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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 ここでちょっと話題を変えて、橘氏の選挙のことについて少しばかり触れてみたいと思う。というのも、いよいよ市長選挙も近づいて来たこともあり、橘氏周辺も何やら慌ただしくなってきて、その準備のためにかなり忙しくなり始めていたからである。橘氏は家に帰るのも面倒らしく、しばらくは事務所に寝泊まりすることにしたので、自然家族のことも頭から離れて行き、もはや彼の興味の中心は選挙一本に絞られていたみたいである。禮子のことすら頭からすっかり消えていたくらいだから、よほど真剣に自分の運命と対峙していたようである。ちなみに彼女との結婚は選挙が終わってからする予定のようだ。とはいえもし落選したらどうなるのか、実際にそれも考えて置くべき事柄でもあったのだが、しかしどうやら彼の念頭には落選という二文字はまったくないようだった。ところで、本当に彼は自分が市長に当選するという自信があったのだろうか。事前の予想によると決してそう悪いものではなかったようだ。詳しいことは分からないが、彼を支持する人達もなにやら非常に盛り上がっていて、これなら行けるかも知れないと考えていたみたいである。とはいえ、これだけはなかなか予想通りに行くというわけでもないわけで、というのも、この選挙そのものがいくら民主的な方法だとはいえ、そこは人間のやることだから色んな欲望や、権力を巡ってのおぞましい争いなどが自然と湧き上がり、そこに金の問題などが絡み合って選挙違反すれすれの、あくどいやり口で当選する輩も出て来たりして、いったいどこが民主的で公正なのか、よく分からなくなるようなところがあるからだ。こうしたことを考えると何事も完璧な制度など、残念ながら人間には作ることができないという結論にどうしても達するのだが、それでも今のところ、これ以外に平等に一人一人の意思を示せる制度はないと思われるのでこれに従うのだが、それでもこの選挙というものは、考えてみれば実に危なっかしい賭けのような制度だと言ってもいいようである。投票する人間が今回どれほどいるのか知らないが、ある程度の票は自然入るにしても、いったいどれくらい取れるのかまったく予想がつかないのだ。選ばれる側からすればこれほど怖いものはない。あとは投票する人の考えに賭けるしかないのだから。ある意味運を天に任せているのだ。とはいえ、神ならぬわれわれ選挙民のうち、いったいどれだけの人が橘氏本人の人間性を知っているというのだかろうか。恐らくほんの一握りの人達しか知らないことだけは確かなのだ。あとはまったく直接的には何の関係もない人達ばかりである。それなら、そういういわゆる無党派層はどんな基準で彼を選ぶのであろうか。彼が言った公約によって選ぶのだろうか。しかし公約などというものは実に抽象的で曖昧なものだ。それに公約を口にする彼をどこまで信用できると言うのか。つまり、われわれ選挙民も、公約を口にする海の物とも山の物とも分からぬ彼の人間性に賭けざるを得ないという、こちらも同様、運を天に任せているわけである。もちろん、橘氏を表立って支持する人間もいるにはいるが、それはただ彼が当選すれば、なにがしかの利得に与れるかも知れないという思惑から応援しているのである。もっとも、彼に期待していることは何も彼の人間性そのものではないだろう。たとえ彼が聖人君子であっても、彼の政治力が駄目なら政治家として失格なのだ。その点、彼は決して聖人でも君子でもないことだけは確かなのだが、果たして市長としての政治的な力量がどれほどあるのか、それはまったくの未知数だ。本人は父親の二の舞を演じることはないとは言っているのだが、どこまで期待できるのだろう。しかも相手は現職の三期目を狙う老獪な男で、橘氏もよく知るリベラル派の強敵であることだけは事実で、彼のような保守派にとっては何としてでも三期目だけは阻止したい考えがあったので、彼としてもそこは生ぬるい方法では、その牙城を攻め落とせないと覚悟していたので、かなりえげつないこともやっていたようである。もちろん、彼も自分の人生を賭けて、何としてでも当選しなければならないと思っていたようだ。そういうわけで、選挙期間中は休むいとまも惜しんで、選挙カーであちこちと走り回り、時には車を離れ一人一人に握手を求めることもやるのだった。いったいそんなことに、どれほどの効果があるのかと人は思われるかも知れないが、なかなかどうしてかなりの効果がやはりあるのである。たとえそれが一つのパフォーマンスだとしても、人から握手を求められそれに応じれば、たとえそれが錯覚に基づくものだとしても、人によってはなにがしかの非常に良好な行動に繋がる意思の疎通みたいなものが生まれるのである。もちろん、彼もそういうことは市議会選挙で経験済みだったので、かなりその演技力にも磨きがかかっていて、その真剣さが相手に不思議と伝わるのだった。そうした今までにない手応えを感じながら無事に選挙活動も終わり、あとは投票を待つばかりといったその時期に、少しばかり気になる情報が橘氏の耳に飛び込んできたのである。もっともその情報は選挙妨害に認定したいくらいの質の悪い嫌がらせだった。しかもその嫌がらせは写真付きのSNSで地元の隅々まで拡散されてしまったのである。おまけに「街中で見つけたある魅力的なツーショット」という題で「昼日中若い綺麗な女性と連れだって歩くこの粋な男の人はいったい誰?どう見ても親子には見えないが。意味ありげだね。まったく羨ましい」といったふざけた文章付きで紹介されていたのだ。これはこの町に住む人ならその男が誰であるかすぐ分かるのだ。大々的に選挙期間中自分の顔を売り歩いていたのだから、分からないほうが不思議なくらいである。こういうあたかも偶然を装った小賢しい嫌がらせは、まったく許しがたい行為ではあるがそれにしても橘氏のほうにも落ち度がなかったとは言えないのではなかろうか。こういう写真を撮られること自体が、脇の甘さをさらけ出していた証拠でもあるわけだから。ところで、その写真の女は誰あろう禮子嬢で、羨ましがられた粋な男はもちろん橘氏本人である。しかし、よく考えて見ると、この写真がいったいどういう目的で世間に拡散されたのかを考えて見ると、こういう写真に隠された裏の事情がよく見えて来るわけである。第一この写真がいつ撮られたのか、というのも選挙期間中、禮子はまったく橘氏に近づくことすらなかったからだ。ということは恐らくそのずっと以前に撮られたものと考えて間違いないだろう。それにしても、一番卑劣なのはこの写真が拡散された時期が、なんと投票日の前日だったことだ。これはどう考えても誰かが意図的に、その日を狙って流したとしか思えないのである。こうした何かしらのダメージを狙ってなされたと、ここでははっきりと断定して考えてみると、このふざけた行為が、果たしてどのような影響を投票にもたらすことになるのか、それを思うと橘氏陣営としては、ただこうした嫌がらせが、由々しき事態に発展しないことだけを強く念じるしかなかったのだ。

 柏木と紫音は、約束通り二、三日の予定で彼の別荘にすでに出掛けていたが、選挙期間中のことでもあり、娘も父親の選挙のことはやはり気がかりではあったものの、橘氏もこの時ばかりは、娘の将来を何よりも一番に考えていたので、自分のことは心配するなと言って娘を送り出したのだ。彼も娘の結婚については色んな紆余曲折を経て何とかここまで辿り着いたわけだが、しかし彼の今の思いからすると、この先すんなりと彼のもとに収まるかどうか一抹の不安が横切るのだった。というのも、そもそもが親としての邪な考えから始まった娘の結婚騒動は、なかなか親の思い通りに行かないことが彼の頭にもはっきりしてきたからだ。もちろん彼は今度の選挙のことは自分の人生の集大成と位置づけて真剣に取り組んでいたが、それ以上に娘のことがここに来て非常に気がかりになってきたからである。その原因となったのは柏木という人間のあり方だった。彼は今まで柏木の性格にはそれほど拘ることはなかったのだが、いやむしろ彼の人間性から目を背けてきたといってもいいくらいなのだが、しかし、それがここに来て急に彼の一連の行動に人間として見逃しがたい不安要因を感じてしまったからである。娘が倒れた時もなぜ彼は一緒について来ずに、しばらくして血相を変えてやって来たのか。それにまた、あの時なぜ黙ったまま肝心なプロポーズをしなかったのか、橘氏はそのことをずっと不審に思っていたのである。彼はあの時何か躊躇していたようだが、それがいったい何のための躊躇なのか。そういうことを考えだすとまったく切りがないのだが、彼としてはまだこの時点ではそれは単なる自分の思い過ごしだとして、そういう疑惑の数々と何とか折り合いを付けようとしていたのだ。そういうわけで、今回の柏木の提案は彼の責任において何かしらの結論を出してくれるのだろうと期待するのだった。

 柏木の別荘というのは、彼の父親がもう随分と前に建てたもので、避暑地としても有名なところにあり、近くに湖もあって紅葉の季節には全山色鮮やかに染まる風光明媚な景勝地であった。三階建てのかなり大きな建物は、あたりの風景を台無しにすることもなく溶け込んでいて、自然との折り合いもそれなりに付いているようだった。彼も子供の頃はよく夏休みに家族と一緒に遊びに来ていたが、今ではすっかり足が遠のいて、まったく寄り付きもしなかったのだ。それでも兄の卓は時々一人でこの別荘に来ていたようなのだが、今も来ているかどうかは知らない。その別荘から二十メートルほど離れた所にまた趣の違った建物が一軒あったが、そこに人の気配を感じさせるものは一つも見当たらなかった。おそらく夏も過ぎていたこともあるのかも知れない。湖には小さな桟橋もありボートが二、三係留されていた。二人はその日、彼の車で二時間かけてやって来たのであるが、その間これといって話題になる話しで盛り上がるわけでもなく、何となくお互い黙って音楽を聴いたり他愛のない話しに興じたりして何とか時間を持たせていたようである。彼はそれほど人を退屈させるような不粋な男でもなかったのだが、なぜかその時は自然と考え込んでしまい彼女との会話もしばしば途切れてしまうことが多かったのだ。しかしそれでも決して車の中が嫌な雰囲気にならないように、そこは男の礼儀として彼女に余計な気を遣わせないようにうまく対処していたようだ。

 さて、別荘に着いたものの、いったいどういう趣向でこれからの三日を過ごすのか実に興味があるのだが、彼はそこは抜かりなく事前に人を送って部屋の設えや、三度三度の賄いまですっかり準備してあったのだ。彼の知り合いの腕のいいベテランの料理人を一人雇って、贅沢な料理に毎回飽きないよう工夫がされていたのである。こうした点から考えても、彼の今回の決意に並々ならぬものを感じられるのだった。まだすっかり夏が過ぎ去ったというわけでもないが、それでいて高原の清々しい雰囲気が二人の関係にいい影響をもたらしているようにも思われるのである。彼女もすっかりこの環境が気に入って、なるほどこういう雰囲気の中で、これからの二人の関係を築いて行こうと誓いを立てることはまったく相応しいことだし、ここから二人の関係が新たに始まるのだと思うと深い喜びを感じるのだった。もっともそういう前向きな肯定的な思いとは裏腹に、この時の彼女は、彼が何のために自分をここに連れてきたのかは彼女としても容易に察しは付いていたのだが、いっこうにそういうことになっていないことに気がついて、いったいどういうことなんだろうと彼の気持ちを計り兼ねていたのだ。そういうわけで、こうして舞台だけはしっかりと整っていたのに、肝心の彼の気分がどうにもこの環境に馴染んでいないらしく、神経質な俳優のように今ひとつ気分が乗らないでいたのだ。それがなぜなのか彼にもよく分かっていないらしく、彼女をここに連れてきたことの意味は自分でもはっきりと自覚してはいたのだが、それでもそういうことになかなか自分の気持ちが盛り上がって行かないことに些か呆れてはいたのだ。しかし、彼としてもこれでは彼女をここに連れてきた意味がなく、きっと彼女も呆れているのではないかと思うものの、どう切り出していいのかさえ分からなくなるのだった。

「天気もいいので、これから湖のほうにでも行ってみませんか?」紫音は仕方なく自分のほうから彼を誘ってみるのだった。

「ああ、それはいいかも知れませんね。それにしてもここらあたりは昔とちっとも変わってないなあ。子供のころは夏休みになるとここに来て一夏を過ごしていたんです。でもぼくはここで自然の不気味さや恐ろしさを嫌と言うほど知ってしまったんです」

「まあ、それはいったいどうしてですの?」紫音も何とかして二人の関係を深めたいと思っていたので、こうした彼の話しにもすかさず興味を示すのだった。

「ぼくがまだ小学四年生だったころ、一人で虫取りに夢中になって森の中を駆け回っているうちに、迷子になってしまったんです。だんだん薄暗くなるなか、いったいどっちに行けば家に帰れるのかまったく分からなくなりましてね。あのときは怖かったなあ。暗闇のなかをさ迷うのは危険だと思い、じっとしてましたがとてもじっとなどしていられません。このまま死ぬのかと思ってぼくは大声で叫びましたが何の反応もありません。あたりは真っ暗で物音一つしませんでした。そのうちどっかから変なうなり声が聞こえてくるじゃありませんか。もしや熊じゃないかと思って慌てて駆け出したとたん、何かにぶつかってそのまま気を失って倒れてしまったんです。目が覚めたときは家のベットの上でした。自分は悪夢を見たんだと思いほっとしましたが、どうもそうではなかったのです。なぜなら、頭に包帯が巻かれひどく痛んだからです。後で聞いた話しですと、どうやらぼくは朝方までそこで気を失っていたようです。もちろん家族は大騒ぎだったらしく、警察も出て捜索したようです。でもなかなか見つからずようやく夜も明けたころ、ぼくが倒れているところを発見して連れ帰ったらしいのです。あと湖で一度溺れかけたこともあります。そんなこんなでそれ以来、この自然がぼくに向かって何か恐ろしい牙を剝いたようで、とても怖い印象を持ってしまったのです。なぜかそういう恐怖は大人になってもなかなか抜けません」

「私にも、似たような経験がありますわ。もっともそれは私の心に起こったある不思議な体験だったのです。私が中学生だったころ家族とこうした高原に旅行で来たときでした。私は危うく星になりかけたのです」

「星にですって?」柏木は驚いてこう叫んだ。

「ええ、ここも夜になればさぞかし綺麗な星空が見られそうですが、その時の私の精神状態がいったいどうなっていたのかよく分かりませんが、その時に見た満天の星々になぜか魂が震えてしまったのです。おかしいと思われるかも知れませんが、そういう気持ちに一気に襲われ自分があの星と同じ物で出来ているのではないかという空想に心が溢れかえってしまったのです。あの星々の神秘がいきなり私の心と同化してしまい、この宇宙と一体化したような感動で私の魂は震えたのです。ああこのままでは自分はあの星と一緒になってしまい、きっとこの世界からどこかへ連れ去られてしまうと思ったとたん言いようのない恐怖に襲われ、私は気を失ってその場に倒れてしまいました。目が覚めたとき私もあなたと同じように家のベッドの上で寝ていたんです」

「ああ、それはきっと一種の神秘体験ではないですか?思春期特有の感受性が、あなたをどこかへ連れ去ろうとしたのかも知れません」

「本当にそう思われます?この話しを家族にしたら思いっきり笑われました。でも、あなたはそうやって真面目に考えて下さるのですね。確かにあなたにもきっと同じような感受性があるのかも知れません」

「いや、ぼくにはそんなものはありませんよ。どちらかというと何事も合理的に割り切って生きているほうですから。ところで、紫音さんにお聞きしたいことがあるのですが、いきなり変なことを聞くようで申し訳ありませんが、それはですね、あの禮子という女性についてです。あの方がなぜお父様とご結婚されることになったのか、そのわけを何かご存じないかと思いましてね。いや、だって、もしそうなると随分とややこしいことになりやしないかと心配しましてね」

 この質問は意外なものではあったが、それでも紫音にとってそのことはとても気がかりな問題でもあったので、彼女としてもこの際このことで、彼とじっくり話し合いたいという気になるのだった。

「私もそのことであなたにお聞きしたいことがあるのです。でもその前にあなたのご質問ですが、正直言って私にもはっきりとは分からないのです。何分父は誰にも相談しないで何事も決めるほうでして、この件も直前までまったく聞かされもしなかったのです。ご期待に添えず申し訳ありませんが、でも、もしかしたらあなたがその答えをお持ちではないかと私は思っているのですが」

「えっ、それはまたどういうことでしょうか?」

「私も禮子さんのことは色々と考えていたのです。だって、父があなたと不倫していた女性と結婚するなんてとても信じられなかったからです」

「えっ、どうしてまたそんなふうにお考えになったんです?おそらくそれはあなたの勘違いではないかと思いますが。しかし、そう考えるのも無理ないのかも知れませんね。だって、恐らくですが、あの時にそういう誤解をあなたに与えてしまったかも知れないからです。でも、もちろんあなたが思うような関係ではないのです。それじゃ、まずその誤解から解く必要があるようですね」




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