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禮子としても自分がこれから単身乗り込もうとしている、この女の館はあまりにも自分にとって未知でもあり、不安そのものであったことは確かなようで、もし、事前に彼とこうして会っていなければまた違った様相を呈していたかも知れないのだ。そういうわけで、曲がりなりにも彼との繋がりが出来たことにより、少なくとも一人は確実に自分の味方だという確証を得たわけで、それだけでも心に余裕ができ彼女の言動にもそれなりにいい変化が生まれるだろうと思われるのだった。ところが、そういう安心感も一瞬にして吹き飛ばしてしまうような、予期していなかった出来事に図らずも遭遇してしまったというわけである。もちろん、彼女もいずれ彼と出会うことは覚悟していたが、こうしていきなり出くわすとは思いもよらなかったのだ。それは、彼も同じことで、いやそれ以上の衝撃だったことは、彼の見る見る血の気が引いて今にも倒れそうな顔を見れば一目瞭然だった。柏木はどうしてこの女がここに居るのかその理由を知りたいようで、誰でもいいから答えてほしいとみんなの顔を見回すのだった。すると、ようやく橘氏本人が立ち上がって彼女のそばに近寄り、おもむろに自分の席までまるで壊れ物でも扱うように優しく誘導するのだった。それだけ橘氏も彼女に気を遣っていたわけだが、その気の遣いようは実は彼女が変な気を起こさないようにという意味合いもあったわけで、これから何が起こるか分からないこの状況に、どうか冷静に対処してほしいという気持ちも含まれていたわけである。彼はこれから自分が話す内容が、どれだけみんなを驚かすことになるか、それをよく自覚しているような畏まった表情で彼女を紹介するのだった。
「こちらが、私の結婚相手の依代禮子さんです。きょう初めてみんなに紹介することになり、私も少しばかり緊張しています。決して後ろめたい気持ちなど少しもないのだが、家族に紹介するだけでどうしてこうも心臓がドキドキしてしまうのか自分でも不思議でなりませんよ。それはやはり父親として日頃の行いがあまりよくないことから来ているのかも知れません。それは十分反省すべき問題であることは承知しておりますし、確かにそこはこれから私も心を入れ替えて、子供達に親として尊敬されるように努力をしていきたいと思っておる次第です。禮子さん、ここに居る娘二人と、それから向こうに居る息子が私の家族ですが、こうして初めて紹介できることになって私も嬉しさ半分、不安も半分あるわけです。というのも今さら言うのもなんですが、この歳になってあなたのような若い綺麗な女性と結婚することになると、そこにやはり色々と世間的に見ても面倒な問題が出て来るだろうと懸念されるわけです。そこで、少なくともここにいる家族だけでも、仲良く暮らしていけるようにお互いに協力していくのが何よりも重要ではないかと思うわけです。しかし、まあ、きょうはそんな小難しい話しはよしにして、どうか禮子さんも堅苦しくならずに、あなたの持ち前の明るさで、どうか私の家族と仲良く打ち解けてほしいのが私の願いなんです。あっそうだ、柏木さん。先程から大事なご用件を中断させたままにしておいて本当に申し訳ありません。実を言うと、あなたに謝らなければならないことがあるのです。あなたにはまだ誰と再婚するかお話ししておりませんでしたね。実に迂闊でした。もっと早くお知らせしておけばよかったのですが、何分その機会もなくて遅れてしまいました。まことに申し訳ありませんでした。まったく、私も正直な話し、こんなことになって実に困惑しておりますが、あなたもどうか落ち着いてこの状況をよくご理解願いたいのです」
橘氏も柏木がこのことで変な行動を取りやしないかと、それが心配だったので何とか落ち着くようにと、そこはやんわりと釘を刺すのだった。しかし、そんなことで彼の心が落ち着くわけもなかったのだ。そもそも、『この女がなぜ橘氏と結婚することになったのか、もちろん彼がどんな女と結婚しようがそれは自由だが、よりによってこの女と結婚するとは』とても信じられなかったのだ。それにしても『どうしてこういつまでも彼女と縁が切れないのだろう。これが俗に言う腐れ縁というやつなのだろうか?いや、まてよ、そうなるとこれはそんな冗談事では済せられない実に困ったことが出て来やしないか?だって、そうなると俺たちは嫌でも姻戚関係を結ぶことになるからだ。それも義理の母親になるんだ。そんな馬鹿なことがあってたまるか』こうした彼の憤りも分からないわけではないが、それでも彼の今の立場を考えればもう少し冷静になる必要があったのだ。しかし、なかなかそうもいかないようで、どうしたら自分を納得させたらいいのかまるで分からなくなるのだった。それでも彼は懸命に自分を落ち着かせようと汗を拭きながら色々と思いを巡らしていたのだが、突然あのレストランでの最後に聞いた彼女の一言が蘇り、その意味するところがまるで目から鱗が落ちるように理解できたのである。『彼女はあの時点ですでにこうなることは分ってたんだ。分かっていたからこそ、この女にとっては面白い見世物になるだろうと思ったわけだ。さっきおれを澄ました顔でチラッと見たが、腹の中ではあの時を思い出しながら笑い転げているに違いないんだ』
ところが、ここにもう一人彼以上に困惑している人物がいたのである。禮子がこの部屋に入って来たとき、それを見た紫音がどれほど驚いたか、それはある意味柏木以上の驚きであったはずだ。それというのも、柏木の不倫相手である彼女が父親と結婚するという事実をどう考えたらいいのか。それこそ『前代未聞のことでもあり、とうてい喜ぶことなどできない』と思うのも当然だし、父親は『そのことを知っているのだろうか?』と考えても少しも不思議ではなかったのだ。もちろん彼女はこのときまったく勘違いしていたのだが、それでもその勘違いは、その後しばらくは解消されずに彼女を苦しめることになってしまったのである。
実際のところ、今この瞬間この部屋の中は、色々な思惑が交錯し、それこそまるで彼らの闇の世界が急激にざわめきだし、ある人は憤激し、ある人は狼狽し、ある人は苦しみ、ある人は何とかこの場を穏やかに進めようと頑張るのだが、それもなかなか難しく、この状況を正確に把握することも、これからいったいどうなるのかその予測を立てることも難しかったのだ。
とはいえ、人間は分からなければ分からないなりに行動は出来るもので、何となくこの場の雰囲気を壊さないようにと、みんなにこやかに振る舞おうとするのだった。ところで、恐らくこの部屋に居る人たちのなかで一番この状況に苦慮していたのは柏木その人ではなかっただろうか。というのも彼には是非ともやり遂げなければならない大事な儀式がまだ残されていたからだ。確かにそれは大事なことで、彼のこれからの人生を決定づける一大イベントでもあったからだ。彼もそういう認識でいたことだけは確かだったが、それがこういう予想外な横槍が入ったことで、彼の予定していたプランもすっかり狂って来てしまったわけである。それに第一こんな状況の中で、いったい自分の神聖な儀式を続けるなんてことがそもそも可能なんだろうかと彼も何だか心配になって来たのだが、しかし冷静に考えればそんなことは始めから不可能だったのだ。どうして神聖な儀式をあの女の前でやれると言うのだ。そんなことなど出来るわけがない。しかし彼はこうも思ったのである。一層のこと彼女に見せつけてやろうかと一瞬思ったのだ。がしかし、すぐにそんなことは紫音のことを思えば出来るわけがなかったのだ。彼は仕方なく神聖な儀式は日を改めて行なうことにしたのである。そう思うと一気に力が抜け何だか急に怒りが込み上げて来るのだった。何で二人は自分の人生をこうも邪魔するのだろうと。そもそも何で橘氏は彼女と結婚などしようと考えたのか。いったいいつからそんな関係になったのか。彼も色々と疑問があったので、一大イベントを中止させたその張本人の一人である橘氏にその理由を問い質そうと如何にも真剣な面持ちでこう話し始めたのだ。しかし、それが思いもかけぬ方向に脱線して行ったのである。
「実際のところ、ぼくには未だに信じられないのです。いったいどういう経緯で橘さんがこの女と、いや禮子さんとご結婚されることになったのか。いやはやどんなに理屈をこねくり回してもその答えがぼくには分らないのです。ただ一つ言えるのは、ぼくはきっと何か悪い夢でも見ているのかも知れないということです。いや、これは実際悪い夢以外の何ものでもでもありません。いや、それにしてもですよ。橘さんともあろう者がどうして彼女なんかと。いや、失礼。決してお二人のことを侮辱しようとしたわけではないのです。あまりにも理解不能なことなもんだから、つい、抑えきれずに失礼なことを言ってしまいました。それは謝ります」彼はこう言って一旦は言葉を切ったのだが、それでも胸のモヤモヤは晴れるどころかますます重苦しくなるばかりで、このまま続けるべきなのか迷ったのだが、その時、例のレストランでの事をまた思い出し、今度はその矛先を禮子に向けるのだった。
「あのちょっと禮子さんにお聞きしたいことがあるのですが、その覚えておられますか?あなたがあのレストランに来られたときのことを。あれは偶然だったのでしょうか?いやいや今になって色々と考え合わすととても偶然とは思えないのです。きっと誰かに教えてもらったに違いないのです。じゃあ、いったい誰にということになりますが、それはここではあえて言いませんが、あなたもご存じの方ですよ。そこでですね、ここからが肝心なことなんですが禮子さん、あのときあなたはこうおっしゃったと思うのですが、もし間違っていたら訂正して下さい。確かあなたはこうおっしゃったのです。「もし、またお会い出来ることがありましたら、きっと二人で腹を抱えて笑いましょうね」ってあなたは言ったのです。いったい、どういう意味だったのでしょうか?ちょうどいい機会ですから、是非とも禮子さんにその真意をお聞きしたいものです。いかかですか?おや、梨のつぶてですか?それはとても残念だ。それならこちらで勝手な解釈をさせてもらいますが、それでよろしいでしょうね。つまりあなたは、あのときの腹いせにわざとぼくに近づき、ご自分が誰と結婚されるかは伏せておいて、それでぼくを腹の中で笑ったのです。あなたは嫌がらせをするためにあの時あの場所に現れたのです。それがおそらくことの真相でしょう。いかがでしょう?また沈黙に逃げるのですか?しかし、こういう沈黙は認めたという意味にも取られますがそれでいいのでしょうか?そうですか、あなたも随分と強情な方だ。いいでしょう。それがあなたの正式なぼくに対する態度なら、こちらもそれなりの考えで対処するまでです」
彼はすっかり感情的になってしまい、もはや自分では到底止められない域に来ていることに我ながら恐ろしくなるのだった。というのは、このまま進んでしまうとあの時以上にまずい状況を自ら作りかねなかったからだ。彼は深呼吸をして何とか自分を落ち着かそうと懸命に努力するのだった。彼はこのとき橘氏とふと目が合ってしまうと、なんとも言えない恨めしそうな目付きで彼を見るのだった。それはまるで、いったいこの馬鹿げた茶番劇はあなたの発案なのかと言った、いかにもこんな駄作を作った作者を批判するような眼で彼を見たからだ。橘氏は彼の憤りがどこにあるのかは何となく察してはいたが、この時彼はとても慎重になっていたのだ。というのも禮子が彼のことを好きだったこともあり、ここで下手なことを言って彼と揉めるのは一番やってはいけないことだと思っていたからだ。そんなことをすれば一層この状況を縺れさせてしまい、色んなことがあからさまになり収拾がつかなく恐れがある。それに娘の手前もあるし娘にこれ以上よけいな不信感を持たせてはいけないのだ。橘氏は柏木の精神状態が少々おかしくなっていることを見抜いて、何とかこれ以上墓穴を掘らせないためにも、話題を変えることが是非とも必要だと思ったのである。彼は柏木の疑問に答える形を取りながら、自分がいかに真面目に彼女との結婚を考えているか、また世間は恐らくこの結婚を面白おかしく扱うだろうが、そんなことはちっとも構わないという自分の強い思いをみんなに披露するのだった。ところが、それがとんでもない波乱を巻き起こす引き金となってしまったのである。
「柏木さん、あなたのその何て言いますか複雑な思いは確かに尊重されるべきものだし、私も極力理解しようと思っておりますよ。そこはどうか誤解のないよう願いますね。あなたはどうやら禮子さんに対して、その並々ならぬ負の感情をお持ちのようだ。しかし、それはそれとして実はこの私も彼女に対してあなた以上の正の感情を持っているのです。これは何もあなたを批判しているわけではありませんよ。そうではなく、私の彼女に対する思いはそれこそ真剣そのものだということを言いたいのです。決して浮ついた気持ちで結婚するわけではないのです。しかし、世間は私の言うことなどまったく信用しないでしょう。あの爺さん金に物を言わせて、あの女を誑かしたに違いない。まったくいい歳をしてよくやるよ。ちっとは恥を知るもんだ、とかね。いや実際そうですよ。それに、こんなことも言うかも知れません。あの女は金が目当てで後添えになったのだ。爺さんは単なる付録にすぎない。どうせ先に逝くのは爺さんのほうだから、それまでの辛抱だとかなんだとか、あることないこと言ってくるでしょう。世間の意見というものは得てして低俗なものに流れやすく、品性の欠けらもなく、どこまでいっても人間そのものを真面目に見ようとはしないものです。しかし、彼女はそんなことなどはなから気にしないでしょう。なぜなら彼女にとってそういう下世話なことはもともと眼中にないからです。彼女はそういう実に人間的にしっかりした女なんです。それはこの私が太鼓判を押してもいいくらいだ。ただ、たとえそうだとしても私の望むことは、そのような批判は絶対家族の中ではしてもらいたくないのです。これは父親である私からの心からの願いなんです。そうではありませんか、いくら彼女が強い人間であるとしても家族までが世間と一緒になって攻撃したらいったいどういうことになるのか。家族というものは世間が何と言おうとそれを守っていかなければならないのです。それでなければ家族そのものが成り立たなくなってしまうからです。ですからいいですか、お前達にもこの際だからはっきりと言っておくが、彼女に対して変な言い掛かりを言ったりしたら承知しないよ。いいかね、これだけはよく覚えておきなさい」しかし、この一言が華音をひどく怒らせてしまったのだ。
「あら、変な言い掛かりって、いったいどういうことかしら。まだ個人的に何の話しもしてないうちから、そんなことを言われちゃどうも穏やかではありませんね。だって、そうでしょう。もちろん、お父さんがどこの誰と結婚しようとそれはちっとも構いませんが、娘としてはそんなことを言われても、この方がどのような人なのかそれすらまったく知らないのです。それはお父さんに責任があるのではないでしょうかね。だって、きょうのきょうまで何の詳しい経緯すら教えてくれなかったからです。そのほうがよっぽどおかしいと思いませんか?お父さん。私は何もお父さんと喧嘩などしたいわけではないのです。謝れとは言いません。どうせそんなことなどしないと分かってますからね。せめて訂正してくれませんか。このままではあまりにも私たち自身が変に誤解されるだけですから。それにこのままだと彼女にだって悪い影響を与えるかも知れませんからね」
「華音さん、でしたわね。いや、あなたのことはここに来るまでに弟さんから少しですがお聞きしました」突然、禮子がこう口を挟んできたのだ。彼女としても柏木の質問にあえて答えもせずジッと我慢してきたのだが、今ここに至ってここで何か言わなければ父親の立場が危うくなると思ったのかも知れない。それにまた自分のためにそうまで言ってくれたことで、彼女の性格からしてこのまま黙ってなどいられなかったのだろう。たとえ彼女と衝突しても、ここは彼のためにもはっきりと自分の意見を言わなければと思ったのだ。




