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この奇妙な事件の後、禮子はあまりにも理不尽な扱いを夫人から受けたことを理由に、お店をあっさりと辞めてしまったのだ。しばらくは静まることのない怒りに責め苛まれていたが、そういうやり場のない怒りを一挙に吹き飛ばす知らせが、ある人物によってもたらされたのである。その知らせは、あの事件の後日談であり、その話しの内容に最初は驚いたが、あの時の光景がまた違った姿で甦ってきて、それはそれでまた面白く、しばらく腹を抱えて笑ってしまったほどである。なるほどそういうことなら、あの女のわけの分からない理屈も、何となく理解できるというものだ。要するに、あの女は自分の思い者が取られるのではないかと心配したあまり、ああいう行為に出たというわけである。そう思うと、あの中年女の哀れさが、妙に偲ばれて気の毒にさえ思われてくるのだった。彼女はこの時、怒りにまかせて店を辞めてしまったことをちょっぴり後悔したのだ。そういうことなら、もう少し粘ってもっと稼がせてもらえばよかったと思い、とても残念に思うのだった。そうすればあの夫人のことも、それにあの思い者のことも、もっとよく知ることができたかも知れないのに。しかし、もう今さら未練がましくしても仕方がないので、これから先どう生きて行こうかとまずそれを考えるのだった。
彼女はこの時、結婚のことも考えたのだ。というのは、そういう話しがある所から舞い込んで来ていたからである。つまり、ある資産家の後妻にならないかという打診があったのだ。もちろん、彼女からすれば、あまりにも突飛な話しで最初は信じられず冗談かと思ってお断りしたのだが、その一方で、どうして私なんだろうと思われたのだ。しかし、いくら財産があり、町の有力者だとしても、相手はしばらくすれば介護を必要とする現役のお爺ちゃんではないか、それは彼女の思っている生き方からすれば、あまりにもかけ離れたもので、とても考えられないものでもあったのだ。彼女だって、まだ三十六だし、これからだっていい男と巡り会えるチャンスがまったくないとは言えないからだ。例えばあの不倫男にしても、彼女からすれば決して問題外というわけではなかったのだ。不倫はもちろん我慢のならないことではあるが、それであの男のすべてが否定されたわけでもないのだ。そこはいいように解釈できるのだろう。彼女の考えによれば、自分がそうされたわけでもないのに、一概にあの男のことを信用できないと言い切ってもいいのだろうかと思われたのだ。それは確かに一理あるかも知れないが、果たしてそう簡単に信じてもいいのだろうか。彼女のような性格の女には、男に対する独特の感性があるのかも知れないが、どことなく彼女らしからぬ甘い話しにも聞こえるのだった。ところが彼女にとって大事なのは、そういう理屈ではなく、あのとき自分の中で閃いたある感覚だったのだ。つまり自分がなぜあの男に我知らず惹かれたのかという謎めいた感覚だったのだ。それが彼女には何よりも大事なものだった。もちろん、それはそう簡単に言葉にならないものではあったのだが。そういうわけで、彼女からすれば世間的な道理がいくら正しいと思われたとしても、そんなものは決して彼女の心情を覆すまでには至らない、ただの屁理屈にすぎなかったのである。
とはいえ、彼女が一旦は退けた後妻の話しだが、それがどういう理由でか分からないが、彼女の心の奥底で消えることなく不気味に燻り続けていたのである。そこで、この後妻話しがどのようにして持ち上がったのか、それをこれから話してみたいと思う。それは実に奇怪な経過を辿って発生したのである。橘氏のクラブ通いは以前にも少し触れたが、自分の再婚を真剣に考えるようになってからというもの、クラブ詣でも次第に熱が入り、どうやらめぼしい子を見つけたらしく何かと目を掛けるようになっていたのだ。その日、橘氏はいつもよりめかし込んで家を出たのはいいが、なぜか自分でも分かるくらい緊張しているらしく、きっと何か下心があるに違いなかった。ところがそういう時に限って人の期待は裏切られるものである。まるで青年のような意気込みで、ある決意を持って臨んで来たのに肝心のお目当ての子がお休みとはいったい何事かと彼は思うのだった。この時ばかりは拍子抜けを通り越して、その落胆振りは傍目にも分かるくらいだったのだ。こうなると男というものは歳などに関係なく、意気込みが強かったぶん、運命に見放された惨めったらしい気分になって鬱ぎ込まざるを得ないのだ。この時の橘氏もどうやらそんな心境になっていたらしく、いつものようにバカ話しをしながら冗談も言えず終始ご機嫌斜めだった。上得意のお客でもあるので、このまま手を拱いているわけにもいかず、店のママはさっそく手を打つのだった。その時、急遽送り出されたのが禮子嬢その人であった。彼女はそれまで別の店に出ていたのだが、その日からこの店で働くことになっていたのである。
彼女は、持ち前の独特なお喋りで、それまで不機嫌だった橘氏をたちまち気持ちよくさせ、おまけにすっかり気に入られてしまったのだ。それは神業といってもいいくらいで、なんでこうも橘氏のような一癖もある男を手玉に取るくらい器用に扱えるのか、それはまさに一つの謎でもあったのだ。というのも二人の会話を聞いていると、まるでずれた歯車のように、決して咬み合うことはないだろうと思われたからである。もともと男の筋の通った理屈などに、女はそれほど興味もないし、女の理屈に合わない感情など、男にはバカげて見えるので、この点で双方まったく折り合うことはなかったのである。それなら、どうしたらこの折り合うことのない二つの対立したものが、良い関係を持てるようになるのか。おそらくその肝となるのは、二人が大きな誤解の中にいるということが何よりも大事なのだ。要するにお互い気持ちよく騙されることによって二人の関係はうまく行くのである。こう言ったからといって何も眉を顰める必要など少しもない。それは誰しも普通にやっていることでもあるからだ。もっとも、それにはどちらか一方に誤解を持たせるだけの、それなりの力量というか余裕がないと駄目なのだ。それでなければお互い白けるだけである。彼女の場合それが十分すぎるくらいあった。そういうわけで、さしもの橘氏も禮子嬢の魔術のようなお喋りで、すっかり元通りの晴れやかな気分になって最悪だったその日も、気持ちよく家に帰ることができたというわけである。それからだ、橘氏が彼女に入れ込み始めたのは。彼はこれまで以上に熱が入り、今まで以上に大盤振る舞いをするのだった。店側としては、彼の意向をすべて叶えるようにと、さっそく上からのお達しがあり、その最適任者として禮子を差し向けるのだった。こうして彼の思惑と店の戦略とが合致して、この奇妙なお芝居が粛々と展開されることになったのである。
そんなこんなで、しばらくは禮子詣でに現を抜かすことになったわけだが、彼女を知れば知るほど橘氏はその魅力の虜となり、もはや彼女以外に自分のつれになる女はいないとまで思い込むほどになってしまったのである。彼はある時それとなく自分の近況を話し、つまり今度の市長選挙に自分が立候補することになったことを彼女に告げたのだ。彼女は非常に興味を示し色々と彼に質問するのだった。それがまんざら調子のよいおざなりのものではなく(と彼には思われたのだ)心底そういうことに興味を持っているのだと感じたものだから嬉しくなって、色々と議会の裏側を話して聞かせるのだった。彼女は面白がって、さっそくトンチンカンなことを言ってくるのだが、それがまた可愛くてしょうがないのだった。以下がその会話のあらましである。
「私はね今度の選挙で当選したら、きっとこの町を今まで以上に発展させてみせるよ。この町はまだまだ発展できる余地がある。それにね、これはまだ秘密の段階なんだが、実はね私の頭の中には、ある大きなプロジェクト計画が出来ているんだ。つまりだね、これはここだけの話しにしてもらいたいのだが、あの取りやめとなったごみ処理場建設跡地に、一大娯楽施設を造りたいと思っているんだ。それはこの町にとって、きっとゴミの山ならぬ宝の山になるに違いないと思っているからだ。そいつを造れば、必然的に人が集まり、町も潤い、このお店だって今まで以上に繁盛すること請け合いだ。そうすれば君だって良い暮らしができるってわけだよ」
「あら、そんな大きなことを言って、もし落選したらどうなさるおつもり?」普通の女なら、こういうバカなことはおそらく言わないと思うが、彼女の場合はまったく違っていて、つまりこれは決して、うっかり口から出た失言などではないのだ。すべては計算尽くだった。要するに相手の人柄を探るために、ちょっと揺さぶってみたのである。
「おいおい、いきなりそんなことを言って君も人が悪いね」揺さぶられたご本人はさっそくムッとしたのだが、何とか笑ってごまかした。なにせ彼には実現させねばならない秘められた思惑があったので、そう簡単に怒るわけにもいかなかったからである。
「でも、選挙って難しいんでしょ?それにお金も掛かりそうだし。あら、ごめんなさいね。橘さんにはそんな話しは無用でしたわよね」彼女は彼がどこに話しを持っていったら喜ぶか、それをすばやく感じ取るのだった。
「ああ、そうそう橘さんのお父様って、この町の市長さんだったんでしょう?ということは、もし当選したら親子二代ってわけだ。これはすごいことですよね」
「まあ、そうかも知れんが、私はおやじには少しばかり失望してるんだよ」
「あら、それはまた何故ですの?」
「おやじはね、どうも政治家には向かない性格だったんだよ。だからあんなぶざまな辞め方をしてしまったんだ。もう嫌になったんだな。政治家という生き物が。これはどうも普通の人間のやれるような仕事ではないと思ったのだ。そこには色んな思惑やら欲望が渦巻いていて、とうてい一筋縄ではいかない仕事でもあるからね。おやじはそこに嫌気がさしたのだ。つまり人が好いだけじゃ、とても務まらない仕事でもあるんだよ」
「それじゃ、この世界と同じですわね。この商売も色んな思惑やら欲望が渦巻いていて、とても人が好いだけじゃ務まらないお仕事よ。それに女だけの世界は男よりもっとひどいかも知れないわ」
「へえ、そうなのかい?それはとても興味があるね。でもここだけの話し、君はこの世界では、なかなかのやり手だというもっぱらのうわさだよ。いや、こんな話はやめよう。君だってそんな楽屋話は嫌だろうからね」
「あら、そんなことはありませんよ。何ならお話ししましょうか?橘さんが興味を示すことなら何だってお話ししますわよ」彼女はこう言って妙に品を作るのだが、それがどこまで本気なのかまったく分からない。つまりどこまで演技でどこまで本気なのかがまったく読めないのだ。
「まあ、それはとても嬉しいが、そういう話しはまたの機会に取って置こうかね。それよか、もっと違う話しをしようじゃないか。もっと楽しくなる話しをさ。色々あるだろう。たとえば君の将来とかさ。この仕事をずっと続けていくつもりなのかそれとも何かほかにやりたいことでもあるのだろうかとかね。私はねそういうことがとても気になるたちでね。まあ、年寄りのお節介とでも考えてくれればそれでいいよ」彼はいかにも遠回しにまるで彼女の反応を確かめるかのようにこう言うのだった。
「あら、そんなことを言って、いったい何がおっしゃりたいんですか?そんなに心配してくれるのはとても嬉しいのですが、いったいどう受け取ればいいのでしょうか?ほんとに困ってしまいますわ。だって、男の人の優しさの裏には、きっと何かあるんですもの。私にはちゃんと分かってますよ。女にいつまでも気を持たせてはいけませんわ。女からすればこれほど辛いことはないんですから。さあ、黙ってないで何もかも正直に話して下さい」彼女だって、これは何かあると感じたには違いないが、そこは落ち着いたもんで、思わせぶりの一杯詰まった、うぶな仕草でやさしくせがんで見せるのだった。どこか媚びるような目でそう言われると、腹に一物ある身としては、いいように勘違いして正直に言ってしまおうとそんな気になってくるものだ。しかし、ここで注意しなければいけないのは、そういう誘惑的な誘い文句に、うっかり乗ってペラペラと本心を話してはいけないということだ。というのは腹の中で考えている時は、それほど変ではないように思われていたことでも、一旦それを言葉にすると、どういうわけかそれがまったくの見当違いだったことに気づくからである。だからそういう意味でも、いきなり笑われないためにも、よくよく考えて発言しなければならないのである。そういうことから自分の立場が一挙におかしくなり、修復できなくなってしまうことだってあるのだから。一般的に言って、男はそういう陥穽に陥りやすい生き物だが、ましてや良からぬ思いを内心に隠し持っている場合においてはなおさらである。彼も一瞬ためらったのだ。ところが我慢できず自分の思いを言おうとしたのである。しかしそれでもいきなり自分の正直な気持ちを、ここでさらけ出すのはどうしてもできなかったのだ。それでよかったのである。いったい誰がそんな話しに最初からまともに耳を貸すと言うのだ。彼女だって、そんなことをいきなり聞かされたら、きっと大声で笑ったかも知れないのだ。歳を取ると何かと堪え性がなくなるので、それが一番心配されたのだが、どうにか踏みとどまったようだ。すると彼は思い直して別の話にすぐ切り替えるのだった。なぜか三人の子供のことを話し始めたのである。しかし、これは良い思いつきだった。自分の本心をいきなり話すより、少しずつでも自分の家族のことを、彼女にそれとなく知らせておいたほうが、ずっと賢明なことだったからだ。もちろん彼には最初からそんなつもりなどあるはずもなかったのだが、どうやらまだ自分の運から見放されてはいなかったようだ。




