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紫音の約束   作者: 吉田和司


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 このようないかにも不躾ぶしつけで、いかがわしい出来事があったために、うまく行きかけていた二人の関係もこのまま消滅してしまうのではないかと、心配されるかも知れないが、なかなかそう単純に物事は運ぶわけでもなかったのだ。というのも、この事件は彼女の今までの人生の中で(母親の死を除いて)ある意味運命的な出来事になったと言ってもいいくらいだからだ。そうなった以上、自分のいい加減な考えでこの関係を切ることなどなかなか出来るものではない。おそらく彼女自身すでにそのことは分かっていたはずである。というのも、この事件は今まで意識すらしなかったものを、目覚めさせてしまうほどの強いインパクトで彼女の全存在を揺り動かしてしまったからである。すなわち自分の人生が、もはや後戻りできない何か決定的なものを受けたと言ってもよく、そこに自分の意志が入り込む余地など少しもなかったからである。もっとも果たして本当に思ってもみない新しい覚醒が彼女のもとにやって来るのかどうかは、まだ何とも言えなかった。それと言うのも、世間的なことにはまるで疎い彼女としては、この経験はあまりに刺激が強すぎて、そう簡単に消化できるものではなかったからだ。

 一方、亮のほうはといえば、この予期せぬ嵐は一応過ぎ去ったとはいえ、まだ予断を許さぬ状況が続いていたのである。いったいこの実にややこしい女との関係をどのように話せばいいのか、それを思うと、嵐そのものよりその後始末のほうがよほど厄介に思われるのだった。それでも、考えあぐねている暇などなかった。目の前にはいかにも説明を求めているような彼女がいたからである。

「いや、さぞかし驚かれたのではありませんか?いきなり、あんなわけの分からないことを言い出すので正直私も面食らってしまいました。まったく呆れた女です。彼女は以前にあるちょっとした集まりで知り合った女性なんですが、もうずいぶん前のことです。それ以来ずっと会ってはいなかったのですが、それがいきなりこうですからね。結局何が言いたかったのか最後まで分かりませんでした」彼はどうにかして筋の通った言い訳を頑張ってしようとするのだが、すればするほど自分でも何をどう言えばいいのかますます分からなくなるのだった。すると紫音は、彼の困り果てたような顔を見かねて、下手な言い訳を無理に言わせないためにもこう言って彼を逆に慰めるのだった。

「いいえ柏木さん、ご心配には及びませんわ。私にだって人に言えない事情というものはあるのですから。あなたにも、それなりのご事情があって当然です。でも、きょうはとても楽しかったですわ。私も最初は自分がひどく惨めなものに思えて仕方がありませんでしたが、あなたとお話ししていくうちに、なぜかとても大事なものに巡り会えたような感じを持つようになりました。あなたとこうしてお会い出来たというのも、それなりのご縁があったということでしょう。私はこのご縁を大事にしていこうと思っています。いずれこちらから連絡させていただきますので、その時は今度こそお互い納得したうえで、お会いできたらと思っていますのでどうかよろしくお願いしますね。では、きょうはこれで失礼します」

 彼女はこう言って、来たときとはまるで別人のような堂々とした態度で彼の懸念を払拭し、又の日の再会を約束すると、何事もなかったようにその場を立ち去るのだった。しかし彼のほうはまったく逆で、彼女を迎えたときのような不遜な態度はすっかり影を潜めてしまい、ただこうした誤解を与えたまま一人で帰すのはまずいとでも思ったのか、一緒に店を出ると、通りでタクシーを拾い彼女を家まで送るのだった。彼はタクシーの中で一枚の名刺を渡した。それが何を意味するのか深く考えもせず、彼女はそれを受け取るとそのままバッグに仕舞うのだった。おそらく、ここに電話して来いという意味なのだろうが、自分の携帯の番号は、あえてその時は教えないでおこうとなぜか思ったのだ。

 家に戻った紫音は、父親が心配して、わざわざ玄関先まで出迎えてくれたにもかかわらず、なぜかそれを無視して父親の前を無言で通り過ぎてしまったのだ。しかし、それではあんまりだと思ったのか、ちょっと立ち止まるとバッグから先ほどの名刺を取り出して、それを父親に「はい、お土産」と言って渡したなり今度こそ、父親の唖然とした顔を尻目にそのまま二階に上がってしまったのである。娘のどこか人を食ったような素っ気ない態度に父親は、最初どう判断したらいいのか迷ったのだが、まっ先に頭を掠めたことはやはりうまくいかなかったのかという考えだった。それでもひょっとしてという思いもあったので、その結果を娘に確かめたかったのだが、こう取り付く島もない娘の態度に出くわすと、父親としては、二階に上がって行くその後ろ姿を、ただ呆然と見送るしか手がないようだった。しかし彼女はこの時、どうしても一人になりたかったのだ。一秒でも早く一人になって、さっきあったことをじっくりと考えたかったのである。彼女は着替えもせず、そのままベッドに身を投げ出すと、まだ生々しく覚えているあの出来事の細かいとこまで、何度でも思い起こしてみるのだった。すると、いきなり身をよじらせながら声を上げて笑い出してしまったのだ。それは、あまりにも唐突で、ある意味彼女らしからぬというか、もしその時の彼女を家族の誰かが見たとしたら、きっとびっくりして腰を抜かしたに違いない。実際、父親も驚いたのだ。というのもいくら父親の権威は失墜したとはいえ親の立場は変わらないので、このまま何も聞かないでいるわけにもいかず、ノコノコと二階まで上がって来たのだが、彼がドアの前でウロウロしながら迷っていると、中から娘の今まで聞いたことのない笑い声がいきなりしたものだから、ひどく面食らってしまったのである。まるで何かに取り憑かれたような、その甲高い奇妙な笑い声に、父親はすっかり怖じ気づいてしまい、そのまま逃げるように階段を降りて行くしかなかったのだ。

 彼女自身も自分の突然の笑い声に驚いてしまい、いきなりベッドから身を起こすと、ひょっとして下に居る父親の耳に届いたのではないかと心配になり、ドアの側まで行くとじっと聞き耳を立てるのだった。しかし、すぐにそんなことをしている自分に呆れたのか、やれやれといったため息をつき、再びベッドに戻り横になるとまた考え始めるのだった。

『きっと、あのひとは私に知られちゃまずい女だったんだわ。そうでなきゃ、あんなに慌てて下手な言い訳をするはずがないもの。それもあんな顔をして、あれじゃ、すっかり白状したも同然だわ。でも、あのひと、彼のことが好きだったのかしら。何かわけありのようだし』彼女は、あの時の二人の言葉から推察して、きっと何か重大な出来事があったのだと想像するのだった。

『あのひとが一方的に好きになったのだろうか。彼のあの時の会話からするとそう思えるし、それが原因であのひとに何かとても嫌なことが起こったのかも知れない。ああ、でも、最初からこれじゃ、もっとよく考えてみてもいいのかも知れない。どう見てもあの人は何かを抱え込んでいるような気がするし、どこかおかしなところがあるわ。でも、なんか妙に惹きつけられるところもあるし、それにぜんぜん嫌な気がしないのはどういうわけ。ひょっとして自分はすでにそういう気持ちに傾いているということだろうか。そこに自分の意志などもはやないかのように。結婚なんておそらくこんなふうにして決まってしまうのかも知れない。まるで何かに搦め捕られるように。そこに幸せという甘い希望がたとえあったとしても、でもそれは、あまりにもはかない夢のようにも思えるし。いつか貴臣が言ってたっけ、結婚したから幸せになれるとは限らないと、それはこう言うことかしら。結婚は確かに喜びではあるのだが、それは苦しみの始まりでもあるからだ。あまりにも当たり前すぎて誰もそのことを考えない。誰もが舞い上がってしまい自分の幸せだけを喜ぶ。そして気づいた時には奈落の底に転がり落ちているのだ……」

 その日の夕方、橘家は珍しく全員揃って夕餉の食卓を囲むのだった。いつもはみんなてんでんばらばらで、それぞれが自分の都合に合わせて食事をすませていたのだが、今夜はどういうわけか家族全員が揃っての夕食となったのである。お手伝いのばあやも、いつもこうであってくれたらと心の中で思っていることだろう。いろんな意味で。しかし、父親としては、どうも今回はそれではまずいのだ。こう人が多くては紫音に例の話しを聞けないからだ。どうやら父親としては、昼間あったことは、まだ二人だけの秘密にしておきたかったようなのだ。というのも、華音に下手に知られたりでもしたら何かと面倒なことになりそうだったから。いろいろ余計なことまで突っ込まれそうで怖くてしょうがなかったのである。しかし、そういうことも確かにあったのだが、それとは別にもう一つ気になることがあったのだ。それは紫音がまったく素知らぬ顔で平然と食事をしていたことだった。『娘はいったい何を考えているんだ。なぜ、あの時一言も話さないで二階に上がってしまったのだろう。もはや私はそれだけのものに成り下がってしまったということか。あの時の土下座は父親としての権威をすっかり台無しにしたのかも知れない。もし、そうだとしたら、いやはや、まったくもうお手上げだ』と父親は半ばあきらめ顔で恨めしそうに娘を見るのだった。『それにしても娘は何か変だ。昼間聞いたあの奇妙な笑い声。あれなんかどう考えても何かあったという証拠ではないか。いったい何があったんだ。しかし、それにしても、なんだってこうも澄ました顔で何もなかったかのように平然とめしが食えるんだろう。まったくわけが分からん』父親としては色んな疑問や愚痴が次から次と思い浮かんでくるのだが、ただ浮かぶに任せておくだけが関の山で、すべてが明らかになるのは明日まで待つしかないだろうと、ようやく諦めかけたその矢先、ばあやが顔を出してこう言ったのだ。

「今、柏木さんという方からお電話がありまして、紫音お嬢様にどうかよろしくとおっしゃいました。ええ、確かによろしくとだけおっしゃって、そのまま電話を切ってしまいました」

「だあれ、その柏木って?」さっそく華音がこれに食いついたのだ。

「決まってるさ。姉さんの新しい恋人だろ?」と貴臣が平然とこう言うのだった。

「まさか、ああ、分かった。あの例の話しね。なるほど、そういうこと。どうやらあの話しは終わっていなかったようね。どうなのお姉さん。あれほど嫌がっていたくせに。どうなのよ。はっきりと言いなさいよ」華音はもう食事どころではないらしく、裏切った姉を問い詰めるのだった。父親は、この突然降って湧いた危機をどうすれば平穏無事に収められるか色々と考えるのだが、まず紫音が何と言うか、それを見極めてから口を出そうと考えるのだった。しかし彼女の口から出た言葉は、父親をいや家族中を驚かすようなものだったのだ。

「確かにあの時はそう思ったことは事実だわ。でも人は変わるものよ。あなたもいずれ分かるでしょうけど、もういい加減、私もこんな生活から抜け出したいと思っていたの。こんなまるで幸福でも不幸でもないような生活。生ぬるい、どう見ても意味のない生活。ああ、どれほど自分はこんな泥沼から抜け出したいと思ったか。でも、そんな勇気もないまま今まで何となく生きてきてしまった。結局は、自分の大事なものを育てようともしないでぼんやりと暮らして来てしまったのよ。それがどういう意味か分かる?それはとても罪深いこと。だって自分をそのまま見殺しにしよとしたからなの。そんなこと許されることではないでしょう?」

「ふーん、そうなんだ。そんなこと考えてたんだ。それならそうと、もっと早く言うべきだったのよ。まあ、たしかにお姉さんの今までの生き方は、あまり褒められたもんじゃなかったしね。でもさ、それならそれで、その柏木という人は信頼できそうな人なの?会ったんでしょう?どうなの会ってみて」

「それが、よく分からないの」

「よく分からないって、自分の将来を決めるかも知れない男なんでしょう?ほんとに呑気な人ね」華音はイライラしながらまるで母親気取りで姉を叱るのだった。

「一言ではとても言えないってこと。でも、とてもいい人よ」

「ほんとに、こんなことじゃとても心配で先が思いやられるばかりだわ。あのね今時いい人だなんて言って安心してたら、あとでとんだ返り討ちに遭うだけよ。男なんて、どいつもこいつも最初は良いことばかり言うんだからね。じゃ、質問を変えるわ。会って最初に感じた印象はどう?いい人とかそんな感想ではなく、もっと本質的なことを聞いてんだからね。お姉さんが最初に感じた印象の中にすべての萌芽があるの。もっとも見た目に騙されるってことはよくあることだけど、そんなのは少し話せばどういう人間かすぐに分かるはずよ」

 父親は、こういう華音のまるで取り調べのような質問になかば呆れてしまったがなかなか面白いし、それに紫音の思いが聞けそうなので、もう少しお互い喋らせておこうと思い口を挟むことはしなかった。さらに会話は続く。

「印象って言っても、そうね、それほど嫌な印象は持たなかったわ。飾り気のないざっくばらんなとこがあって、嫌味な人ではないと思ったわ。ただどこか変わったところがあるというか、普通の生活を送って来た人ではないような気がしたの。やはり人には他人が知らない秘密のようなものがあるものだし、正直に言ってしまうと実に奇妙に思えるの。この出会いそのものに何か特別なものを感じるのよ。きっと何もかもがそうなるように仕組まれていたのかも知れないわ」もちろん、こういうことを言う彼女の中には例の女がいたことは間違いないので、どうしても話しが混乱してしまうのはやむを得ないのだが、それでも言ってることはよく分からないながらもみんな変に納得してしまったのである。ところが父親はその話の内容よりも、むしろその話し方からこれは吉報かも知れないと判断したのだ。しかし妹の華音は姉の言葉に深くうなずくのだった。

「それって、もしかしてとても重要なことかも知れないわ。未来のことは分からないけど、いや分からないからこそ生きてみる必要があるのよ。自分の未来を創造するためにね」

「ちょっとお聞きしたいんだけど」と今度は貴臣が口を出すのだった。「僕も家族の一員として姉貴のことは前から気にはなっていたし、以前にも話したことがあったけどさ、もう一度確認しておきたいんだけど、姉さんは本当にこの話を進めてみたいと、つまり彼とのお付き合いを真剣に考えているんですか?」

「正直それはまだはっきりとは決めてないの。いやまだ、一度会っただけだしね。そう慌てて決めなくてもいいんじゃないかしら。でも、また近いうちに彼と会う約束はしたけどね」

 こうして、紫音の結婚話しはその実現に向けてちょっとだけ前進したようだが、それでもまだ決して安心などできるものではなかったのだ。そのことは父親もよく分かっていたので、ここで一つ結婚相手の現状を話しておくべきだと考えたのだ。あとになってそんなことがあったのかと、色々うるさく言われて話しがこじれるとまずいので、今のうちに言っておいたほうがいいだろうという判断が働いたのである。それにこの結婚は自分にとってもかなりのメリットがあるだろうと思っていたので、ここまで来たからには何としてでも実現させねばならなかったのだ。父親はいよいよ自分の出番が来たと思いこう口を開くのだった。

「実はね、彼のことでみんなに話して置かなければならないことがあるんだよ」と言って、橘氏は彼の現状を話し始めるのだった。「確かに彼は父親の会社を継ぐはずだったのだが、どうやら、そのことで問題が生じてしまったようなのだ。というのも彼には一つ年上の兄がいてね、どうも今回は彼がどうやら父親の後を継ぐことになってしまったらしいんだ。要するに彼との覇権争いに負けてしまったというわけなんだがね。ところが、それが原因なのかどうかは分からないが、ある関連子会社に役員という身分ではあるが、出向することになってしまってね。まあ、体のいい左遷だな。お気の毒なことではあるがね……」

「左遷って、それ本当なの?」紫音は驚いた顔で父親を見るのだった。

「まあ、いろいろあったらしいのだ。だからって、何もそんなことを心配する必要などまったくないよ。つまり、彼には新たな使命が出来たってわけだからね。その会社を今まで以上の会社にするというね。そうなればきっとまたもとの会社に戻れるに違いないさ。彼には出来るよ。彼はとてもまじめで自分の仕事に対する情熱も人一倍強いものを持っている青年でもあるからだ。私は彼とはもう何回も会って、色々と話しもしてるしね。彼の人となりは誰よりも分かっているつもりだ。だから私の言うことは信用してくれてもいいんだよ。つまり、私の言いたいことはだな、そうはいっても、自分一人だけではなかなかその仕事は達成できるものではないということなんだ。それにはやはり誰かの助けが必要になるんだよ。分かるだろう?言っている意味が。つまり、そういう大仕事に取り掛かるにはやはり自分の足下をしっかりと固めておかなければならないということだ。つまりだな、良い家庭を持たなければならないのだ。それにはどうしたって良い伴侶が欲しいのだ。そこでお前の出番が来るというわけさ」父親としては、これでもかなり抑えた言い回しを心掛けたのだが、どうしても親のエゴが丸出しになるのはどうにもやむを得なかったようだ。それでも子供達はそのことで別に取り立てて嫌な顔をするわけでもなく、何となく聞き流している様にも見えるのだった。しかし紫音はまったくほかのことに気を取られていたせいか、父親の言うことなどほとんど聞いていなかったのだ。つまり、彼女としてはまた別の視点から彼を見直す必要に迫られたというわけである。

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