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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 柏木亮にとって、まさかこんなことになるとは想像すらしていなかっただろうが、橘家の人々にとってもそれはご同様で、あのどこまでもしたたかな橘氏でさえ、もうほとんどパニックを起こす寸前まで追い詰められてしまっていたのだから、彼の発言がいかに破壊的で強烈なものだったかが分かるというものだ。こんなバカげたことで、もしこの結婚話が破綻でもしたら、それこそ後世にまで語り継がれる橘家の汚点になることは必定だったのだ。結果的に、そこまで至らなかったことは不幸中の幸いではあったが、それでもこの事件の後遺症は消えることもなく橘家の人々の心の中でくすぶり続けることになってしまったのである。結局そのことが二人の結婚に、どのような影響を与えることになるのか、確かにそれこそが一番気になることではあったのだが、それがまったく予断を許さない実に不安定なものになってしまったことが、橘氏にとっても紫音にとっても、頭を悩ます一番の問題となってしまったわけである。もちろん、その悩みの内容は親子と言えどもまったく違ってはいたのだ。彼女としては、この結婚がうまくいくことはもちろんだが、それ以上に彼の事を真剣に考えると、紫音のような自分よりもまず相手のことを先に心配してしまうような情のあるやさしい女にも、漠然とではあるが彼の性格に何ともいえぬ、ある不安を感じざるを得なかったのである。それに比べて橘氏の悩みと言えば、彼がどのような人間であるかはもはや問題ではなく、これから先二度と変なことを起こしてくれないように、ただそれだけを心配していたのであった。というのも、これ以上つまらぬ事を重ねてもらっては、自分の選挙に何らかの影響が出て来かねないからである。そんなことになったら、今までの苦労がそれこそ水の泡となって消えるだけでなく、娘の将来も台無しになりかねないからだ。とはいえ、あの時の娘の対応には、橘氏のような人間関係において数多くの修羅場をくぐり抜けて来た人間から見ても、見事な対応だと褒めてやりたいくらいだったのだ。あの場合、普通なら華音のような態度を取って当たり前だと誰でも思うものではあるが、それに比べて、紫音はどうしてあのような、まるで彼のすることならすべてを許せるかのような理解ある態度を示すことができたのだろう、とこの父親は思ったわけである。つまり、親馬鹿と言うほどでもないのだが、そこに娘の非凡さを見て取ったのか、それとも、そのやさしさの裏に隠されている女の強かさでも見たのだろうか。父親はニヤリとしてこう思ったのだ。『これで、あの男も一生娘に頭が上がらなくなるだろう。自分で蒔いた種だ。ある意味自業自得だが、それでもこれはこれでよかったのかも知れない。男など所詮妻の尻に敷かれていたほうが家庭はうまくいくのだ。しかし娘もこれでずいぶんとあの男に貸しを作ってしまったな。まったくうまくやったもんだ』とはいえ、この先のことを思えばやはり不安は残るのだが、それでも何事も楽観的に考えることを信条としている橘氏としては、たとえ二人の間にまた何か一波乱起こったとしても、そこは雨降って地固まるの喩えもあるように、壊れることもなくしばらくすれば落ち着くだろうと、なるたけ前向きに考えることにしたのだ。

 ところで、そういう前向きで悲観的に物事を見ないたちの橘氏ではあったが、その彼でさえ決して楽観的に見ることはしなかった例の再婚話がいよいよ動き始めたようなのだ。とうとう、あの禮子嬢が決心をしたらしいという情報が橘氏の耳に入って来たからである。しかし、その話しに入る前に、柏木氏のことでちょっと一言述べておきたいことが出て来たのだ。というのも、これは何度でも繰り返し考えてみるべきものだと思うからで、一人の人間を理解することはとても難しいことでもあり、それには色んな角度から見ていく必要があると思うからである。とくに彼のような性格においてはなおさらそうすべきであり、今回の異常な行動によってさっそくみんなの度肝を抜いたわけであるが、自分でも改めてそのことに厳しい眼差しを向けざるを得なくなってしまったからである。というのも、あれ以来、反省すればするほど自分のやったことが、いかに異常であったかがよく分かって来たからである。あれほど考えた末の行為だったとはいえ、それがまったく話しにもならないバカげたことだと気づいた今、その落ち込みようは半端ではなく、いくらあの時、紫音から理解あるやさしい言葉を掛けられたとはいえ、その心情に甘えて彼女の前にのこのこと、どの面さげて出掛けて行けるというのだ。そんなことは今の自分にはまったく不可能だと思えたからである。しかし、その一方で彼はこういうことになった以上、何としてでもこの結婚は実現しなければならないと思い始めたことであった。おかしな話しだが、自分の仕出かした失敗が、どういうわけか彼自身を鼓舞し始めたからである。つまり、自分の名誉を回復させるためには、この結婚を何としてでも実現させる必要があると思ったからだ。というわけで彼は初めてこの結婚にその意義を見つけたかのような情熱を感じて、今まで以上に熱心にこの結婚を願うようになって行ったのである。出来れば今すぐにでも結婚したい心境になっていたようなのだが、あんな不始末をした直後でもあり、いくら何でも虫がよすぎるのは否めなかったのだ。むしろ、こういう彼のちょっと常識では考えられない性格が、今ではすっかり橘家の人々にも認知されてしまったようで、とくに華音に、どうしようもない印象を与えてしまったことが一段とこの問題を厄介なものにしてしまったからだ。人の印象というのは実に困ったものなのだ。誰も自分の印象が他人にどう持たれるかなど分かりはしないからだ。知らぬ間にこういう印象を持たれていたのかと後になって分かり、驚いてしまうことはよくあることである。もっともその人の印象と実際の性格とはまったく違うものではあるが、そういうことなどにはまったく頓着なく、人は同じものだと思ってしまうから困るのである。本人にとっては甚だ迷惑なものではあるが、本人もそういうことを同じように他人にしているので、そこは、お互い様という面があるのだ。いわば人間はそうやって、お互いに誤解し合いながら付き合うしか方法がどうやらないらしい。もっとも、よく考えれば変に正解されるより、間違って理解されていたほうが、生きる上でかえって生きやすい場合もあると言えばあるのである。

 柏木亮についても、どこかそういう面がなくはなかったのである。実際のところ彼の生い立ちだけ見れば、きっと誰からも羨ましがられるような境遇にいたことだけは事実なのだ。世間の人から見ると、彼の印象は申し分ないものとして映っていることは間違いないところで、彼のいかにも余裕のある一見不平不満もない満ち足りたように見えるその生活振りから、きっとこの人には何の苦労もなく家族仲良く暮らして来たのだろうと思われたとしても決して不思議ではないからである。しかし実際は、彼と家族とくに父親との間には恐ろしいほどの葛藤があったのだ。彼の父親は今在る会社を自分一代で築き上げてきたいわば立志伝中の人物で、そういう父親を持つ息子の苦労は本人しか分からないものであり、おまけに彼には一つ違いの兄がいて、それがまた彼の性格をねじ曲げてしまう一つの要因でもあったのだ。と言っても兄が直接彼に意地悪したり、妨害したというわけではない。むしろそこには父親の二人の息子に対する育て方に問題があったのである。ところが父親としては、自分の息子があまりにも不甲斐ないと感じれば、何とかしたいと思うのが親であり、子供は立場上おとなしくそれに従うほかにすべはないわけである。そこで父親は自分の子供を何とか自分の思う方向に育て上げようと奮闘するわけである。もちろん、それに耐えられる子供であれば何の問題もないわけだが、彼のように従順でおとなしい子供は次第に、その性格にある種の歪みが生ずることにもなるわけである。彼はもともと神経質だが、別にこれといって取り柄のないごく普通の子供だったのだ。それが父親のせいでと一応言っておくが、というのもやはり原因の一つではあったからだ。この父親の歪な教育のせいで、彼の性格はある意味崩壊し、おかげで普通の子供だった彼がどうやらその時点でおかしくなってしまったようなのだ。と言っても何も気が狂ったというわけではなく、いやそもそも人間などどこか少しおかしいところがあるので、普通だとか言って最初から決めつけないほうがいいのかも知れない。彼はもともと父親を嫌っていたのだが、ところが、それからというもの父親に媚びを売り、何とか父親に嫌われないように黙って命令に従うようになって行ったのである。

 そういう子供だった彼が、成人した途端父親をいや家族を呪い、自堕落な生活に溺れて行ったというわけなのだ。分かりやすいと言えば分りやすいのだが、どうもそう単純なことではないらしく、彼だって何もそんな生活を好き好んで始めたわけではなさそうなのだ。彼にだって理想というものはやはりあったからだ。いや誰にだってあるだろうが、それが自分でも訳の分らないまま、どうも父親の理想を生かされたのがそもそもの原因だったのかも知れないのである。つまり彼の父親にも彼以上の理想があったわけで、それは彼の後継者を誰にするかというそのことだったのだ。これは彼にとっての最重要課題でもあって、自分亡き後の会社の行く末を考えると生半可な考えを持った人間に、それを託すことなどとても考えられなかったからである。もちろん、彼の気持ちの中には自分の息子たちに、その後を託すというのがまず前提にあったことは紛れもない事実で、こういう言い方は、果たして適切かどうかは分からないが、子供達はいわばそういう父親の個人的な理想の犠牲者であると言えないこともないのである。子供の気持ちからすれば、正直言ってそんな父親の思惑など甚だ迷惑至極な問題でもあっただろうが、しかし、素直な子供達は親に逆らうことなど思いもよらず、ただ黙って従うほかにすべがなかったわけである。そこで父親は自分の方針に沿って、二人の息子をそれこそ地獄のような競争という世界に投げ込んでしまったのである。それは勉強だけではなく、あらゆるものに渡って二人を競争させたのだ。まだ小さい頃は、二人とも面白がって無邪気に張り合うのだが、学年が上がるに従って二人ともなぜか笑ってばかりもいられなくなってきたのである。それは子供だってそんなことばっかりやっていれば自然と知恵が付いてきて、そのうち相手を負かしてやろうという気持ちだって出て来るというものだ。それくらいならまだしも、それが次第に敵愾心にまて発展して、表では笑いながら裏では相手を罵っているといった塩梅で、おかげで大学を卒業する頃には、二人ともすっかり兄弟であることを呪うまでに至ってしまったのである。とくに弟のほうにそれがひどく蔓延してしまったのだ。その点兄のほうは性格なのか、どこかのんびりとしたところがあって、むしろそういう競争を楽しんでいたところがあったようだ。この兄の特筆すべきところは、子供のころからなるべくそういう父親とはつかず離れず極めてうまくやっていたようなところがあって、弟のように父親に媚びるようなことはしなかったのである。とはいえ、父親もどこかそういう兄をゆるしているようなところがなきにしもあらずで、そこに弟とは違ったある種の期待のようなものがもともとあったのかも知れない。ところで、弟は何でこうも意味のない競争ばかりしなければならないのか、その疑問が頭をもたげて来て、いったい何時までこんなバカげたことをやればいいのだとさすがに怒りが込み上げて来るのだった。しかし彼の持ち前の優柔不断さが、ここで反抗してもし父親の逆鱗に触れたりしたらそれこそ自分はおしまいだと思って自制してしまったのである。しかし、こういうことがそもそも長続きするはずもなく、いずれ破綻するだろうことは目に見えていたのだ。それは彼が社会に出たときに起こったのである。兄は一足早く親の会社に就職して、さっそく自分の持ち前の人当たりの良さを武器に、いち早くみんなの信頼を勝ち取っていたのである。弟も続いて就職したのはいいが、こちらはどこで歯車が狂ったのかよく分からないが、なかなかその環境に溶け込めない自分がいたのである。するとさっそくこういう評判が立ってしまったのだ。「彼は兄と違って、何か打ち解けないところがあるね。それにわれわれのことを何か見下しているように思えてならないんだ。たまにこっちから話しかけてもろくすっぽ返事もしないのだからね。いったい彼は何を考えてるんだろう。どうやら自分が社長の息子だってことがどうしても頭から離れないのかも知れない」と言って、同じ社長の息子なのにどうしてこうも違うのかと、さっそく彼の人間性がやり玉に挙げられてしまったのである。もちろん彼の仕事ぶりにも当然注目がいって、誰からも必要以上に期待をかけられていたせいか、どうも最初から芳しくなかったのだ。それはやはり自分が社長の息子であるというその事実が、計り知れないプレッシャーとなっていたのかも知れない。で結局あまりの期待外れで彼の仕事ぶりは始めから散々だったのだ。

 彼の弱点は、何かをするにも予めその手順が決まっていて、その通りに進んで行くことでないとどこか不安になることだった。小さい頃からやるべき事は分かっていて、その通りにすれば必ず正解にたどり着けるという習慣が出来ていたからで、そんな時に突然横から予期しない問題が飛び出して来ようものなら、それこそ頭の中がフリーズしてしまうのだった。そうなってしまうと彼の中の予定調和が狂い出し、決断が出来なくなってしまうのである。これなど、まったく現代人特有の現象といってもいいくらいで、あらゆる問題にはちゃんとした答えがあるはずだと、どうしても思い込んでいるので自分のすることが正しいかそうでないかは前もって決まっていなければならなかったわけである。しかし、世の中の大半はそんな予定通りに進むことなどそうあるわけでもないのだ。必ず予想外のことが起こるわけで、その時どうするかが何よりも大事なわけである。それには試験勉強で培ったやり方などまったく用をなさないのである。

 とはいえ彼も次第に社会とはどういうものか、それはまったく今まで父親から仕込まれてきた常識がまったく通用しない世界だということがよく分ったのだ。となると、これはもうほとんど笑い話ですませるようなことではないとようやく悟ったわけである。もちろん、彼だって自分の立場がどういうものか理解してないわけではないのだ。確かに社長の息子としてこの会社に入ったからには、それなりの責任が父親からもまた会社からも背負わされているわけで、普通の社員とは違ったものがどうしても自分の中にあるという自覚を持たなければならなかったわけである。もちろんこれは彼の秘められた思いであり、その自覚がそのまま他の社員たちに変な形で表れてはダメなことくらい分っていたのである。ところが、どうもそれがそうではなかったようなのだ。自分の態度がどこか一段高かったようで、それがどうも誤解されていたようなのだ。それに比べて兄はまったく自分とは違っていつも彼の周りには人が集まってきて、色々と聞いたり指示を受けたりして実に効率よく仕事をこなして行くのだった。しかし、弟にとってみれば、どうもこれはおかしいと思わざるを得なかったのだ。というのも、どうしてあのように何の苦労もなくみんなとなかよく働けるのだろうと思うわけなのだ。こういう疑問がどうして浮かぶかというと、またもや家庭環境が彼の足を引っ張り始めたからである。言って見れば彼に対してある種の嫉妬みたいなものがその根底にあったからである。なるほど母親に愛されただけのことはある。彼にはどこか母性本能をくすぐる何かがあるのかも知れない。人々に愛される要素みたいなものがもともとあったのだ。それは何よりも彼の上司達にもひどく気に入られたことでそれがよく分ったのである。これなどは、もうほとんど嫉妬を通り越して、おいおいこの俺だって一応社長の息子なんだぞと言ってやりたくなったくらいなのだから。これは冗談なんかではなく本気でそう思ったのだ。つまり将来の出世に大きく響くことになることだけは間違いなかったからである。そこへ突然ある噂が彼の耳に飛び込んで来たのだ。それは父親の後継者はもうすでに決まっているというものだった。もはやそれは決定済みのこととして着々とその準備は進められているというものだった。もちろん、この噂の真意など彼に探り出すことなど出来るはずもなく、ただどうすることも出来ないまま日々の仕事をこなすだけで精一杯だった。もちろん、ただの噂話でしかなかったので、そこは無視してもいいのだが、どうしても気にはなってしまうのだった。とはいえ、いやな予感ほど、どういうわけかよく当たるものだと彼は考えていたので、火のないところに煙は立たないということもあり、ここは一つ思い切って兄に聞いて見ようと考え、そのことを何気なく切り出してみたのだが、彼はいきなり笑い出すとこう言ったのである。

「今からそんなことを心配してどうするんだい。そんなことを心配するくらいならもっと自分の仕事をちゃんとこなせるようにしたほうがよっぽどいいと思うのだがね」この兄の言葉は、まったくその通りだと思わないわけにはいかなかったので、自分の思い上がりをひどく恥じるだけの結果に終わってしまったのである。ところが、このことは意外なほど彼の心を苦しめることになってしまったのだ。つまらぬ噂に踊らされた自分の不甲斐なさと、それを心配して兄に問い質した如何にも浅はかでケチくさい料簡にひどく失望してしまったからだ。この頃からである。自分はとても後継者に成れるような器ではないと思い始めたのは。彼は次第に、自分という人間に疑問を持ち始めたのである。すると自然、自分の生き方そのものにも疑問を持たざるを得なくなってしまうことになる。今まで兄と張り合いバカみたいに、この退屈なゲームに現を抜かして来た自分に、その怒りの矛先を向けないわけには行かなくなったわけである。ということは、これ以上無駄な考えに囚われて時間を浪費するのは、いかにも愚かな所業ではないかと気づいたというわけである。しかし、人間はたとえそう気づいたとしても、なかなか自分の愚かさから抜けきることは難しいようで、中途半端なまま今の状態を続けて行くしかほかに手立ても思いつかなかったのだ。彼は思いきった決断もできず、もはや自分がどうして今の仕事をしているのか、その理由すらまったく掴めなくなり、未来に希望が持てなくなるくらいひどく落ち込んでしまったのだ。

 彼は次第に、わけの分からない不安とある種の強迫観念に襲われるようになってしまったのである。それでも、何とか仕事は辞めずにそれから数年は、まるでゼンマイ仕掛けの自動人形のように、今まで以上に規則正しくよく働いたのだ。表面上は社会のルールに合わせているかのような顔をして、この社会と無難に付き合ったわけだが、それがある朝いつものように目が覚めると、身体が微妙に震え出していることに気づき、それが次第にベッドに伝わり仕舞いには部屋全体が揺れているような幻覚に襲われてしまったのだ。彼はベッドから転がり落ちるのではないかと心配するくらい、その揺れはひどく感じられたのである。これは果たして何だろうと彼は思ったが、しばらくするとその状態は収まってしまった。彼はおかしいとは思いながらもいつも通りに出勤したが、別にその日は何事もなく終わってしまった。しかし、彼はその夜、実に恐ろしい夢を見たのだ。自分の運転する電車が急カーブを曲がりきれず脱線してしまったのだ。彼は一命を取り留めたのだが、乗客に死傷者が多数出てしまい、彼はその場で裁判に掛けられ死刑の判決を受けたのである。彼は自分の責任を認めその判決を進んで受け入れると、さっそく絞首刑の準備が始まり、みんなが見守るなか縄に首を通したところで目が覚めた。彼はしばらく寝床でじっとしていたが、その縄の感触すら感じられたくらい、生々しいその夢に強い衝撃を受けてしまったのだ。たとえそれが夢であっても、なぜかそこに示されている暗示が彼にとって意味深いものであるかのようにも思えたからである。その中でも、何の抵抗もせず進んでその死刑判決を受け入れてしまったということに何よりも驚いてしまったのだ。しかし、彼の性格を考えれば当然そうしても何の異論も出ないとは思うのだが、彼としてはどうやらそんなことではないらしく、夢の中の自分のいさぎよい決断にただただ驚いてしまったようなのだ。ということは、これは、どうしても一度死ぬ必要が彼にはあったとも言えるのだ。それはある意味正しい読みかも知れない。というのも、この夢を境に、自分が今までやって来たことがすべて阿呆らしく思えて来たわけなのだ。いや阿呆らしいどころか何かひどく狂気染みたものに思えて来てならなかったのである。ああ、自分は今までいったい何をやって来たのだろうかと、ここで始めてまともな疑問が彼に訪れたのである。これはひょっとすると彼の生き方に革命を起こすのではないかと思われるくらい画期的なことだったのだ。人は長い人生の間にそういう瞬間が何度か起こるものなのだ。しかし、それを物に出来るかどうかは偏に本人次第なわけである。そういう自覚が起きた彼はそれからどうなったかというと、残念ながらそのまともな疑問をまるでわざと曲解したかのような生活を始め出したのである。つまり一種の享楽主義者に成り下がってしまったわけである。それでも表面上は、まじめなサラリーマンとして日々の仕事に従事していたわけで、そこに自覚されることのない分裂した人間が出来上がり、もはや人間としてのあるべき姿など彼にはどうでもよいものになっていったのである。それでも彼の本能はそれでは満足することが出来なかったらしく、その精神の飢餓を埋めるべく女にのめり込んでいったのだ。女の力によって何とか自分を鍛え直そうという本能が無意識に働いたのかも知れない。そんな状態で苦しんでいた時、あの例の夫人と巡り逢い、彼の空虚な人生にそれなりの意義を与えてもらったわけだが、それも長続きせず、ご存じのような結果に終わってしまったことはすでに記しておいた。ただ彼としては、ああいう終わり方をしても、そこに何の悔恨も良心の呵責らしきものも起こらなかったということが、かえって彼を一層わけの分からぬ心の闇へと追い込んでしまったのである。

 

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