもらえたらいいのかも知れません。子供がまるで気に入らない写真を見て、ふと思いついた他愛のない言い掛かりにすぎなかった、とも言えるからです」

「もし、そうなら、あたしもずいぶんと思い違いをしていたことになりますね。あたしは、もっと違う意味で、あなたの言葉を考えていたからです。でも、それは別にあなたには何の責任もありませんけどね。あたしが、勝手にそう思い込んでいただけですから」禮子はそうは言ったものの、どこかがっかりしたような気持ちになるのだった。これは、彼女の性格だから、ある意味、仕方のないことかも知れないが、彼女は何事にも過剰に反応するところがあって、とくに自分が気に入った相手には、なぜか等身大以上のものを感じてしまう癖があったのだ。

「それじゃ、あなたもいよいよ結婚という夢のような世界に入っていく覚悟を決めたってわけね。もちろん、人によってその夢は色々と変化していくでしょうがね。ある人には悪夢になるかと思うと、別の人には楽しい夢になったりね。でも、あなたはすでに女にとって結婚というものが、どんな意味を持っているのかよく知っているんじゃありませんか?」

「いったい、私が何を知っているって言うのですか?禮子さん、そんなこと冗談でもおっしゃらないで下さい。私はただ、そうしなければいけないと思ったからそうするまでです。こんなこと自分で言うのも恥ずかしいのですが、私はまったくの世間知らずな女です。あなたのような方から見れば、まるで子供のように見えるかも知れません。でも、私はこれから自分の足で、あなたがおっしゃる夢のような世界を歩いて行かなければならないのです。たとえ、それがまったく見ていられないほど危なっかしい足取りであっても。実を言えば、私からみれば、あなたのような生き方は、とても手の届かない実に羨ましいものに見えて来るんです。いったい、どうすれば、あなたのような魅力的な女性になれるのでしょうか?」

「そんなことは、お世辞でも言ってはいけませんわ。私がどういう人間か、あなたはまったく知らないから、そんなことを平気で言うのです。いいですか、あなたはあたしのような女には、よほど注意しなければいけません。それでないと、この先とんでもない災難に巻き込まれるかも知れませんよ。なぜ笑うの?ひょっとして、あたしが冗談でも言ってると思ったの?」

「いえ、決してそんなことはありません。むしろ本音が出てしまったのだろうと思ってしまったものですから、つい。ある意味、あなたも嘘が付けない性分なのかも知れませんね。ごめんなさい、生意気なことを言って」

「いいんですよ。女であれば誰だって、そのくらいのあざとさは持っているものですからね。でも何だか、こうして見ると、あなたには迂闊にものも言えないのかも知れませんね。だって、心の中をすっかり読まれているみたいなんですもの。でもこうなった以上、本音で語り合うしかどうやら方法がないようですね。どうですか紫音さんあなたもひょっとして本音であたしに聞きたいことがあるんじゃないの?でも、その前に、あたしのほうからちょっと聞いて見たいことがあるんだけど、いいかしら。正直に言って、あたしのような女は嫌いですか?」この唐突とも思える質問は、紫音には、まるで子供が不意に湧き上がってきた不安から本音で、あたしのこと嫌い?って聞いてきたように感じられたのだ。意外とも思えるこの問いかけは、深く考えることもなく黙って首を横に振ることによって紫音に受け入れられ、その不思議な意味合いが二人の間で共有されたのである。「でもね、あたしのような女は得てして嫌われやすいものなんですよ。世の男どもは従順な扱いやすい女を好むものですからね。あたしも商売柄、色んな男を見てきましたが、あたしを一人の女として見てくれた人は一人もいませんでしたね。そういう世界の女としてしか見ていなかったようです。もっとも、こっちも商売ですから、どんな見方をされようがちっとも構わないのですがね。でも、あなたのお父様だけは、どうも違っていたようなのです。橘さんは、あたしのことをひどく気に入って下さり、お互い、しだいに引かれるようになったんです。もちろん、橘さんはあたしを一人の女として見てくれました。それでなければ、こういうことにはなりませんよ。でもね、あたしも色々と考えなければいけないことがありましてね、そこであなたに、こんな話しをしていいのかどうか、ちょっと迷ってしまったのですが、おそらく、お父様がこんな話しをあなたにするとはとても思えないので、あたしからここで言ったほうがいいのではないかと考えたわけです。やはり、本当のことをあなたにお知らせしなければいけないと思いますのでね。あなた、あのレストランでのことは覚えているでしょう?あれはすべて仕組まれたことだったの。あの時間に、あのレストランで、あなた達が食事するってことはちゃんと分かっていました。ある人が前もってあたしに教えてくれたからです。おそらく、あなたも疑問に思っていたでしょう?なぜ、あの場にあたしが、あたかも偶然を装って現れたのか。それとも、何の疑いも持ちませんでしたか?」

 もちろん紫音は、あの時の柏木の狼狽振りから、二人の関係に疑問を持ったことは事実だったが、禮子が今言ったそのことはまったくの初耳だった。いったい仕組まれていたといはどういうことなのか、ある人が教えたとは、まさか父親がそれに関係していたとでも言うのだろうか、色々と新しい疑問が湧いてくるのだが、いちばん分からなかったのは、なぜ彼女が突然そのことを自分に打ち明けたのか、それは、よほど熟考しなければいけない大事なことだと紫音は本能的に感じるのだった。

「それじゃ、禮子さん、あなたはいったい何のためにレストランに来られたのですか?」紫音は、このからくりがいったいどんな仕組みで動いていたのか、それを明らかにしようと思いこう聞くのだった。

「それはね、正直に言ってなかなか説明が難しいの。こんな言い方は普通の人なら納得しないでしょうが、ここはあなたの判断に任せるしかないわ。もちろん、納得できなければ、それはそれでかまいませんけどね」

 この時点で、紫音は柏木から彼女のことは、ある程度聞いて知ってはいたが、それでも、まだすべてのことを彼が話したとはとても思えなかったので、彼女がこれからいったい何を言い出すのかと思うと、その不気味さに一瞬押しつぶされそうになるのだった。

「確かに人の行動には説明が難しいものがありますからね。私も、ときより何でそんな行動を取ったのか分からなくなることだってありますもの。禮子さんのおっしゃることもよく分かりますわ」

「ありがとう、そこまで理解してくれたらもう何も言うことはないわ。じゃ、先を続けましょうかね。あなたもおそらく気がついていたでしょうが、あたしと柏木さんとの関係ですけどね。どうなんでしょう。あたしも、ずいぶんと気にはなっていたんですよ。あなたがどこまでご存じなのかって」

「柏木さんとあなたのご関係ですか?」

「ええ、そうです」

「私は、ただあの時の柏木さんの狼狽振りから推測するしかありませんでしたから、何かの関係はあったのだろうと思ったくらいでした。でも、今のあなたの口振りからすると、何かひどく込み入ったことでもあったように聞こえるんですけど」

 紫音は、恐る恐るこう聞いてみるのだった。すると禮子は『それじゃ、まだ彼は何も話していなのかしら』と思い、彼女を安心させるためにも、この際自分から正直に何もかも話してしまったほうがいいのではないかと考えるのだった。

「正直に言ってしまうとね、彼とはあなたが心配するようなことなど少しもなかったのですよ。それだけは信じて頂戴。あたしもね、あなたには悪いことをしてしまったんじゃないかと思って、ずっと気にはなっていたの」

「でも、あなたは柏木さんのことが好きだったんでしょう?」こういう直截簡明な相手の感情など一切無視したものの言い方は、恐らく女なら誰でも普通に持っている取って置きの武器なのかも知れない。こうした心理が働くというのも、自分の立場を守るためには何としてでも、相手のいちばん嫌がるところへ、思い切って攻め込むことがどうしても必要だと感じたからだ。禮子も、一瞬このお嬢さんは、あたしに喧嘩を売ろうとしているのだろうかと思ったほどで、今までの自分の彼女への気遣いはいったい何だったのかと呆れるほどだったのだ。しかし、そうは思ったものの、紫音の思い詰めたような真剣な眼差しを見ると、そういう考えもすぐに消えてしまい、いったいどうしたら彼女を傷つけずに、これから話しを進めていったらいいのか悩むのだった。

「そうなの、あなたがおっしゃるようにとても好きだったわ。だからって、何も気にする必要はありませんよ。二人の間にはあなたが心配するようなことなど何もなかったのですから」

 紫音は、うつむいたまま、じっと考え込んでしまったが、彼女のまったく読めない謎のような話しにすっかり戸惑ってしまい、何か知らないけど彼女とこれ以上この話しを続けることに耐えられなくなって来たのだ。しかし、これからの二人の関係を考えると、この話しを無視するわけにはいかなかったので、彼女はこの話のもう一つの謎である自分の父親のことを聞いてみようと思ったのである。

「ところで、一つ父のことでお聞きしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか。さきほど父との関係について、ちょっと触れてましたが、そもそも、どういう経緯で、あなたと父が結婚するまでになったのでしょうか?ごめんなさいね、急にこんなぶしつけな質問をしたりして。でも、うちの父親は、まったくといっていいほど、あなたのことは話してくれなかったのです。というのも、あなたとの結婚話は、家族のことなどまったく無視して進められていたからです。あなたが初めてわが家に来たときもそうです。あの時は、当日になって突然知らされたのです。これは実際、本当のことなんですよ。とても信じられないでしょうが」

 このような質問は、禮子にとってある意味、好都合だったのだ。ことの始まりは、すべて橘氏との出会いから起こったことなのだから。自分の人生のこれからを思うと、何とか彼女に自分の思いを知ってもらわなければいけなかったので、こういうところから何かが動き始めるのではないかと期待するのだった。

「そういうことでしたら、あたしのほうからあなたが納得するように、お話しさせていただきましょうかね。橘さんとは、あたしが以前に働いていた、ある高級クラブで知り合ったのです。いわば最初は、お客さんとして知り合ったわけです。でもそのうち橘さんにとても気に入られて、あたしも色々とお話しさせて頂くうちに、何となく親しみを覚えるようになっていったというわけですわ。まあ、よくあるパターンかも知れませんがね。お客とホステス。商売を離れれば、いわゆる男と女ということでね、でも世間というものは、こういう関係を素直に見ないってことは、いつぞやの華音さんがおっしゃってた通りですが、それでも色々と言い掛かりを付けて、なんだかんだと言ってくるのは、ある程度は仕方がないとしても、度が過ぎればなかなかしんどいものになってしまうわけです。もっとも、あたしも、そんなことは最初から承知はして受けたんですがね。それでも実際そうなってみると本当に厄介なものだってことは身に染みて感じましたわ」

「それでは、柏木さんも、そういう所でお会いしたわけですか?いえ、こんなことを聞くのも、父と柏木さんは、以前からお知り合いでしたから、ひょっとしたら、二人でそういう所に出掛けることもあったのかなって思ったものですから」紫音はこの時、まったくの思いつきでそう言ったまでなのだが、それは、いかにもありそうな話しに聞こえたこもとあり、禮子もまじめに受け取ってしまい、彼女がそれほど彼との出会いを知りたがっているのなら、何もかも正直に話しても問題はないのではないかと思うのだった。ところが、それは決して問題がないわけではなかったのだ。ある事実が彼女をずっと苦しめていたからだ。あの時、自分が柏木とのことでオーナー夫人と揉めて、家を追い出されたことだけは何としてでも黙っておきたかったのである。この事実は、なぜか彼女にとって屈辱とさえ思えるくらい、自分の人生における汚点だったからだ。このことだけは紫音に知られたくなかったのである。そこで一番の気がかりだったのは、柏木がそのことを彼女に話してしまったかどうかだったのだ。もし話していたとしたら、今更、気取っても仕方のないことで、それこそ自分の恥として、それに耐えるしかあるまいと覚悟するしかなかったのだ。ちなみに紫音は柏木からその話しは確かに聞いてはいたのだが、それに対しての反応は特に何もなかったのである。つまり、本人が気にするほど、紫音はまったく問題にもしていなかったということなのだ。

「柏木さんとは、まったく別なところでお会いしたのです。いえね、あたしもさっきまでどうしようかと迷っていたのですが、あなたがそれほど柏木さんとの関係を知りたいと言うなら、この際正直に言ってしまったほうが、あなたのためにもずっといいんじゃないかと、それにあなたもそれを望んでいるようだしね。実は、彼とは、それまでまったく面識もなく、ある場所で偶然に出会っただけなんです。詳しいことは端折りますが」

「いえ、出来ればなるべく詳しく聞かせてくれませんか」やれやれ、どこまでも、このお嬢さんはあたしを苦しめる気でいるらしい、と禮子は憮然となるのだが、仕方ないので彼女のご要望に従うことにし、「そうですか。それじゃ、あたしもなるたけあなたのご期待に添うように頑張るわね。彼とは、あるパーティー会場でたまたま知り合っただけなのよ。実を言うとね、そのパーティーには、あなたのお父様と一緒に出かけて行ったの。いや、もっと正確に言うと連れて行かれたと言ったほうがいいかも知れないわ。もっとも、何のために連れて行かれたのかは正直あたしにも分からなかったけど。橘さんの話によれば、色んな会社のお偉いさんとか、技術屋さんとか、この町の将来のために貢献している人達が一杯集まって、お互いの情報を交換するとか言ってたけど、あたしにはよく分からなかったわ。でも、そこに居たのが、柏木さんだったのよ。あたしは一目見て彼の虜になってしまったというわけ。でも彼とはその後、色々あってね。世の中そう甘い物ではなかったのよ。あなたも、そのことを知ったらきっと同情してくれるはずだわ」彼女はこう言って自分に起こった事件をそれとなく仄めかして彼女の反応を見るのだった。

「やはり、柏木さんは、あなたにとってとても大事な方だったのね。よく分かったわ。でも、それなら、なぜ柏木さんを諦めてしまったの?」この問い掛けは、彼女の期待していたものからすれば、まったく違っていたのだが、考えてみれば、自分の今の状況を見れば確かに彼女にはそのように見えたのかも知れない。とはいえ、どこまでもしつこく聞いて来るお嬢さんだと彼女も呆れはしたが、ここで、黙ってしまうのも癪に障るので、何とか適当に話しを合わせるためにこう言ったのだ。

「でも、仕方ないの。はっきり言ってしまうとね、彼に嫌われてしまったからよ。それはあなたにも分かっているはずよ。だって、あなたもご自分の目ではっきりと見たのだから。あたしが彼にどう見られていたか。まあ、男と女なんて大体こうしたもんよ。こっちが、どんなに好きでも相手はまったく見向きもしないってことはよくあるこですからね。どうすれば、自分の思いを分かってもらえるのか。でも、こっちの思いを彼に向ければ向けれるほど、どんどん嫌われていく。結局のところ、どうしたって諦めざるを得ないじゃありませんか」

「でも、あなたはまだ彼を忘れることが出来ないのよ。それは私にもようく分かるわ。一度そういう思いを抱いた以上、なかなか忘れることなんかできるはずもありませんからね」

「へえ、じゃあ、あなたにもそういう経験がおありなのね。意外だったわ」もちろん、紫音に、そんな経験など一度もなかったのだが、大事なことは、経験の有る無しではなく、彼女の女としての確信がそういうことを言わしているのである。

「確かにあなたのおっしゃる通りかも知れませんわ。ところで、もし、そうだとすれば、いったいどういうことになるのかしら。紫音さん。あたしは実際ご覧のような女です。もし、あたしがあなたのおっしゃるようなことだとしたら、いったいあなたはどうなさるおつもりなの?ごめんなさいね、こんなことを聞いてしまって、でも、今までの話しを聞いたところを、ようく考えて見ると、どうやらあなたも、その辺のところをはっきりとさせたがっているんじゃないかと思えてきましてね」

 こうして、二人の会話は、いつ果てるともなく続けられたわけだが、二人が、お互いの心情に、ここまで踏み込んでしまった以上、このまま何事もなく過ぎて行くことはないだろうと、確信とまでは言わないが、お互いそう考えていたことだけは恐らく間違いないだろうと思えるのだ。それが証拠に、この一連の会話を切っ掛けに二人は、自分自身と本気で向き合わざるを得なくなったからだ。最後に、二人は次のような、まるで二人のこれからを暗示するような会話で締め括るのだった。

「でも、なぜかはよく分からないのですが、あなたという人は私にとって、とても大事な人に思えるのです」紫音は、そう言ってしまってから如何にも驚いた顔をするのだった。それは、まるで本人とは関係ない、まったく別の誰かが、勝手にそう発言してしまったとでも言いたげな様子だった。

「いったい、その言葉をどう解釈したらいいのか悩んでしまいますが、でも不思議ね。あなたが言うと、本当に自分が何か特別な人間に思えてくるのだから。でも実際のところは、あなたにとってあたしくらい嫌な女はいないのにね」如何にも意地悪そうな皮肉っぽい目付きで紫音を見ながら、こう付け加えるのだった。すると紫音は、そんな心配は余計なことだと言わんばかりの調子でこう答えたのだ。

「いいえ、ちっともそんなことはありませんわ。私も、これで覚悟が決まりましたから。あとはただ、あなたのご忠告に従って、注意を怠らないよう十分気をつければいいだけのことですから何の心配もありませんわ」

「私も、その言葉を聞いて、ある意味安心しました。これで、今まであったわだかまりもすべて解消してしまいましたからね。それにしても驚きましたわ。だって、こうもあからさまに、あなたの覚悟を見せつけられるなんて想像もしていませんでしたからね。こうしてみると、あなたもけっこう隅に置けない女なのかも知れませんね」

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