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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 実を言うと、この選挙はどっちが勝つか最後まで分からなかったのだ。それくらいの激戦であったわけで、結局はほんの僅差で橘氏は落選してしまったのである。ところが、それがあまりにも僅差であったことが却って波紋を呼んでしまったのだ。つまり、あの妙な写真が流れなければこの選挙はきっと勝ったに違いないと、よくあることではあるが負けたその原因を、一番理由をつけやすいものに向けられたわけである。確かになぜ負けたのかという反省は必要だし、それを見極めることも大事なことだが、この場合、あの写真が一番の原因だと、いったい誰に証明できると言うのか。ところが人間は感情的になればなるほど、自分の考えに訳もなくお墨付きを与えてしまうものだ。だって、ほかに考えられないじゃないかと、この時もそういう意見が出たのである。しかし、そんなことを言ったところで、現実は変えようがなく事務所は一時騒然となったのだが、橘氏がすべての責任は自分にあると明言したことで、何とかその場は収まった。もし、この時禮子がそばにいたら、恐らく彼女が心配した通りのことが実際に起こったかも知れないのである。負けた陣営というものは、例外なく意気消沈した沈黙がその場を支配するものだが、この時ばかりはむしろ怒りの沈黙がその場を支配していたようで、どうにも収まらないといった剣呑な空気が何かの切っ掛けで暴発したかも知れなかったからだ。もちろん、一番ショックだったのは橘氏本人だろうが、負けは負けなのでその責任は自分が取るしかないと彼もこの時ばかりは覚悟したようだ。彼としても、そのような原因に軽々しく責任を転嫁することなど、今後のためにもやってはいけないと、もちろん色々な思惑もあってのことだろうが、そこははっきりとした自分の態度をみんなに示すのだった。とはいえ、橘氏の落胆振りには正直なところ目に余るものがあったのだ。本人は気丈に振る舞っているつもりらしいが、如何せん心と身体が明らかに折り合っていないのが傍目にもはっきりと見て取れたからだ。そういうわけで関係者たちは掛ける言葉もそこそこに事務所から次々と去って行くのだった。戦いに敗れて、すっかり閑散となった事務所には、ただ何ともいえない物悲しい空気だけが残り、寄り添う家族達も何と言葉を掛けたものかと、この父親の性格をよく知っているだけになおさら言葉に窮するのだった。

 何事も負けた時にこそ、その人の人間性が露わに出るものだし、この先の人生の形が何となく見えて来るものだ。確かに橘氏は、この無情な現実によく耐えているように見えたし、自分でも気丈なところを見せようとしていたこともよく分かる。とはいえ、なかなか思うようにいかないのが人間で、負けた責任を自分で取るのは当然としても、やはり負けた理由を考えるに当たって、どうしてもあのことが脳裏をよぎってしまうことは、これはどうにも致し方のないものではなかろうか。そういう感情は人間である以上避けがたいものだし、それに、一つの落選の原因としてもやはり否定しきれないものがあったからだ。ただ、それにあまり拘りすぎると、それはそれでまた厄介な問題を引き起こす可能性が出て来るのだ。つまり、そのことによって彼女との関係がこじれてしまう恐れがあったし、今の彼の立場を考えてみても、それだけはどうしても避けなければならないものであったからだ。要するに、彼の念願だった市長という夢が消えたことにより、もとの世間一般の老人に戻ってしまったわけで、もし彼女がいったい今のあなたにどんな価値があるのかと聞いてきたら、いったい彼はどう答えるつもりなのだろうかという心配はやはりあるのだ。もちろん、これはあくまでも可能性のことで、実際に彼女がそういう態度を示して来るかどうかは今のところ何とも言えなかった。確かに今回の負けは、彼にとっては手痛いものであったが、それ以上に彼女との関係を今後どう作っていくのかは、選挙以上に難しい問題となって彼の前に立ちはだかることだけは、ほぼ間違いないと言っていいだろう。もっとも、市長という地位を逃した今となっては、彼にとって果たしてこの結婚が、そんなに必要なものなのだろうかという疑問はあるのだ。いずれにしろ、こうした微妙で難しい問題が、これから表面化していくのだろうが、果たしてどうなるかは今のところまったく分からない。

 彼はその夜、自分の夢が完全に閉ざされたことにさすがに絶望したのか、彼としてはそうあってはいけないと思いつつも娘との会話も目を合わすことも一切なく、むっつりと黙り込んだまま、戦いに敗れた敗残兵そのままの姿でどうにか我が家に辿り着いたのだ。彼女たちも、こういう父親を見るのは始めてだったので、これからどんな対応をしたらいいのか正直戸惑っていたのだ。こうした一生に一度あるかないかの辛い経験をした父親に、どんな言葉を掛ければ家族として一番いいのか、要するに二人は妙に意識的になってしまい、自然な親子らしい言葉が出て来なかったのだ。安っぽい慰めの言葉でごまかしても、却って父親の神経をいらつかせるだけではないかと恐れるのだった。しかし、そうはいっても、このまま何も話さないというのも、娘として余りにも冷たい態度ではないかという思いもあり、それならどちらがその難しい役に手を出すのか、その点になると二人とも尻込みしてしまうのだった。するとそこに貴臣と柏木が、妙に昂ぶった声でお互い話しながら部屋に入って来たのだ。どこか興奮してはいるものの生き生きとした貴臣の声が、今まで沈黙に押し潰されそうになっていた二人の娘にとって、この重苦しい部屋の雰囲気を一気に変えてくれる救世主の声に聞こえたのだ。

「こんなことなるなんて、まったく信じられません。たったの十票差で負けるなんて、いったいどういうことなんでしょう。ぼくが聞いた話しによると、どうやらあのことが一番の原因ではないかと思われているようです」貴臣が言ったこの最後の言葉は、父親に聞こえないくらい小さな声で柏木の耳元で囁かれたのだ。彼はなぜか、この未来の義兄に暇さえあれば話し掛けるのだった。この時も昼間からずっと彼の側を離れず、選挙の動向を一緒に見守っていたのだ。どうやら彼はこの義兄にすっかり親しみを感じていたようで、何かと言えば自分の疑問を遠慮なくぶつけるのだった。柏木も、別に嫌な顔もしないでそれに一つ一つ答えるのだが、それがまた貴臣を嬉しがらせるのだった。これは決して見せかけの態度でないことは彼にもちゃんと分かっていたし、この男の誠実さはあの不倫事件以来ずっと彼の心を捉えていたのだ。その正直さは彼にとって一つの驚きでもあったからだ。誰もが自分に嘘をついてでも生きて行きたい世の中で、彼のように正直であることをどこまでも貫く人間は、極めて貴重な存在であり、たとえ世間が彼のことを馬鹿にして笑ったとしても、貴臣だけは彼の生き方を高く評価するのだった。

「こういう負け方は、そう簡単に納得できるものではありませんね。もう一歩で勝ったかも知れないのに、その一歩が出なかったわけですから。それならその原因はいったいどこにあるのでしょうか?果たして、あのことがあったので負けたんだと本当に決めつけてもいいのでしょうか?ぼくにはそんな考えはとても危険なものに思われますね。なぜって、あれに拘りすぎると本当の原因が分からなくなる恐れがあるからです」

「それなら、本当の原因とはいったい何でしょうか?きみのおっしゃることは、確かに大事なことですが、この場合、原因を探るより、もっと違う方向から考えて見たほうが、ずっと実りのある結果を得るんじゃないかと思うんです。そこで、ぼくはある点に絞って考えてみたのですが、その結果、今回の負けは決して希望のない負けではなかったと結論付けたのです。それは今回の票の動きを見ればそのことは一目瞭然だからですよ。つまり、わずか十票差で負けたという事実にもっと注意を向けるべきなのです。要するに、これだけ拮抗していたことから考えても、決して悲観する必要などないということです。なぜなら次回の選挙にかなり希望が持てるからです。そうではありませんか?貴臣くん」柏木は、本来なら落ち込んでいる橘氏に向かってそう言ってやればいいのに、その勇気もないのか若き義弟を通して、間接的に橘氏にエールを送ったというわけだ。彼は田舎の別荘から戻って以来、ずっと橘氏の選挙事務所で過ごすことが多くなり、事務所の雑用を嫌がりもせずに協力するのだった。橘氏もこの娘婿の行動をかなり評価していたようで、まだ信用できなものが多少残っていたとはいえ、それでも彼の誠意は何となく感じていたのだ。別荘でのことを二人から聞いて彼も少しは安心したのかも知れない。しかし、彼らの前途を祝うはずだった今回の選挙が悲惨な結果になってしまい、何だか二人に余計な心配をかけてしまい却って申し訳なく思ってはいたのだ。

「確かに、あなたのおっしゃることはとても説得力がありますが、でも、何か気分的に納得できないものがこの負け方にはあるんですよ。その十票の中にね。それがいつまでもすっきりとしない一番の理由なんです」貴臣はこう言って、自分が感じた疑問を彼に素直に訴えるのだった。こういう男同士の息の合った会話こそ、彼が一番望んでいたことなのだ。今までは、ただ女どもの傍若無人な屁理屈に屈する毎日だったのだが、これからは感情に支配されない筋の通った会話が出来るのだと思うと、彼は今まで味わったことのないような快感を覚えるのだった。

「貴臣、もうやめなよ。いくら十票だろうが負けは負けなんだからさ」と、華音がいつまでも未練たらしく、負けを認めない弟にイラッとして、つい、いつもの調子で声を荒げるのだった。これにはさすがの貴臣もカチンと来たのだが、今までと違ってなぜかこの暴君のいつもながらのお怒りに、それほどビビることもなく、余裕の態度でやり過ごすことが出来たのだ。

 その時、突然音もなくいきなり禮子が部屋に入って来たのだ。彼女はいつ姿を見せようかと、さっきから部屋の戸口に身を潜め、じっと中の様子に聞き耳を立てていたのだ。選挙の結果はすでに知っていたので、どんな顔をしてみんなの前に出たものかと悩んだが、それでもこのまま帰ってしまうわけにもいかず、勇気を出してこの状況に自分も向き合わなければと思うのだった。もっとも華音からしてみればこのいきなりの登場は、まるで不意を衝かれた格好でもあり、自分のあまり見せたくない姿を見られたこともあり一瞬鼻白んでしまったのだ。彼女とはあの時以来の再会だった。禮子はまるで女王のように静かに微笑み、すべてを聞いていながらそれにはあえて触れないという、どこか人を見下したような視線で華音を見るのだった。それがまた華音の目には見過ごせないほど高慢ちきなものに映って、小娘のやることなど一々気にもしてませんわといった、ひどく居丈高なものをそこに読み取るのだった。こうして口には出さないが、あれ以来ずっと引きずっているものが、この時お互いの目の中で再び炸裂したのだ。しかし、この二人のことは後で語ることにして、それより、禮子の登場によって、部屋の中は一気に緊張した空気に包まれるのだった。というのも、今回の敗北によって、二人の関係がいったいこれからどんなふうに進んで行くのか、そのことがすぐさまみんなの頭をよぎったからである。しかし、そういうみんなの心配をよそに、彼女はいきなり橘氏の横に座ると、彼の気持ちに十分配慮しながらも、その様子に不満でもあるのか厳しい眼差しを向け、「今回は実に残念な結果になってしまいましたが、決してこんなことぐらいで力を落としてはいけませんよ。忘れたんですか?いつか私に話してくれましたよね。あなたの遠大な計画を。ご自分の野心を。それなのに、こんなことがあったくらいで、そんな情けない顔して悄気返ってるなんて、いったい、どういう料簡なんです?まさか、ご自分の夢を諦めようとしてるんじゃないでしょうね?」そんなこと私が許しませんよといった強い調子で、すっかり落ち込んでいる彼を力強く励ますのだった。それはまるで二人の関係は決して終わったわけではないと、誰もがそういう印象を持ったに違いないほどの迫真の演技であったわけだ。これで、みんなすっかり騙されてしまったわけである。もちろん彼女からしてみれば、まるっきり嘘を演じたわけでもないのだが、ただ、彼の落選には自分も決して無関係ではないという負い目もあったことで、彼のこれからのためにも何とか元気づけようと彼女なりに気を遣ったまでなのだ。そういう彼女なりの表現の仕方は、決して他人に分かり易いものではなかったが、せめて橘氏ぐらいはもう少し、彼女の本心をそれなりに疑ってしかるべきだったのだ。しかし、そうは言っても、人間一度大きく落ち込んでしまうと、どこまでも弱気になってしまうもので、彼も今回の敗北は、色んな意味で自分の不甲斐なさを深く感じていて、彼女に対しても合わせる顔がないとひどく恥じていたのだ。実を言えば、こうなってしまった以上、やはり彼女のことは諦めるしかないだろうと覚悟はしていたので、まさか彼女の口から、このような心のこもった励ましの言葉を掛けてくれることなど予想すらしていなかったのである。金はあるが、もはや社会的には何の力もない一介の老人となってしまった今、いったい自分にどんな魅力があるというのか。そう思うくらい彼の自信は砕け散っていたのである。つまり戦いに敗れたあわれな老人などに、彼女は鼻も引っ掛けまいと本心からそう思っていたのだ。それに、今回の件で彼女には何の落ち度もないと思っていたので、かえって余計な事件に巻き込んでしまったことを、ひどく悔やんでいたのである。こうして、すっかり弱気になっていた橘氏にとって、普段の時ならいざ知らず、どうして彼女の本心をあれこれ詮索することなど出来ようか。おまけに家族さえ掛けてくれなかった、励ましの言葉に橘氏がどれほど勇気づけられたことか。そのインパクトは相当なもので、そういうことを考えなければ、どこまでも信じ切ったはなはだ具合の悪い、このような思い違いは彼の性格から言っても理解できないと思う。橘氏はすっかり喜んでしまい彼女のためにも、やはり次の選挙に出て何がなんでも勝たなければいけないと思ったわけである。もちろん絶対勝つ保証などないのだが、しかし、その可能性は柏木の言葉を待つまでもなく十分にあるのだ。そう考えると、すっかり落ち込んでいた橘氏にも、ようやく希望の光が見えたと思い、これで彼女との関係も何とかうまくいくだろうと、実に楽観的な彼らしい考え方がようやく戻ってきて、ますます彼女の本心が見えなくなっていったのである。

「ところで、いま何時?」と、華音は本来なら自分たちがしなければいけなかったことを禮子にされたことで、いささか気が引けてしまったが、それでも、あくまでもこの家の主人はあたしだと言わんばかりの態度で時間を聞くのだった。

「もうすぐ十一時だけど」貴臣が何となく華音の様子に注意しながらこう言った。

「十一時か。なんかお腹すいちゃったわね。ばあや、少し遅いけど何か用意できる?」

「もちろん、そう言うと思って、ちゃんとご用意してありますよ。それにしても、この度のことは、じつに何というか、私は必ず当選するものと信じておりましたので、こんな結果になり旦那さまには何てお言葉をお掛けしたらよいのやら、まったく言葉が見つかりません。でも、禮子さんがちゃんとご自分の思いを言われましたので、きっと旦那さまも心強く思われたのではないでしょうか。禮子さんとは、昼頃からずっとご一緒させて頂きまして、橘家の将来について色々と話し込んでいたのです。もちろん、こういう結果になってしまったことは本当に残念ではありますが、でもね、旦那さま、口幅ったいことを言うようですが、やはり希望は持っておくべきです。禮子さんも、きっとそういうお気持ちから、旦那さまを励まされたのだと思います」と、彼女も二人の関係が壊れないように、彼女なりに禮子をよりよく印象づけようとするのだった。

「へえ、いったい二人でどんな未来を夢見ていたのかしら。それにしても、禮子さん、あなたどうして応援に来て下さらなかったの?」

「いえ、私が行ったところで、恐らくみなさんの邪魔になるだけですから」

「邪魔だなんて、そんなわけないじゃない。でも、来られなくてよかったかも知れないわ。もし、あなたが居たら一騒動持ち上がっていたかも知れませんからね。それくらいおかしな空気で一杯だったのよ。例のことで、みんなあなたに責任を押し付けようとしてましたからね」

「華音、そのことはもう言うな」と、今まで無言でいた橘氏が、いきなり強い口調で止めに入ったのだ。そこには、これ以上この件で、禮子に余計な負担を掛けさせたくないという強い意志が働いているようだった。彼としても、今回の敗北からようやく、彼女のお陰で立ち直れる気分になりかけていたのに、華音がまた馬鹿なことを言って、彼女との関係を壊されたくなかったのである。「いいかね、この件では彼女には何の責任もないんだ。このことだけは、みんなもようく理解しておいて欲しい。むしろ彼女は被害者の一人だと言ってもいいくらいなんだからね。そういうことを、せめてこの家族だけでもはっきり認識していてくれなくちゃ困る。それでなければ、禮子さんだって、お前達とこれからどうして、いい関係を築いていけるというのだ。彼女だって、これからこの橘家の一員となって、お前達と付き合っていかなければならないのだからね」

「私だって、彼女に何の責任もないことぐらい分かっているわよ。お父さんに言われるまでもなくね。私はただ、事務所で起こったことを禮子さんにお知らせしようと思っただけよ。それに、こうした理不尽な世間のやり方を、禮子さんはいったいどう思われているのか。そういうことも聞いてみたいと思っているの。だって、もし次の選挙に出ることになるとしても、また同じようなことが起きないという保証などないのですからね。そのうえ禮子さんがお父さんと結婚したら、嫌でもこういう面倒な問題と向き合わなければならない立場に立たされるのですよ。でも変ね。禮子さんはこんなことがあっても、それでもまだお父さんと結婚しようという気持ちがあるのかしら?」まるで独り言のように、誰に問うたわけでもないこの質問は、明らかに彼女に対する如何にも露骨な当てこすりだと分かるもので、恐らく橘氏にとって驚天動地の心臓が胸から飛び出すくらい、あり得ないものだったに違いない。確かに、橘氏からすれば、この華音の一言はあり得ないものだっただろうが、このことは誰もが秘かに一度は考えていたものでもあり、決してあり得ないものではなかったはずだ。むしろ、一番知りたかったことなのだが、絶対聞けないことでもあったわけだ。それが、何の前触れもなく、ごく自然に華音の口から出たように感じたので誰もが肝を潰してしまったというわけである。しかし、考えようによって、これは禮子にとって一番困った質問だったかも知れない。なぜなら今の時点で、もし、ないと言えば一番彼女の気持ちに近いものだとは思うが、実際にはそう簡単に答えられないものでもあったからだ。

 こうして、部屋に居る人々を一瞬にして凍り付かせた華音の一言は、もちろん、一騒動起きてしかるべき大問題だったのだが、あまりにも問題がシビアすぎて誰もそれについて、触れることすら出来なかったのである。橘氏ですら、もはや何がどうなっているのかすっかり混乱してしまって、ただ禮子の顔をおっかなびっくり見るのが精一杯だったのだ。こうなると、当事者同士で何とかこの問題を、処理するしか方法がないようである。もはや、誰もが沈黙し、静まり返った部屋の中は、身動き一つするにも憚れるような緊張した空気に支配されてしまったからだ。それもこれもすべては、この家の覇権を巡っての思惑が、二人の女の根底にあったのかも知れなかったからだ。少なくとも華音の中には、確かにそういう考えが実際にあったのだ。そもそも、この家の覇権を巡る問題は、一番最初に華音が禮子と会った時から、ずっと彼女の中で避けて通れない問題として存在していたのである。華音は初めて彼女と会話した時からすでに分かっていたのだ。この禮子という女が、いずれ自分の存在を脅かすことになるだろうことを。




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