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禮子は、この町に来るのは初めてだったので、最初駅からタクシーで行こうと思ったのだが、天気もいいことだし、それに、この町の雰囲気も知りたいと思って、歩いて行くことにしたのだ。ところが歩いてものの五分もしないうちに、さっそく後悔してしまったのである。というのも繁華街を通り過ぎると、後はただ一面に畑が広がるばかりで、どっちに行けば目的地に着くのか、まったく分からなくなってしまったからだ。人家もまばらで道を聞くにも往生してしまうほどの体たらくで、このままむだに歩いても、おそらく迷子になることは目に見えていたのだ。それに日頃ハイヒールで、こんなに歩くことなどなかったので、次第に足も悲鳴を上げ出したのである。仕方ないので、そのうち誰かが来るだろうという漠然とした希望を持ちながら、しばらくその場に立ち止まって、周りの長閑な景色をぼんやりと眺め始めるのだった。ところが、待てど暮らせど人っ子一人歩いて来ることはなかったのである。このままだと時間通りに着くことはないと思い、電話でもして迎えにきてもらおうかと考えたが、しかし、それもどこか体裁が悪く、子供じゃあるまいし道に迷いましたなんてとても言えなかったのだ。そんなこんなで彼女も仕方なく、もう少し歩いてみようということになったのだが、それがまるで、当てのない旅路に乗り出す人のように、どこか重苦しい気分になるのだった。それにしても、このどこか出たとこ勝負みたいな歩き方も、どことなく自分の人生と被っていなくもないので、それはそれで何となくおかしくなるのだった。しかし人生とはそういう迷いの中にいるときこそ、どこかで希望という未来を用意しているものなのだ。彼女は自分の歩いて来た方向に何となく目をやると、そこに人影を見付けたのだが、それがこちらに歩いて来るだろうとすぐに直感するのだった。案の定その人影は決してあらぬ方向に行くこともなく、まるで吸い寄せられるように彼女のもとに歩いて来たのである。その運命の人影は若い男で、その雰囲気からこの土地の人間だと見て取り、さっそく、この辺りに橘という家はないかと聞いたところ、男はその家ならよく知ってると言って、親切にも一緒にその家まで案内してくれることになったのである。まるで仕組まれていたように、物事がいい方向に進んで彼女もすっかり安心して足の痛いのも忘れて歩いてたのだが、その若い男にとってはどうやらこの同行は、尋常でない印象を与えたようで、道すがら彼女のことがどうにも気になって仕方がないようだった。というのも、その男にとって彼女は、その風貌といい、その派手な衣装を見事に着こなす垢抜けたセンスといい、どれをとっても、彼の若々しい感性を大いに刺激したからである。こういう女性は少なくとも、彼の狭い生活圏では決してお目に掛かれない代物で、まるで別世界から、この埃っぽい田舎町に突然姿を現した妖姫のような、決してそんじょそこらにいる普通の女にはないあるものを、彼はその容姿に見ないわけにはいかなかったからである。それにまた別のある事情によって当然起こるような疑問が、彼を悩まし始めたのだ。つまり、そもそもこのような女性が、いったい橘家に何の用事があるのかといった身内ならではの疑問であった。というわけで、その若い男は誰あろう息子の貴臣で、彼はこの日、隣町の図書館まで行って、最近始めだしたある勉強をしての帰り道だったのだ。彼はこのとき以前から噂で聞いていたあることを思い出し、それが次第に、彼を思いもかけない空想へと誘って行くのだった。つまり、ひょっとして彼女は、父親の再婚相手の人なのだろうかという、まさに彼にとっては夢のような疑問なのだが、もしそうならこれは橘家にとって、前代未聞の事件になると考えずにはいられなかったのである。確かに、もしそうであるなら自分はこの女性を母親として見なければならないのだ。いったいそんなことがあり得るのだろうか?いったいこれを喜んでいいのか悲しんでいいのか、今の彼にはどちらとも判断しかねない状態だったが、それならこの際、思い切ってそのことを聞いて見ようと、恐る恐る彼女に話し掛けてみるのだった。
「あの失礼ですが、この町は初めてですか?」
「ええ、初めてです。それにしても静かないい所ですね。ところで、そのお家はここからまだ遠いんですか?」
「そうですね、あと二十分くらいは歩いてもらわなければならいでしょうね」
「ええ、そんなに歩くの?私もね最初からタクシーで行けばよかったんですが、天気もいいしちょっと歩いてみようって考えたのが間違いのもとでした。途中で道が分からなくなり仕方なく誰かが通るのを待っていたら運よくあなたが来たってわけです。あなた学生さん?」
「はい、大学生です。今まで図書館であることを勉強していたのですが、なかなか難しくて手間取ってしまい、あとは家でやろうと思って帰って来たところです」
「まあ、いったい何を勉強なさっているんですか?」
「ちょっと政治のことをね」
「それなら将来政治家にでもなられるおつもり?」
「いや、まだはっきりとは……」
「私ね、ある政治家の方と懇意なんですよ。その方はこの町の人で、実はこれからその人に会いに行くところなんです」
「ああ、橘さんね」彼はこれで自分の空想が当たっていたことを確信したのだが、なぜかすっかり舞い上がってしまい、声も少し震えてくるのだった。「彼はこの町ではとても有名な人ですよ。実はぼくもあの家の人達とは親しくさせてもらってるんです……」
「あら、そうなんですか?それなら橘家のこともきっとお詳しいのね?なら、あなたにちょっとお聞きしたいことがあるんですがよろしいでしょうか?もちろん、話せる範囲でけっこうですから教えていただきたいことがあるの」
「もちろん構いませんとも」
「それじゃ、お言葉に甘えて、たしか橘さんには娘さんがいらっしゃると聞いてますが?」
「ええ、おりますね。二人ほど。一人は今年三十になったばかりで、まだ結婚はしていませんがなかなか気立てのいいやさしい人です。妹のほうはまだ二十四で彼女も独身ですが、この妹は姉とはまるで違った性格でとんだ食わせ者なんです。ある意味この家の厄介者でもあるわけですよ。実際のところこの家を実質的に取り仕切っているのは、この妹のほうなんです。なぜかというと三年程前に彼女たちの母親が亡くなりましてね、その亡き後なぜか彼女がその家を乗っ取ってしまったというわけです。要するに彼女は橘家の実権をいつのまにか握り、父親をも凌ぐその勢力は絶大で、誰も彼女のわがままに逆らうことができないと聞いています。実に恐ろしい女ですよ。ところが橘家にはもう一人居るんですよ。長男の貴臣という大学生が。この男は、どうやらまったくの怠け者で大学にも行かず家で何をしているのか、あそこの家族でさえ何も知らないのです。まったく父親もあきれて最近ではもうすっかり諦めているようです」
このような田舎町では家の秘密などあって無いようなものなんだろうと思いながら、彼女は話しを聞いていたが、それがいつだったか橘氏から聞いた家族の話とまったく同じあることに思い当たり思わず笑ってしまったのだ。ところが、彼女のこの笑いが引き金となり、貴臣はこの辺で自分の正体を明かす必要があるのではないかと思い、こう聞いてみたのだ。
「あの、ところで、どういったご用件なんでしょうか?ぼくの父に」
彼の意表を突いたその一言に一瞬彼女の思考は止まってしまい、いったい彼は何を言っているのかすぐには分からなかったようだ。ところが、そこは直ぐさま彼の悪戯に気がつくと今度は彼のほうがびっくりするくらい突然に、それこそ天に響き渡るくらいの声で気持ちよさそうにカラカラと笑うのだった。それを見た貴臣もつられて笑ってしまったが、彼の悪戯にさすがの彼女もしてやられたと思い、悔し紛れにだろうか、それとも彼の演技に感激したのかいきなり彼に抱きつくと、まるで女の慎み深さなどかなぐり捨てたかのように、何がおかしいのかひたすら笑い続けるのだった。そのいかにも大袈裟で、わざとらしい振る舞いに、さすがの彼も呆れてしまったのだが、抱きつかれた時のほのかな甘い香りが、それはもう彼の男としての本能を、骨の髄まで刺激したのであった。こうしてひとしきり笑ったあと彼女は、ようやく、その色っぽい姿態から、色香に窒息しかけていた彼を解放してやると、親しみを込めてこう言うのだった。
「なあんだ。そうならそうと早く言ってよ。あなたも意地悪な方ね。でも、こうして改めて見ると何となくお父様に顔立ちが似ていますね。あなたのことは、お父様から何時でしたか聞いたことがあるのよ。大学に苦労して入ったのに勉強もしないで家でブラブラしているって散々あなたの悪口を言っていたわ。私も横で聞いていて笑っちゃったのよ。だって、あなたのことを心配していることがよく分かりましたからね。それは悪口でも何でもなかったの。わが子をとても愛していたからこそそんな愚痴が出てしまうのね。あの人はどこかひねくれたところがあるかも知れないけど、決して悪い人じゃないわ。ちゃんとした考えがあってあなた達のことを見ていると思うの。だって、なんやかや言いながらもあなた達の自由は認めているのですから」
彼女はどうやら彼のことが気に入ってしまったらしく、ずっと彼の右手を両手で柔らかく握りしめながら楽しそうに話し続けるのだった。貴臣も一応されるがままに彼女の意志に従ってはいたが、正直いつまでこんな状態が続くのだろうかといった恥ずかしさもあり、早いとこ切り上げてくれないかといった気持ちもあったのだ。しかし、それでも女の柔らかく暖かいその手の温もりに負けてしまったのか、そこはよく分からないが、彼女がそうしたいのならそうさせておいてやろうと思い直すのだった。とはいえいつまでもそんな官能的な状態も長くは続かないもので、彼としてもここは現実に戻って何とかしてこの不自然な状態を解消する必要を覚えたのだ。そこで、彼は一時的にではあれ、こんなに親密に彼女となれたことを考えれば、あのことを聞いてもそれほど不躾なことにもなるまいと思い、とうとう彼は意を決してこう聞くのだった。
「あの、失礼ですが、うちの父と結婚される方というのは、ひょっとしてあなたなんでしょうか?」
彼女はその質問を聞くと、今まで握っていたその手を急に離し、真面目な改まった態度に戻りこう言うのだった。
「こんな道端で改まって言うのもなんですが、おっしゃる通り私がその結婚相手です。どうぞよろしくね。ついでだから自己紹介もさせてもらうわね。私は依代禮子といって今年三十六になります。あなたのお父様とはあるお店で知り合ったのですが、それ以来ずっとお世話になっていて、あなた達のことも色々と伺いました。詳しいお話しはいずれしたいと思いますが、それにしても先ほどのあなたのお話しを伺っていて驚いたことがあるんですが、そんなにその妹さんは、こんな言い方は失礼かも知れませんが恐ろしい方なんですか?」
「いや、恐ろしいといっても、ただ気が強いと言えばいいのでしょうか。何かと文句が多いもんでね。でも、さっきはちょっと大袈裟に言ってしまいましたが、決して人間的にダメだってことではないんです。そこは誤解なさらないで下さいね。まあ、ここで変な先入観を持たれても困るのでこれ以上は言いませんが、ただ注意すべき性格ではあるのです。あなたがわが家に来るとなると、色々と問題が生じて来ると思いますが、ぼくは、姉とは違って何事もその人の立場というものを尊重する人間なんです。ですから、今回のあなたのご決断に何の異論もございません。ただぼくは親父がどんな人間かよく知ってますからね。それを思うと、あなたのようなお綺麗な若い女性が、どうしてあんな年寄りと一緒になるのか、そういう人間として素朴な疑問は確かにあります。しかし、人それぞれですからね、その人にとって一番大事なのはその人に人生です。他人がそれを面白おかしく批判するのはぼくの趣味ではありません」
「どうやら、あなたとはこれから一緒に仲良くやって行けそうね。お姉さん達もあなたのように考えて下さればいいのですが」彼女はこう言って、やはり娘たちのことがとても気になっていることを正直に打ち明けるのだった。
「確かに、気をつけなければいけないのは女同士の関係性ですね。なぜかと言うと女というものはすぐ批判したがるのです。これはもうどんな女性にも見られる現象ですよ。何かと言えば、自分の気に入らないものにすぐケチをつけたがるのです。自分の感情を理屈で正当化して相手をとっちめるのです。きっとあなたにもその洗礼が待っていると覚悟しなければいけません。それはどうしたって起こるのです。必然的に。とくにあなたの立場というものが、いやはや何とぼく達の母親ですからね。こんな若くて色っぽい母親なんて、そりゃぼくは大歓迎ですが果たしてあの女どもがどう思うか。これはもう珍事と言うべき重大な出来事ですからね。どういう反応を示すか想像するのも恐ろしいですね。しかしご安心下さい。これからこのぼくがあなたを守る砦になりますよ。どんな口撃を受けようとこのぼくがお守りいたします。身内がこんなことを言うのは変ですが、姉の華音には気をつけて下さい。いやこれは決して華音があなたを目の敵にするだろうというわけではありません。ただ用心するに越したことはないという意味です。ぼくはあなたの味方ですから。いや笑わないで下さい。どんなことがことがあろうとあなたをお守りしますよ。もっとも、どこまであなたを満足させられるかははっきり言ってまだ分かりませんが、でも華音の性格は知悉してますからね。どうか困ったことがあったら何でもぼくに相談して下さい」
「ほんとうによかったわ。最初にあなたに会えて。きっとこれも何かのお導きね。それなら喜んであなたを頼りにさせていただきますわ」
いったいどこまで本気でそう思っていたのかそれは正直分からないが、心のどこかで不安な気持ちがやはりあったのだろう。彼がそこまで言ってくれるのなら彼女としても彼を頼りにしてみようと、素直にそう思ったと解釈してもあながち間違ってはいないと思う。




