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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 橘氏は、しきりに三人の子供が三人とも少し変わっていることを彼女に愚痴るのだった。何でこうも親を無視して子供というものは成長して行くのだろうか。それが無性に腹が立つと言うのだ。一番上の娘はもう三十なんだが、困ったことに結婚もせずに家で朝から晩まで本を読んでるんだ。恐らくこれから先もずっと本を読んで行くらしい。結婚する気がどうやらないらしいのだ。二番目の娘はこれはもうどうすることもできないくらいやんちゃな娘で、こいつだけは早いとこ嫁に行ってもらいたいのだが、これもまたその気がないらしいのだ。こいつは親に反抗したいがために家から出て行かないのだ。いつまでも親の私を苦しめたいらしいのだ。私は最近それに気づいて呆れるやら腹が立つやらで実に困ってるんだ。三人目は、まだ大学生で、親の脛をかじりながら平然と生きている息子だが、こやつは苦労して大学に入ったにもかかわらず、なぜか大学に行かず何をやっているのかさっぱり分からんのだ。それでいて、実にのんびりと優雅に毎日暮らしているのだからまったく呆れて物も言えん。これはどう考えても変だ。彼らには何かが欠けている。人生で大事な何かが。それが最近突然わかったんだ。彼らに欠けているのは生きる真剣さだ。何もかもが中途半端で実に生ぬるい云々。

 こうして橘氏は我知らず熱くなって今まで溜まりに溜まっていた鬱憤を彼女に向かって吐き出すのだった。すると禮子は半ば呆れながらも冷静に橘氏の心を見て取りこう言うのだった。

「でも、何だかとても羨ましいですわ。だって橘さんは三人の子供さんたちをとても愛していらっしゃるんですもの。それはもうちゃんとお顔に書いてありますよ。気づかないのはあなただけです。私にはすっかり分かってしまいました」

 しかし、橘氏は彼女のあながちお世辞とは言えない褒め言葉にも浮かぬ顔をしてこう言い返すのだった。

「いや、なかなかそう言い切れんところに親としての辛さがあるんだよ。それと言うのも、私は三年程前に妻を亡くしてな。それ以来、きわめて厄介な問題に直面しているんだ。つまり長女の結婚問題だよ。これは男親にとってはね、なかなか難しい問題なんだ。母親がいれば、そこはまた少しは違っては来るのだろうがね。男親がそういう娘の内面に立ち入って何かを言うってことは実に難しいことだからね。要するに、怖くて下手に触れられんのだよ。むしろ、そういう厄介な問題から逃げ出したいくらいなんだ。これはとても責任ある親の言葉じゃないよ。それは私も認めるが、しかし、私にも限界ってもんがあるからね」

「でも、橘さんはこの町の名士で財産もある立派なお家の方ではありませんか。そういう家庭の娘さんに縁談の一つや二つあるでしょうに。何もご心配なさることでもないと思えるのですが」

「しかし、そこがまた問題なんだ。その縁談ってやつが娘にとってどうやら鬼門らしいのだ。そりゃ今までにも何度かそういう話しはあったんだよ。ところが、いざ写真を差し出したとたん奇妙な現象が起こったのだ。娘はしみじみとその写真の男性を見つめ、こう言ったのだ。「こんな写真一枚で私の人生が決まってしまうのでしょうか?」って、どう思う?とても信じられんじゃないか?そこで、私は娘に言ってやったんだ。「いや、これはあくまでも一つの判断材料として見てもらったんだよ。それともなにかい正直に言ってお前はこの写真の男性に不満でもあるというのか」ってね。すると、どうもそうではないらしいのだ。これじゃ、まるで禅問答みたいな話しになって、この私にはまったく理解不能だ。そもそも娘はその写真に何を見たというのだ?自分の将来を垣間見たとでも言うのだろうか?まったく訳が分らん」

 禮子は苦笑したが、なぜかその長女にとても興味を持つのだった。彼女もこの結婚というものにある種の意見を持っていたようで、どうやらそのあたりで同じ匂いを感じたらしいのだ。これはとても興味深いことでもあるので、いずれまた取り上げることにもなると思うが、ここではそう指摘するに留めて話しを続けようと思う。橘氏はしみじみとした調子でこう付け加えるのだった。

「この写真の一件から私はすっかり憶病になってしまったんだよ。あまりにもショックだったもんでね。娘にとって結婚というものが、何か途轍もなく難しい問題になっているようなんだ。まあ、その辺のことは確かめてみたわけではないのではっきりとは言えんのだが、どうも私にはそう思えて仕方がないんだ。おそらく何か奇跡のようなことでも起こらない限り娘は結婚しないだろうとその時私は悟ったのだ。実に不幸な瞬間だったよ。お互いにね」

 このような家庭の秘められた話しは商売柄よく聞くのだが、彼女にとってそれらは単に自分の人生の上っ面をただ通り過ぎて行くだけの一つのエピソードにすぎなかった。しかし、この時はなぜか自分の生き方の何かと共鳴したようで、不思議な残響となっていつまでも鳴り響いていたのである。

 こうして、この二人はその後しばらくは客とホステスというごく普通の関係として続いていたのだが、いつまでも擬似的な演じられた関係だけでは満足いかなくなったのは言うまでもない。そこで一計を案じたのだ。彼女を違う世界に引っ張り出して、そこで何とか落とせないかと考えたのである。つまり、自分は決して無能で社会的に価値のない単なる老いぼれなんかではなく、色々とこの町のために市会議員として活躍しているというとろこを見せてやろうと思ったのだ。実のところ、彼は世間的にもかなり頼られてる存在でもあったわけで、この町のあらゆる立場の人々にもその顔は知られていて、本人も何かとそういう人達に協力することもあったのだ。その点、誰からも信頼されてはいたのである。彼はこの町の有名な企業のトップとも顔なじみで、よく私的にも付き合いがあり、そういう会社のお歴々が集まる夜会のようなものにも橘氏はよく顔をだしていたのである。その中にあの柏木亮もいたのだ。彼はその頃ある問題で悩んでいた最中で、橘氏にもそのことで相談したこともあったのだ。そういう関係でいた頃に、あの考えが閃いたのだ。この一流企業の御曹司に娘を嫁がせることができたら、きっと自分のためにも十分なメリットがあるだろうと言う、親としてあるまじき考えがピンと閃いたというわけである。このことはすでにそのあらましを話しておいたのでもう繰り返さないが、しかし、ここに来て別の実に込み入ったある大問題が発生してしまったのである。

 橘氏は、禮子をある夜会に招待するするのだった。それは何としてでも彼女に自分という人間を認めてもらい、その上で自分が決して色香に迷ったわけではないことを示したかったのだ。そういうわけで、ちょうどいいタイミングで彼女の店のオーナー夫人が主催する夜会があったので(そうあの例の夜会だ)彼女を引っ張り出したのだ。そこには色んな社会的立場の人達が顔を出していたので、彼も自分がいかに顔が広いかを知らせるには絶好の場所でもあったからだ。しかし、この時すでに不吉な前兆は起こっていたのである。彼女はもうある男性にさっそく注目していたのだ。もちろん、これは橘氏からするとまったく予想外なことで、これでは自分の社会的立場を彼女に知ってもらうどころか、自分の思惑そのものが逆に崩壊してしまいかねなかったのだ。ここで大事なのは、橘氏はあの事件が起こるまで夫人と柏木氏がそういう関係だったことなどまったく知らなかったということである。しかし問題なのは、それを知ったあとの彼の行動である。大筋はすでにご存じだと思うので、ここでは橘氏の側から見たあの時の様子を改めて振り返って見ようと思うのである。そうすることで一層あの事件の真相が別の意味で鮮明になると思うからだ。そして、あの事件がその後彼らにどんな影響を与えたのか、その一端を知ることにもなるからである。

 最初に断って置くが、彼がその夜会に出たのはその時が初めてである。ところで、なぜ彼がこの夜会に出られたかというと、夫人の夫が知り合いでもあったからだ。橘氏はその夫とは古い付き合いで、その夫人についても色々と彼から聞いてはいたのである。不倫のことも、それとなく匂わしてはいたのだ。もちろん橘氏も内心同情はしていたが半ば呆れてもいたのだ。そういうわけで、橘氏もこの夫人を実際目の前で見た時、自然とあの気の毒な夫の嘆きを思い出したというわけだ。ただその相手が柏木氏だとは夢にも思わなかっただけである。夫人は橘氏のことは十分承知していたので今度のこの訪問も断る理由がなかったので快く受け入れたのだが、禮子のことはどうにも納得いかなかったのである。しかし、橘氏の意向もあり仕方なく同意したというわけであった。この時、橘氏は柏木亮を見掛けたので、近くまで歩み寄って禮子を紹介するのだった。これがそもそも波乱の幕開けだったのだ。禮子は一瞬でこの男に魅了されたようだ。それは誰しもが思いも掛けないところで自分の運命と巡り逢ったときに感じる、あの何とも説明しようのない確信めいた驚きとでも言ったものであろうか。そういう感覚は男よりも女のほうがずっと強いのかも知れない。つまりそれは頭で考えるよりも先に本能的なものが動くからだろう。こうなると、話しは随分とややこしくなってくるのだが、橘氏としては、そんなことはあってはならないことだったので、何とか彼と二人だけにはしないようにと色々と工作をするのだが、そういう小細工で彼女をつなぎ止めておくにはやはり限度があり実に苦労したのだ。ある意味この夜会は藪蛇になってしまったようである。とはいえ、その日の夜会は何とか無事に終わったものの、予定としてはもう一日あったのだが急遽取りやめにしたところ、禮子自身が猛然と駄々をこねたのだ。これには橘氏も困ってしまい、仕方なく彼女の願いを聞き入れたのはいいが、やはり彼の恐れていたことは的中してしまったのである。というのも彼女のお目当ては完全に彼一人に集中していたからである。もはや、そこにはむき出しの欲望がその姿態に溢れ、彼を取って食わんばかりの勢いを感じたくらいだった。そういう危険な欲望を夫人が見逃すはずがなかったのだ。そういうわけで、この後どうなったかはずでにご承知の通りなのだが、ここからは橘氏が見た事件のあらましを話して見たいと思うのである。それはまた違った印象を受けるはずである。彼は禮子が出入り禁止を宣告されたその一部始終をハラハラしながら見ていたわけである。禮子と夫人とのやり取りもすべて聞いていたし、夫人の理不尽なやり方にも一応抗議したのである。ところが、その一方で心配の種がこれで消えたと内心ホッとしたのだ。しかし、納得いかないのは禮子のほうだった。彼女の怒りは収まらず、このことが後々尾を引くことにもなったのである。こうした事件を巡る一連の流れの中で、注目すべきことは橘氏がその時この事件をどう思ったかというそのことなのだ。これは後に娘の結婚を強引に推し進めることにも繋がる重要なことなのである。そのことは次のようなことが起こったことで、さらに拍車がかかったのだ。事件があった後しばらくして、橘氏がある知らせを持って彼女のもとにやって来たのだ。彼女はその時、お店を辞めることを橘氏に相談したのだが、なぜか柏木に思いを寄せ居ていたことも彼に告白したのである。もちろん、そういう話しは二人の間では別にタブーではないのだろうが、心情的には遠慮してしかるべき話題でもあったはずだ。そのくらいのことは彼女のような女に分からないはずがないのだ。ということは、このような告白にもそれなりの理由があったと考えても間違いなさそうだ。しかし、困ったことに橘氏のほうが、それを額面通りに取ってしまいひどく感情的になってしまったのである。この告白を一種の裏切りと受け取ったのだ。そういう告白を聞かされた以上、男としてこのまま何もしないわけにはいかないではないかとさっそく思ったわけである。こうなると、もはや娘の結婚がどうだとか自分の選挙にメリットがあるだろうとか、そういったことは彼の念頭からすっかり消え去ってしまったのだ。橘氏は男のプライドにかけてこう考えた。こうなった以上、何としてでも彼を禮子の前から消し去ってしまわなければならないと。

 橘氏は、この時点では柏木亮と夫人との関係はすでに知っていたのだ。このことは非常に重要で、つまりそれは彼の心の闇に関係する問題にも繋がるからだ。しかし、ここでは彼がどう考えたかという、その事実だけを述べるに留めよう。いったいどうすれば彼のことを諦めさせることができるのか。彼は考えた。それは今までにないくらいの嫉妬心の入り交じった狂熱と集中力で夜もまんじりとしないまま考え抜いたのである。まったく老人といえども情欲が絡むと、それほどのエネルギーが自然と出て来るものらしい。しかし、そのことは意外と簡単なことだった。それは彼が結婚すればいいだけのことであった。そうすれば彼女は諦めざるを得ないというわけだ。それなら誰と結婚させればいいのか。それはもうすでに決まっていることではないか。自分の娘と結婚させればいいだけのことだ。何も焦る必要など少しもなかったのだ。こうして橘氏は、自分の欲望が守られたと思い、すっかり安心してしまったのである。ところが、よくよく考えて見るとこの結婚は、その時と今とでは大きくその意味合いが違っていたのだ。つまり、彼の人間性そのものに大いなる疑問符が付いてしまったというわけである。もちろん、それに目をつぶれば別に何の問題もないわけだ。あの事実が娘の耳に達することは、もう万に一つもないと言ってもいいのだから。誰が、あのことを娘に告げ口すると言うのだ。彼は必死にそう思い込むのだった。この時点で、彼は一種の負い目を感じていたのかも知れない。知っていながら、あのような男に大事な娘をまるで生け贄のように引き渡して果たしてそれで親と言えるのだろうかと。

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