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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 つまり橘氏は、こういうジレンマに図らずも陥ってしまったわけである。自分の欲望を叶えるためには娘の結婚を犠牲にしなければならない。しかし、そんなことは常識的に言ってあり得ないことだろう。彼だって、そのくらいのことは分かっていたはずである。ところが、彼はこう考えたのだ。『果たして、娘はそれで不幸のどん底に落ちるとでも言うのだろうか。彼がそういうことをする男だとして、それだけで彼の人間性を全否定してもいいのだろうか。それはあまりにも単純で傲慢な考え方ではないだろうか。人間は過ちを犯しやすい生き物だ。万物の霊長と言われながら、おそらく一番過ちを犯している生き物ではないだろうか。まったく困ったことではあるが、それは紛れもない事実なのだから仕方がない。もちろん、彼の場合も、確かにそれは娘の立場になって考えれば決して承諾できかねるような過ちかも知れない。しかし、こういうことはどこまでも冷静に考えてみるべきもので、決して即断で決めつけてはいけないものではないだろうか。そもそも人間は過ちを犯す生き物だということをよくよく考えてみなければならないのだ。いや、もっと踏み込んで言えば、人間は過ちなしでは生きられない生き物だといってもいいほどである。これはもうほとんど公理と言ってもいいくらいだ。それにまた、それを批判する側に立つ者もやはり過ちを犯す人間だということを忘れてはいけないのだ。つまり、この私自身からして、実に過ちだらけの堕落しきった人間だということだ。この歳になって、それはもう痛いほど自覚している。それなら、そういう自分が何で彼の人間性を批判できると言うのだ。そんなことが出来るはずがない。いや、私にはその資格がないということだ』と。長々と独自の哲学を捻り出してみたわけだが、要するに橘氏はそのことには目を瞑ると言っているのだ。これは政治家流のレトリックかも知れない。どこまでも筋を通しながら、いつのまにか自己弁護にもなっている。それとも自分の堕落さ加減を担保にして彼の人間性を保証してほしいとでも言いたいのだろうか。しかし、それ以前に彼は娘を自分の欲望のために売ろうとまでしているのである。その時点で、彼の理屈は意味をなしていないのだが、ところが、彼の浅ましい欲望は、徐々にその実現に向けて不気味な様相を現し始めていたのだ。

 橘氏は、あることを禮子に故意にそれとなく吹き込んだのだ。それは自分の娘と柏木亮が結婚するかも知れないと言うことを。つまり、どうやら彼はおのれの欲望と引き換えに自分の娘を生け贄としてついに差し出したようである。もっとも、彼にしてみれば単に事実を言ったまでのことであったのかも知れない。それを聞いた彼女は一瞬驚いたが、そこはさすがに落ち着いた態度でその知らせを受け止めるのだった。そういう話しは以前に橘氏から聞いてはいたからだ。とはいえ、それはあくまでも彼に出会う前のことで、ほとんど問題にもならない時のことであった。あの事があった後で、この情報を彼女がどう受け取るかは、さすがに橘氏も穏やかなままではいられなかったようで、この時ばかりは、あとで彼女を慰めるために何かしてやろうという気にも珍しくなったようだ。焼き餅を焼いたことで、どうやら彼女に対する情愛がより一層強く湧いて来てしまったようで、もはやこの女なしでは何事も始まらないとまで思い詰めた男のように、どこまでも彼女に気を遣っているようなところもあったみたいだ。確かに、この話しは正直彼女には極めて心乱れる話しではあったのだ。しかし、そういうことなら彼の娘に道を譲らないわけにはいかないでないか。ほかにどのような方法があるのだろう。この際自分の欲望はきっぱりと諦めるべきではないか。彼女は健気けなげにも潔く自分の欲望を犠牲にしようとしたのである。まったく橘氏とはえらい違いである。しかし、人の心は決して一筋縄ではいかないようで、彼女とて、この先自分にどのような運命が待っているか、それはもちろん知る由もなかったのだ。

 そういうわけで、禮子としては不思議なほど諦めがいいというか、ものの道理がよく分かる女になっていたのである。これなど別の視点から考えると何か異常なほどの反動が彼女の心の中で起きているのではないかと勘ぐりたくなるほどなのだ。それとも彼女の性格から考えて、いつまでも未練たらしく男を追うなどということは、自分をおとしめ、おまけに相手の男から見くびられるだけのバカげた行為だとでも言いたかったのだろうか。そこで、こうした彼女の性格を色々と鑑みたうえで、以前に話したことのある、あのレストランでのエピソードについて、これからちょっとした考察をしてみたいと思うのである。なぜそんなことをするかというと、この行動こそ彼女にとって最大の過ちだと後になって後悔したことだったからだ。そういうことからも、ひょっとしたら彼女の隠された一面について何か言えるかも知れないからである。

 このシチュエーションが実現した切っ掛けは、橘氏の言動にその原因があったわけだが、そもそも橘氏にも、その責任がなかったとは言えないのだ。というのも、そういう情報を彼女に与えた以上、どうしたって二人の所に出向いて行くだろうと、橘氏は考えなければいけなかったからだ。ところが、橘氏は、きっと行くに違いないと思っていたようだ。ということは、彼は、そうなることも承知のうえで、あえて教えたということか。そこが曖昧なのだが、どうやら始めは、そう思っていたわけではないらしいのだが、話して行くうちに、彼は、絶対行くに違いないと確信したようだ。しかし、それでは、非常にまずいことになるとは考えなかったのだろうか。もちろん、まずいことになるかも知れないとは一応考えたのだが、そんなことよりも、禮子に直接二人の姿を見せたら、潔く彼を諦めるのではないかと思ったのである。しかし、それはあくまでもこちらの勝手な願望ではないか。なぜなら諦めるどころか、反対に二人の関係を壊すことだって有り得るのだから。もちろんそう考えるのが普通だが、橘氏は彼女の性格を考えれば、そんな馬鹿なまねはしないと強く信じていたようなのだ。しかし、橘氏がいくらそう信じていても、彼女は勝手に自分のしたいようにできたはずだし、今回は、たまたま何事も起きずに済んだだけだということではないのか。確かに、そう考えられないこともないのだが、ところが、彼の考えはあながち間違ってはいなかったのである。というのも、彼女は決して彼をおとしめて二人の関係を壊そうと思って出掛けて行ったわけではないからである。これだけはここではっきりと断言しておこう。彼女の名誉のためにも。しかし、残念ながら彼女の子供のように純粋でまっすぐな魂は、現実の前ではあまりにも理解されなかっただけなのだ。とくに一番理解してほしかったあの男には、まるで外国人に話し掛けたときのように彼女の言葉は通じなかったのである。売り言葉に買い言葉ではないが、あまりにもおかしな事になってしまい、彼女はすっかり戸惑い、おまけにあの最後に言った捨て台詞みたいた言葉が、なぜか余計なものに思われて来てしょうがなかったのだ。こうしたことがすべて、彼女にとって我慢のならない忌まわしいほどの後悔を伴って、彼女の心を苦しめることになったというわけである。

 そういうわけで、禮子にとっては完全に失敗してしまった行為ではあったが、柏木亮にしてみれば、もちろん彼女が紫音の父親と結婚することなど、その時点ではまったく知らなかったので、後味の悪さは残ったものの、これでやっとこの女から解放されると思っていたとしてもなんら不思議ではなかったのだ。むしろ、嵐が去ってくれた後の安堵した清々しい気分にどっぷりとひたっていたのである。というのも、彼はあの時、紫音と別れたあと、なぜか突然今まで感じたことのない喜びで胸が一杯になってしまったからである。それはとても不思議な経験で、自分の存在がかつてないほどの至福に満ちた暖かなやさしい気持ちに包まれるのを感じたからだ。それは自分の今までの人生において一度も経験したことのない光に満ち溢れた感情だったのでなおさら驚いたのである。その奇妙な幸福感をもっと違う場所で味わってみたかったで、彼は慌ててタクシーの運転手に、この辺りにどこか静かで落ち着けるような場所はないかと聞いたところ、近くに眺めのよい公園があると教えてくれたので、さっそくそこまでタクシーを走らせた。

 そこは町が一望できる小高い丘になったところで、町の喧噪からも守られ静かで人影もなく夕方の落ち着いた雰囲気が、そのまま彼の気分を一層心地よいものにさせてくれるのだった。さっそく彼は丘の先端まで歩いて行き、しばらく暮れゆく町の眺望を楽しみながら心地よく吹く風を、おのれの火照ほてった胸を冷やそうと力一杯に吸い込むのだった。彼はしばらくそこに佇んだままじっとしていたが、何かが自分の中で変化していることに気づいたのだ。それはもう間違いなかった。自分の今までの暗い無気力な何をやっても満たされることのない冷え切った心を、彼女を得ることで自分の闇の勢力を光りあるものに再生してくれるかも知れないと思えたことだ。あの女性が自分にもたらしたある感情は、それほどの輝きに満ち溢れたものだったのだ。

 彼は自宅に戻ると、さっそく橘氏に連絡をとるのだった。亮は、のっけから自分の感動を包み隠さず橘氏に喋りまくり彼女を褒めちぎるのだった。彼女に出会ったことが自分にとってどのくらい幸運なことだったかをとめどなく説明するのだったが、それがあまりにも子供っぽい感情に彩られた、どことなく地に足が着いていない浮ついたものに聞こえるのだった。橘氏は、黙って彼のお喋りを聞きながら、腹の中でこの男が果たしてどこまで信じられるのか、やはりそこは父親として正直心配なところでもあったので、娘を気に入ってくれたことはとても嬉しいのだが、そう簡単に彼の浮かれたような言葉に乗っかって一緒に喜ぶわけにもいかなかったのである。亮は、最後に彼女と結婚を前提としたお付き合いをさせて頂きたいという許可を橘氏に勢いに乗じて切り出すのだった。これなどは彼としては極めて珍しいことで、この時彼がどのくらいのぼせ上がっていたかのいい証拠にもなるくらいだった。その上でもう一度、彼女にお目に掛かって自分の気持ちを正直に打ち明けたいので、そのことを一応彼女に連絡してほしとお願いするのだった。というのもまだ彼女の携帯の番号も聞いていないので、直接連絡もとれないということも正直に話すのだった。橘氏はそれを聞くと、この男もそれなりに真剣なのだと思い直し、それならこちらも腹をえて考えることに決め、娘にさっそく連絡させるからと約束して彼を安心させるのだった。

 橘氏は電話を切ると、しばらくその場から動かずジッと床のある一点を見つめたまま、おのれの人生に思いを馳せるのだった。それは色んな意味で極めて重大な局面を迎えたと思えたからだ。それは自分を筆頭に、この家族全員の運命が自分の望む方向に向かって動き出したように思えたからだ。もはやそれは誰にも止められず、無理に止めようとすればきっと身の破滅をきたすと彼はそうはっきりと感ずるのだった。もちろん彼は、自分の罪深さを感ずればこそ、その責任はいずれこの身にのし掛かって来るだろうと覚悟はしているが、もはやそれは一つの運命としてそれにあらがおうとはせず自分の欲望は欲望として、それも実現させなければならないと決意を新たにするのだった。

 こういう奇怪な彼の決意は、確かに人間がいかに様々な矛盾した欲望を持った存在であるかの証明にもなるだろうが、どこか人生の破綻へと導く原因とも考えられるのだ。人間の欲望はその生命力と一緒で、どこまでもおのれの実現を目指すものだが、果たしてそれがどこまで許容できるものなのか、つまり人間の良心はその矛盾にどこまで耐えられるかに掛かっていると言っていいのかも知れない。人間の深い闇の中でうごめいているそれらの矛盾した欲望は、普段は様々な社会的規制と、おのれの良心の狭間で抑制されてはいるが、何かの切っ掛けでその抑制が外れることだってあるのだ。その時の人間のとる行動は決まって自分の意志を放棄し、何かと言えば運命に身を委ねることになる。橘氏の場合もそうで、おのれの意志をあっさりと自分の運命に預けてしまったのである。それこそ彼が自分の欲望に取り憑かれているという証拠にもなるのだ。つまり、彼が欲望しているのではない、欲望が彼をいいように操っているのだ。



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