25
「あの人は、ぼくの横をまるでつむじ風のように、ほんのちょっとざわつかせて通り過ぎて行った、ただそれだけの女でしかなかったのです。もちろん、これだけでは何の事やらさっぱり分からないと思いますので、ちゃんとご説明しますがね。彼女が当時ホステスとして働いていたお店のオーナーが、その人は女性なのですが、催したパーティーがありましてね。その会場にぼくもいたのですが、実を言いますとその女性のオーナーこそがぼくの不倫相手であったのです。禮子さんはその会場でぼくと初めて出会ったわけです。彼女はどうやらぼくとの距離を縮めたいらしく、初対面でありながらかなり大胆にコンタクトを取って来ました。まあ、あなたもご存じのように、あの性格ですからね。まるで女豹が獲物を捕らえるときのあの鋭い目で狙いを付けられてしまったわけです。しかし、そのオーナーである夫人が黙っていませんでした。夫人からすれば自分の情人に手を出すなんて、いい度胸だとでも思ったのでしょう、最初はそれとなくこの家の掟とかなんとか夫人の勝手な理屈で説得していたのですが、あいにく相手はそんなわけのわからない掟など知ったことかと、逆に夫人に食って掛かり話しがまったく咬み合いません。夫人もとうとうキレてしまい、人の男に手を出したことなど少しも理解しないこの女を、おととい来やがれとばかり力ずくで家から追い出してしまったというわけです。彼女はそのまま出入り禁止を食らい、ぼくとの出逢いもその瞬間終わってしまったというわけです。彼女とはそれ以来会っていませんでしたし、その後どうされたのかまったく分からないままでした。ところが、あなたもご存じの通り、あのレストランで再び彼女に会った時どのくらい驚いたか、あなたもひょっとしてぼくの狼狽振りにお気づきになったのではありませんか?あの時彼女は偶然を装っていましたが、そんなことに騙されるわけにはいきません。彼女はその時すでにあなたのお父様と結婚する気でいたからです。彼女は単にぼくをからかうためにやって来たのでしょうか?それとも、ご自分の結婚を報告するためにわざわざやって来たのでしょうか?まったくわけが分かりません。しかしまあ、そういうわけで彼女が決してぼくの不倫相手ではないということがご理解いただけたのではないでしょうか。ですから決してお父様は、ぼくの不倫相手と結婚されるわけではないということです」
彼はこの時こうした禮子の一連の行動の裏で、橘氏が一枚噛んでいるのではないかという疑惑を話しの流れで、ついうっかり言ってしまいそうになったが何とか思い止まった。というのもそんな余計なことを言って彼女を不安にさせでもしたら、また違った意味でこの問題をこじらせてしまうことになると判断したからだ。
「そうでしたか。今までそのことでどれくらい心配してきたか、ほんとうに誤解が解けて私も安心しました。もし、あなたの不倫相手が彼女だとしたら、それこそ父はゆがんだ関係の上に新しい人生を築くことになりかねなかったのですから。でも、誤解が解けたとはいえ、私にはあまりこの結婚は心から喜べないところがあるんです」彼女はこう言って意味ありげな視線を彼に送るのだった。
「喜べないとはいったいどういうことです?」彼女の口からそういう言葉が出て来ようとは思ってもいなかったので、いったい何事だろうと身を乗り出すのだった。
「それは、まだ彼女の真意がどこにあるのか分からないからです」
「それはつまりあれですか、妹さんがあの時いみじくもおっしゃった愛による結婚ではないということですか?確かに彼女の真意はまったく別のところにあるのかも知れません。ある意味妹さんは鋭い指摘をされたのです。この結婚は誰が見ても打算によって仕組まれたものとも考えられますからね。あの女はきっと自分の欲望のために橘さんと結婚するんです。だってほかに何があるんです?この結婚によってあの女にどんなメリットがもたらされることになるのか。そのことをまずようく考えなければいけません。あなたのご心配もよく理解できます。しかし、ああいう女にとっては自分の欲望がすべてなんです。もとより愛情のない結婚の行き着く先には自分の欲望を満足させることしかないのですから。それに、あわよくば市長夫人になって自分の社会的地位を満たすことだって可能なんですから。金と権力このいつの時代にも人間を引きずり込まずにいない欲望は、誰だってそれが目の前にぶら下がっていれば、愛といういい加減な空手形よりずっと信用が置けますからね。そうなりゃ、相手の年齢など無視してそれに取りすがっても決しておかしくはありませんよ。いや、むしろ彼女の場合それは願ったり叶ったりだったのかも知れません」
柏木のこの話しに紫音はちょっと首を傾げたが、というのも彼女はまったく違うことを考えていたからだ。禮子は決して世間でよく聞かれる、財産目当てのそんな分かりやすい理由だけでこの結婚を決めたのではないと思っていたからだ。もっと違う彼女にしか分からない秘かな理由があっての行動に違いないと思うのだった。もっとも確かな根拠があってそう考えたわけではないのだが、それでも彼の理屈よりずっと確からしく思われるのだった。そして、その理由は自分たちの結婚ともまったく無関係ではないと思ったのだ。
「ところで、柏木さん、私はもっとよくあなたのことが知りたいのです。ここにこうしてやって来たというのも、二人の関係をもっと深いものにしようという考えからだと思うのです。だとしたら、お互い出来るだけもっと素直になるべきだと思いますし、そのうえで大人として恥ずかしくない関係を築いて行くべきだと思うのです」
「恥ずかしくない関係とは、つまり、他人が見ても恥ずかしくない関係を築くべきだと、そうおっしゃりたいわけですね?」
「そうではなく、お互いの信頼関係をどう築いて行ったらいいのか、それを二人で考えていきたいのです」
「ああ、確かに、そういうことも必要だとは思いますが、しかし、今はもっと違う形で二人の関係を深めて行ったほうがいいのではないでしょうか。話し合うにしても、そこは徐々に自然の流れの中で作り上げて行ったほうがいいのではないかとぼくは思うのですが。でも、あなたのおっしゃることはまったくもっともだとは思います。確かに、これからの二人に必要なのは信頼できる関係ですからね。しかし、今はこうした自然の中で静かに時を過ごすということも二人には必要な事ではないでしょうか?」
柏木はこの時、彼女はきっと自分の不倫のことが頭にあって、こんなことを言っているんじゃないかと考えるのだった。確かに彼女の立場に立てば、この問題をこのままほっとくわけにはいかないということもよく分かる。ましてや、彼はそのことを自分の口から語るというバカな真似をした男である。いったい、どんな気構えで彼女の信頼をこれから勝ち取る気でいるのだろう。こんな調子では二人の関係は前途多難なものにならざるを得ないだろう。彼はそのことをはっきりと自覚しているのだろうか。ところが、どうもそんな気にはなっていそうにないのだ。というのも彼にはそのことはすでに終わっていて、彼女も了解しているという考えが頭にあったからだ。確かに彼の見解によれば、そのことはとっくにけりが付いて解決している問題だと言えそうだが、彼女の中では解決どころか、どうすればこの問題と折り合うことが出来るのだろうかとひどく悩んでいたのである。もちろん、彼とて自分がたとえそう思っていても、彼女が本当はどう思っているのかは正直分からなかったのでその点迷いもあったのだ。それに彼は出来ることならこの問題には触れたくないと思っていたので、なんとか先延ばししてそのうちうやむやになることを望んでいたようである。ところが、彼女はどうやらこの問題をはっきりさせたがっているのではないかという感触を先ほどの会話から受けたのである。
その後、二人はしばらく湖の周囲を散策し夕方頃別荘に戻った。夕食はすっかり整っていて食卓の上は素晴らしい料理で溢れ、とても山奥の一軒家の食事とは思えないくらい贅沢なものになっていたのである。まったくこういうところは彼も抜かりなく攻めるところは攻め、これこそお互いの信頼を築き上げるうえでもっとも効果的なやり方だと思っていたので、これで彼女もきっと自分の誠意を認めてくれるだろうと確信するのだった。二人は、それからしばらくお互いの子供の頃の思い出話しや、どんな家庭で育って来たか、とくに柏木は子ども時代の生活がいかにその後の人生に強い影響を与えることになるか、とくに子供の性格を弁えない教育は先に行って悲惨な結果をもたらすことを力説するのだった。彼は自分のこれからのことも話したが、それはなぜか展望のないただ引かれているレールの上を滑っていくだけの何とも力のない話しに終始した。彼女はそれを聞くとすぐにあることを思い出し、彼もそのことできっと苦しんでいるのだろうと思うのだった。それはいつか父親から聞いた彼が兄との争いに敗れ子会社に左遷されたことを思い出したからである。彼は酒も入り次第に口が軽くなると、自分がいかに駄目な人間であるかを強弁し始めたのだ。「自分はもともと人と争うことが苦手で喧嘩一つ出来ないい子供だったのです。どちらかというと優柔不断で決断することが苦手でした。どちらか一方を選ぶことがなかなかできなかったのです。おやつの時間などそれでひどく苦しんだことを憶えています。お菓子を選ぶことにさえ迷ったからです。ぼくにはどうやら自分の基準となる考え方がないらしいのです。もし自分がもっと違う環境に生まれていたらきっともっと悲惨な人生を送っていたかも知れません。そのくせ今ままでの自分の生き方はそれと同じような実にデタラメな人生を送っていたのですから呆れてしまいます。でもね、紫音さん聞いて下さい。それには実に深い訳があるのです。というのは、なぜか生きる事にあまり意味を見出せなくなってしまったからです。なぜ、そんなことになったのか恥ずかしい話しまったく分かりません。おそらく何かがぼくには足らないのです。その何かが分かれば一番いいのですが、まったく見当も付きません。それがずっとぼくの人生をおかしくさせているのです。おそらくあなたと出会わなければぼくの人生はもっと悲惨なものになっていたかも知れません。ですから、あなたがおっしゃる、「大人として恥ずかしくない関係」を作りたいのは、ぼくも同じなんです。ですから……」とその時、何かに背中を押された感じで、ぼそっと「自分にはどうしてもあなたとの間で解決しておきたい問題がある」といきなり切り出したのだ。おそらく例の不倫のことを言ってるのだろうと思われた。どうやら、ここに来てこの問題を何とかしなければ、二人の関係は決して正しい方向に向かうことはないだろうとはっきり気づいたようなのだ。もっとも、そんなことはとっくの昔に分かっていたのだが何かばつが悪く、言い出す踏ん切りもつかないまま今に至ってしまったわけである。しかし、それでも迷いに迷ってはいたものの、このまま話さないでいたらきっと将来何かしらの問題を引き起こす原因にもなりかねないと不安になるのだった。しかし、たとえそうだとしても自分の不始末を彼女に話すことにはやはり抵抗もあり、いったいどうやって話せばいいのか迷うのだった。もとはと言えば自分の愚かさから出た偽善まがいの告白であり、たとえよかれと思ってした行為とはいえそれがどれくらい彼女に迷惑を掛けたか、むしろ彼女からすればそんな過去の恥ずべき情事のことなど知らないでいたほうがずっとよかったともいえるのだ。それが証拠に彼女からすれば彼の告白はまったく理解に苦しむものだったが、そんなふうに悩むよりもむしろ彼の正直さを褒めるべきではないかと言った、そういう相手を庇うような思いやりのある考えで何とか自分を納得させようとしてはいたのだが、それでも内心やれやれ困ったことになったと思っていたのである。この時も、いきなり解決すべき問題などと、いきなり大仰に切り出されたので一瞬ドギマギしたが、彼が何を言いたいのかはおおよそ察しが付いたので、いったいこれからどんな話しを聞かされるのか、恥ずかしさ半分、好奇心半分といった複雑な気持ちになるのだった。
「紫音さん、どうかこれから話すことに驚かないで下さい。それにぼくを変な目で見ないで下さい。でも、ぼくとしてはどんな目であなたに見られようと、そこは覚悟してはいますが、それでも、これはぼくにとって忌まわしい過去であり、二人の関係のためにも避けて通るわけにはいかない茨の道なんです。確かにあなたにはまったく余計なご心痛を掛けてしまい本当に申し訳なかったと思っていますが、このぼくもあなた以上に自分の十字架を背中に感じないではいられないのです。この話しをしたことによって、二人の関係が悪くなる可能性もあるのではないかとぼくは危惧しているのですが、しかし、そういうリスクを冒してでもやはり話すべきだと思うのです。これはぼくが蒔いた種ですからその全責任はぼくにあります」
彼女はすっかり考え込んでしまい、彼が言うところの十字架はきっと自分を苦しめることになるだろうが、それはすでに覚悟のうえと思っていたので、こうなったらとことん彼に付き合ってみようと思うのだった。とはいえ、こう釘を刺すことも忘れなかった。
「柏木さん、女というものはとかく男との関係に縛られるものなんです。今あなたがおっしゃったリスクを冒してでも話そうという覚悟は尊重しますが、もし、私がその話を聞いてあなたのことが嫌になったとしても、そういう私を決して嫌にならないで下さいね。これは皮肉で言っているのではありません。私はあなたのことを信頼できる方だと思えばこそ、私もそのリスクを恐れずあなたに付き合う必要があると考えたからなんです」
柏木はその言葉を聞くと、自分の言った言葉がいかに自分本位であったか、それに気づいて自分の迂闊さに赤面するのだった。
「自分の愚かさに呆れるばかりで何と言っていいのやらその言葉も見つかりません。ぼくはどうやらあなたに対して大変失礼なことを言ってしまったようです。ですから、これからは自分に対して今まで以上に厳しく当たらねば、あなたの許しを得ることは不可能だと悟りました」
こうした思い掛けない彼女の指摘にすっかり怖じ気づいた彼は、いったいどのようなことを自分はこれから話すつもりなのだろうと怯えるのだった。というのも、改めて彼女からそう言われると、男としてどういう態度で話せばいいのか非常に難しいことになってしまったからだ。そもそも、自分の不倫など決して「大人として恥ずかしくない関係」ではなかったし、相手を尊重してはいたがそこにはっきりとした愛情があったとも言えなかったのだ。こうなると、この問題がどんな恰好で落ち着くのか、その成否となるべきその鍵は彼の覚悟如何に掛かっているといっていいのかも知れない。
「その夫人は、ぼくにとってその何ていったらいいのか、いわゆる癒やされる相手だったのです。女性と言うよりは母親に近かったのかも知れません。もちろん、ぼくにはちゃんとした母親はおりました。もっともその母親は、僕に対してはなぜか冷淡でした。つまりぼくの母親は兄を非常に溺愛していたのです。それに引き替え、ぼくはまるで余計者扱いだったんです。もちろん、親からすれば決してそのような差別はしていないと言うでしょうが、子供にとっては、そういう微妙な感情の行き違いは敏感に感じ取るわけです。たとえそれが思い過ごしだったとしてもです。そういう感情が湧き上がったことだけは確かでしたから。まあ、そういうわけで、大人になってもぼくの心のどこかで、母親の愛情を求めていたのかも知れません。もちろん、それが原因で不倫したわけではありませんがね。実を言いますと、そのころのぼくは会社での仕事が思うようにいってませんでした。精神的にひどく追い詰められていましてね、何かに逃避したいという思いがきっとあったのかも知れません。そうです、彼女はそういった精神状態のぼくにとって、実に打って付けの相手だったのです。なぜか知りませんが恐ろしいくらい気が合ったのです。不倫という言葉から受けるイメージは、人によって違うと思いますが、ぼくはどちらかと言うと、あまり深刻なものとは考えていませんでした。正直に言いますと、ぼくはそれほど真剣に彼女を思っていたというわけではないのです。ぼくはただ彼女といると非常に心地よかったというだけで、愛情というような特別な感情などなかったと言えるかも知れません。もちろんぼくは女性として彼女を尊敬していました。彼女はその世界の成功者として業界での信頼も非常にありましたし、人間としても立派なものを持っていると感じていました。彼女が不倫していたとう事実からすれば、これは矛盾した言い方かも知れませんが、人間にはどうしても表があれば裏があるというわけで、そこが生きる上で難しいところではありますが、社会的に認められている人間の裏側で、また別の人間が生きたがっていたというわけです。彼女は女として、正直に自分の人生を謳歌していたのかも知れません。それは彼女の生き甲斐であり情熱でもあったのです。彼女の夫はその当時すでに古希を過ぎていましたが、なぜか別れようとはしなかったのです。それには色々と事情があり、つまり彼女の成功はすべてこの夫の力があってのことだったからです。夫と別れ、ぼくと結婚して夫の恨みを買うよりも、ただ愛人としてぼくと付き合っていた方がずっとよかったのです。まあ、ぼく達の間には、そういう割り切った思惑というものが働いていたというわけです。しかし、そういう打算も、人間にはあまり通用しないことが後になって分かったのです。それに、二人の関係が何の波乱もなく続けていけたというのも、夫の影響が大いにあったからです。この老紳士は自分の妻をこの世の誰よりも愛していたのです。もちろん不倫のことも分かっていましたが、わざと見逃していたのです。すべては妻のためなのです。これを老人の打算と見るかそれとも人には理解できぬ愛情と見るかは難しいところですが、おそらくどちらも考えられる話しかも知れません。男女の関係はなかなか理屈では割り切れませんし、それでいて当人同士には通じていたものがあったと思えるからです。一般論は無意味です。それにこういう話しに余計な理屈を挟むと、ろくなことになりませんからね。黙って見守ることが一番いい方法だったのです。そういう夫に愛されていた彼女は、当時ようやく四十になったばかりでした。歳よりはずっと若く見え、本人もそのことを自覚していました。しかし、彼女だって毎日鏡を見る度に、自分の衰えを感じないではいなかったでしょう。四十という年齢が否応なしに彼女を襲うからです。どんなに化粧でごまかしても自然は残酷です。それを受け入れられるかどうかは本人次第ですが、受け入れられなくて強引に形を変える人もいますが、それは人それぞれです。彼女はどうやらそこまではいきませんでしたが、それでも日々の衰えに何とか抗おうと必死で努力をされていました。何歳になっても自分の美を守って行きたいという欲求は、女本来のものなのでしょうが、こういう涙ぐましい努力に対して、ぼくはまったく興味を示さず冷淡にあしらっていました。というのもそこまでしなくとも彼女の姿形は歳相応に十分美しという思いがあったからです。いったい彼女はなぜ肉体の衰えを、そんなに恐れているのだろうかと時々不思議に思ったくらいです。確かに彼女は恐れているようでした。まるで美の衰えが自分の価値を下げてしまうような、そんな気にでもなっていたのでしょうか。ところが、どうもそういうことではなかったのです。その背景にあったのが、どうやらぼくという存在だったらしいのです。というのも、彼女の恐れの裏には、ぼくを失うのではないかという恐怖があったのではないかと思われるからです。これは何も自惚れから言っているわけではありません。誰しもそういう気持ちに襲われることはあるもので、たとえその対象がぼくでなくても、やはり起こったと思われるからです。そして、その恐怖こそ、彼女の嫉妬を生み出す引き金になったと考えてもおかしくないのです。それに、そういう嫉妬はどんなに理性的な女性でも、一旦取り憑かれればなかなか押さえ込むことは難しいですからね。いずれ破綻を来すことは時間の問題だったのです。もっとも、その嫉妬は禮子さんに向けられたものではなく、また別の女性に向けられたものだったのです。しかし、今思えば夫人は禮子さんの事件があってから、ぼくに対して前よりも非常に疑うような眼差しを向けるようになったのを憶えています。それまではまったくぼくを自由にしてくれていたのですがね。それ以来、ぼくの行動は常に彼女の目から逃れられなくなり、ひどいことに彼女はぼくを試すために、わざと罠をしかけたりしたのです。そのうちぼくも彼女のやり方が、どうも変だと思うようになりましたが、もはや彼女の狂気は歯止めが利かなくなっていたのです。女の嫉妬というものは、男のそれよりずっと激しいものだとその時思いました。彼女はすっかり神経を病んでしまい、今でもあまりはかばかしくない状態ですが、夫にとっては却ってよかったのかも知れません。愛する女性が自分の手元に帰ってきたからです。これがもとでぼくとの関係も世間にばれてしまい、その時点で二人の関係は終わってしまいました。彼女にとってこれは一種の悲劇だと言っていいのかも知れません。でも、ぼくにとってはどうもそうではなさそうです。このことは今もってはっきりとした答えは出ていません。こうした終わり方は、ぼくとしても何か後味が悪くてね、というのも、ただ自分の落ち度がどこにあるのかそれがまったく分からないからです。彼女の嫉妬は果たしてぼくの責任なのでしょうか?確かに、なにがしかの原因はあったのでしょうが、それでもぼくは彼女に対してどんな罪を犯したのか今もって分からないのです」
彼はこうして自分の不始末を語り終わると彼女の様子をそっと窺うのだった。その表情から何かしらの反応を読み取ろうとしたのだが、そこに見たのはどこまでも落ち着いて感情的に乱れた様子など一つも見て取ることができない完璧に抑制された姿であった。かといって、それが冷たい鎧でがっしりと守られているといったものではなく、どこまでも静かにじっと熟考しているといったもので、まるで深い川は静かに流れると言った諺そのままの姿に見えるのだった。そういう彼女がこの時どう思ったかを素直に表現すれば、人間の実情とはまさにこのようなものであるかと感じたことであった。彼女はこの不倫話からまず彼という人間の根幹となるべきその性格を素早く読み取ってしまったのである。そこに彼の苦しみがあり、すべての悲劇があると感じたからだ。それは如何にも彼女らしい核心を突く結論であり、それが彼を苦しませている一番の原因だと思ったからだ。そういう意味でもこの不倫話は彼女にとってなかなか有意義な経験になったと言えるのかも知れない。彼女はさっそくこう言って彼を驚かすのだった。
「あなたがどんな罪を犯したのかそれは私にもよく分かりません。ただ、あなたはご自分に嘘が付けないお人なのでしょう。だから、こういう話しも笑って済ますことが出来ないのです。あなたの感受性はそういう意味であなたご自身を苦しめていると言っていいのかも知れません」
彼はこの指摘にすっかりびっくりしてしまったのだ。というのは、まったく同じことを前に言われたのを思い出したからだ。これはいったいどうしたことだ。なぜ彼女までがあの田舎のご老人と同じことを言ったのだろうと不思議がるのだった。
「どうやら、ぼくの不倫話もあなたのご不興を買わないですんだみたいですね。それだけでもぼくには奇跡のように思えるのです。それより、もっと驚いたのはあなたがおっしゃった一言です。やはり、あなたにもそう見えるのですね。ぼくという人間が……」
「えっ、どういうことですか?私、何か変なことでも言ったのでしょうか?」
「いえ、変どころか不思議な巡り合わせを感じて驚いているのです。あなたのご指摘は、おそらくぼくの弱点を見事に言い当てているように思われます。いや、そんなことより、こういう話しをあなたにしたということが、そもそも間違いだったのかも知れません。というのも、これはもちろんぼくの勝手な妄想ですが、この告白がぼくたち二人の間に何か不吉なものを呼び起こしでもしたら、それこそ二人の関係をこじらせる原因になりかねないからです。それに、いくら自分が蒔いた種とはいえ、あなたにこうして自分の不倫を弁明しなければならないなんて、まったく男として情けなく思えて仕方がありません。まるで夢のような変な世界を見ているようで、いやはや、我ながら自分の人生はどこまでいっても喜劇的に出来ているのだと嘆息せざるを得ません」




