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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 彼女の話しは意外なほど彼の自尊心を傷つけたのである。というのも、彼女の言葉が鏡となって見たくもない自分の真の姿を急に見せられたように感じたからだ。自分のろくでもない人生の行状が彼女の前で臆面もなく堂々と語られたのである。その結果、自分という人間が彼女の簡単明瞭な言葉で極めて鮮やかに分析されたのだ。彼にとって一番の苦痛は彼女が()()を語ったと言うことだ。もはや男として、どうして彼女と対等な関係を結ぶことなど出来ようか。下手をすれば一生彼女に頭を下げ続けて行くはめになるかも知れないと恐れるのだった。要するに、彼の勝手な妄想が、不吉にもその言葉通り現実となり彼を苦しめ始めたのである。すると、その妄想はすぐに彼女に向かった。なぜか彼女に対する憎しみが、彼の心臓を貫いたのだ。彼女の優しさが、その相手を思いやる類い稀なる心情が、その冷静な態度が、彼にとっては恐ろしい程の鋭い刃となって、彼のやわな皮膚を傷つける凶器へと変貌したのである。もちろん、こうしたことは単なる妄想として片付ければ片付けられるものだ。もっとも、それには少しばかりの強い意志と反省が必要だが。ところが、彼はすっかり打ちのめされたような情けない状態に陥ってしまい、こんな子供じみたことでは先が思いやられるとは思うものの、どうしても抵抗出来ない自分にぶつかって、立ち直ることが難しいくらい意気消沈してしまったのである。おまけにその日は、彼にとって重要なある計画を予定していたのに、今の状態ではとてもその実行は無理なので、仕切り直しという意味でも明日に日延べせざるを得なくなってしまったのである。その重要な計画とは、あれ以来ずっと中断されたまま、その切っ掛けさえ作れないでいた彼女へのプロポーズだった。それが自分の妄想によってあえなく頓挫させてしまうという体たらくで、挫かれたその決意を何とか一晩で蘇ってくれることを祈りながら寝につくのだった。翌朝、彼は目を覚ますと、自分の心の状態に注意を向けるのだった。すると、それがあまりにも馬鹿げた蜃気楼のような実体のない妄想だと確認できたことで一安心するのだった。一晩寝たお陰で自分の妄想も取るに足らない気の迷いだと判断できたわけだ。それにしても、どうして自分は彼女に対してあんな否定的な感情を持ったのだろう、そんなことなどあり得ないことではないかと不思議がるのだった。彼はその日、二人にとっての大事な儀式を絶対に決行すべきだと、改めて強く自分に言い聞かせるのだった。そもそもここに彼女を連れて来たのもそのためであったからだ。

 今日の天気が、すべてをいい方向に進めてくれることを願いながら、生い茂った木々の間を昇って来る朝日を眺めていると、ひんやりとした山の外気が彼の頰を気持ちよく撫でながら室内に流れ込んでくるのだった。すると、昨夜までのモヤモヤした気分が一挙に消え去って行くのを感じて、これなら自分の思いを何とか伝えられるのではないかと意気込むのだった。二人は朝食をすますと彼の提案で湖に出掛けることにした。しかし生憎と山の天気は人間の都合などにはお構いなく変わって行くようで、あれよあれよという間に雲が広がり、おまけに風も強く吹いてきて彼としてはボートに乗って気分を盛り上げたいと思っていたのに、その計画も安全のために中止せざるを得なくなってしまったのだ。こうして無情にも、またもや彼の計画は変更を余儀なくされたわけだが、それでもめげずに何とか二人をそのような気分に向けさせるにはどうしたらいいか色々と知恵を絞るのだった。しかしそういう努力の甲斐もなく、時間だけは容赦なく刻々と過ぎて行き、とうとう日も暮れてしまい、彼としてはもはや気分などに頼ってはいられないという、ある意味追い詰められたわけだが、それでも男としての意地にかけても何とか今夜中に決着をつけなければとあせるのだった。というのも二人は明日の朝帰る予定だったからだ。というわけで今夜それを決行するしか手がないのだが、それでもなかなか切っ掛けが掴めず、イライラばかりが募ってきて、仕方がないので落ち着くために本でも読もうとしたが、すかさず本など読んでいる場合かと自分を罵る始末で、にっちもさっちもいかないこの苦しい状況からどうしたら脱却できるのかと思い悩むのだった。するといきなり彼は椅子から立ち上がると部屋の中を無言で歩き出したのだ。恐らくじっとなどしていられなかったのだろう。もっともこういう行動は、彼女の気持ちを自分に向けさせるための無意識の行動とも取れなくもなかった。この際できれば彼女のほうからでも言葉を掛けてくれないかという、何とも男として恥ずかしい意図が隠れていたとはいえ、もはやそんなことも言っていられず何でもいいから、この地獄のような状態から早く抜け出したいという切羽詰まった思いの為せる業でもあったわけだ。もちろん彼のこうした奇妙な無言劇は、彼女もとっくに気にはなっていたのだが、無理に何か言って彼の気分を壊すのもどうかと思い、黙ってやりたいようにさせておこうと、ある意味気を利かせてしまったのである。すると彼女も何を思ってか椅子から黙って立ち上がると、そのまま彼を残してバルコニーに出て行ってしまったのだ。男としては、こういう振る舞いをいきなり女にされると、何か自分の行動に致命的な落ち度があったからではないかと余計な心配を抱くものである。もちろん、そんなことはないのだが、今の彼にはそう思わせてしまう根拠は山ほどあったので、その不安はやむを得ないものだったのかも知れない。すると外から彼女の感嘆するような叫び声が聞こえてきたのだ。いったい何事だと彼もすぐにバルコニーに飛んでいった。その時彼女は夜空を見上げて、満天に散りばめられた光り輝く無数の星々に思わず声を上げてしまったのである。

「何て素晴らしい光景なんでしょう。まるで星の世界に吸い込まれそうだわ。子供のときは本当に吸い込まれそうになったのよ。誰も信じてくれなかったけど」

「ぼくはもちろんあなたのおっしゃることを信じますよ。だって、この星空を見れば、はっきりとあなたのお気持ちが実感できるからです」彼はすかさずこの絶好のムードに自分も乗っかるのだった。まさにその機会がやって来たのだ。これを逃したらもはや二度と、こういうチャンスは訪れないだろうと見て取ったのだ。二人はしばらくその光景に見とれて言葉もなかった。彼らは沈黙したが、その沈黙は先ほどまでの奇妙な無言劇とは違って、お互いの心の内が星空を通して分かち合えるくらいの感動を引き起こしたのである。彼は彼女の肩にそっと手を触れ、今まで何度も挫折した自分の思いを心を込めて呟くのだった。その言葉はどうやら彼女の心に届き、そのまま受け入れられたようだ。暗闇の中で行われたこの厳粛な誓いは、天上に輝く無数の星々と、地上でその姿を見せぬまますだく虫たちの音色にそっと祝福されているようにも思えるのだった。

 こうして、念願だった彼のプロポーズも何とか成就し、二人の未来にやっとそれらしき幸せの形が見え始めて来たその同じ頃に、禮子の心にある変化が兆し始めたのである。彼女はあの華音から指摘された例の事件以来、自分の正直な気持ちと恐ろしいくらいの格闘を強いられていたのだ。これほど苦しい葛藤に悩んだことは今までの人生で初めてのことだと言ってもいいくらいだった。というのも、彼女の性格からして悩む前に何とか解決させてしまったからだ。それが今回はなぜかそうもいかないところが一番の悩みではあったが、彼女としてもそれだけ自分の力だけで何とかなるという問題ではなかったということだろう。

 禮子は投票日当日、昼過ぎに橘家にやって来た。あいにく家族のほどんどが選挙事務所のほうに行っていて、いつ帰るか分からないと家政婦のばあやが言うのだった。彼女は仕方なく自分の運命がどう転ぶのか、それを確かめるためにもここで待って見ようかと思うのだった。まるで自分の人生の浮沈をじっくりと味わうようなそんな心境にでもなっていたのかも知れない。それにまたこれから始まる自分にとっての茶番劇が、どんな筋書きになって進んで行くのか一つ見届けてやろうといった冷めた思いもあったようだ。もっとも世間が言うほど自分が彼の財産や市長夫人という地位にそれほど執着していたわけではないのだが、もしそんなことにでもなったらいったい自分はどのような気持ちになるのだろうという、そのへんの興味もなくはなかったのである。もちろん冗談のような話しではあるが、それでも、もし自分がそんなことになった暁には、きっと世界が変わり今まで見たことのない何か価値のある人生を送ることになるのではないかといった、まるで夢のようなことを空想している自分に正直驚くのだった。要するに、まさかそんなことを本気で願っているのだろうかと我ながら呆れ返ったのである。確かに以前の彼女だったら、そう願うこともあったかも知れないが、今の彼女はなぜかそう簡単に喜ぶことができないところが、一番の悩みの種でもあったようだ。そういうわけで、彼女はしばしの間、自分の運命のことは一旦脇に置いて、先程から好奇心ありげに自分を見ているばあやと、ちょうどいい時間潰しになると思い話し始めるのだった。

「ところで、旦那さまは当選なさいますでしょうか?」と、この主人思いの家政婦は、さっそく一番気になっていることを心配そうにずばりと聞いて来るのだった。もっとも、そう聞かれたって選挙のことなどあまり知らない彼女としては、どう答えていいのか分からなかったが、それでも真剣な眼差しで聞いて来ることから見ても、きっといい返事を期待していることはもう分かり切っていたので、彼女もあまり素っ気なく言うのも悪いと思って適当に期待を持たせるようなことを言ってお茶を濁すのだった。すると、ばあやはすっかり喜んで、「そうでなくてはいけませんよ。旦那さまは先代の大旦那さまが果たせぬまま終わった、その志を遂げるために立候補したんですからね。その使命が旦那さまにはあるからです。私は大旦那さまの悔しさをよく存知あげております。どれだけ残念な思いで亡くなられて行かれたか。大旦那さまは亡くなられる寸前に旦那さまを枕元にお呼びになって、後は頼んだぞと言って事切れたのです。さぞかし無念であったろうと今でも思い出すと涙が止まりません」と言って、この律儀者は目頭をそっと拭うのだった。こういう話しをいきなり聞かされると、禮子としても、このどこか芝居掛かった大袈裟な話しに聞こえてはしまうものの、いったいどうしたらこのようなとても嘘とは思えぬ熱烈な思いをこの家政婦が持つようになったのか、それは多分この橘家という家族に何かしらの秘密が隠れているのではないかと思うのだった。彼女はこれを機に、この家政婦からもっと橘家の内情を聞き出そうと色々と話し掛けてみるのだった。すると意外にも、彼女が禮子のことをかなり好意を持って見ているらしいことが発覚したのである。その理由というのがまた彼女独特の考え方によるもので、つまり簡単に言うと、どこまでもこの家の将来を心配していたこの家政婦は、禮子のことをこの橘家を救ってくれる救世主のように考えていたことが分かったからである。要するに、禮子こそ橘氏の妻になるのに一番相応しい女性だと、初めて見たときからそう確信していたらしいのである。つまり市長の妻として最も適任だと睨んだのだ。彼女の頭の良さとその美貌があれば世間的にも胸が張れるし、誰も文句の付けようがないと感じたからだ。もちろん、こういった話しは橘家のやむを得ない事情が絡んでいたからで、三年程前に急死した奥様のことがあったからなのだ。というのは彼女はどうやら橘家にとって非常に大事な存在だったこの優れた女性が亡くなったことで、橘家そのものが危機に陥るのではないかと心配したからだ。つまりこの突然の連れ合いの死によって、橘氏という人間がまるでたがでも外れたように一気に堕落してしまうのではないかと恐れたからである。というのも一廉の人間として何とか今までやってこれたのもこの妻があってのことだったからだ。そうした彼の欠点を悉く見抜いていた彼女は、今のところは何とか家族の力で大人しく収まってはいるが、それがずっと続くという保証など一つもなかったわけで、彼をこのまま放任しておくのははっきり言って危険だと認識していたのである。ところが、ここに一大転機が起こったわけである。彼が市長選に出馬すると聞いたとき、彼女はこれぞ千載一遇のチャンスになると思ったのだ。もし市長にでもなれば、もはや彼だってこのまま一人でいるわけにはいくまいと考えたからだ。それは彼の性格からいっても、きっとそう思うに違いないと彼女は確信したからである。その直感はずばり的中したのだが、ところがそこに極めて厄介な問題が立ちはだかっていたのである。つまり彼の妻になるにはかなり厳しい条件があって、決して誰でもいいというわけではなかったからだ。彼のような一癖も二癖もある気難しい暴君を、うまく操縦できる手腕がないと駄目なのである。そのうえ、相手にそのことをまったく悟らせないということが絶対的な条件だった。こういった難しい関係を支障なくうまく熟せるには、それなりの機転の利く頭の良さと清濁併せ呑むくらいの心の柔軟性がないと、とても無理だと彼女は見ていたわけである。その点、亡くなった奥様は実に絶妙に距離を保ちながら夫をうまく操縦していたと、この何でもよく気の付く家政婦は見ていたのである。禮子ならば同じような関係を夫に対して持つことが出来るのではないかという、そういう期待もあったうえでの女の勘が、禮子にはその資格があると言わしめたのである。もちろん、二人の性格はまるで違っていたし、その点が心配の種にはなったのだが、それでも彼女の人に対する接し方には、どうも普通の女には見られない独特のものがあると感じていたのだ。そういうわけで、冷徹な観察者でもあるこの家政婦は、目の前の彼女と話しをしながらも、この絶好の機会を利用して彼女の性格の是非を、この目ではっきりと見極めてやろうと意気込むのだった。

「大旦那様の無念を、どうか旦那さまの手で晴らさせてやって下さいと、私は毎日神棚に手を合わせて祈っているんです。ところが、世間には悪い連中がいるもので、そんなことはさせじと邪魔をしてくるんですから呆れるじゃありませんか。それが何とこの町で起こったのですから驚きです。おそらくあなたもお聞き及びだとは思いますが、旦那さまを中傷するメールが町中に広まっているらしいのです」

「ああ、何かそのようですわね。私もそれにはびっくりしましたし、橘さんもそのことでとても悩んでいらっしゃったわ。ところで、その噂になった女が一体誰なのかあなたご存じ?」

「いえ、知りません……」

「今あなたとお喋りしている人がそうだとしたら、きっとあなたも驚くでしょうね?」

「どうして、そんなことが?まったく信じられませんです。まあ……」と言ったきり、しばらく瞬きもしないで黙っていたが、もちろん、彼女はそんなことはとっくに知っていたのだ。彼女はなぜかは知らないが、思いっ切りとぼけたのである。

「おそらく、あなたのような何も知らない人が突然気が変わって、違う人に投票してしまうなんてことが起きるかも知れませんわね。万事がこういうおかしなことで動くというのが現代の特徴のようで、公明正大な選挙といえども、まったく油断も隙もあったものじゃありませんね。まったくどうなることやら」

「本当に、おかしな世の中になりましたね」

「でも仕方ありませんわ。人間なんて実にいい加減な生き物ですからね。ちょっとした気分の変化で、決めていたことをすっかり変えるなんてことが実際に起こり得るのですから。もっとも本人にしたらたまったもんじゃありませんが。でも、たとえそれで落ちたとしても、それで彼の人生がすべて終わっていまうわけでもありませんから、何も心配することでもないのかも知れませんね」

「でも、旦那さまが市長になれば、あなたも市長夫人ではありませんか。こんなことはそう滅多にあるものではありませんよ。もし、そういうことになれば、あなたは誰もが羨む市長夫人として、これからの人生を歩むことになるのですからね。本当に運のいいお方ですわ。羨ましい限りですよ」まるで、そうなることが当然であるかのような調子で、この策略家は表情一つ変えずにズバリと言ってのけるのだった。おそらく腹に一物ある身としては、ここで何とか彼女の本音を摑みたいといった思惑が働いたのかも知れない。しかし、禮子は薄笑いを浮かべこう言い返したのだ。

「もし、そうなれば世間は一層この私を叩くかも知れませんわ。口さがない人はどんな所にだっているものですからね。ひょっとしてあなたもその口ではありませんの?」

「あらいやだ。どうして私が?でも、この間の華音お嬢様ではありませんが、あのことは私も人から聞かれたことがあるんですよ。もちろん、そんなことはないとはっきり言っておきましたが。それにしても、この間はお嬢様からとんでもないことを言われて、あなたもさぞかしびっくりされたんじゃありませんか?ただあの方は何でも素直に話されてしまう性格なんです。でも決して意地が悪いというわけでもないんですよ。それだけは誤解しないで下さいね」なかなか本心を見せない禮子を見て、これは政治家の妻としてもかなり見込みがあるかも知れないと、別な意味で手応えを感じるのだった。

「じゃ、あなたもすっかりご存じなわけですね。それなら、話しが早いわ。私ね、あなたに聞いて見たいことがあるのよ。この橘家という家族がいったいどんな人達なのか。とくに娘二人のことがね。あなたもこの家は長いのでしょう?」

「はい、ずいぶん長くお世話になっております。皆さんとてもいい人たちばかりですが、それなら、あなたがいったいどういうことをお知りになりたいのか、それをまずお聞かせ願いませんか」彼女もこの質問にはちょっと驚いて、いったいどんな意味が隠れているのだろうと色々と気を回し始めるのだった。

「妹の華音さんは、どうやら私とはあまりそりが合いそうもないことが、この間のことでよく分かりました。でも、彼女の性格は単純明快でそれほど難しく考えることもないと思いますので今回は無視することにして、問題は姉の紫音さんのほうなんです。私が知りたいのは彼女がどういう人生を送って来たのかということです。私の見たところ、彼女が決して裕福な家庭でただのんびりと育って来た、いわゆる単純にお行儀のよいだけの優しいお嬢さんだとはとても思えないのです。その点が一つ、あとは、あなたから見て彼女のことで何か印象に残っている思い出というか、気になった出来事でもあればお聞かせ願いたいのですが」

「紫音お嬢様のことですか。そうですね、私はどちらかというと、華音お嬢様とはとても気が合って仲がいいんですよ。確かにあなたがおっしゃるように、気性が激しいところが玉に瑕ですが、それでいて、どこかさっぱりとしたところもある方でしてね、私もつい気を許して彼女の前では何でも相談してしまうんですよ。私にとっては橘家一番のお友達でもあるわけです。どんなつまらない些細なことでも私に相談してきますからね、本当に可愛いお嬢さんなんです。それに比べて、やはり姉の紫音様はどこか遠慮してか私にはあまり言葉を掛けて来てはくれませんでした。でも、私にとっては、そんなことはまったく気にもなりませんでしたし、むしろあの方のそういう静かで、寡黙なお姿に魅力を感じてしまうのです。それでいて決して人を寄せ付けないような気難しさなど微塵もないのですから文句のつけようがありません。それはあなたもお感じになっているのではありませんか?」

「そうですね。確かにあの人は、ただ優しいだけのどこにでもいるお嬢さんタイプの人間でないことだけは、この私にも感じられます。私のようなすれた女とはまったく違って、その点で私にはないものを持ってる女のようにも思えて、何でか知りませんが嫉妬すら感じられるんです。これは決しておべんちゃらを言っているのではありませんよ。私の正直な感想です」

「ええ、そうですとも。紫音様は亡くなられた奥様に本当によく似ていらっしゃるところがあるんです。顔形もそうですが、なによりもその心根といいますか、人柄といいますか、それはそっくりでまるで同じ魂を持っているようでした。その絆はとても強かったと思われます。というのは奥様が亡くなられたときの紫音様は、それはもう母親の後を追って自分も死んでしまいたいと思っていたくらいで、いや実際そうだったんですよ。でも妹や弟も同じように悲しんでいるのに、自分だけがそんな気持ちではいけないと反省して、それからは変な考えに引き込まれないよう気持ちを強く持つようになったのです」

「彼女はどういった生活をされてたんですか?」

「お嬢様は、最初音楽大学でピアノの演奏家を目指して勉強されていたんです。でもそのうちなぜか知りませんけど、いきなり自分は演奏家にはならないと宣言したのです。これは後で華音お嬢様から聞いたことなんですけど、どうやら自分は演奏家には向いていないって言ったそうです。で、音大を卒業すると子供達を集めてピアノを教え始めたのです。家族のとくに母親の反対はすごく強かったのですが、それでもお嬢様は、なぜかこれだけは母親に逆らっても断固として自分の意志を貫いたのです。ところが奥様が突然亡くなると、そのピアノ教室も止められてしまいました」

「そうですか、それは残念でしたね。でも、とても興味深いお話しを伺えてとても面白かったわ。私もね彼女がそういう音楽的な感受性に恵まれた女性だということを知ってとても嬉しいのです。だって、私にはない才能を持った人とこれからお付き合いさせて頂くのです。それは私にとってもプラスに働きますからね。でも、この橘家のご家族は、どなたを見てもどこかしら非凡なものをお持ちのようで、これからの私の人生にとっても、こういう方々とお付き合いさせて頂けるだけでも、とても有意義なものになるだろうと思われますわ」

「ええ、それはもちろんですとも。ですから、あなたも市長夫人という地位を得た暁には、ご自分の人生が、この橘家にとっても、あなたご自身にとっても、きっと計り知れないものをもたらすだろうと、私は今から確信しているんです。その知らせがもうすくここに届くのです。ところで、あなたはあちらには出向かないのですか?」

「私が行ったところで邪魔になるだけですよ。それに、もし落ちでもしたら、それこそ目も当てられませんからね。きっと私が真っ先にその原因にされて吊し上げられるだけですよ。そうなったら橘さんにだって申し訳ないじゃありませんか」

「いやですよ。そんな落ちるだなんて縁起でもない」



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