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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 柏木亮は、例の夫人との不倫関係が暴露されたことによって、世間的にも恥を晒すことになりすっかり面目を潰してしまったわけだが、それに対してはそれほど後悔はしていないようだった。というのも、自分の今までの自堕落な生活が、そういう犠牲を払いながらも終止符を打ってくれたことにかえって感謝したいくらいだったからだ。それに、あの夫人にとっても、これはこれでやはり意味のある結末だったのだと彼はそう思うのだった。もちろん、自分にとっても、これがベストな結果であったと思っていたのである。なぜかと言えば、おそらく彼のほうから彼女との別れを切り出すようなことは、余程のことがない限り望むべくもないと思われるからである。彼の人間性については、以前に少しだけ紹介はしておいたが、それはあくまでも素描にすぎないものだ。確かに生きた人間の性格などと言うものは、言葉で言い切ることなどできないものだし、そもそも断定などできるものでもない。人はよく決めつけるように、あの男は愛想のない実につまらない人間だとさもそうであるかのように言いたがるが、それはその人にとってはそう見えただけであって、別の人には愛想のいい実に面白い人間かも知れないのである。そうなると、果たしてどっちが本当の彼の性格なのか分からないことにもなる。というよりも、どっちも彼自身なのかも知れないのだ。生きた人間とは実際そのように曖昧なもので、いわば性格とはある意味、仮の表徴にすぎないとも言えるのだ。つまり誰しも自分の中に可能性としての性格を沢山持っているという意味である。ただ、それを実現させようとすればそれ相応の覚悟もいるし、自分が望むような人間になりたいのに、なかなかなれないというおかしな抵抗にもあって自ら苦しむのである。

 というわけで、あの不倫騒動は亮にとっても、生まれ変わるための一つの試練でもあったわけだが、果たしてどこまで彼自身、身を持ってそれを経験していたかは正直に言ってよく分からない。しかしどのように思っていたかは、彼の夫人に対する考え方から何となく推察できると思う。夫人は、実際に神経を病み療養を余儀なくされてしまったが、それでいて彼はそのことをそれほど苦にはしていなかったのだ。むしろそこに自分の落ち度は見つけられなかったのである。彼は夫人を気の毒な女として同情することにやぶさかではなかったが、ただそれだけで心から自分の罪について深く考えることはなかったのである。いや、むしろ考えることを途中で止めてしまったのだ。というのも、彼にとってそんなことより、もっと重要なことが差し迫って来たからだ。彼はあの後、紫音から連絡を受け、再び会うことにして、そこで彼が結婚を前提に交際を求めて来たことに対して彼女は素直にそれを承諾したのである。紫音は自分の人生があまりにも急激に変わりつつあることに何かしら不安を感じたが、それを受け入れたことで自分の人生が何かに向かって進んで行くのだという実感を持つのだった。彼女は亮を自分の家に招待した。それは二人の門出を家族みんなに祝福してもらうためでもあった。

 その日、柏木亮は、まるで結婚式当日のような幸せに満ち溢れた雰囲気の中、家族みんなに出迎えられたのだ。華音もこの日ばかりは、いかにもお上品ぶって彼を出迎えるのだった。貴臣もこの未来の義兄を物珍しそうに見ながら、何か心秘かに思うところがあるようだった。それは自分には男の兄弟がいないということだったのだ。小さい頃から華音という自分の力を我が物顔に誇示してくる小悪魔に何の抵抗も出来ないまま、ただ姉の理不尽な命令に諾々として従って来た弟としては、このところそういう姉との関係に強い不満がくすぶり始めていたようなのだ。というのは何と言っても橘家を仕切っているのは父親ではなく、間違いなく彼女だったからだ。これはどう見ても男として我慢のならないことでもあったわけである。その父親も母親が生きていた間は、自分の威厳をそれなりに備えてはいたが、妻亡き後その力はなぜかめっきりと落ち、最近では華音にその力を明け渡しているような感じだった。ある時、食事中に何の前触れもなく、貴臣の顔を哀れそうに見詰めながら「あんたはわが家のごくつぶしよ」と、いきなり言い掛かりも甚だしい言葉を浴びせられて(どうやら彼が大学へも行かず何もしないでブラブラしていることをからかったようだ)男としてのプライドが大きく傷つけられたのである。もちろん自分が大学に行かないわけはそれなりに理由があったのだが、それはなかなか説明が難しい問題だったのだ。以前にもそのことで華音と意見を戦わせたのだが、あっけなくやり込められてしまった。彼のいかにも理路整然とした話しぶりも、彼女の怒濤のような言葉の洪水の前にはまったく歯が立たなかったのである。男のまっとうな意見が、どうして女にはこうも通じないのかと彼は秘かに苦悩し、男の悲哀を若くして十分味わうのだった。そういうわけで、貴臣は、もしこの結婚がうまくいけば自分にも初めての義兄ができるわけで、これで華音も少しは自分の立場というものを見直すだろうと彼は思うのだった。それに男同士のまともな議論もこれでようやく実現するだろうと大いに期待するのだった。

 橘家は、この界隈では有名な大地主として名を馳せていたが、今ではその規模はすっかり縮小され残されたのは大きな庭と最近改築された豪邸があるのみだった。それでもその庭はそんじょそこらにあるものとは比べものにならないくらい立派なもので、橘家が代々大事に手を掛けてきた一番の宝物であった。それは本格的な日本庭園といってもいいくらいなもので、庭の手入れだけでも相当な技術と手間が掛かるものであった。彼は庭の見える格調のある部屋に通されると、そこからは手入れの行き届いた美しい庭が一望でき、写真でしか見たことのないような庭園に心を奪われるのだった。もっとも彼の家にもこうした日本庭園のようなものではないが、一応大きな庭というか藪というかもうほとんど半分自然といってもいいようなものが屋敷の裏側に広がっていたのだ。それは彼の兄が最近作り始めたやつなのだが、どうもそれとは比較にならないほど格調のある庭で、彼のような門外漢でも、その美しさは十分認められたのだ。しかし、そんなことより彼にはまったく違った意味合いで、この庭に強い親近感を覚えてしまったのである。つまり、きっと彼女も小さい頃この庭でよく遊んでいたのだろうと、そう想像しただけで、今まで縁のなかったこのような伝統的な庭にも、なぜか親しみを持って見ることが出来たからである。

「私はね、こうした庭にはそれほど興味もなかったのだが」と橘氏はおもむろに話し始めた。「歳をとるとなぜかこういうものに非常な妙趣を感じるようになったんですよ。日本人にとって自然はどこか対象として楽しむものではなく、もっと一体になって楽しむものではないのかと最近では考え始めましてね。だから、この庭だって単に見て楽しむだけではなく庭の中を歩き回って楽しめるように工夫されているんですよ。あなたも興味があるならちょっと歩いてみませんか。意外と楽しめるもんですよ」

「ああ、それはぜひとも歩いてみたいもんですね。ぼくは今ふと思ったのですが、紫音さんもお小さい頃この庭で遊んだのではないかと思いましてね、なんかそのお姿が目に浮かんだんですよ」彼はこう言って紫音を見るのだった。彼女は意外な彼の指摘に思わず笑みがこぼれ、小さくうなずくのだった。彼はそれを見ると、自分の些細な心遣いが彼女に分かってもらえたのだと思ってすっかり嬉しくなり『あなたのことならどんな小さな事でも興味が湧くんです』といった気持ちを目で伝え、彼女のやさしいうなずきに応えるのだった。彼は一段と気分がよくなり、この調子なら今日の訪問も成功のうちに終わるだろうと自信を持つのだった。しかし、その反面、彼には一つ悩ましい記憶が頭から消えなかったのだ。あの、いつぞやのレストランでの出来事が、大きなわだかまりとなって彼を苦しめていたのである。そういうわけで、あの嫌な記憶を払拭するためにも、また自分の心証をよくするためにも、ここで一つ何か気の利いた見解をみんなの前で披露できたら、それはそれであの失敗の埋め合わせになるのではないかと秘かに思ったのだ。

「確かに、こういう庭には何か心をゆったりとさせるものを感じますね。日頃ぼくたちは、ある意味コンクリートで出来た迷宮の世界で生きているからでしょうけど、やはり現代人から何か大事なものが徐々に失われていると言わざるをえませんね。それは、われわれの身の回りから何か貴重なものが知らぬ間に消えて行くのと歩調を合わせて、人間の精神から何か大事なものが消えて行くからです。町の都市化が人間にどんな恩恵をもたらすのか。確かに生活はしやすくなり、それなりに楽にはなりますが、そこに思わぬ落とし穴があることも忘れてはいけないのではないでしょうか。それに、町の発展ということもよく聞きますが、そもそもそんなに発展することが大事なことなんでしょうか?それよりか、もっとほかにすべきことがあるんじゃないかと思うんですがね」

「私もそう思います」と、ここでいきなり華音が口を出した。さっきから、何か言いたそうな顔で亮の話を聞いていたのだが、どうやら彼がどんな人間なのかそれが気になっていたらしく、ここで一つ彼の人間性を探ってやれと思ったのである。つまり、姉の夫としてどこまでふさわしいかを親に代わって吟味しようとしたのだ。今まで散々ぱら父親からああだこうだと聞かされてきた曰く付きの御曹司である。どこまで信頼できる男なのか、父親の言葉にうそ偽りがなかったのかどうかを、この際ぜひとも確かめて見ようと思ったのだ。

「つまり、あなたのおっしゃりたいことは、発展すべきは町ではなく、人間のほうだとおっしゃりたいのではありませんか?いきなり、こんな不躾な質問をして申し訳ありませんが、とても大事なお考えだと思いましたので、あえて失礼を顧みず思い切ってお聞きしてみました」

「もちろん構いませんとも。遠慮なさらずどんどん聞いてください。確かに、そう考えていただいても結構なんですが、しかし、ぼくの考えでは、あなたのおっしゃるように人間が進歩するほうがよほど大事だとは思いますが、なかなか難しい問題だと思われますね。なぜかと言えば人間は機械ではないからです。つまり、機械のように簡単に改良などできないからです。これは当たり前のように思われていますが、現代の世の中の趨勢を見れば決して当たり前だと言って、とても見過ごすことなどできません。というのは確かに人間は機械ではないが、機械のように生きる事はできるのです。現代の都市文明はすべてそのように生きる事を目的に作られていますしね。人間の柔軟性は驚くべきものです。機械よりももっと融通の利く機械として生きる事もできるのですから」

「まったく、おっしゃる通りですわ。そうするといったいこれから人間はどのように生きるべきなのでしょうか。もちろん、難しい質問だとは思いますが、あなたのお考えをぜひお聞きしたいと思いますわ」

「人間にとって、これから真剣に考えなければいけないのは、やはりコンピューターの発達ではないでしょうか。これはもう行くべきところまで行かなければ止まりそうもありません。人間はこの悪魔の申し子をどう取り扱うつもりなのか、いや、機械に善悪のレッテルを貼っても意味がありませんが、むしろ問題はやはり人間の側にあるのだということです。悪魔のような考え方は、いくらコンピューターといえども人間のそれにはまったく敵いません。次元が違うのです。つまり人間の悪はどこまで行っても計り知れませんが、コンピューターのそれは見通しが付くのです。つまりコンピューターはどこまでいっても純粋な機械でしかないからです。人間の手足にはなるが人間を越えることはできないのです。コンピューターは決して支離滅裂な考え方をしませんし出来もしないのです。逆説のように思われるかも知れませんが、その点で決定的に人間に劣るのです。要するにコンピューターは実に厳格で正確無比な公僕としての位置が一番ふさわしいのではないかと思うのです。ええと、ところで、ご質問は何でしたっけ?ああ、そうそう、どのように生きるべきかというご質問でしたね。しかし、それは一般論として答えてもあまり意味がないように思うのです。というのも、それはやはり個人個人まったく違う問題を引きずっているからです。しかし、それでは身も蓋もありませんので、あえて言えば、そうですね。自分に正直に生きよ。これかも知れません」彼はすっかり調子に乗って自分の考えを得々と披瀝するのだったが、何となく彼女の表情がしだいに曇ってくることに気づき、これは失敗したかなと不安になるのだった。彼女は、最初は理屈としては何となく理解できたものの、あまりピンと来ないのだった。というのもそこから彼の人間性があまり読めなかったからだ。それに、自分に正直に生きよと言われても、小学生の道徳教育じゃあるまいし、そんなことを今さらまことしやかに言われたって、何の感想も思い浮かばないのだった。まさかこれが彼の心から出た考えではあるまいと思うのが精一杯だった。つまり苦し紛れに出た言葉にすぎないというわけである。そういう不満が彼女の顔に露骨に、それこそ正直に出てしまったのだ。ところが彼女とは反対に貴臣はすっかり興奮してしまったのだ。彼は目を輝かして、こういう議論こそ、わが家ではまったく不足していたものだと感じたからだ。こういう議論こそ、自分が一番望んでいたものであったからだ。もはや女の出る幕ではないといった、どこかヒステリックな感動を覚えるのだった。

「つまり、コンピューターには融通性がないということではないでしょうか」さっそく貴臣は興奮のていで華音が黙り込んでしまったことをいいことに、すかさず話しに割り込んできて今まで溜まりに溜まった鬱憤を一気に吐き出すのだった。「ぼくが面白いと思ったのは、先ほどあなたがおっしゃった人間の真骨頂は、そのデタラメさにあるという考え方です。確かにコンピューターにはそれは不可能なことですね。いちばん苦手なことが曖昧さなんですから。ところが、人間の意識は決してそういうデタラメさを許しません。人間は秩序を好みます。つまりコンピューターはそういう人間の意識の働き方を参考に作られたものですが、人間にはもう一つ無意識という大きな世界を抱えている生き物だということを忘れてはいけないのです。コンピューターにはそれがないということがいちばん大事な事実ではないでしょうか」貴臣はすっかり興奮して自分なりに考えた思想を思い切りよくこの未来の義兄に熱っぽく語るのだった。亮は彼の話しを聞くとすっかり戸惑ってしまったが、というのも、彼の考えはよく分かるのだが、なぜそんなに興奮してこの話題に飛びついてきたのか、それがよく分からなかったからだ。しかし、彼の尋常でない興奮の様子から察するに、これにはきっと何かわけがあるのだろうと思い、これからお互い仲良くしていく必要もあることなので、ここは一つ彼の議論に乗ってみようと思うのだった。それに彼の言っていることにも、それなりに面白い論点が含まれていて興味深く思えたのだ。

「確かに、あなたのおっしゃることには、とても大事な考えが隠れているように思われます。とくにあなたのおっしゃる人間の無意識こそ、これからの人間には必要な視点だと思うのです。われわれはあまりにも意識だけに重点を置いて、これまで生きて来ましたからね。コンピューターというものは、その意識が最後に辿り着いた、この世界をよりよく統制するための最終兵器なのかも知れません。人間はコンピューターに何か計り知れないくらいの期待を抱いているのですが、それに匹敵するくらいの恐怖も感じているのです。まるで、先史時代の人間が神を恐れるのと一緒で、現代人は自分の作った機械を恐れているのです。果たしてコンピューターはプロメーテウスの火となりうるのか。もしなるとしたらその代償はいづれ人間に返ってくるのかも知れません。それは人間が意識を持ったときからの宿命みたいなもので、それを感じているからこそ、計り知れない恐怖を持ってしまうのです。人間がいかに無意識の働きに左右されているか、そこにこそ人間の恐怖の源泉があるわけです」

 貴臣はすっかり感心して黙って聞き惚れてしまったくらいで、この人はきっとこの世界の不思議さに驚いている人に違いないと思うのだった。なぜなら、どこか自分と同じ感覚でこの世界を見ている精神の持ち主ではないかと感じたからだ。要するに世間の常識から一歩抜け出た、そういう精神を持った人ではないかと彼には思われたからである。これは亮にとって見ると、とても喜ばしい勘違いかも知れないのだ。というのも、この先、何か問題が起こっても、彼ならひょっとして亮の味方になってくれるのではないかと思えるからである。要するに頼りになるかも知れない人間が少なくとも一人できたからである。しかし、華音はそう簡単に彼の味方になってくれそうもなかったのだ。というのも、この二人の議論は自分にとってどうでもいいものに思えてきたからである。いったい、いつまでこんなどうでもいい話しを続けるつもりなのか、彼女としてはそんなことよりもっと重要なことがあったので、違う話題に持って行く必要をさっきから強く感じていたのだ。彼女はさっそく話しを自分の知りたいと思っていた方向に持って行こうとして、単刀直入にこう切り出すのだった。

「ところで、柏木さん。お父さんはね、もうあなたのことが気になって仕方がなかったんですよ。それはもう異常なくらい。でも、その理由が分からなかったのです。なんでそこまで姉と結婚させたかったのか、だって、あなたはご存じないかも知れませんけど、最初のうち姉は、この話しをお断りしていたからなんですよ。これはもう過ぎたことなので話しても構わないと思うのです。つまり私の言いたいことは、父はそれこそ平身低頭で姉を説得してたのです。しかし、そのわけは一切教えてくれませんでした。そんなことってあります?変だと思いません?そこで私なりに考えてみたんです。それは柏木さんという人間にその原因があったのではないかと。どういうことかと言いますと、きっと、この方は土下座してでも姉と結婚させたいと思うほど素晴らしい人間なのだとそう思ったからです。もう理屈抜きで無理やりにでも結婚させるべきだと思ったのかも知れません。それでね、ここからが重要な話しになるのですが、私は確信したんですよ。あなたがどういう人間かを。今までのあなたの話しを聞いていてピンときたのです。この人は決して悪党なんかじゃない、ごめんなさい、いきなり変なことを言って。それどころか、この方はどこまでも魂のきれいな嘘の付けない人間ではないのかと、そう感じたのです。それに人を不幸にするような方でもないと思いました。こんな失礼なことを初対面でそれも姉の婚約者に向かって言うなんて、でも、私もあなたに嫌われるのを覚悟したうえで言ったんです。決していい加減な考えで言ったわけではありません。それだけは分かって下さい」

「いったい全体お前は何が言いたいんだ?そんなまことしやかなわけの分からんことを言って、人の気持ちを意味もなく弄ぶもんじゃない。柏木さんだって困っておられるだろう」父親は何とかこれ以上つまらぬことを言い出さないようにと、冷静な口調で娘を諭すのだが、内心は妙な胸騒ぎでそれどころではなかったのである。というのも、華音がこの結婚のことをこんな調子で話すということは、そこに何かの企みがあるのではないかと睨んだからだ。それに父親は以前から疑心暗鬼になっていたのである。ひょっとして彼女はすべてではないにしろ何か知っているのではなかろうかと、そういう疑いをずっと持っていたのだ。そういうわけで、このままこんな調子で話し続けられると彼としては実に困ったことになるだろうと思ったわけである。

「きょうは二人の幸せを祝うために家族に集まってもらったのだ。お前の言うようなことは、この場にはまったくふさわしくないよ。だからその話しはもうそれくらいにして、もっと違う話題に変えた方がいいね」彼はこう言って強引に話しを変えようとしたのだが、もうすっかりこの場の雰囲気が凍り付いたように固まってしまっていたのだ。こんな状況はおいそれと変えられるものではない。もはやこの呪縛から抜け出す方法などありはしなかったのだ。

「でも、ふさわしいかふさわしくないかは、お父さんには決められないのではないでしょうか。それはもともとはお父さんに原因があったわけですから。あきれているのは私たちのほうです。だって、この結婚には何かしら不自然なことが多すぎるからです」

「そんなことは今ここで言うべきことではなかろう。それにそんないい加減な話しは彼に対して失礼極まりないし何の関係もないではないか」父親はこの時、断固とした態度で粘る娘を叱り飛ばしたかったのだが、なぜかそこまで強くなれなかったのだ。というのも自分が紫音に土下座したことまでバレていては、ここで思い切った行動に出たとして、彼女が待ってましたとばかり、色んな屁理屈をこねながら、姉に土下座してまでこの結婚を進めなければならなかったその理由を、もし聞かれでもしたらそれこそ目も当てられないからである。すっかり弱気になってしまった父親は、いったいどうしたらこの娘の口をふさぐことができるのか、色々と思案してはみたものの、うまい考えなど思い浮かぶはずもなく、仕方なくここは一先ず自分から娘に代わって柏木氏に謝ることにしたのだ。しかし、こういう一連の流れが知らぬうちに思わぬ結果を紡ぎ出していくのだから世の中一寸先は闇だと言えるのだ。謝られた柏木氏は、自分がどういうわけか不審な目で見られていたことが分かったので、それは確かにこのままにしておくわけにもいかないと思い、ここで一つ自分の立場をはっきりさせるためにも、またこの疑り深い娘さんの不審を晴らするためにも、こういうことになるまでの経緯を話しておく必要を強く感じたのだ。

「橘さんとは、ずっと懇意にさせて頂いていたのです。華音さんは、何でそこまでお姉さんと結婚させたかったのか、その理由が分からないとおっしゃいましたが、それはぼくの考えでは、きっとこうだと思うのです。ぼくは以前に、非常に苦しい状況がずっと続いていた時期がありました。それはもう生きるのもしんどくなるような、仕事上のことでノイローゼ気味な状態のときがあったのです。もう正直に言ってしまいますが、そんな時です。紫音さんのお姿を街中でお見かけしたのは。それはほんの偶然なことだったのです。もちろん、その時は彼女のことはまるで存知あげておりませんでした。しかし、ぼくにとっては、ある意味運命的な出会いでもあったわけです。その話しをある会合で橘さんにお話ししたことがあったのです。それ以来、ぼくは橘さんとお会いするたびに彼女のことをしつこく話し続けたのです。そういうことがあったのです。たぶんそれが原因ではないかとぼくは想像するのですが」

 彼はできるだけ正直に実際にあったことを感じたまま言おうとして一生懸命に話すのだった。そうした彼の真摯な態度がみんなに通じたのか、すっかり場の雰囲気もよくなり華音もそれなりに納得するのだった。すると橘氏も彼の言明によって救われたと思ったのか、さっそくその尻馬に乗っかってこう言うのだった。

「ああ、そうです。まったくその通りです。よくぞ言ってくれました。これでようやくお前達の不審も晴れたんじゃないのか?」

「それはどうだか、でも、柏木さんがそこまで姉のことを思っておられたことは私も信じます。だってそれでなきゃ姉が承知するはずがありませんもの。ねえ、お姉さん。あら、どうかしたの?何か気になることでもあるの?」姉の表情のちょっとした変化に気づいた妹は、とっさにこう指摘した。この時、紫音は忘れていたある記憶を思い出し、それが一瞬彼女の表情を曇らせてしまったのだ。それは確かめてみる必要を以前からずっと感じてはいたのものの、なぜか恥ずかしさが先行して、言い出せないまま今に至ってしまったのだが、それがここにきて急に確かめるチャンスが出来たと思ったのだ。しかし、そうはいっても、みんなの前でこれを話すことはかなり抵抗もあり迷うところだが、その一方で、このチャンスを逃したら、それこそもはや永久に確かめられなくなる恐れがあると思い、ここは何とか勇気を出して聞かなければいけないと思ったのだ。

「いや、でも一つだけお父さんに聞いておきたいことがあるの。いいかしら。ちょうど亮さんも居ることだし、そのことを今ここではっきりさせて、私を安心させてくれませんか?」紫音は、何かに背中を押されるのを感じ思い切ってこう聞くのだった。

「今ここでか……?」父親はさっそく娘の異様な気配に恐れを抱き、それだけはやめてくれと言いたかったのだが、それもままならず「いったい何だ?」と言って目を剥くのだった。

「お父さんは、なぜ柏木さんに嘘をついたの?あの時、彼の前でとても恥をかいてしまったのよ」

「いったい何のことだね?さっぱり意味が分からんが。いったい何を言ってるんだね?」

「お父さんは、私が柏木さんに一目惚れしたので、何とかお会い出来ないかと言ったそうね。そんなこと言った覚えはまったくありません。そのことを彼から聞かされたとき、どれほど恥ずかしかったか。いったい何でそんな嘘をついたのか今そのわけを聞かせてくれませんか」こう彼女は断固とした口調で父親に弁明を求めるのだった。ところが、父親は一瞬それが何のことやら本当に分からなかったのだ。そんなことを言ったことすらどうしても思い出せなかったからだが、しかし、ここでそのことを闇雲に否定するのは、どうもまずいと咄嗟にそう判断したのである。つまり、そういう覚えはないのだが、ひょっとしてどこかで言ったかもしれないと考えたほうが、この場合得策であるとなぜかそう思ったのである。そこで、娘の言うことを無理に否定するのではなく、どうにかしてこの場を穏便に取り繕うことで何とか切り抜けようと考えた。

「いやその、確かにそういうことをどこかで言ったかも知れない。しかしな、それは何だ。決していい加減な気持ちで言ったわけではないのだ。その、お前の気持ちをちょっとだけ大袈裟に代弁してしまったのだ。それは許されることではないかも知れんが、つい、気持ちが入ってしまったのだよ。もちろん、それは謝る。お前の気持ちをいたずらに弄んでしまったことは本当に悪かった。おまけにお前に恥ずかしい思いをさせてしまったことは本当に申し訳ないと思っているよ」

 父親は、そう言いながらもこの話が、どこでどういうふうに伝わって行ったのかを考えるのだった。最終的には柏木氏がその情報源だろうから、そうするとあの時、彼の兄にそういうことを言ったのかも知れないとふと考えるのだった。確かにそんなことを言ったようだとやっと思い当たったわけだ。ところが、このことが意外にも当の柏木氏の気持ちをひどく揺り動かしてしまったのである。あの時、自分があんなことを言わなければ、彼女だって何ら恥をかくこともなかったのだ。自分の余計な一言が、どうやら彼女をいたずらに傷つけてしまったのだと思い深く反省するのだった。それに第一自分はあの時、どういう気持ちで彼女を出迎えたのか。それは実に恥ずべき態度で彼女を出迎えていたことだけは確かなのだ。それを思うと、いったい今の自分は本当に、この状態を喜んでいいのだろうかと思い始めてしまったのである。これは彼の性格を考えると、かなり危うい状態に追い込まれる危険性があったのである。彼の弱点でもある迷い出すと止まらない性格が、ここで思い切って出て来てしまったからだ。おまけに良心の呵責という個人にとってはどうにもできない心の逆襲が彼を苦しめ始めたのである。まるで津波のように彼を根こそぎどこかへさらって行くようであった。その第一波が、いったい自分は彼女を本当に愛する資格があるのだろうかという考えに表れた。それは彼の今までの生き方が、その根底にあったからだが、それがまたこの期に及んで彼を急に責めさいなみ始めたのである。それに続きまた第二波が脳裏を襲うのだった。あの女の出現だ。あの時、彼女の前にあの女が現れたことがそもそも大間違いだったのだ。紫音に何かしらの考えを与えてしまったことは確実だったからである。それにあの女は自分の秘密をすべて知っているのだ。もちろん橘氏もそのことはご存じだ。しかし、彼の場合はそれほど心配していなかった、なぜならそんなことを娘に知らせるわけがないからだ。それならあの女の場合はどうだろう。もはや二度と会うことはないにしろ、今回の腹いせに世間に言いふらさないとも限らないのだ。確かにあの女ならやりかねないかも知れない。そんなことになったら一大事だ。それならどうしたらいいのだろう。一層のこと先手を打って自分から今回のことを話してしまったらどうだろう。もちろん、この話が消滅する可能性は大きいのだが、自分の口から言えば、ひょっとして違った結果をもたらすかも知れないのだ。彼女だってそこまでする、そういう自分を許してくれるのではないか。つまり自ら罪を告白したということで。それにこの話しはすでに終わっていることだし、その点で理解を得ることは可能ではないかと彼は思ったのである。しかし、そういう甘い打算的な見通しは、思慮に欠けた実に危険な考えであることを、彼はもう少し知っておくべきだったのだ。


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