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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 夫人は自分の中でとても注意していたことがあった。それは極めて慎重に、夜会に呼ぶ人達を選んでいたことである。もちろん用心してし過ぎることはないからで彼の好むような女性は決して呼ぶことはなかったのである。そのくせ彼女にはある種の自信のようなものがあったのだ。彼は決して自分を裏切るようなことはしないという。しかし、そういう自信は得てして不安を隠すための恰好の鎧になることだってあるのだ。とくに夫人の年齢(彼女はこの時四十になったばかりだった)を考えると、その心配はとても身につまされるものだったからである。これは否定し得ない事実で、彼女だってそんなことぐらい分かってはいるのだが、どうしても女にとって受け入れられないことだってあるのだ。それを受け入れるくらいなら、何もかも崩壊してしまったほうがよっぽどましなのである。それが証拠に夫人は、ときには大胆に若い娘を呼ぶことだってあったからだ。これなどは、どう考えてもおかしな行動なのだが、果たして彼女が、どこまでそれを意識してやっていたことなのかどうかは正直に言ってよく分からない。ひょっとして彼を試そうとしてそうしたとしたらどうだろう。自分で餌を撒き、彼がどう反応するかを見ていたとしたらどうだろう。たとえそうだとしても、それはあくまでも夫人の信じたいという思いの表れだと考えたい。何も好き好んで彼の尻尾を摑んでやろうとしたわけではないのだ。もしかして、そこには彼への思いが強く、自分がこんなことをするのは決して彼を信じていないからではない。むしろ彼をあまりにも信じていたがために、そういうことを平気で実行できたのである。要するに彼がそんなことをするわけがないという、そういう自分の思いに、震えるような興奮を覚えていたのかも知れない。ところが、彼のほうも心得たもので、夫人のそういう歪な愛で色づけられた怪しげな心の内などとっくにお見通しで、自分のほうから近寄って行くことはなかったのだが、一つだけ懸念すべき問題があった。女性のほうから彼に言い寄って来た場合どうするかだった。彼はそのことを一番気をつけていたのだが、ある時、どう見ても彼に気のありそうな雰囲気を、包み隠すこともなく近寄って来る女性がいたのである。それも妙に男慣れした態度で彼に話し掛けるのであった。とはいえ、その言葉遣いは決して下品なものではなく、どこまでも抑制の利いた品のある、それでいてどこか相手に媚びるような艶めかしいものだったのだ。その女性こそ依代禮子ご本人であり、彼にしても最初は別に気にすることもなく普通に相手をして、その夜は何事もなく終わったのだが、次の夜も、よほど彼のことがお気に召したのか再び彼のもとにすり寄っていくのだった。これにはさすがに閉口してしまったが、それでも何とか用心しながら話しを合わせていたのだが、どうにも彼女の熱い思いが半端ではないらしく、彼としてはもうこれ以上手に負えなくなり、夫人の手前もあるので、早いとこけりを付けなければと思っていたところに、いきなり当の夫人がつかつかと彼女のそばに寄ってきて、「ちょっとこちらに来て下さいませんか」とその手を摑んで、強引に別室に連れて行ってしまったのである。これはまずいことになったと彼は思ったがどうすることもできず、これから何が起こるのか黙って見守るほかなかったのだ。夫人が彼女に何を言ったかは不明だが、大よそのことは想像できるだろう。ところが禮子のほうは、そんなことで引き下がるような女ではなかったので、そのことが一層この事件をもつれさせてしまったのである。彼女からすれば、この女主人が自分に何を言いたいのか、それがまったく理解できなかったからである。これはずっと後になって彼女の口から、その真相が明らかになったのだがそれによると夫人はこう言ったそうである。

「ねえ、あなた。あなたはまだよくご存じないとは思いますけど、あの人には近寄らないで下さいませんか。あの人はね、この夜会では特別な人なの。誰も、そう気軽に近寄ってはいけない人なのよ。分かる?あなたも私のお店で、これからも働きたいのでしょう?それなら、私の言ったことは守って頂戴。いいわね」すると禮子は、怪訝そうな顔でこう言ったそうな。

「どういうことなんでしょう?何をおっしゃっているのか、よく分からないのですが……」

「意味が分からなくてもそうしなくてはいけないの。それがこの家の掟なのよ。そんなわがままを言うと、もうこの家には呼びませんよ」

「そんなことはちっとも構いませんわ。ただ、何でいちいちあなたのお指図に従う必要があるのか、それがさっぱり分からないだけなんです」

「ああそうですか。それならもう、あなたはこの家には出入り禁止です。いいですね。さっさと出て行きなさい!」

 そういうわけで彼女の運命の人との邂逅かいこうもその瞬間終了してしまったわけだが、そんなことをされて黙っているような女ではないことは、もう予想がつくというものだ。彼女は、この理不尽な仕打ちを変に思って、その後いろいろと探りを入れてはみるのだが、なにぶん夫人のお店に対する締付けがもの凄く、そう簡単に誰も口を割ることがなかったのだ。この実に奇妙な事件は、その後の彼女を悩ましてはいたのだが、しばらくしてまたあの家で新たな事件が勃発したのである。それによってすべての真相が暴露され、夫人の秘密もすっかり世間に知れ渡ってしまったというわけである。

 それもまた実に奇妙きてれつな事件なので、ついでにその詳細も話すことにしよう。出入り禁止事件が起こって一週間ほどしたころ、夫人は例によって再び夜会を開こうとしたのだが、あの事件があって以来さらに慎重にその人選に注意を払うのだった。この夫人にとっては、こういうことがもう生活の一部となっていたので、そう簡単に止めるやけにはいかなかったのである。そこで彼女はどういう女を選ぼうか悩むのだったが、なぜかそういうことに今まで以上の興奮を覚えるのだった。いわばそれはもうほとんど病気だったのだ。ところが、夫人はどういう理由か知らないが、今までずっと避けてきたことを平気で実行するのだった。つまり彼が好むような若い女性をなぜか次々と選んだということである。そういうわけで、彼もまたかと思うのだが、そこは夫人とのこうした関係を長いこと続けて来たことで、ある種の免疫ができたからなのか、今ではもうすっかり夫人のやり口に慣れてしまっていたので、そこはうまく対処してはいたのだ。ところが、この時ばかりはどうも夫人の様子が始めからおかしかったのである。その目は異様に光り、さながら獲物を見つけた女豹のように、しっかりとその対象に狙いをつけていたのだ。彼も夫人のいつもとは違う落ち着きのない表情に何か不吉な影を見たのだが、その時すでに夫人は何やら独り言をぶつぶつ呟きながら、まるで何かに操られているかのようにふらふらとその女性に近づくとこう言ったのだ。

「あなた、いま彼のことを変な目で見ましたよね。どうなんです正直におっしゃい」

その若い女性は、もちろん何のことやら分からないまま、目をパチクリするだけで呆然と夫人を黙って見るしかなかったのだ。すると、夫人の奇妙な言動に不安を感じたのか、彼もこの時ばかりは夫人にそっと近寄り静かにこう言うのだった。

「夫人、それはあまりにも失礼ではありませんか?この方がいったい何をしたと言うんです?」すると夫人は、このどこまでも信じ切っていた男の顔を、もの凄い恐ろしい目で睨むとこう言ったのだ。

「ああ、そうなの。やっぱりね。あなたはこの若い女と、とっくに出来ていたんですね?」

「何をおっしゃってるんです?少しは落ち着いたらどうです。これではあまりにも彼女が可哀想ではありませんか」

「じゃあ、この私はちっとも可哀想ではないのですね?まったく、よくもそんなことがぬけぬけと言えたもんだわね。この私に向かって」夫人はこう言って彼を怒鳴りつけるのだった。そして、こう続けたのだ。

「まったく、あなたをどこまでも信じた私がバカだったのね。あなたもいい加減この私に飽きたのでしょうね。いったいあなたにとって、私はどういう女だったのでしょうか?それとも、もうこんなお婆ちゃんには何の魅力も感じなくなったのでしょうか?ああ、まったく何てむかつく話しだこと。いくら何でも、これじゃあまりにも惨めではありませんか。信じていた男にこうも簡単に裏切られるとは。そうですよ。これは私に対する裏切り以外のなにものでもありませんよ!」夫人はこう言って泣き崩れるのだった。この突然爆発した夫人の狂気は、正直何が原因で起きたのか彼自身もよく分からなかったのである。

 この事件の背景を考えてみると、やはりそこに自分が大きく関わっていることもあり、なにがしかの責任みたいなものを彼は感じるのだった。この事件は決して喜劇ではないとは思うものの、世間は多分そうは取らずに、この事件の喜劇的な面だけを宣伝して笑いものにするに違いないと思うのだった。しかし、この事件がたとえ悲劇的なものを含んでいたとしても、果たして自分はその中でどのような罪を犯したと言えるのだろう。夫人には申し訳ないとは思うものの、それがまったく分からないのだった。

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