表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫音の約束   作者: 吉田和司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

104/104

104

こうしたおばあさんの話は、事情を知らない禮子と紫音には極めて要領を得ない話ではあったのだが、それでもこの短い話から事態が急展開したことくらいは理解できたのである。禮子はこの時、木戸専務がなぜ我が家に来たのか知りたくないか、というおばあさんの奇妙な質問を思い出すと、そこからある仮説をひねり出したのだ。『ひょっとして問題となっている次期社長の件について、自分が考えているようなことが実際に起こったのかも知れない』と、考えたのである。この仮説はかなり信憑性がある話にも思えたのだ。というのも、『夫が社長を辞め、亮の社長もなくなるとしたら』後は第三の人間が自然と浮かんで来ざるを得なかったからだ。『その第三の人間は、彼の他にいったい誰がいるというのだろうか』と、彼女は密かにそう思ったのだが、しかし、『まだ他に自分の知らない誰かがいるのではないか』と彼女も一旦は冷静になってこう考え直して見るのだった。それでもやはり彼のほかに誰がいるのだろうかと、そう思わないではいられなかったのだ。『そうなると、いったいその事実をどう考えたらいいのだろうか』と、彼女も次第に気持ちが高ぶってきて、というのも、『もしそうなら、まるで自分の思いが通じたみたいではないか』と思って、木戸専務のほうを見ると、彼女の中で何やら昔感じていたある思いが自然と沸き上がって来るのだった。

 ところが別な意味で、彼女と同じように気持ちが高ぶってしまった人物がいたのだ。夫の卓だった。彼は、おばあさんがはっきりと弟の社長は白紙に戻すという言葉を聞いてすっかり喜んでしまったのである。というのもこれでおばあさんも次期社長は木戸専務に決めたに違いないと思ったからだ。

「それなら、おばあさん。次期社長は木戸専務でよろしいんですね?」と、卓はあまりに興奮してしまったせいか、いきなりみんなの前で、出来ればまだ伏せておきたい情報を口にしてしまったのだ。

「問題はそこです。卓、よく聞きなさい。確かにお前が言うとおり会社のためにはそのほうがいいのでしょうが、難しい問題がそこから色々と出て来るのではないでしょうかね。正直なところ、お前はどう考えているんです?」

「確かに問題は出て来るでしょうが、でも、私はまず会社のことを第一に考えなければいけないと思っているんです。他の問題はそれが済んでから心配しても決して遅くはないのではありませんか?私はそう思いますね」

「あのね、みなさん。いきなりこんな話を聞かされて、きっと驚いていらっしゃるでしょうが、あなた達が帰って来る前に、卓に話があると詰め寄られましてね。それが木戸専務を次期社長に抜擢したいという話だったんです。いきなりそんなことを切り出されても、こっちだって色々都合がありますからね。そう簡単に彼の話に乗るわけにもいかなかったんです。だって、正直なところ、あなた達のこともありますからね。とくに紫音。あなたにはさぞかしショッキングな話だったんじゃありませんか?ですから、ここであなたの正直な意見をぜひとも聞かせてもらいたいのです」と言っておばあさんは、さっきから黙ったままうつむいている彼女を見て心配になってしまったのだ。確かに紫音もその話に驚いていたことはいたのだ。なぜなら禮子の話によれば、義兄がおばあさんを説得するのは難しいだろうと言っていたからだ。それがどうもそうではなかったらしいので、彼女もさすがにショックを感じていたのである。恐らくこれで、この話は決まってしまうのだろうと思って、彼女も覚悟しないわけには行かなくなったからである。

「先程からお話しを伺っていて、少し心配になったことがありましたので、そのことについてちょっとお話ししてもよろしいでしょうか」と紫音は自分の複雑な思いを何とか言葉にして、みんなに訴えかけてみようと思ったのである。

「もちろんどんなことでも聞きますから、遠慮せずに何でもおっしゃって下さいね」

「では、おばあさま。もし、夫が今お話しになっていることに反対したら、いったいどう対処なさるお積もりでしょうか?いえ、恐らくですが、夫は絶対この話に反対してくると思うからです。そうなった場合、誠に言いにくいのですが、柏木家はきっと今以上におかしな事になると思うのですが……」紫音は、このとき自分が夫の立場に立っているというはっきりとした自覚はなかったと思うのだが、それでもこうした発言の裏に、彼女自身も気づいていない夫に対する微妙な気遣いが隠れていたことだけは間違いないと思われるのだった。

「そう、確かにそれが一番の問題でしょうね」と、おばあさんは彼女の率直な意見に改めて問題の難しさを痛感するのだった。「でも、私が言い出したことですから私が何とか説得しますよ。まあ、あの子も色々と問題のある子ですが、まったくの無能ではないらしいのです。あなたの前でこんなことを言うのもどうかと思いますが、でも正直あなただって、彼のことで言いたいことがあるんじゃありませんか?この際ですから、何でも言っちゃって下さいな。そのほうが、あなたのためにもいいと思うからです。これからのこともありますからね。ただ、あの子にもそれなりに取り柄があったようなのです。さきほど木戸専務から亮についてお話しがありましてね。それによりますと、ええと何でしたっけ、ああ、そうそう、何でもあの子は人の使い方がとても上手なんですって。まあ組織の中で生きて行くにはやはり人間関係が一番大事ですからね。そういう才能もないよりあったほうがいいに決まっているのですが、でも、今の会社の厳しい状況を考えると、社長という仕事は難しいのではないかということらしいのです。ですから今回は木戸専務に社長になってもらい、傾きかけた会社を何としてでも立て直す必要があるという訳なんです」と言って、おばあさんは亮を説得するには、まず彼女を先に説得しておく必要があるとでも思っているのか、なるべく彼女を失望させないように色々と気を遣うのだった。

「それでは私も、正直に言ってしまいますが、そのほうがいいと思います。何も慌てて社長になることなんかないのです。社長になるにはあと十年は必要だと私は思っているくらいですから。さっきおばあさまも同じようなことをおっしゃっていましたね。それを聞いて私の考えはやっぱり間違っていなかったのだと思いました。今はまず会社を立て直すことが先決ですからね。それには主人ではなく、もっと信頼の置ける方に社長になってもらったほうがずっといいのは確かですから」

 こうした紫音の発言に皆が皆一様に驚いてしまったのだ。とくにおばあさんが、自分の夫に対する非常にシビアな考え方に正直驚いてしまったのである。しかし禮子だけは彼女の話に内心納得していたのだ。彼女ならそれくらいのことを考えていたとしても、ちっとも不思議ではないと思っていたからである。

「あの、ちょっとよろしいでしょうか」と言って、卓がいきなり話しに割り込んで来たのだ。「お二人の話を聞いていると、どうも弟はこの先なかなか社長にはなれないのではと思っているように聞こえてならないのですが。とくに紫音さんから、そのような発言を聞かされて驚いているんです。確かにあなたのおっしゃることもそれほど間違ってはいないでしょうが、でも正直十年は掛からないと思いますよ。と言いますのも、彼には優れた指導者が側におられるからです。実は、今回木戸専務を社長に抜擢したというのも、まあ、その実力を見込んでのこともあるのですがそのほかに弟のよき指導者として彼を鍛えて頂くという面もあったからです。つまり弟が一人前になるまでの、いわば繋ぎとしての役割も今回の人事にはあるからです。恐らく数年あれば弟は見違えるように変わると思います。それくらい今回の人事には期待しているんです。弟もきっとその期待に応えてくれるでしょう。もちろん弟はあなたのおっしゃるようにこの人事に反対するかも知れません。こういうことは一度その気になってしまうと、なかなか諦めることが難しくなりますからね。でも今回は何がなんでも彼には承知してもらわなければならないのです。ですからおばあさんも説得されるときはあまり彼を刺激しないように、なるべく穏やかにお願いできればと思います。なにぶん柏木家の将来が懸かっているわけですからね。まあ相手が木戸専務ですから、彼もどこまで反対できるかという思いもあるんです。でも会社としては恐らく木戸専務に反対する人はいないと思います。いわば、この問題は身内の中で何とか解決して頂かなければならないわけです」

 とはいえ、こうした骨肉の権力争いは一歩間違えれば、会社そのものを巻き込んでの争いに発展してしまう可能性もあるわけで、身内の中だけで解決させるのもなかなか難しいことかも知れないのだ。その問題の当事者だが、彼はいよいよ自分が社長としてこの会社を引っ張っていくことを強く意識し出していたのだが、その第一歩としてまず自分を支える側近たちを作っておく必要があると考え始めたのである。彼はそれにはどうしても気の置ける人間を側に置きたかったのが、例の二人の部長たちには今回のことはそれなりに説明はしたのだが、なぜかいい反応がなかったのである。これには彼も意外だったのか思いのほかガッカリしてしまったのだ。しかしまだ社長の話は正式には決まっていなかったので、それもあるのかも知れないと自分を納得させるのだった。とはいえ、このままでは話にならないので何とか彼らを手なずけて置かなければならないのだが、彼らがそれほど積極的に話に乗って来なかったのには、ひょっとして木戸専務に原因があるのではないかと疑うのだった。それは以前に彼らが木戸専務の謀略に引っ掛かり、すっかり怖じ気づいてしまったと考えれば、彼らの行動も納得できるからである。自分達の野心より、まずは身の安全を第一に考えたとしてもおかしくなかったからだ。そうなるとこの先、彼も計画の立てようがないと正直焦ってしまったのである。こうして見ると彼の弱点は、実力以上のことをしようとしていることかも知れない。もちろん彼にはそんな自覚などないのだが、いや自覚がないからこそますます墓穴を掘ることになりかねなのである。彼は自分が社長になるに当たって、一番気にしていたのは木戸専務のことだったのだ。自分のことをいったいどう思っているのか、それは彼にとって最も知りたいことだったのである。木戸専務こそ、今の彼にとっては目の上のたんこぶであり、実に鬱陶しい存在でもあったからだ。

 亮は、このところどうも気持ちが落ち着かず、どうやら昔のように会社という組織が実に息苦しく感じるようになっていたのである。しかしそれはどうも昔とは少し違っていて、決して働くこと自体に嫌気が差したというわけではなかったのだ。ただ何となく組織というものに、自分が押しつぶされそうなそんな感覚に襲われることが多くなったからだ。これから自分が社長として組織を動かしていく立場になるのに、そんなことではどうもまずいのではないかと彼も少し不安にはなっていたのである。彼は兄と違って、どこか孤独を好むところがあったようで、それは子供の頃から多少はあったようなのだが、それほど本人は気にしてはいなかったのである。社会に出てからも、そういう癖に苦しむようなことはなかったのだが、それがここ最近急に自分は恐ろしいほど孤独を求めていることに気づき始めたのである。それはもはや人間の当然の欲求であり、誰もそれを非難すべきものではないと思うくらにまでなっていたのだ。実際に家に帰っても、妻の紫音ともあまり話すこともなくなり、食事が終わるとすぐ自分の書斎に閉じこもってしまうことが多くなっていたのである。彼もそういうことはなるべくしないようにとは思っているのだが、まるで何かに操られるかのように身体が勝手に書斎へと向かって行くのだった。なぜこのような行動を取ってしまうのか、本当のことを言えば自分でもよく分からなかったのである。紫音も最初は別に気にもしなかったのだが、そういうことが度重なると自然と気になりだして、自分を避けているのではないかと思い始めるのだった。こうした夫婦のちょっとしたすれ違いは、得てして大きな誤解へと発展するものだが、正直に言ってしまえば彼女も、実際そうした感情に負けそうになったこともあったのだ。しかしそうした負の感情は禮子との会談後、なぜか劇的に修正されていったのである。とはいえ相変わらず夫に対する見方はシビアなのだが、それでもどこか以前とは違って、彼の立場をそれなりに理解しようとする気持ちが彼女の中に多少なりとも芽生え始めていたのかも知れない。夫も今までとは違った重圧に苦しめられているのかも知れないと、そこまで考えるようになっていたからだ。こうした変化は、二人のためにはとてもよいことではあったのだが、柏木家のためにはあまりよくはなかったのである。

 亮はその日も、例の二人を説得するために彼らを食事に誘ってはみたのだが、二人は相変わらず答えをはぐらかしては別の話題に話を切り替えてしまうのだった。亮もあまりしつこく言うのもかえって嫌がられるだけなので、そこは辛抱して、彼らのおもしろくもない話に付き合っては一緒に笑うのだった。というわけで、彼もこの二人はどうも諦めたほうがいいのかも知れないと、ようやく彼らに見切りを付けるのだった。もうこれを最後に彼らを誘うのはよそうと決心したのである。そう思うとこれ以上、彼らに時間を費やすのもバカらしいので、彼は突然席を立つと、「これでお開きにしよう」と言って勘定を済ますと、明らかに動揺している二人を尻目に、彼としては実に珍しいのだが、いかにもバッサリと彼らとの関係を切ってしまったのである。そういうわけで、彼もなかなか前途多難な思いに、今にも押し潰されそうになるのだが、これが人間というものの実態なのかも知れないと肝に銘じるのだった。どうやら組織の中で生きて行くということは、思い通りにならない人間を相手にすることだと彼も思い知ったというわけである。

 正直に言って、もはや彼も以前のように社長になることが、それほど嬉しく感じなくなっていたのである。というのも、いったい自分は本当にそれを望んでいるのだろうかと時々思うようになっていたからである。とは言っても彼にだってプライドがあるわけで、今さら諦めることなどどう考えても出来っこなかったのである。それに彼には今回どうしても社長になる必要があったのだ。それにしても、どうしてこうも違うのだろうと彼は突然そう思うのだった。もし、自分が兄のような人間だったとしたら、恐らくもっと違った人間関係が築けたかも知れないからだ。つまり彼はこの時、人望という得体の知れない観念に頭を悩ましていたからである。なぜか兄にはそれがあったのだ。経営者としてはまったく才能がなかったが、なぜか人望だけはあったのだ。何でもそうだが、そういうことは意識して出来ることではなかったので、もし彼がそういうものを望んでいるとしたら、あまりいいことではなかったのだ。しかし彼も、ここに来て自分の性格というものを非常に気にし始めていたので、出来ることなら自分にもそういうものがもっとあればと思ってもおかしくなかったわけである。これはよくあることで、他人が着ている服がその人によく似合っていると、自分もその服を着てみたくなるものだからだ。もちろんそれを着たところでそれほど似合うかどうかは保証の限りではないのだが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ