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「華音さん、私はご覧のような人間です。あなただって私を一目見てどういう女か恐らく察したのではありませんか?正直に言ってしまいますが、私はもともと水商売の女でした。だからどうしてもそういう雰囲気を人に与えてしまうようです。もっとも自分では何も特異な人生を歩いて来たとはちっとも思っていませんけどね。私もあなたと同じ普通の女です。何も変わったところなど少しもありませんのよ。ただ世間は決してそういう目で見ませんからね。そこに大きな誤解が生まれます。あなたも今自分たちが誤解されるとおっしゃいましたが同じことだと思います。生意気を言うようですが、生きるということはそういう誤解を与えずに済ますわけにはいかないようです。どうでしょうか、華音さん。ここはお父さまを許してやってくれませんか。お父さまは何もあなた達をそういう目で見たわけではないのです。私をかばってあんなことを言ってしまったのです。ですから、あの言葉は私を思うあまりつい口を衝いてしまっただけなんです」
「あなたのおっしゃることはもっともです。ねえ、華音。どうなの、こうまでおっしゃってくれているのです。あなたも少しは考え直せませんか?」とうとう紫音まで口を出して何とか収拾を図ろうとするのだった。
「じゃあ、好きにすれば」華音は少しふて腐れた表情で、というのも決して納得などしていなかったからで、そう言ったなりそっぽを向いて黙ってしまった。彼女はこの時すでにこの禮子という女が、この先自分にとってどういう存在になるか十分すぎるくらい理解したのだ。それにしても、かなり気まずい雰囲気になりつつあることだけは事実で、ここに至ってこの部屋にいるすべての人を巻き込んでしまい、父親が一番心配していた当の華音がさっそくやらかしてしまったことで、いったいこのまま何事もなく終わるかどうかは、まったく予断を許さない状況になってしまったことだけは確かなようだ。とはいえ、何といってもこの騒動の中心に居るのは禮子その人であることはどうやら誰もが感じていたらしく、これから何かが起こるとしたら彼女がそのすべての原因になると思っていたようだ。そんな中で紫音だけは、他の人と違ってどこまでも冷静に、この禮子という女性に関わっていきたいと思っていたようだ。それはどういう理由からかは分からないが、自分にとって彼女はあの時からそうなるべき相手だったのだという考えが忽然と湧いてきたからである。しかしこの時点ではまだ彼女の勘違いは解消されていなかったので、二人の関係が実際はどうなのかまったく理解していなかったということだけは承知しておいてもらわなくてはならないのだ。しかし、それを差し引いても彼女の直感はこの二人の関係のもっと深いところを見ていたのかも知れないのである。
「ああ、どうかみなさん、少し落ち着きましょう。そうしないとこのままでは収拾がつかなくなるばかりだと思うのです。もちろん私も反省すべきところは素直に反省します。娘の言わんとするところは十分理解できるものだし、配慮が足らなかったことも十分承知しております。しかし、このままではどうにも落ち着きませんしいい関係も生まれません。われわれは子供ではないのです。いたずらに感情的になってああだこうだ言っても物事は解決などしないと思うのです。いつまでも自分の思いに拘るのではなく、もっとお互いに理解しようとする姿勢を持つべきだと思うのですが、いかがなものでしょう」父親は先程の反省から今回は何とか家族をいい方向に持ってい行きたい一心で、かなり言葉を選んで恐る恐るこう言うのだった。
「ほんとうにその通りね。だから華音もそういつまでも膨れていないで、みんなとおしゃべりしましょうよ」紫音もこう言って父親の意見に同調して妹のご機嫌を取るのだった。
「べつに膨れてなんかいないけど、それなら一つだけ禮子さんにお聞きしたいことがあるのですが、いいかしら。これは別に変な意味ではなく、まじめな気持ちから聞くのですからどうか誤解しないで下さいね。あなたはどうして父のような人と結婚なんかされるんですか?」華音はその表情から確かにまじめに聞いているように見えるのだが、どうもその言葉の裏には意地の悪い下心があるようだった。そこは禮子もすっかり見抜いたようで、たとえ彼女に悪意がなかったとしても、やはりその意図するところがあまりにも見え透いていたので正直カチンと来るのだった。まあ女同士の口喧嘩は、はたで見ていてもあまり気持ちのいいものではないが、先ほど心配した通りこれを切っ掛けに二人の間に再び持ち上がった腹の探り合いは、一見どこまでも穏やかそうな雰囲気を醸し出しながらも、お互いどうやら戦闘態勢は十分なようでどちらも気の強い者同士、先が思いやられるのだった。しかし、禮子はどこまでも誠実に接していこうと思っていたので、動じることもなくいかにも落ち着いた態度でこう答えるのだった。
「ああ、そのことなら、ここに来る途中で話題にもなったのよ。ねえ、そうでしたわね」彼女はこう言って、部屋の隅で一人ポツンとソファーに座って一部始終を黙って聞いていた貴臣を見るのだった。するとみんな一斉に彼のほうを向いたのだ。突然みんなの注目を浴びたので、いささか面食らってしまったが、ここを逃してはいけないと思い「ええ、その通りです。家に帰る途中で禮子さんと偶然出会ったのです。で、道すがら色々とお話しして、その中でそのようなことも話したと思います。でも、ぼくはすぐにそんなことは詰まらないことだと思いました。というのも禮子さんが誰と結婚しようとそれはその人の自由だからです。他人が何を言おうがその人は自分の人生を生きるしかないのです。だからそんなことをわざわざ聞くのはあまり感心しませんね。そんなことより禮子さんの気持ちをもっと尊重すべきだとぼくは思いますけどね」貴臣はこう言って、約束通りさっそく彼女の肩を持つのだった。
「へえ、そうなの。それにしても何だか知りませんが、お前もずいぶんな入れ込みようね。でもね、そういうことはとても大事なことなのよ。あんたは男だから別に気にもならないだろうけど、女はねそうもいかないの」
貴臣はそれを聞くと『それみろやっぱり始まりやがった』と眉を顰めながら、きっと行くところまで行かなきゃこの女は承知しないだろうと思うのだった。
「華音さん。あなたもそれを聞く以上、それなりのことを考えていたのではありませんか?それに、果たしてそのことが女にとってそんなに大事なことなんでしょうか?それは恐らくあなたにとって大事なことなのね。そう考えたほうがいいかも知れないわ。だって、こういうことはなるべく立場をはっきりさせたほうが分かりやすいですからね。それにあなたをよく理解するためにもそのほうがいいの。だからこれからは遠慮などしないで、お互いの立場を弁えながら言いたいことは言うべきだと思うの」
「ええ、けっこうですわ。あなたがそうまでおっしゃって下さるのなら、私もこれから遠慮などしません。それじゃ、言わせてもらいます。私はあなたを最初に見たときこう思ったのです。この人はおそらく父のことなど少しも愛してなどいないんだわって。それにあなたが財産目当てで結婚されるのかどうかは知りません。それはあなたの心の中の問題ですから。あなたがそう明言しないかぎり他人が何を言っても無駄だと思いますの」
「でも、あなたのおっしゃることは、それこそ私の心の中の問題ではないでしょうか。だって、私がそう明言しないかぎり彼を愛しているかどうか、あなたは知ることができないのですから。要するにそれはあなたの勝手な妄想ですと言って済ますことだって出来るのです」
「ええ、確かにそうですわ。もちろんこれは私の妄想です。そう正直に明言しておきます。そのうえで、あなたにもう一つだけお聞きしたいことがあります。あなたも父と結婚すると思った以上、私たちのことも考えたと思いますの。恐らく父から私たちのことはお聞きになったんじゃないかしら。父のことですから、どうせ悪口ばかり聞かされたでしょう。あなたも間近で私を見てまったくその通りだと思ってさぞや呆れているでしょうね。そりゃそうよね。初対面でこんなやり取りをしているんですもの。誰だって先が思いやられると思うに違いないわ。そこで、お聞きしたいんですが、こんな娘と一緒に暮らしていきたいと思いますか?」
確かに、これではあんまりだと誰でも思われるだろう。でも、この時の禮子には、こうしたどこまでも挑戦的であきれるほどあけっぴろげな態度がひどく気に入ったのだ。彼女も最初はどこか探り探り華音の性格を見極めようとしていたのだが、これではあまりの分かりやすさに、どこか拍子抜けしてしまったくらいである。まあ、若いということもあったのかも知れないが、禮子もその鼻っ柱の強さでは負けてはいなかったが、彼女はそれに輪を掛けたくらい強かったのだ。しかし、その性格はあまりにも純粋で真っ正直なものであったことが彼女にはよく分かったのである。
「華音さん。正直に言います。とても一緒になど暮らせませんね。だってあなたがそういう態度で私に接して来る限りとても無理だと思うからです。でもね、よく考えてほしいのです。女が結婚するということがどういうことなのか。あなたは考えたことがありますか?結婚する理由は人それぞれかも知れませんが、結婚というものにはどこか恐ろしいものがあるとは思いませんか?結婚は喜びですか?それとも不安そのものですか?女はいったい何を望んで結婚などするのでしょう?そこに何を願っているのでしょうか?平凡ながらも幸せな家庭ですか?しかし、そんな家庭など恐らくどこにも存在していないでしょうね。そんなものは幻想です。私も商売柄色んな男の人を見てきましたが、平凡な家庭の人など一人もいませんでしたわ。どこかしら空虚で問題のあるいびつな家庭ばかりでした。あなたも将来結婚したいんでしょう?それなら気の強いオレ様タイプの男だけは止めときなさい。大人しい物分かりのいい男があなたにはピッタリだと思うわ。要はこうなの。あなたのような気の強い、まっすぐな性格の女は、一度気が合えばどこまでも仲良くやって行けそうに思うの。ですから、結論は、お互い自分の欠点をよく知ることではないでしょうか。そうすれば、これから一緒に仲良く生活していけると思います」
「まったく、ご親切にも私の結婚相手までご心配いただけるなんて思ってもいませんでした。いや、確かにあなたのおっしゃる通り私が変わらなければ一緒になど暮らせませんね。私もそう思います。でも、それが出来なかったらどうします?」
「それは、あなたご自身の問題ですとしかお答えのしようがありませんわ」
「華音、もういい加減にしなさい。これでお前も納得しただろう。禮子さんは、お前の質問にすべて答えてくれたのだ。それだけでも彼女の誠実さが分かっただろう」
「ええ、よく分かりました。でも、この方はお父さんとはうまくいかないと思います。だって、死んだお母さんとはあまりにも違うタイプなんですもの」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。お前にお父さんの何が分かるというのだ?」
「まったく、正直なお嬢さんだこと。確かに相性というものは大事かも知れませんが、でも、男女の相性など最初から気にしていたら、それこそその先に待っているのは悲惨な現実だけですよ。だって、一週間やそこらでお互いの相性が分かるはずもないからです。それに人間はいかにつまらないことに訳もなく騙されるか、それはもう信じられないくらいですからね」
人は自分が何を言っているのか本当のところ分からないときがある。どうしてあんなことを言ったんだろうと後になって不思議がることもあるくらいで、彼女もこの時そういう心理状態だったらしい。というのも、この時の彼女はあることに心を奪われて自分の発言に責任のある態度などとても取れない状態だったからだ。彼女のようなどちらかと言えば意識的な女は、自分の行為というものにそれなりに注意をしているものだが、しかし、すべてのことに注意が行くわけではないのはもちろんで、どこかしらに盲点のような、まったく彼女の意識には入ってこない事柄というものがあったのだ。それが華音がいみじくも言った「自分の父親のことなど少しも愛してはいない」という言葉だった。このことは、なぜか今までほとんど彼女の意識に上ったことがなかったのだ。だからいきなりそう言われてハッとしたわけである。しかし、ある意味それは当然だったかも知れない。なぜなら、これこそ彼女が一番考えたくないことであったからだ。いわば一番指摘されたくないものでありまさしく痛いところをうまく突いたことによって彼女をすっかり混乱させてしまうことになったのである。
ところが、その一方で、こうした禮子の一連のやり取りは、ある意味周りの人たちに意外なほど影響力を与えていたのだ。つまり、彼女の一見派手で野放図な印象を物の見事にひっくり返してしまったからである。彼女の話の内容やその態度に、その容貌からはとても想像できない誠実でどこまでも沈着な人柄が読み取れたからだ。それにしても人の外見的な印象というものはいかに当てにならないか、いわばその人の人間性など見た目からは決して想像できないものだということを証明してしまったのである。少なくともここに居る人たちはすっかり仰天してしまったのだ。とくに柏木は、彼が思っていた彼女のイメージがすっかり覆ってしまうくらいの衝撃を受けたのである。もちろん、だからといってこれを切っ掛けに、急激にその印象が変わることはないだろうと思われたのだが、どうもそうでもないらしかった。このへんがどうも曖昧ではっきりとした態度がなかなか取れない性格なので、本当のところはどうなのか何とも言えなかったのだ。そもそも禮子との最初の出会いからして、かなり異常なものだったことを思えば、彼としてもあまりいい印象を持てなかったと考えてもあながち間違いではないのかも知れない。それは二人にとってある意味不幸な出会いとも言えなくもなかったのだ。もし二人がごく普通に出会っていたら、それはそれでまた違った展開を辿っていたかも知れないのである。しかし、それこそ運命のなせる業と言えなくもないのだ。とはいえ、そういう不可解な遭遇は人生ではよくあることだが、そういう巡り合わせが持っている本当の意味など、もとより分かるはずもないのである。それは紫音とても同じことで、彼女と初めて出会った時受けたあの印象は、脳裏に焼き付いて今でも消えないほど衝撃的だったが、それ以上に今回の彼女の一連の対応を見ていた彼女としては、とても自分など太刀打ち出来ないくらいの何かを感じてしまったのだ。これは女が女に持つ一種の恐怖のようなもので、それは間違いようのない本能から来る実感だった。彼女はこの時もし禮子が本気で彼を奪いに来たら、きっと自分はとても彼を引き留めることは出来ないだろうと本気でそう思ったのだ。これはちょっと奇妙な空想に思われるかも知れないが、彼女からすればそれは単なる空想などではなく、これから自分の身に起こるかも知れないれっきとした現実であると反論したに違いない。
一方柏木はこの一連の禮子の会話を聞いていて自分という人間がすっかり霞んでしまったように感じたのだ。それは意外と彼の自尊心を傷つけたのである。あれほど禮子に対して強気一辺倒で偉そうなことを言っておきながら、今の彼は彼女の足下にも及ばない人間だという自覚が、どうしても彼を苦しめることになってしまったからだ。これなど彼の虚栄心が物の見事に今の彼の精神状態を狂わしている証拠だが、それ以上に禮子という人間に素直に感動している表れでもあったのである。このままだと、ひょっとして彼は何か妙な状態に陥りかねないのではないかとかえって心配になるくらいだが、しかしそのとき彼は紫音へのプロポーズを別の日に変えようと思ったことを思い出し、それはなぜだか正解だと思ってホッとしたのである。なぜホッとしたのか、それはよく分らないが、それでもそう思ったことは確かだったので、すっかり安心してしまったのだ。ところが、突然思い出したように橘氏がこう言ったのである。
「ああ、そうでした、柏木さん。すっかりあなたの大事なご用件を忘れておりました。どうやら私たちの用件は済みましたので、もう邪魔はいたしませんよ。どうかあなたの用件に取り掛かって下さい。私たちはあなたのお気持ちを真剣に受け止めるつもりでおりますので、そこは安心して存分にご自分の思いを吐露して下さい。期待しておりますよ」
柏木は、いきなりそんなことを言われてしまったので、自分の決断が正しかったのかそれとも間違っていたのか分らなくなってしまったのだ。いったい彼女へのプロポーズは橘氏が言うように今すべきなのか、それとも自分の決断を押し通すべきなのか、そこで持ち前の優柔不断な性格がその本領を発揮して、ずっと左手に握りしめていた指輪の入った小箱を汗ばんだ手で改めて握り返すのだが、その感触すらもはや感じられないくらい彼の精神状態は追い詰められてしまったのである。彼は何か口の中でブツブツとつぶやくだけで、肝心の言葉がどうしても出て来ないことに恐れおののいたのだ。彼の人生を賭けた大事なその言葉は、彼女に向かって語られぬまま、なぜか地獄の底へと呑み込まれて行ってしまったのである。
と、その瞬間この部屋に居たすべての人が驚く奇怪な出来事が起こったのだ。突然、そのときまで静かにソファーに座っていた紫音が、いきなり何かに怯えたかのように立ち上がると顔面蒼白になり「ああ!」と小さく呟いたまま気を失って床に倒れ込んでしまったのである。それはあまりにも突発的な出来事で、誰もが慌ててしまったのだが、父親の橘氏がまっさきに倒れ込んだ娘を抱き上げソファーに静かに寝かしつけると、娘の顔色を見るなり慌てて息子の貴臣にすぐ救急車を呼べと指図するのだった。
この突然起こった紫音の奇妙な発作は、もちろんみんなを驚かしたのだが、その意味するところは誰にも理解されなかったのである。そこで、これから話すこの発作に関しての考察は、あくまでも仮説にすぎないものとしてお聞き願いたい。この仮説には二つの側面があり、それはある意味、同じコインの表裏といった可能性があると思われるのである。一つは彼の窮地を救うために、もう一つは彼の裏切りに抗議するためにである。この二つは、彼女の意識のうえではどうしても両立するものではなかったことが、彼女を不可解な失神に至らしめたと考えられるのである。彼女の女性的な一面である彼を思う優しい心が、自分でも耐えられないくらい彼の苦境を身に感じていたと考えても恐らく間違ってはいないと思う。それと同時に彼の裏切りは彼女の立場としてみればとても許せない行為に思われたのだ。この二つの矛盾した感情が同時に彼女の中でぶつかり合い、それに肉体が耐えきれずこうしたいかにも女性的な窮余の策を演じせしめたわけである。ここで、重大な意味を持つ彼の裏切りだが、これは実際のところ証明できるのだろうか。もちろん証明など出来るものではなく、ただこういうことでは決して間違うことのない女の勘が、彼の心を見抜いたということを信じるしかないのだ。しかし彼としても彼女の失神にそういう意味があるなどもちろん考えたこともないし、自分が彼女を裏切ったことなど夢にも思っていなかったのである。ところが彼はこの時とんだ失態をやらかしてしまったのだ。どういう理由でそんな馬鹿げた行動を取ったのかよく分からないが、まさか彼女が倒れたことで自分の苦しい決断から解放されたと思って安心してしまったとでも言うのだろうか。しばらくして救急車が来ると、部屋の中に一瞬緊張が走り誰もが心配そうに見守る中、彼だけはただ呆然として何もせず突っ立っていたのだ。するとなぜかよく分からぬが柏木が真っ先に同乗すべきところを、父親が心配のあまり先に乗ってしまい、結果的に彼がそのまま取り残された恰好になってしまったのである。この時誰も彼の失策を気に掛ける人はいなかったのだが、ただ一人禮子だけが彼のそばに近寄ってそっと耳打ちすると、彼は一瞬総毛立ち、自分の失態にようやく気づき、慌てて自分の車で救急車の後を追ったというわけである。
紫音は近くの病院に搬送され、念のために精密検査を受けることになりしばらく入院することになった。しかし、倒れたときに打ったらしい打撲のほかはどこにも異常はなく、医者は三、四日で退院できると告げた。ところが、彼女のその正常な肉体に起こった異常な発作は、ある不思議な作用を彼女にもたらすことになったのだ。この経験は、彼女の中で何かが生まれ変わったような不思議な感覚を引き起こしてしまったからである。彼女が病院のベッドの上で目覚めた時はっきりとこう思ったのだ。これからの自分の生き方は今までのものとはまるで違うものになるだろうと、そう確信したのである。
彼女のそうした経験とはまた別にもう一つ彼女を驚かしたことがあったのだ。それは生まれて初めての入院生活で、今まで感じたこともない家族の強い絆を目の当たりにしたからである。母親が病で入院していたとき、彼女は毎日のように病院に通い母親のそばにいたことを思い出したのだが、今度は自分がその当事者になり、家族のみんなが一緒に顔を見せてくれたとき、なぜか涙が出るくらいの嬉しさと深い感謝の念を感じたからだ。別に大病で生死をさ迷ったわけでもないのに、どうしてこんなにみんなの顔が懐かしく思われるのだろう。まるで自分は一度死んで蘇って来たみたいだ。そして柏木の心配そうな顔をそこに見たとき彼女ははっきりとそう感じたのだ。確かにあのとき自分は一度死んだのだと。そう思うとなぜかあの時の記憶が蘇り、この男に対する複雑な思いが今まで以上に沸き上がって来るのだった。その感情は今となっては彼女の非常に大切なものと密接に繋がっていたので、それを失うことは彼女の死を意味するほど極めて重大なものになっていたのである。ところが、その大事な感情を逆なでするような出来事が入院して二日目に起こってしまったのである。その日は、午前中に検査がすべて終わり、あとは何もすることもなく退屈していると、そこへ禮子がひょっこり顔を見せたのである。禮子は病室に入るなり、そこに誰も居ないことにどうやらホッとしたようだ。間違っても柏木だけとは顔を合わせたくないとでも思っていたかのように。しかし、紫音はまったく違う見方をしていたのだ。というのは禮子が病室に入って来るなり、一瞬ではあるが何か期待していたことが外れたようながっかりした表情を見逃さなかったからである。それが何を意味していたのか、それはもうはっきりしたことだった。彼女にとってほかに考えられないからだ。そういうこともあって紫音は、とっさに身構えると緊張した面持ちで彼女を迎えようとするのだった。禮子はそういう彼女を一瞥したなりその表情からすべてを読み取り、彼女の思いを嘲笑うかのようにまるで友達の見舞いにでも来たかのような隔てのない調子で話し掛けて来るのだった。
「あら、ずいぶんと顔色がいいじゃない。安心したわ。私も本気で心配したのよ。だって、倒れたときのあなたの顔色ったら、まるで生気のないそれこそ死人のような顔色をしてましたからね。お父さんが心配したのも無理ないわよ。でも、よかったわ。元気な顔が見れて。ああ、そうそう、これお見舞いね。果物だけど、あとで食べて。とっても美味しいですって。お店の人がそう言ってたわ」彼女は笑いながらこう言って近くの備え付けの棚にそれを載せ、終始気さくな態度で彼女と接しようとするのだった。紫音は彼女の思いも掛けない優しさにびっくりして、自分が取った行動がいかに子供っぽい愚かなものであったかを知るのだった。
「禮子さん、きょうはお見舞いに来てくれて本当にありがとうございます。別にどこも悪くないらしいの。お医者様も首を傾げていたわ。おかしいわね」
「医者もお手上げってことかしら。そういうこともあるのね。いくら機械が発達しても分からないものはいつまで経っても分からないものなのよ。私もよく思うんだけどさ、今の医者って機械にばかり頼って人間のことなんかちっとも分かってないんじゃないかって思うことがあるのよ。この前も、ちょっと身体の具合が悪くなったので病院にいったんだけど、その医者は当然のようにさっそく検査しましょうって血を採ったり、変な機械に掛けたり人の身体をさんざっぱらもてあそんで、そのくせ人の顔には興味がないのか一度も見向きもせず、ただパソコンの画面ばっかり睨みながら、結局どこも悪いところはありませんって言ったきりそれでおしまいですからね。いったい何を考えているのかまったく意味が分かりませんわ。医者にとって患者というのはどのようなものなんでしょうかね。だって私のような職業の女だってお客の心理ぐらい読みますからね。それに比べたら今の医者は人の気持ちになんかまったく興味がないのかしらって勘ぐりたくなりますよ。人間が病気になるのですからもっと人に興味をもって頂きたいもんです。それでなきゃいつまでたっても病気には詳しいけど人間にはまったくの無知というおかしな医者が多くなるばかりですからね。それだけは勘弁してほしいもんですよ。そうは思いません?」
「確かに、そういう面もあるとは思いますが、でも、そうはいっても病気に詳しいお医者さんであれば、患者としてはそれで文句はないとは思うし、それ以上のことを医者に求めるのも気の毒ではないでしょうか?だって、医者にも限界があると思うからです。私たちは病気になればどうしたって医者を頼るしかほかに方法がないし、何といっても最後には医者を信じるしかないのですから。それに私は今度の入院でいろんなことを経験しましたわ。じつは生まれて初めての入院なんです。自分が入院して分かったことは、人の優しさにこれまで以上に触れたことです。お医者様しかり、看護師さんしかり、その気遣いや、患者を思いやる心すべてに感動しました」
「それはいい経験をしましたね。なんだか、あなたのような心の綺麗な患者さんを見ていると、医者でなくとももっとちゃんと接しなくてはって思うものよ。まあ、世の中あなたのような患者ばかりではないから、そうも言ってられないのかも知れませんがね。実を言うとね私あなたのような女性には一目置くようにしているの。だって、私にはない何かを持っていると思うからです。これは何もいい加減なおべんちゃらを言っているんじゃありませんよ。素直にあなたを見ればそう思うしかないからです。つまり女の勘よ。あなただって、きっと私を初めて見たときそういう女の勘をふるに働かせたんじゃないかしら。ほんと言うとね、あなたが私をどう思っているのかそのことも知りたいの。だってあなたが私のことを何も考えていないなんてあり得ないと思うからです。実を言うとね、以前に私あなたのことをお父様から聞いたことがあるの。その時からかしら、あなたに会って色々とお話ししてみたいと思ったのは。もちろん妹さんも弟さんもみんな素晴らしい人たちですが、私はどちらかと言えば妹さんより、あなたのほうにとても興味があるの。妹さんは妹さんでとても面白い性格の人だとは思いましたが、まだあまりにも若いしこれからの人ですからね。あの時だって、妹さんに生意気なことを言ってしまいましたが、あれは自分でも何であんなことを言ってしまったのか今でも不思議に思ってるんですが、要するに人生の先輩としてのお説教みたいなものだったのかも知れません。自分でもつまらない偉そうなことを言ってしまったと後で後悔したくらいですから」
「でも、あなたのおっしゃったことは一つも間違ってなんかいませんでしたわ。妹の無茶苦茶な質問にもちゃんと答えてくださって、この人は何てすごい人なんだろうって本当に感心してしまったくらいですから」
「いや、妹さんはただ正直に自分の思っていることを言っただけです。あんなにあけっぴろげに何でも言ってくる人だとは思ってもいませんでしたけどね。それでもお互いに言いたいことを言い合ったので、きっとこれからはうまくやっていけるとは思いますけどね。まあ、そう期待したいものですわ」
こうした彼女との会話は紫音からすればとても嬉しいものではあったのだが、正直なところお互いまだまだ遠慮したところもあり、一番知りたいと思っていたこともなぜか話し出せないまま終始したようだ。しかし、それでもお互いに少しではあるが理解出来たような部分も感じられて、これはこれで十分お互い満足のいく会話にはなったようだ。とはいえ、この会話には、本人が意識している以上に謎めいたものがあり、彼女たちは、まだそれがどういうものなのか判然としないまま、ただ予感めいたものを感じつつ、それを将来に持ち越そうとしているかのようだった。
すると、そのとき突然二人の前に柏木が姿を現したのだ。これには二人とも、それぞれ違った理由で驚いてしまったのだが、それ以上に柏木も禮子が実際に居たことにびっくりしてしまったのである。というのも、彼はあの夜の事件以来、ずっと今まで彼女の言った言葉が妙に心に引っ掛かり、ここに来る途中も、彼女がなぜあんなことを言ったのか、ずっと考えていたからである。彼はちょっと困ったことになったと思いながらも、彼女がいたほうがかえって好都合だとも思ったりするのだった。ところが、この問題児は、迂闊にも一番気をつけなければならない二人を前にして、さっそくとんでもないしくじりをしてしまったのである。柏木はなぜか禮子に会った瞬間普通に挨拶すればいいところを、なぜか黙って妙な目配せを送ってしまったのだ。まるで、二人だけに分かる秘密が、その視線に隠れているかのような雰囲気を一瞬紫音に与えてしまったのである。ところが実際はそんなものではなく、ただあのとき彼女が指摘してくれたお陰で自分の失態を防げたことのお礼の意味でしかなかったのだ。もちろん、言葉に出して言えばよかったのだが、なにやら妙に意味ありげなものになってしまったことが、あろうことか紫音の心情を烈しく傷つけてしまったのである。彼女はその時なぜか身体中が熱くなるほどの烈しい嫉妬に襲われてしまったのだ。この嫉妬は、彼女の今までの人生で初めて男に対して感じた魂がのけぞるくらいの重苦しい感情だったのだ。そんなものが自分にあったのかと思うほど、強烈な感覚として彼女を震え上がらせてしまったのである。紫音は思いも掛けない心の動揺にしばらくは考えが集中できず、彼がいったい何を言っているのかさえ始めのうちはよく分からなかったのである。
「紫音さん。ぼくはあなたに謝りたいのです。どうか許して下さい。あのときぼくが取った行動は実に情けないものでした。苦しんでいるあなたを見ているだけで何もできなかったことを。じつに男として情けない行動を取ってしまったと思い、今でも恥ずかしくてその夜は眠れませんでした。あのとき一緒に行くべきでした。それをなぜか呆然としている間に救急車は行ってしまい、ぼくは取り残されたまま、そこに馬鹿みたいに突っ立っていたのです。こんなことはあなたを愛するものとして許されるべきものではありません。何で行かなかったのかと何度も考えました。しかし、答えは見つかりませんでした。でも、その後のぼくの行動もあなたに伝えなければと思い、きょうこうしてやって来たのです。ちょうど禮子さんもいることだし、今いったことが事実であることを彼女が証明してくれるでしょう。あなたが救急車で搬送されたあと、ぼくがただ呆然と立ちすくんでいるその傍らに来て禮子さんがこうおっしゃったのです。「どうして一緒に行かないのです?だって、あなたの許嫁でしょう?何を馬鹿みたいに突っ立っているのですか?早く後を追いなさい」って、強い口調で言われたのです。ぼくは、ハッとわれに帰り、すぐさま自分の車で駆けつけたました。おかけで、婚約者としても自分の面目が辛うじて立ったというわけです。まったく恥ずかしいかぎりです」
「そうですか。そんなことがあったんですか。きっと、あなたも気が動転していたのでしょう。私はご覧のように元気ですし、どこにも問題はありませんでした。あなたのおっしゃりたいことは分かりますが、そんなに気にすべきことでもないと思うのです。でも、あなたのお気持ちは素直に受け取っておきますわ。ですから、あまりご自分を責めたりなさらないで下さいね。これは私からのお願いです」
彼女も何とか落ち着きを取り戻し、彼の言うことにそれなりの理解を示すのだった。とはいえ、紫音は自分が失神していた間にそんなことがあったとは今さらながら驚いてしまい、いったいこの逸話をどう扱ったらいいのかさすがに困ってしまったのだ。それに、彼の言うことも何だか妙なことだし、それ以上に彼女がそんな言葉を彼に掛けていたなんて、いったいどう考えたらいいのか理解に苦しむのだった。
ここでこの紫音という女性の不思議な性格について少し考察を加えようと思う。というのも、彼女の対応ぶりにはどこか見逃せない特徴があると思うからである。彼女はどちらかというと、感情の勝った女のように思われがちだが、その底に実に冷めた目で何事も見ていくという性格があったようだ。これは何も彼女が冷たい女だと言っているのではなく、冷静に何事にも対処していく性質があるということが言いたいのである。とはいえ、この時の彼女の心は自分でも驚くほど揺れ動いていたことだけは事実で、自分が今回示したあまりにも激しい嫉妬にしても、そこに何か尋常でないものを感じていたのである。というのも、今の今まで自分がそんな些細な事で、これほどの嫉妬を感じるような女であることなど夢にも思っていなかったからだ。そういうわけで、この経験は彼女にとってとても大きな傷を残すはめになってしまい、このことによって自分は決して今まで自分が思っていたような女でないことがよく分かったのだ。それに自分の中にこれほど烈しい負の感情が隠れていたのかと思って、ひどく落ち込んでしまったのである。もちろん、彼女とて自分が品性のある清純な女などと思ったことなど一度だってなかったのはもちろんなのだが、それでもこの時ばかりは自分は何て心の狭い卑しい女に成り下がってしまったのだろうと思ったことも事実なのだ。こういうことからも分かるように、彼女は情に負けるよりも先にその批判精神がその根底にあったという点を指摘しておきたいのである。柏木のこの行動にしても確かにおかしい点はあるにしても、それがすぐに彼との関係に直接響くようなことになってはいけないと彼女は必死に自分にそう言い聞かせるのだった。彼女のような女でもやはり疑う心は人間である以上持ち合わせていたわけで、ただ疑いながらもそれに抵抗すべき冷静な判断も同時に持っていたわけである。
その後、紫音も退院して家に戻ることになり娘が何事もなく退院できたことを喜んで、父親を始め柏木、華音、貴臣、禮子が家に集まり盛大に娘が無事退院できたことを祝うのだった。そして紫音の退院祝いに合わせて準備された数々の料理の賄いに忙しく動き回るお手伝いの扶美子さんも、まるでわが子の無事を確認した母親のように喜ぶのだった。「紫音お嬢様は何と言っても亡くなられた奥様の一番のお気に入りだったですからね。私はお嬢様が倒れた時できることなら自分が身代わりになってやりたいと思いましたもの。万が一にも死んでしまったらと思ってその夜は眠ることもできませんでした。それが、こんなにまるで生まれ変わったかのように元気になられて本当によかったですこと」といったまま泣き出してしまった。
「扶美子さん、そんな泣くことはないだろう。まったく大袈裟だな。でも、確かにお前は倒れる前とはずいぶん変わったように思えるのだが気のせいかな」と父親の橘氏が娘をしげしげと見ながら言うのだった。
「そりゃそうですよ。女はね何かの切っ掛けさえあればぜんぜん違った女になるものですよ。とくに男がその原因であった場合なんかのときにはね」禮子はさも自分だけが何か秘密でも掴んでいるような口振りでこう言うのだった。
「そうですとも。女の幸せは一に男の甲斐性にあるのです。いくら女がよくても男が駄目なら一緒に地獄行きでしかありませんからね。もちろんお嬢様の幸せはもう保証されていますからその点はまったく心配ありません。さあ、みなさんどうぞ召し上がって下さい。この料理はすべて特注ですからね。あるお方がその筋に頼んでわざわざ準備して下さったのです」とおしゃべりのお手伝いさんはこう言って部屋から出て行くのだった。確かにこれらのご馳走類は裏で柏木がすべて手配したものだった。何とか彼もこの家族の信頼を勝ち取ろうとどこか必死なようで、この時も二、三日の予定で紫音に保養がてら自分の別荘に一緒に出掛けないかといきなり提案するのだった。この提案にさっそく橘氏は願ってもないことだと賛成するのだった。紫音はその提案に一応頷いてはみたものの、なぜ二人の時に前もって言ってくれなかったのだろうと思いどこか釈然としなかったのだ。




