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おばあさんからこのような話を聞いた以上、彼としても真剣に対処しなければならないわけで、今までのように家のことにはなるべく関わらないでおこう、などと暢気なことを言っててはダメだということである。もしそんなことをしたら彼の立場は、恐らく悲惨なことになるに違いなかったからだ。そういうわけで今までは会社のことばかり考えていればよかったのだが、これからはそういうわけには行かなくなったわけである。しかし、それこそ彼のような男にとって、もっとも悩ましいことかも知れなかったのだ。というのも彼のような男が、実際に妻と真正面からぶつかり合って家庭の問題を何とかするなどということがどれほど難しいことか、それは妻にすべてのことを丸投げしていた彼にとって、想像を絶する試練となることだけは間違いなかったからである。確かにそれはある意味会社を立て直す以上に難しいことなのだが、彼のこれからの人生を占う上でも決して無視できないことでもあったのだ。そういうわけで思いもかけない展開に彼も些かめまいを起こしそうになってしまったのだが、それでも次期社長の件だけは何とかものになるんじゃないかという感触は得たのである。しかしそれは自分の妻を何とかするという条件付きかも知れないのだ。もっとも彼としては会社の問題と家の問題は、なるべくなら分けて考えたかったのだが、しかしどうもそれは無理なんじゃないかって思い始めたのである。この問題は分けて考えるどころか、どこまでも絡み合った問題ではないかと考えられるからだ。確かに同じ人間がこの家と会社に関係している以上、それを無理やり分けるなんてことはとても出来ない相談だったからだ。そうなると彼もこれは実に厄介なことになると思わざるをえなかったのである。会社のことだけでも大変なのに女どもの権力争いにまで付き合わされることになるとは、いったい自分はこの先どういう役回りで彼女達と付き合って行かなければならなくなるのか、それを思うと何だか得たいの知れない恐怖に襲われるのだった。すると、そこに問題の張本人がようやく帰って来たのである。
「どうやらあの子達が帰って来たようですね」と、おばあさんは玄関の方が騒がしくなっていることに気づき、卓に車椅子を押してもらい応接室から出て行くのだった。そのとき禮子は出迎えてくれた例の家政婦に、持っていたその紙袋から帰りがけにある老舗の和菓子屋で買った、お菓子の詰め合わせを取り出すと、「あなた達で食べて頂戴」と言って、それを彼女に手渡すのだった。これはもちろん彼女たちに約束しておいたことを単に履行しただけなのだが、しかし恐らくすでに事件は起こっていて、彼女たちはすでに嫌な思いをしていたかも知れなかったのだが、もしそうだとしても別に構わなかったのである。「で、みなさんはもう夕食はおすみになったのですか?」と、彼女から今どんな状況なのか、それを知りたいと思いこう聞くのだった。
「いえ、それがお客様がお出でになられているものですから、お食事はまだでございます」と言って、その家政婦は奥様からの突然の頂き物に感激したのか、出来ることならこの場で自分の犯した罪を彼女にすべて告白したくなったのだ。しかしその暇もなく、おばあさんがやって来てしまったのである。禮子は近づいてくるおばあさんの表情に、すでに秘密は暴露され一悶着あったことを感じ取ると、さっそくその疑惑を晴らすべくこう言い訳するのだった。
「おばあさま大変申し訳ありませんでした。私も電話をしようとは思っていたのですが、なにぶん彼女と話しが弾んでしまったものですから、ついうっかり電話することを忘れてしまったんです。本当に子供じみた言い訳で申し訳ありませんが、なにぶん本当のことなのでどうかご容赦下さい。でも、お詫びと言っては何ですが、おばあさまも大好きなあの店のお菓子ですわ」と言って、紙袋から家政婦のとはまた違った、恐らくもっと高級な奴かも知れない紙包みをおばあさんに手渡すのだった。もちろん、こんな手土産でおばあさんの機嫌を取ろうなんて気は少しもなかったのだが、それでも家政婦にやって、おばあさんにやらないなんてことはあり得なかったので、彼女もそこは常識的な判断に従ってこういうこともしなければならなかったのである。
「私もね、あなたに何かあったのかと思ってとても心配したんですよ」と言って、おばあさんはそのお菓子を遠慮なく受け取ると、禮子のいかにも子供じみた言い訳にも腹を立てず、穏やかな口調でこう続けるのだった。「だってあなたには、この家をちゃんと守っていくという責任があるのですからね。もしあなたに何かあったら、この家の将来もきっとおかしなことになるに違いないからです。いいですか禮子さん。どうかそのことだけはしっかりと考えておいて下さいね」
これにはさすがに卓も呆れてしまったのである。今言ったことが、おばあさんの本音とはどうしても思えなかったからだ。とはいえ彼も女の本性というものに少しは目覚めたのか、きっとこうした白々しい発言にもそれなりの意味が隠れているのだろうと、そう考えることにしたのである。「ところで、あなた達はまだ夕食はすんでいないんでしょう?だったら、ちょうどお客様も来ていることだし、あなた達も一緒に食事に加わってくれませんか。ああそれから木戸専務!あなたもどうか一緒に食事をしていって下さいね。色々とお伺いしたいこともありますので……」と、部屋の中にいる木戸専務に向かって大声で叫ぶのだった。驚いたのは禮子で、まさか彼がいるとは思わなかったので、これは何かのお引き合わせかと思ったほどなのだ。というのも今夜にも夫に例の話をしてみようかと思っていたからだ。
こうして、それぞれの疑惑はお互いの胸の内にしばし納めたまま、家族揃って夕食を取ることになったのである。この時亮はまだ帰宅していなかったのだが、それがかえってよかったのかも知れない。というのも、もし彼がこの場にいたら恐らく話はもっとこじれたものになっていたかも知れなかったからだ。
「ところで、木戸専務がなぜ我が家にいらしたかあなた知りたくありませんか?」と言って食堂に入ってきた木戸専務を見ながら、今夜のことを彼女にどう知らせようかとちょっと悩んだのだが、なぜか突然彼女に変な質問をするのだった。彼女も何でそんなことを聞くのだろうと奇妙に思いながらも、彼のことはまったく知らない仲でもなかったし、なぜ今夜に限ってここにいるのかとても知りたかったので、「ええ、もちろん知りたいですわ」と、まるで子供のように何の遠慮もなく言ったものだから、おばあさんも『なんて厚かましい女なんだろう』と癇に障り、それならこっちも少しからかってやろうと思って、澄ました顔でこう言うのだった。
「彼はね、会社のことでわざわざやって来てくれたんです。あなたもご存じの次期社長のことなんですが、それがですね彼は亮のことを手放しで褒めてくれたんですよ。私もね、それを聞いてとても安心してしまったんです。だって彼のことはあまり評判がよくありませんでしたからね。彼のような男に果たして社長が務まるのかって思われていましたからね。私も自分が言った以上責任があるわけで、もし彼が社長として通用しないなんてことになったら、それこそ面目丸つぶれじゃありませんか。ところがどうでしょう。木戸専務がその不安をものの見事に払いのけてくれたんです。木戸専務のお墨付きを得たと言うことは、もはや心配する必要がないってことですからね。そうでしょう禮子さん」と言って、おばあさんはさも自分の目に狂いはなかったんだと言わんばかりの顔をして見せるのだった。これには木戸専務も卓も呆れてしまったのである。どうしてそこまで話を脚色するのかよく分からなかったからだ。しかし、木戸専務はすぐにおばあさんは禮子をからかってみせたのだろうと思ったのだ。というのも二人の関係があまりよくないことは先程の話から察せられたので、恐らくおばあさんとしても今回の事と相まってむしゃくしゃしていたのかも知れないと考えたからである。ところが卓は、おばあさんの話があまりにも酷いので、これは妻のためにも何か言わなければと思い、「それは違うでしょう」って言いそうになったのだが、なぜか寸前で思いとどまったのだ。というのも、おばあさんがあえてそのようないい加減なことを言う真意は何なのか、それをまず考えたほうがいいのではないかと思ったからである。実際、彼はこの時、妻のこの家での立ち位置はいったいどうなっているのだろうと、ふとそんなことを思ったのだ。今までそんなことは一度だって考えたこともなかったのだが、もちろんそれは、さっきおばあさんから聞かされた彼女に対する非難めいた話が大きく影響していたのかも知れないが、ところが彼はこんなことまで考えてしまったのである。ひょっとして彼女はこの家で孤立しているのではないかと思ったのである。それはさっきの話から考えてもありそうなことだったので、もしそうだとしたら自分は彼女と対決するどころか、反対に守ってやらなければいけないのではないかと思い始めたからである。
「ところで話は変わりますが」と言って、おばあさんはいよいよ本題へと入って行くのだった。「私もね、あなた達の行動を今さらとやかく言いたいとは思いませんが、それでも今回のことは、このまま私としても見過ごすことはできないと思っているんです。いえ何も連絡しなかったことを怒っているわけではありませんよ。でも常識的に言ってあまり感心はしませんがね。それも話に夢中になったから連絡しなかったなんて、そんな子供じみた言い訳に誰が騙されるっていうのですか。でもまあそんなことはどうでもいいのです。問題は別にあるからです。いいですか禮子さん。これから言うことはとても重要なことですから、どうかこれにはふざけないでまじめに答えてくださいね。今回のあなた達の行動は、確かに私達に不審の念を抱かせてしまいました。いや何もあなた達が一緒に出掛けたことに文句を言っているわけではありませんからね。どうしてそのことを私達に内緒にしなければならなかったのかということが言いたいのです。何ですか明子さん(家政婦の名前である)の話によると、どうやら私達に知られたくない事情があったみたいですね。できればなぜ私達に隠す必要があったのか、その理由を今ここではっきりさせて頂きたいのです」と言って、おばあさんは、この場の雰囲気がどうなろうとお構いなしに、まるで検事のような態度で彼女を問い詰めるのだった。
「ああ、そのことでしたら何もご心配には及びません。というのも私たちは、おばあさまを徒に心配させまいと思って、明子さんにそんなことを言ってしまったからです。別に変な意味などありませんので、そこはどうか信じてほしいのです」こう言って禮子は、おばあさんの執拗な尋問を軽くいなして見せるのだった。しかし、そんな簡単な言い訳でおばあさんの信頼を勝ち取ることなど、とても出来ない相談だったのだ。それくらい今回の彼女たちの行動は、おばあさんにとってとても看過できる問題ではなかったからである。禮子がいったい何を企んでいるのか、それがはっきりするまで恐らくおばあさんの信頼は回復しないのではないかと思われるからだ。しかしここで彼女に意外な味方が現れたのである。というのも、このような状況でおばあさんに意見を言うことなど、少なくとも彼女に出来るとは誰も思っていなかったからだ。それでも義母の律子からすれば、禮子以外に誰も頼りにする人がいなかったので、ここで彼女の肩を持つ必要がどうしてもあったのである。とはいえ今回の問題は、いくら信頼していたとはいえ内心かなり動揺はしていたのである。しかし、そこは義母としての矜持もあったのだろう、彼女のことをどこまでも信じることにしたのだ。そういうわけで、律子も、この際、自分もこの問題に口を出す必要があるのではないかと考え、これを機に、おばあさんとの関係も改めていかなければいけないと真剣に思い始めるのだった。
「今回のことは確かに誤解を与えてしまったことは事実ですが」と、律子は思い切って自分の意見をおばあさんにぶつけるのだった。「でも、何もそこまで疑う必要などないと思うのですが。それにおばあさまのおっしゃる知られたくない事情などそもそも最初からなかったのかも知れませんからね」
「それでは何ですか。それは単なる私の考えすぎだってことですか?しかし変ですね。ああ分かりました。そうですか。あなた達は事前に何もかも打ち合わせ済みだったというわけですね。しかしまあ、たとえそうだとしても、次期社長のことはすでに決着済みですからね。今夜卓の口からはっきりと聞かせて頂きましたのでね。禮子さん、あなたにとっては極めて残念な結果になるのですが、彼は社長を辞めるそうですから。木戸専務の前ではっきりとそう言いましたからね。まあ、あなたもかなり当てが外れたのではないでしょうかね。だって社長夫人という地位がこれで消えてしまうのですからね。卓のような欲のない人間を夫に持つとこういうことになるのです」
「ああ、でもおばあさん」と、卓も我慢できずにとうとう口を挟まずにはいられなくなったようだ。「さっきから聞いていると、どうもお話しの内容がずいぶんと違っているように思えるのですが。いったい、どうしてそのようなことになるのか、よろしかったらお聞かせ願えないでしょうか。と言いますのも、これ以上妻に誤解を与えたくないからです。確かに私は社長を辞めると先程はっきりと言いました。自分の力のなさを痛感したからです。しかしそれ以上に弟の社長もダメだと、その事もおばあさんにはっきりと言ったはずです。それがどうも先程からお話しを聞いていると、弟がやっぱり次期社長になるのかと、どうしてもそう思えて仕方がないのですが。もうこうなったら、ここで何もかもはっきりさせてしまったほうがいいのではないでしょうか」と、卓はあまりのデタラメさに憤慨したのか、彼にしては珍しく声を荒げるのだった。
「どうしてそんなことおっしゃるんですか?私がいつ亮を次期社長にするって言いました?確かに木戸専務が亮を褒めてくれたとは言いました。でも私はお前の話を聞いてから一度も亮を次期社長にするとは言ってませんからね。そこのところは間違わないで下さいね。私もね最初から疑問だったんです。亮に社長が務まるのだろうかってね。紫音には申し訳ないのですが、今のあの子に社長なんか務まるはずがないのです。要するに社長なんてあの子には十年早いんですよ。それだけのことです。確かに木戸専務は亮には才能があるとおっしゃってくれましたが、でも、いくら才能があってもそれだけではね。ですから私は決心したんです。亮の社長の件は一度白紙に戻して、次期社長の件は改めて考え直さなければならないって……」




