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この先、二人の関係がうまいこと軌道に乗ってくれるかどうかは、正直に言ってまったく予断を許さないものであったが、それでもよくぞここまでこぎ着けたと思い、橘氏は自分の強運に何か神がかり的なものを秘かに感じるのだった。これならひょっとして、すべてがうまく行くのではないかという理由のない自信すら持つのだった。奇妙に思えるかも知れないが、確かに、この男の中では娘の結婚は自分の欲望を叶えるための単なる道具でしかないという一面と、それでも父親として娘の幸せを願う当たり前な感情が不思議と同居していたのである。そこで、この矛盾した考えを平然と生きようとしているこの男の正体をもっとよく知るために、ここでちょっと話しの方向を二人のことから、橘氏のほうに変えてみたいのだ。つまり、この男がこれからしようとしていることである。それはほかでもない、あの噂となっていた彼の再婚話のことだ。それにまた例の女のこともある。いかにしてあの女と出会ったのか、それはそれでとても興味深い話しでもあり、またこれからの橘家の将来にも大きく関係してくる話でもあるからだ。それに本当に彼は再婚するのかということもある。そういうわけで、彼がこの市長選挙に出ることを決意してしばらく経った、つまりこの物語が始まろうとしていたその辺りまで話しを戻して見たいのである。
橘氏の頭の中で市長選に出るという意思が固まったとき、ほぼ同時に彼はこういう思いになぜか突然とり憑かれ始めたのだ。それはつまり自分がもし市長になった場合、果たしてこのまま独り身でいてもいいのだろうかという考えである。それが果たして単に世間体を気にしてのことなのか、それとも何か自分なりの思惑があってのことなのかは、はっきり言ってよく分からない。突如そういう考えに囚われてしまったのだ。それ以来、そのことが頭から離れなくなり、次第次第にやはり再婚したほうが何かと自分にとって都合がいいのではないかという意見にどうやら落ち着いたようなのだ。そこで、市長になった場合のことを見越して、今からその相手を見つけて置くべきだと考え、いろいろと知り合いに当たって見るのだが、あまりにも彼の年齢がネックとなってなかなか良い相手が見つからなかったのだ。ちなみに彼は六十になったばかりだったが、年齢を聞くまでは決して彼が今年還暦を迎えたとは誰も思わないだろう。浅黒い肌はまだ十分張りがあり、鬚もきちんと剃り上げ、その表情にも活気が溢れて傍目にも若々しく見えたからだ。しかしそうは言ってもやはり肉体のあちこちに歳相応の衰えが見え始めていたことはいたのだ。とくに頭頂部の髪の毛が自分でもびっくりするくらい薄くなっていて、おまけにかなり白い物が目立ち始めていたことが特に気になったのだ。頭の天辺のことはこの際諦めるとして、白髪だけでも何とかしたほうがいいのではないかと思い始めたのである。要するに自分の若さをアピールするためにも自然な色に染め上げてみたいと思うようになったのだ。しかし、いきなり染めるのも何か変な目で見られやしないかと思い、とくに娘達が何と言うか、そのことを考えるとどうしても勇気が出ないのだった。というわけで白髪の件はあとまわしにして、着る物に今までよりも一段と金を掛け始めたのである。彼はもともととてもお洒落で、自分の身の回りのものにはとても凝る癖があり、背広はどこそこの一流のものしか着ないとか、靴はオーダーメイドでそれも何十足と作り、腕時計も爺さんの好みそうな金ぴかのものを自慢そうに腕にはめ、普段着にも金を掛け、それをさりげなく着て颯爽と夜の町に繰り出して行ったものである。そういう遊蕩は妻が亡くなるまでは彼もそれなりに控えてはいたのだが、それでもその癖は止められようがなく、何かと口実を作ってはよろしくやっていたのである。それなら妻が亡くなったことで、何の障碍もなくなったのではないかと思われるかも知れないが、それが不思議なことに、今度は娘達の目を気にし始めたのである。もっとも実際のところ娘達は父親の夜の生態などに関心などあるわけもなく、第一そんなことを指摘したところで素直に聞くような父親ではないことぐらいよく分かっていたのだ。そんなこととは露知らず父親のほうが勝手に娘達に遠慮していたというわけである。しかし、そういう遠慮もこのところなぜかなくなり、何かお目当てでも出来たのか、まるで盛りのついた猫のように娘達には内緒で、夜遅くまで仕事と偽ってなじみの高級クラブに出掛けていたのである。それはのちほど明らかになるが、その時は、ただ一日でも早く自分に合った相手を見つけることが最重要課題でもあったので、その辺のことからクラブ通いは日課のようになっていたわけである。ところが問題は相手に求めるその要求の高さにあった。もちろん、彼は町の有力者だし、財産もあり、自分の暮らしをもっと輝かしいものにしたいという、罪のない虚栄心があったとしても何ら咎められる筋合いでもなかったのだ。そういうことから言っても、彼の選ぶ女性が自然と自分の要求に適うかどうか、という点に集中していくのもやむを得ないことだったのだ。とは言うものの、知人が持ってくる話しと言えば、どれもこれも彼と近い年齢で相手も再婚というものばかりだったのだ。ここだけの話、彼はもっと若くて知的な女性がご所望だったのである。しかし、いくら何でも若くて頭が良く、おまけに先の見えた年寄りと理由は何であれ結婚したいと思うような物好きな女性など、そう簡単に見つかるわけでもないのだ。それはあまりにも無謀な要求でもあったわけである。それに、たとえそういう物好きな女性が見つかったとしても、そうあっさりと結婚などできるものでもない。やはり色んな問題が必ず出て来るものだし、まずもって何かと口さがない世間から逃れられるすべはないものと覚悟しなければならない。世間はそういう女を好意的な目で見ることなど決してしないからだ。きっと腹の中では財産が一番のお目当てなんだろうと、勘ぐられて笑われるのが関の山なのである。もちろん橘氏もそのへんのことはすでに計算済みで、たとえどんな事を言われても決して負けない強い精神を持った女性を秘かに望んでいたのである。もちろん彼が市長になればなったで、別の苦労がまた出て来るだろうが。
彼は三年程前に妻を亡くし、それ以来ひどい喪失感に襲われていたのだが、もはや自分は再婚などしないだろいうと正直思っていたのだ。それは決して偽りの感情ではなく、その時はそうはっきりと思っていたのである。しかし、人間は時が過ぎればそうした真摯な思いも次第に色あせていき、もはやまともに思い出すのも面倒くさくなってしまうものなのだ。それは何も彼が自分の気持ちに背いたというわけではないのである。背くまでもなく自然とそうなってしまうのだ。しかし、まあ、それはそれとして、この場合、彼の身になってその言い訳を考えてみると、自分は何もこの歳になって急に女が恋しくなったというわけではないのだ。なにせ自分の周囲には手にあまる女が二人も居るわけだし、それだけでもうんざりで、これ以上女のわがままに付き合ってはいられないと心底思っていたくらいなのだから。これは事実そうなのだ。そういうことから一つ考えられるのは、彼はどうやら自分の社会的な体裁を気にしていたのではないかという疑問が浮かんで来るのだった。これはそれほど間違った推論ではないと思う。つまり市長という地位を得た彼を、どこまでも支え一段と引き立たせてくれるような、そんな女性が欲しかったとも考えられるからである。そう考えると、彼が目を付けた女性に対する彼の評価が妙に納得するものだったからだ。その女性と出会った時彼女はまだ三十六で、いかにも女としての魅力と成熟さがその頂点を極めていた時期なわけで、彼の要求にもぴったり当てはまり、それにもましてその性格にぞっこん惚れ込んでしまったからである。もっとも商売柄彼女は、かなり特異な性格が出来上がっていたようで、彼女本来の性格と仕事上で培った性格が合体して、一種独特の雰囲気を持った魅力溢れる女性を創り上げていたのである。本来の性格としては、いたって頭が良くお喋りで、もっともそれは女性一般に当てはまることではあろうが、彼女の場合はとにかく口が達者で、とくに言葉による駆け引きが上手で、相手の意見を受け入れているようで決してそうではなく、へりくだっているようでどこか人を見下しているところもあり、そこは自由自在なのだ。ただどちらかと言えば女としてのプライドが人一倍強く、そう簡単に人の誘いに応じるような相手ではないことだけは確かだったのだ。ところが、なぜか橘氏の前ではいたって物静かで、口の聞き方にも気をつけていていかにも従順そうな態度をしきりにして見せるのだった。これはどうやら相手の性格をよく見ての結果らしいのだ。こうした駆け引きは、どうやら彼女にとってはお手の物らしく、相手の性格をうまく利用しながらいつの間にか自分のペースに引き込んでしまうのである。さすがの橘氏もすっかり乗せられてしまっていたようだ。もっともそれをひどく楽しんでいたところもあったのかも知れない。こういう女性は、男にとってまことに厄介な相手ではあるが、彼女の名誉のためにも言っておくが、決して世間ずれのした、いい加減で底の浅い軽薄な女性ではないということである。ただ人間には色んな面があるものだし、それが色々な場面で現れるだけのことで、まあ例えて言えば恋人のときには恋人の心理を演じ、結婚したら別の心理に豹変するとでも言っておこうか。
こういう一見して奇妙に思える出会いというものは、なかなか表面から見ていては決して窺い知れない不思議なものがあるものなのだ。もちろんそれが何かははっきり言って分からない。いや、分からないからこそ人はそれを運命だとか、因縁だとか言って何とか納得しようとするわけである。人間は何かと知りたがるが自然はただ黙って運命の糸を操るだけである。
ここで、彼女の素性について少しばかり話しておこうと思う。そのほうがこの女を知る上でもある程度のイメージを得やすくなるからである。彼女は、ある裕福な家庭の次女として生まれ、父親は、中央官庁の官僚で、それなりのポストに就いているだけに政治家との繋がりもあり、いわばエリート官僚といっても良いくらいな人物であった。彼女は依代禮子といって、三歳年上の姉がいて、その姉は二十代後半で、ある大学教授の一人息子と結婚したのだが、なぜかすぐに別れてしまい、どうやらその相手の男に女として我慢のできないひどい侮辱を受けたらしいのだ。それ以来、人間不信に陥ったのか二階の自室に閉じ籠もったまま、なかなか立ち直れないでいたのである。彼女は子供のころから挫折したことなど一度もないまま育って来たせいか、こういう人生の理不尽な現実になかなか対処することが難しかったようである。その後遺症は今でもまだ消えないまま、彼女の人生をいたずらに停滞させていたのだ。こういう姉の惨めな様子に陰で喝采を送っていたのが妹の禮子だった。今まで散々威張り散らしてきた姉が、こうも無残な離婚を経験したことで、ざまあみろという思いがどうしてもあったからだ。というのも、姉は子供のころから溺愛されて育って来たせいか、自然と鼻持ちならないくらい自惚れの強い性格になり、何でも自分が一番だと思っていたからだ。妹はそういう姉を子供のことから嫌いだった。その原因の一つが、どうやら父親が姉を人一倍可愛がり、妹からすればまったく無視されているという思いがどうしても払拭できなかったからである。もちろん親からすればそんな意識はなかったと言うだろうが、そこは子供の心は騙せなかったということだろう。
禮子は大学を卒業すると、さっさと実家を出て、自分だけで生活していく覚悟を決めるのだった。彼女はあらゆる仕事をした。それこそ女として出来る仕事は何でもやったのである。もちろん人一倍のプライドの持ち主としては、自分を貶めるようなことだけは決してしなかった。きわどい仕事にも手を出したが、それでも押しの一手でどうにかやり抜いた。一度などは怪しげな男どもに騙されて、危うくとんでもない仕事に引きずり込まれそうにもなったが、それでも持ち前の度胸と機転で何とか切り抜け、どうにか転落することもなく今に至っていたというわけである。そういうわけで、彼女の場合、つい最近までおのれ一人の力で精一杯生き抜いて来たのである。そういうことからも、彼女がどういう人間かその一端を知ることができる。そんな彼女ではあったが、なぜか男に対してはそれほど彼女本来の行動力で働きかけることがなかったのである。もちろん何度か男はできたのだが、どういうわけかどれも長続きはせず一度も結婚するまでには至らなかった。どうやら彼女に寄って来る男が、どれもこれも平均以下の情けない面々だったらしいのだ。それなら、自分のほうから彼女の言うところの平均以上の男に働きかけることはなかったのだろうか。いやそれが一度だけあったのだ。それは彼女からすれば、もうほとんど運命的な男のような感じだったようである。こういうところに人生の修羅場を切り抜けてきた女にはあまり似つかわしくない、ロマンチストな一面が垣間見えてくるのがいかにも面白い。
その男とは、ある夫人を介してというよりも、その夫人の家で出会ったのである。その夫人というのは彼女の働いていたあるお店のオーナーで、いかにも生活そのものが派手で、その住まいも家というよりも御殿のような邸宅で、その数々の部屋の造りも豪華そのものだった。彼女は何不自由のない生き方をし、どこまでも満ち足りた人生を謳歌していたのだ。そういうどこまでも限りなく浮ついた生活を日々送っていたのではあるが、彼女にもどうやら秘密というものがあったようで、それがこうしたどこまでも空虚な生活に何かしらの実体めいたものを与えていたらしいのである。その夫人は、毎日のように彼女と親しい友人を家に呼んでは夜会のようなことをしていたのだ。なにせ金と暇だけは腐るほどあったので。夫人は結婚はしていたが夫とはもう長いこと関係もなく、ただ夫の財産が唯一の繋がりだったのだ。夫のほうはと言えば、もうすでに老齢でもあり彼女をおいて今さら頼りになる相手もいなかったので、やむなくそういう関係を続けていたのである。夫人の秘密とは言わずと知れた不倫のことだ。これがある種の活力を与え、毎日の空虚な生活を生き甲斐のあるものに変える原動力になっていたのである。これでこそ生きる意味があると言わんばかりの夫人の生き生きとした姿態は、女である喜びを存分に見せつけてくるのだった。それにもう一つ夫人にある喜びをもたらしていたことがある。それは相手の男性とそういう関係があったとしても、こうした夜会での催しのなか誰にも知られず平然と過ごせるということだった。そこに二人だけの甘い秘密があり、それは二人にしか分からず、何食わぬ顔でみんなとお喋りをしていることだった。これこそ夫人にとって何物にも代え難い至福の時間だった。
そういう言ってみれば、いいように弄ばれていた客人の中に禮子もいたのだ。もちろんそんなことはてんでご存じでなく、それどころか彼女にとって極めてまずいことがその夜会で起こってしまったのである。つまり彼女のいわば運命の人であるその人と、夫人に招かれたその夜会で出会ってしまったからである。それが誰あろう夫人の不倫相手だった。ここまで言えば、その男が誰だかもうお分かりだろう。その男こそ柏木亮その人だったのだ。




