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彼は、自分の過去の不始末を本当にこの場で自ら暴露するつもりなのだろうか。まずいことに、なぜかそうすることが自分の責任ある態度ではないかと思い始めたことだ。そうしない限りこの結婚は、決して祝福されないだろうという、そういうどこか強迫的な考えにどうやら取り憑かれ始めたのである。そうなると、もはや他の違う意見など考えられなくなり、そうしなければ、このまま一生うしろめたい気持ちに苦しめられて生きて行かざるを得ないとさえ思うようになってしまったのである。それに、あの女がこの世に存在している限り、暴露される恐れは常にあると断言しても決しておかしくないのだ。いや、たとえそこまで心配する必要はないとしても、そういう懸念をこの先ずっと持ちながら生活していかなければならないなんて、それこそ地獄以外のなにものでもないではないか。そんなことに一生びくびくして過ごして行くくらいなら、一層のこと自分から告白してしまったほうが、よっぽど男として潔い態度ではないかといった、まさに蟻地獄に落ちた蟻のようにそういう考えから出られなくなって行ったのである。これはどう考えても、彼の心が正常な判断から見放され始めて来た証拠で、果たしてこの精神的な危機を彼はどう切り抜けようとするのか、実に恐ろしい瞬間に立ち至ったというわけである。
彼は、自分のこれまで生きて来た三十八年の人生の中で、最大級の苦しい決断をしなければならなくなったのだ。これは決して大袈裟な言葉ではなく実際そうなのである。正直に言って、彼にはこの決断は、あまりに荷が勝ちすぎたのである。というのも自分の意志ではっきりと、自分の気持ちを示すことが今まであまりにもなかったからだ。彼は迷うことにかけては一人前だが、自分の責任で冷徹に物事を判断して決断することが苦手な人間でもあったのである。困ったことではあるが、それが実情であった。しかし、そうはいっても、現実に何らかの判断を下さなければならなかったのではあるが、どうやら彼はすっかり放心しきった呆然とした顔をして、しばらく自分がどこにいるのかも忘れて、うつむいたままじっと考え込んでしまったのだ。先ほどまでの溌剌とした自信たっぷりな彼のお喋りからは想像もできないくらい、変わり果てたその姿に誰もが驚きを禁じ得なくなってしまい、橘氏などはさっそく心配し始めて「どこかご気分でもお悪いのですか?」と恐る恐る聞かざるを得ないくらい、それほどひどい状態になっていたのである。
「いや、別になんでもありません。どうかされたのですか?そんな変な顔で見たりして」彼はその言葉に薄気味の悪い笑みを浮かべながら、何をそんなに驚いた顔で自分を見ているのかまったく理解できないといった調子で、他人事のように素っ気なく答えるのだった。
人が何かを決断するときは、そこに必ず迷いは付き物だが、それがある限度を超えて迷い出すと人間は、何か別の自分以外の力に縋りたくなるものである。しかし、彼のような優柔不断ではっきりとした決断をしたがらない人間は、何かに縋るというよりも、すっかり諦めてしまうか、それとも成り行きにまかせるか、そのどちらかになりやすいものなのだ。ところが驚いたことに今回は、どうやらそのどちらでもなく、何か今まで思ったこともない恐ろしい考えにとらわれ始めたようなのだ。彼は急に自分が途轍もない意志の持ち主で、どんな困難な決断にも対処できるそういう人間だと、どうも思い始めたようなのだ。それが果たして、どんな心境の変化でそうなったかは定かではないが、どうやらそれは本当のことらしかった。このへんの事情を分かりやすく理屈で説明するのはかなり難しいことなので、そのイメージだけでも摑んでもらうために、あえて比喩を使って説明したいと思う。つまりこういうことだ。今まで心の奥底でひっそりと活躍することもなく静かにしていた英雄が、とうとうその姿を現したとでも言えばいいだろうか。しかし、その英雄は時には破壊をもたらすものでもあり実に取り扱いの難しい、恐ろしい一面を持った、いわばもう一つの隠されていた彼の別の顔でもあったのだ。今まで何らかの理由でこの世に現れることもなく、まるで出番のない役者のようにひっそりと休んでいたわけだが、それが満を持して颯爽とその姿を現したというわけである。
「皆さん、どうか聞いて下さい。とくに紫音さんに聞いてほしいのです」彼は高らかにこう宣言するのだった。
「ぼくは、今それを言うべきかどうかとても悩みました。しかし、もはや言うべきだという結論に達したのです。それはほかでもありません。ぼくの今まで生きて来た人生そのものについてです。ぼくは、ある時期ある女性と不倫関係を続けていました」
こうして図らずも地獄から飛び出してきた英雄の雄叫びが、みんなにどのような衝撃を与えてしまったか、それは推して知るべしだが、さっそく橘氏はそれを聞いて腰を抜かしてしまったのである。娘二人も息子の貴臣も正直これには開いた口がふさがらなかった。とは言うものの、あまりにも今在る自分の立場を弁えずに、ただ自分の英雄的な決断にある意味酔い痴れていた彼だったが、その酔いはすぐに覚める運命にあったわけである。というのは、この突拍子もない告白は、どう考えても波乱を巻き起こす原因にならざるを得ないものだが、彼はそのことを、これから嫌でも自分の目で確かめることになるからである。それと言うのも、この非常識さは橘家の人々を決定的に人間不信の方向に押しやってしまったからだ。もちろん、その告白をどう受け取るかは人それぞれ違うので、それも考慮してみる必要がある。それなら橘氏は、いったいこの告白をどう取ったのか。それは要するに、まったく馬鹿げた、とても正気とは思えない暴挙として受け取ったのだ。もちろん、彼は不倫関係のことは知っていたが、それよりも何でそのことを今ここで、それも娘達の前で言わなければならなかったのか、それがあまりにも不可解でしょうがなかったのだ。いやそれ以上にもっとショックだったのは、このことが娘の耳にはいることなど、それこそ万に一つもないと安心していたのに、それがご丁寧にも本人の口からバレるとは、いったいどういう運命の巡り合わせなのか。それこそ天網恢々疎にして漏らさずではないが、もはやどんな悪事もいつかはもっとも意外な形でその報いを受けるという、そのいい例ではないか。
橘氏は、こんな馬鹿げた話しなど断じて容認できなかったが、それ以上にある恐れを抱いてしまったのである。というのは、もし彼の口から自分もそのことはご存じだったなんて発言されでもしたら、それこそ、この話し自体が崩壊することになるからだ。それだけは何としてでも阻止したかったのだが、その前に、この異常事態をどうすればもとにもどせるのか、まずそれを考えなければならなかった。しかし、その手掛かりがまったく掴めなかったのだ。橘氏は、仕方なく娘たちの様子に恐る恐る目をやるのだった。華音は絶望したような仕草をして、そのままソファーに身を埋めると、もはや処置なしといった表情をしながら天を仰ぎ、人間の愚かさに愛想が尽きたのかそのまま目を瞑り黙り込んでしまった。できればこのままずっと黙り込んでいて欲しいと父親は思っていることだろう。紫音はというと、この告白に最初は顔を赤らめるぐらい驚いたのだが、それでも気を取り直してその意味合いをじっくりと考えてみるのだった。ところで、彼女はいったい彼の告白をどう受け取ったのだろうか。それが何よりも気になるところであったが、それが意外にもその事実をすんなりと受け入れたのである。つまり、この前代未聞の告白をした英雄に対する思いの中には、不思議と反発するような気持ちがなかったということだ。要するに、女にありがちな感情に裏打ちされた意地の悪い批判めいた気持ちなど、これっぽっちもなかったということである。ただ、彼がこのような告白をしたということが、彼女にとってとても重要に思われたのである。というのは、きっと彼は、あの時のことを彼なりに自分に弁明したかったのではないかと思ったからだ。つまり、あの時彼の前に現れたあの女のことで、どうしてもその事実を彼女に言わなければならないと思ったからこそ、こういう実にまずいやり方ではあるが告白しなければならなくなったのだ。そう思うと、彼を責めることなど出来るわけがないと思ったのである。むしろ、彼が招いてしまったこの事態にひどく心が痛むのだった。ところで彼女はここで大きな勘違いをしていたことは間違いないのだ。
ところで、当の柏木亮であるが、彼はこういう事態をどうやら予想すらしていなかったようで、みんなのいかにも落胆した様子を目の当たりにすると、意外なことではあるが、自分の止むにやまれぬ告白がなぜかとんでもない波乱を引き起こしてしまったことに改めて気づき、一気に弱気の虫が後悔の念とともに湧き起こってしまったのである。
「皆さん、どうか落ち着いて下さい。ぼくは決して皆さんを驚かすためだけにこんなことを言ったのではありません。そこには止むにやまれぬ思いがあったからなんです。どうかそこんところをご理解願いたいのですが、どうもそうは簡単にいきそうもありませんね。いや、ほんとうに申し訳ありません。これもすべて、ぼくの不徳の致すところです」
「いや、そんなことはありませんよ」なぜか貴臣が突然、苦境に陥ってしまった気の毒な義兄を救うべく勇んで口を出すのだった。
「ぼくは柏木さんの態度はすごく立派だと思いますね。それにあなたのおっしゃる止むにやまれぬ思いを何となく理解できるように思えるのです。そこには男にしか分からぬ、ある思いが隠れているように思われるからです。もちろんこれはぼくの勝手な解釈ですが、あなたの過去の過ちを姉に思い切って話したということに、そもそも価値があるのです。過去の不始末は終わったものであり、今回の告白はそのケジメのために必要な犠牲でもあったわけです。ですから、何もそんなにご自分のことを責めることはないと思いますよ」
彼のこの発言は、まさに地獄で仏の言葉に出会ったようなものだった。彼は泣きたいほど感激してしまい、すっかり落ち込んでしまった彼をひどく勇気づけるのだった。彼はこれを機に何とか自分の本当の思いをみんなに知らせる必要を強く感じたのだ。
「皆さん、どうかもう一度だけぼくの話しを聞いて下さい。どうやら、とんでもない誤解を皆さんに与えてしまったようで、もはや何を言ってもそう簡単には、皆さんのお気持ちを納得させることはできないと覚悟はしていますが、しかし、ぼくは決して自分の考えが間違っているとは、とても考えられないのです。というのは、ぼくは確かに過去に不祥事を起こしました。しかし、それはすでに解決していて何ら問題もないのです。とはいえ、ここに彼女との未来を考えた場合、どうしてもこのことだけは言っておくべきだという結論に達したわけなんです。しかし、そうは言ってもそのハードルはとても高かった。自分のようなある意味弱い人間にはとうてい越えられない壁として目の前に立ちはだかってしまっていたのです。ですが、二人の未来のためにはどうしてもこのケジメが必要だとぼくは考えたのです。それが、こんな形で、皆さんに衝撃を与えてしまったことは非常に残念でもあり、何とかもう一度冷静になって、みなさんが納得するまで説明をさせてもらえないでしょうか」
彼はこう言って、みんなの顔を一人一人見ながら何とか了解を求めるのだった。しかし、彼はこの時ある不思議な感覚に襲われていたのである。それはほかでもない自分の今回のこの行為に、なぜか今までとは違う自分を感じたからだ。つまりとても自信に満ちた決断力のある人間が、それをやったのだと思えたのだ。とは言っても、それが今の状況と恐ろしく矛盾した感覚でもあったので、おかしいとは思いながらも、それでも今回の自分の行為にはそれなりの自信はあったのだ。たとえそれが夢のような子供じみた妄想から発していたとしても。確かに彼は自分が英雄か何かになったつもりでいたのかも知れない。というより英雄になりたかったのだ。自分にはそれを言う勇気があることを彼女に示したかったからである。それは単に虚栄心の表れにすぎなかったかも知れないが、そんなことなどものともせず心の中で自分にこう言い聞かせていたのだ。『英雄は不倫ごときであたふたするものではない』と。ところが実際は英雄どころか自分の決断に慌てふためいてオロオロするばかりの、実に弱い人間であることに気づいてしまったことに不幸の一端があったのである。
「あの、ちょっといいですか」と、ここで今まで緘黙した仁王のように腕組みしながら座っていた華音がいきなり口を開いたのだ。これには父親を始め、ほかの子供たちも一斉に緊張が走るのだった。確かに、この時、華音が沈黙を破ったということは、きっとそこに一波乱起こすだけの恐ろしい材料の数々があると誰でも思ったからである。
「はっきり言って、私は柏木さんのお話しにはまったく賛同できません。そもそも、あなたの不倫話が、この喜ばしいはずの席に必要だったんでしょうか?どうしてそんなつまらぬ話しを今この時に話さねばならなかったのか、その必然性をぜひあなたの口からお聞きしたいものですわ。それに何ですか貴臣、あんたの口からそんな偉そうな言葉が出て来ようとはちっとも思わなかったわ。いったい男しか分からぬ思いとは何ですか?この話しをすることにどんな価値があると言うのですか?どうして不倫話を話すことがケジメを付けることになるのかしら。私から言わせてもらえば、こんなことはみんな子供の空想です。これでよく分かったわ。男なんかそれこそ子供とちっとも変わらないんだと今回ばかりはようく合点がいきました。男はいくつになっても子供のまんまなんです。いいですか、私にはとうていこんなお話しは承服できません。非常識すぎます。だいいち柏木さん、あなたはご自分の考えに間違いはなかったとはっきりおっしゃいましたが、果たしてどう間違っていないのかそのわけをおっしゃっていただけませんか。あなたは、ひょっとして姉がご自分の正直さを褒めてくれるとでも思ったのではありませんか?確かに姉は人が好いですからね。あなたの正直さに涙を流して感謝するかも知れませんもの。それに、あなたの止むにやまれぬそのお気持ちとは、いったいどんなお気持ちなんでしょうか?ああ、まったくイライラする、どうしてこうも次から次としょうもない疑問が出て来るんだろう。これではまったく気持ちの整理が付きません。でも、最後にこれだけは言っておきますわ。もし、あなたのおっしゃることがこの家でまかり通ると思っていらっしゃるなら、それは実に思い上がったお考えだということを付け加えておきます。あなたは先ほど私たちが納得するまで説明をしたいとおっしゃいましたが、私ははっきり言ってそれは無理だと思っています。もちろん、最終的には姉がすべてを決めることですから、姉がそれで納得するなら別に反対はしませんけどね」と言って、華音は自分の怒りをすっかり吐き出すと、さっさと部屋から出て行ってしまったのだ。しばらく部屋の中は、気まずい雰囲気に包まれて、みんな黙ったまま何も言い出せず、誰かが何かを言ってくれるのを待っているようなそんな状態だった。
ここで一番ひどい衝撃を受けたのは柏木亮であった。これでは、自分の立場を考えるよりも、紫音に対して取り返しのつかないことをして恥を搔かせてしまったのではないかと恐れるのだった。もはや、自分の力だけでは、この苦境を乗り越えることはできないと諦めるくらい落ち込んでしまったが、しかし、それではあまりにも情けないと思い、何とかならないかと色々と思いを巡らせるのだが、その時、ふと紫音と目が合ってしまったのだ。その眼差しには彼の苦境をすべて理解したうえでの包み込むようなやさしさがあった。この人だけは自分を分かってくれていると彼はそう感じたが、それだからこそ一層自分の愚かさに憤りを感じるのだった。彼はおずおずと彼女を見て、何か言いたそうな素振りを見せたのだが、話し掛ける勇気などあるわけもなく仕方なく黙るのだった。それを見て取った紫音は静かにこう言って彼を慰めたのである。
「私はあなたの勇気に敬意を払いますわ。もちろん条件付きで。というのは、やはりあまりにも軽率だったと思えるからです。私は何もあなたを責めているのではありません。そんなことは出来ませんわ。ただ、あなたのお気持ちを察してこう言いたいのです。ご自分のことをもう少し労ってあげて下さいね。そうでないと、あなたご自身がこの先もっと苦しむことになるかも知れないからです。私には何となくそう思えてしかたがありません。もちろん、それが杞憂であることを願っていますが、でも、あなたにはこれからまだまだ辛いことが起こるのではないかと、なぜかそう思われるからです」彼女のこの言葉は、意外な響きをこの場にもたらし、彼の性格にある種の光を当てたのである、それはまた彼との関係において、自分がこれから身を持って経験しなければならない自分への覚悟の言葉のようにも聞こえるのだった。




