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そんなもやもやした状態が続いていたある日、妹の華音が、姉の部屋にノックもせずにいきなり飛び込んで来ると、その紅潮させた顔を姉の耳元に近づけ、さも重要な知らせでもあるかのようにこう囁くのだった。
「驚いちゃだめよ。あのね、どうやらお父さん再婚するらしいわよ」華音はこう言って、どう驚いたと言わんばかりの顔をして姉を見るのだった。
「ほんとうに?いったそんな話しどこで聞いてきたの?どうせ信用のおけない、いい加減な噂話なんじゃないの?」と言って、紫音は軽く笑いながら妹の重大な情報をにべもなくはねつけるのだが、妹は真顔でこう言い返すのだった。
「とんでもない。そんないい加減な噂話どころの話じゃないのよ。だってもう町中知らない人がいないくらいなんだから。姉さんは家にばかり閉じこもっているからそんな暢気なことが言えるんだわ。もっと世間に出て自分の目でよく見ればいいのよ。今からでも遅くないから、いったい自分の父親が世間でどう見られているか、そういうこともちゃんと知っておくべきよ。結婚にしたってそうよ。いったい自分がどういう男と結婚しようとしているのか姉さんはちっとも知らないんでしょう?そんなことでよく結婚などできるわね。そんなバカげた結婚。あたしだったら絶対お断りよ」
妹からこんな指摘をされて黙っているのも癪に障るので、日頃の鬱憤もあり珍しくこう反論するのだった。
「町中の噂って、いったいどんな噂なの?そもそもそんな噂にあんたもよく乗っかるわね。どうせいい加減な話しに決まってるわ。その話しがもし本当ならお父さんのほうから話しがあるはずよ。でもそんなそぶりすらまったくないじゃない。私の結婚のことばかりで、ほんとうに毎日が憂鬱なの」
華音は、そのとき姉の顔を不思議そうにじっと見つめてこう呟くのだった。
「いや、ほんとにそうだわ。姉さんはちょっと変わったかも知れないわね。今までそんなに鬱ぎ込んだことなんかなかったし、それにお父さんの大のお気に入りで、あんなに素直だった娘が、今度のことで突然父親に楯突いたんですからね。それからよ。わが家に次々と異変が起き始めたのは。父親の再婚話もそうだし、それに市長選、なんかわざとのように色んなことが続くんだもの。ねえ不思議に思わない。だって、お母さんが死んで以来わが家にはまったく会話というものがなくなって、いきなり沈黙の世界が襲ってきたわけよ。あの貴臣がすっかり鬱ぎ込んじゃって、危うく引きこもりになりかけたくらいだし、なんでおれを残してあの世にいっちまったんだよ、なんて子供みたいなことを言うし、まったく笑っちゃったわよ。お前だけの母親じゃないだろうって、あんときはお姉さんがまるでお母さんのように一日中なぐさめていたわね。あたし感心しっちゃったわ。ああ、お母さんがもう一人いてくれてよかったって思ったくらいだから。それにしてもこれでわが家もようやく何かが動き出したって感じね。人生はこうでなくっちゃ。止まっていてはいけないのよ。それでなくても人間なんていつ死ぬか分からないのだから。お母さんのように。あのね、今まで言わなかったけど、お母さんが亡くなる三日程前にあたしを病室に呼んで、こう言ったのよ。「紫音が何かで困ったら助けて上げてね」って、お母さん、死ぬ間際までお姉さんのことが心配だったんだわ。あたし何か焼けちゃってさ。今まで黙っていたけど、今になって思えばきっとこうなることを予期してたんだわ。だって、あまりにもお父さんの言いなりなんですもの。それがあの夜、あたしの心配をものの見事に吹っ飛ばしてくれたんだからね。これならもう大丈夫だわって。ねえ、大丈夫よね?ほんとうにゾクゾクするわ。だってとっても面白いんですもの。これから何があるかを想像するとね。でもね、お父さんがたとえ再婚しても何の心配もいらないわよ。その相手がどんな女であろうとね、あたしがついてるんだから」と言って、華音はまるで自分がこの家を守るんだと言わんばかりに笑いながら部屋を出て行くのだった。
紫音は、妹の話しにある種の驚きを感じたのと同時に、なぜかとても不安になるのだった。それがどういう不安なのかはっきりとは言えないのだが、もっともはっきりしないから不安になるとも言えるのだが、そこをあえて言うと近い将来自分の周りで起こる諸々の出来事が、いったい自分にどういう影響を与えてくるのだろうかと言ったようなことなのだ。父親の再婚話にしても、それがもし本当なら意外には違いないが、それほど驚くべき事柄でもないように思われるのだった。いったい誰と再婚するのかに至っては思いも及ばない、まるで夢のような話しにも思われたのである。そんなことより、妹が指摘したあの夜の出来事を思い返すと、あの時の自分は、今考えてもいつもとは違っていたことだけは確かなように思えたのだ。では、なぜそんな行動を取ってしまったのかというと、それは彼女のなかで何かがそうさせたからとしか言いようがなかったのだ。
父親の橘氏は、その日かなり酔ってはいたが別にふらつくこともなく玄関に入って来ると、気持ち悪いくらい上機嫌で出迎えたお手伝いさんに、これでついに我が家にも春がやって来るに違いないとニヤニヤしながら呟くのだった。彼はこのところ自分の市長選への意気込みを見せるために、父親の代からの支持者の集まりに連日出向いては、何かと自分の持論をぶち上げては深夜まで飲み明かすことが多くなっていたのである。しかしその日は娘のことで何かと関係を付けたがっていた例の会社の御曹司とある会合でばったり出会い、これ幸いと四方山話に花を咲かせていたところ、なんと御曹司のほうから娘の紫音のことを唐突に切り出して来たのだ。それは彼にしてみれば計り知れないほどの僥倖だった。彼は驚き、というのもこの事はまだ煮詰まるどころか切っ掛けすら摑んでいない有様で、それと言うのも向こうの親にしてからが息子の結婚をそれほど真剣に考えてはいなかったからだ。そこで喜んだ橘氏は、いったいこれは何かのお導きか、それともそうなる運命だったのかとよからぬ妄想で彼の頭は水車のごとく回り出すのだった。しかし、この時だけは彼のそういう妄想も、どこか真実味があったようで、というのも彼はその御曹司の話しを聞いていて、最初彼が何を言いたいのかよく分からなかったのだが、要するに紫音に偶然にも興味をもった不思議な出会いを、それとなく話したかったのだと理解したからである。もちろん勝手な解釈だが、しかし彼のその物の言い方に、どこか見過ごせないところがあるのを感じて、こいつはひょっとしてと思うのだった。
確かに彼の紫音を語るときの様子から、彼の一方ならぬ熱い思いは感じられたのだ。彼はその時こういう話しをしたのだった。ある日、偶然街中で紫音を見掛け、もちろんその時は彼女がどこの誰だか知るよしもなく隣りに居た友人に「おれは将来ああいう女性と結婚できたら、おそらく幸せな人生を送れると思うんだ」と別にこれといった深い理由などあるわけもなく、というよりも恐らく半分ふざけて自分の思いつきを言っただけに過ぎなかったのだが、その友人は、「ああ、あの人は君も知ってる今度市長選に出る橘という資産家の娘だよ」と教えられびっくりしたわけである。ところが偶然は続くもので、その日、家に帰り母親にそのことを話したら、「いつだったか選挙のことで橘さん本人が家にいらしたことがあって、その時に娘さんの話しがちょっと出たのよ。何でもあなたのことがどうしても知りたいとか言ってましたが、こっちも突然のことでどう返事をしていいのかよく分からなかったので、そのまま話しは立ち消えになってしまいましたけどね」と母親から聞かされて二度びっくりしたというわけである。こういう話しを本人から聞かされれば誰だって自分の勘を信じたくなるといのも致し方のないことではないか。橘氏はその時、これを千載一遇のチャンスと心得、この機を逃したらそれこそ末代まで後悔し、死んでも死に切れんと思うのだった。彼は娘の良いところを適当に見繕って、これ幸いと色々と話すのだが、そこはどこまでも下心を見透かされないような極めて抑制の利いた話しっぷりで、「自分は決して娘を売り込んでるんじゃありませんよ。ええ、まったくそんなんじゃないのです。反対に、あなたのほうが娘に興味がおありなんでしょう」と言ったふうに話しを持っていくのだった。それが果たして功を奏したかは疑問だが、どうやらある感触は得たようだ。彼はすっかり上機嫌になり家に帰って来て、そして問題が起きたのである。
父親である橘氏は、それは親としてありがちな錯覚ではあったのだが、娘の性格をどこまでも知悉していると、なぜか今まで思い込んでいたようである。彼女が自分の意見に逆らうことなど決してないと頭から信じていたようで、それはやはり自分の娘に対する愛情は、それこそ海よりも深いと思っていたからだ。ところが、ここに来て彼の思惑は大きく外れたのである。どうやら彼の心の中では娘の成長は、ある年齢で止まっていたらしく、彼女がもはや父親が思っているイメージといかにかけ離れた存在になっていたかなど想像すらしていなかったからだ。もっとも娘のほうも正直に言って、自分が三十になる立派な女であることを、あまり自覚できてはいなかったようである。もちろんこれは彼女の精神年齢が低いということでは決してないことだけはどうか誤解のないよう願いたい。そういうことではなく、自分がいかに実年齢と内的にギャップがあるかという、よくある心理的な問題なのである。三十には三十のはっきりとした精神的な規範があればいいのだが、現代のような混乱した世の中ではなかなかそれも難しいことでもあり、どうしても心理的に掴んでいる自分と、社会から見られる自分との間に食い違いができるのは仕方のないことなのだ。それに彼女のように穏やかで人の意見をよく聞き、それに対しては決してノーと言えないような人間にとって、今のような世の中で生きて行くのは本人が意識しているいないに関係なく、確かに生きづらいことだけは間違いないことのように思われる。しかしそういう彼女ではあったが、それがここに来て、どうやら変化の兆しが見えてきたのである。それは彼女にとっても、また橘家の将来にとっても、かなり重要なことでもあったのだ。人が生きて行くうえで一番大事なのは、やはりその人がその人らしく生きるということではないだろうか。しかし子供は、なかなか親の思い通りには育ってくれないのが普通だが、しかし彼女はその点まったく違っていて、驚くほど素直に、親に逆らうこともなく、それこそ父親にとって理想的な娘として順調に育ってくれたわけなのだが、それが、「いったいどこでどう間違ったのか」と、まるで眉間を斧でいきなり割られたようなひどいショックをこの父親はそのとき受けてしまったというわけである。




