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おばあさんにとって、次期社長は何も亮でなければならないというわけではなかったことだけは、ここではっきりさせておいたほうがいいかも知れない。というのも、おばあさんにとってそれはあくまでも、禮子に対する対抗措置として仕方なく考え出されたものだったからである。つまり禮子の力をここで削いでおかないと、将来の柏木家のためにはよくないと思ったからで、そのために亮を次期社長にして紫音を社長夫人にしてしまえば、必然的に禮子は何も出来なくなるとおばあさんは考えたわけなのだ。そういうわけで、おばあさんにしてみれば亮が果たして社長に向くかどうかなどということは、それほど深刻には考えてはいなかったのである。会社のためというより、柏木家のためになるかどうかのほうがおばあさんにとっては大事だったからだ。そういう思いがあったため、卓がいきなり弟には社長は任せられないと言って来たのには正直驚いたのである。ひょっとして彼がこのまま社長を辞めないで頑張り続けるつもりなのだろうかと思ったくらいで、そうなると話しはまた振り出しに戻るわけで、それはおばあさんにとってちっともいい話ではなかったのである。
「いったい何が言いたいんです?ひょっとして、お前もようやく兄としての意地が出て来たというわけですか?弟なんかに負けていられないと、何がなんでも自分の力でこの会社を建て直してやるんだって、そう思い直したとでも言うんですか?」と言って、おばあさんはちょっと不機嫌そうな顔をして見せるのだった。すると卓はおばあさんの発言にちょっと驚いたのだが、落ち着いた口調で、「そういうことではありません」と言って、こう続けるのだった。
「私の辞任はもはや避けられません。自分でもその覚悟でいますし、それはもう決定したも同然だからです。そうではなく、私はここにいらっしゃる木戸専務を次の社長に抜擢したいと思っているのです。もちろん、この話はまだ正式には発表されていません。その前に、まずおばあさんにその旨のご報告をして、出来ることならご承諾頂ければと思っている次第なんです」
おばあさんにとって、この話がどれほど予想外なものだったか。つまり身内でもない者が社長になるなどということは、最初からおばあさんの頭にはなかったからである。しかし、このおばあさんもなかなか強かなところがあったので、その話はそれほど悪い話ではないかも知れないとすぐに思ったのだ。確かに社長は身内の者がなるものだと当然のごとく思ってはいたのだが、何も絶対そうでなければならないというわけではなかったからだ。今回の件だって本当のところを言えば、紫音を社長夫人にするために仕方なく夫の亮を社長に指名したと言ったほうが正しいからである。そういうわけで卓が次の社長に木戸専務を抜擢したいと言って来たとき、最初は確かに身内でもない者がとは思ったのだが、木戸専務のことは死んだ息子からよく聞かされていたし、その人柄も承知していたので、卓が言うように傾きかけた会社を建て直すには、亮より彼のほうがずっといいだろうと想像するくらいはおばあさにも出来たのである。しかし、ここですぐに彼の話しに乗るのはあまりいいことではなかったのだ。そうなると、この家を誰が仕切ることになるのか、そのことがまったく違った形で再び問題となるからである。それに恐らく亮が黙っていないだろうし、なぜ自分を差し置いて身内でもない木戸専務が次の社長になるのかと色々と文句を言うに決まっているからだ。そういうこともあり、この話がどのような影響をこれからこの家にもたらすことになるのか、そのこともよく考えてみなければならないので、まずはじっくりと彼の話しを聞いて、それから判断しても決して遅くはなかったのである。
卓はおばあさんを説得するにあたり、色々と考えてはいたのだが、恐らくこれまでの人生で人を説得したり自分の主張を認めさせたりしたことなど一度もなかったのではないだろうか。というのも彼は人を説得して何かを決めることより、むしろ相手の気持ちを優先するような人間だったからだ。ましてや相手に分ってもらおうと媚びへつらったり、術策を弄したりすることなど考えられなかったに違いない。いやそもそも、そんなことは出来もしなかったのだ。もちろん性格的にできなかったのであって、何も信念があってそんなことはしないというわけではなかったのだ。そういうわけで最初から無理なことを彼はしようとしていたわけである。しかしこの際そんなことを言っている場合ではなかったので彼も必死に考えたのだが、彼にはもう一つ弱点というか、いやむしろ人間として当然のことかも知れないのだが、ある思い込みがあったのだ。つまり道理にかなったことなら相手は必ず分ってくれるはずだと思っていたのである。しかしそこが難しいところで確かに物分かりのいい相手なら、そういうことも成り立つかも知れないが、相手が女で、ましてやおばあさんのような海千山千のような相手には、いくら道理にかなっていてもなかなか通じないところがあるかも知れないからである。
そういうわけで、彼も色々と考えてはみたのだが、なかなかいい案が思い浮かばず、たぶん切羽詰まったのだろう、ある術策を思い付いたのだ。二人を比べることで、おばあさんを何とか納得させられないだろうかと思ったのである。つまり弟と木戸専務の違いをはっきりさせたらどうだろうかと考えたのだ。そういう比較をすることで、いかに弟が未熟なのかを示すことができると思ったからだ。しかしそんなことは言わずもがなのことだったので、かえって身内を侮辱しているようにも思われかねなかったのだ。いくら相手が亮のようなあまり出来のよくない人間だったとしても、彼を指名したのがおばあさんである以上、ここで変なことを言っておばあさんの心情を害しては元も子もないからである。しかし彼にとって、問題はそういうことではなく、そもそも弟の欠点を言うためにどうしてこんな手の込んだことをしなければいけないのかと思い始めたのである。それも木戸専務と比べるなんてどうかしているんじゃないかって彼も些か呆れていたのだ。しかし、もはやほかにいいアイデアも思い浮かばないので、それなら木戸専務のほうを出来るだけ褒め上げようと思ったのである。
「先程も言いましたが弟はまだ社長には早すぎると思います。それに比べて、ここにいらっしゃる木戸専務は、それこそこの会社の創業時からずっと先代と共に働いて来られて、この会社をここまで大きくしてくれた立役者の一人でもあり、今では彼の右に出る者は誰一人としていないからです。彼が社長になれば、必ずこの会社を建て直してくれるはずだと私は確信しているのです。おばあさんだって彼のことは先代から聞いているはずです。私も親父から何度も木戸専務の輝かしい戦歴を聞かされましたし、実際に私も彼の助言によってどれだけ助けられたことか、弟のような半人前と比べるのもおこがましいくらい、彼のその的確な判断力や決断力は、それはもう計り知れないくらいのものだったんです」と言って、これ以上ないくらい褒め上げるのだった。お陰で弟は半人前というレッテルを貼られただけですんだのが、恐らくそれが精一杯のところだったようだ。すると何を思ったのか木戸専務がいきなり口を挟んできたのだ。彼も社長がどのような戦術で、このおばあさんを説得しようとしているのか、その意図は何となく掴めたのだが、それではちょっとまずいと咄嗟に思ったのかも知れない。
「いえ、社長それはちょっと違うのではないでしょうか。そう言い切ってしまいますと、恐らく彼を不必要に貶めてしまうことになると思うからです。と言いますのも彼は彼で自分の立場というものをよく理解しているからです。彼は自分がこの会社のお荷物になることだけは、決してよしとしていないと私には思えるからです。その証拠に最近の彼の仕事ぶりは昔と比べてずっとよくなっていますし、実際その変貌振りには私も心底驚いているのですよ」と、木戸専務がなぜか急に弟を褒め出したのだ。
「とはいえ、確かに今のままでは社長がおっしゃるようにかなり厳しいものがあるかも知れません。しかし彼には一つのすぐれた才能があるのです。恐らく本人は、まだはっきりとは自覚されていないのかも知れませんが、それは人をうまく使いこなしているということです。これは何も部下にあれをやれとかこれをやれとか、そういういわばパワハラめいたこととはまったく違います。彼はそういうことには非常に気をつけておりますし、それでいてとても的確な指示を出したりするのです。私は一度そういう現場を目撃したことがあります。ですから、彼はそういう面では決して半人前とは言えないのです。もちろん、それがそのまま社長という仕事に繋がるかどうかはまだ分りませんが、それでも、決して可能性がないわけではないと私には思えるのです」
もちろんこれにはちゃんとした考えがあったわけで、彼は何も嘘を付いたわけでもないし、おべんちゃらを言ったわけでもないのだ。ただこのおばあさんのことはよく知っていたし、彼女がどのような意図で彼を社長に指名したのかは分からなかったが、それでも彼の将来のためにもおばあさんに彼の現状を知らせておく必要があると思ったのである。そういうわけで自分の意図とはまるで反対のことを言い出した木戸専務に卓は困惑するしかなかったのだが、それでも木戸専務がそこまで弟のことを見てくれていたのかと思うとなぜかとても感激したのである。しかし今はそんなことで喜んでいる場合ではなかったので、何とか自分を落ち着かせると、こう言って反論するのだった。
「確かに私も弟にそういう才能があるってことは知っていました。でも、彼はまだ経営というものが分っていないと思うのです。いくら身内の者だとしても、経営学もろくすっぽ知らない彼に、いったいどうしてそんな大役を任せられるというのでしょうか?私にはそう思えるのですがねえ。おばあさんだってそう思っているんじゃありませんか?だって以前から亮にだけは実に手厳しいことをおっしゃっていたじゃありませんか」と言ってから、これはどうもまずいことを口にしてしまったと思ったのだ。この話をし始めると、どうしてもある疑問に突き当たるからである。どうしてあれほど貶していた亮を社長に指名したのかという疑問に。これは誰もが感じていた疑問でもあったのだ。ところが、おばあさんの口から実に意外な話が飛び出したのである。
「確かにそういうこともあったかも知れません」と言って、おばあさんはちょっと口ごもったのだが、すぐにこう続けたのだ。「でもね、私がなぜ亮を社長にしようと思ったかというと、ほかでもありません、卓、それにはお前の嫁が関係しているからです。いいですか卓よく聞きなさい、私もね、もはや先のない身ですからね。この家のことがどうしても気になってしまうのです。分りますか?私の言っていることが」と言って、今まで誰にも言わずに、ただ自分の胸に仕舞い込んでいた悩みをここで打ち明けるのだった。
「お前があの女と結婚するという話を聞いてから、私がどれほど心配したかお前は知らないでしょう。というのも私にはあの女がどういう人間かよく分っていたからです。紫音とはまったく違った、それこそ要注意人物のように感じられたからなんです。亮もその点で私と同じように思っていたのかも知れません。恐らくあの女がどういう女か分っていたからだと思います。いいですか?もし彼女がこのまま社長夫人としてこの家に君臨し出すと、恐らく今までの柏木家とはまったく違った環境に変えられてしまう恐れがあるのです。この家は彼女に乗っ取られ、やりたい放題に荒らされてしまうことになるかも知れません。恐ろしいのはあの女を誰も止めることができないということです。私が生きている間はまだいいでしょう。でも私が死んだ後いったい誰があの女の暴走を止められるというのでしょうか?お前にそれができますか?お前の母親にそれができるとでも言うのですか?だから私は考えたんです。今のうちに彼女の力を削いでおこうと。亮が社長になれば紫音が社長夫人となって、彼女はもはや何の手出しもできなくなるからです。いやそれでも彼女は口を出して来るかも知れません。でもその時は紫音が何とかしてくれるだろうと私は期待しているんです。私が亮を社長に指名したのにはそういう理由があったからです。ですから亮のことは、そこまで深刻には考えていませんでした。私もそのことに対してはお前に謝らなければなりません。この家も大事ですが会社はもっと大事ですからね。ですからお前から木戸専務を次の社長に抜擢したいと言われて、最初は戸惑いましたが、よく考えれば亮なんかよりは木戸専務のほうが、ずっと頼りになるってことだけは確かですからね。でもね、そうなると色々と問題が出て来るんです。もし木戸専務が社長になれば、紫音は社長夫人にはならず禮子も単なる長男の嫁に戻るわけですが、そうなるとその長男の嫁が必然的にこの家を取り仕切ることになるわけです。つまり長男の嫁という立場が彼女に権力を持たせてしまうわけです。でもそうなってしまっては困るんですよ。いいですか?この問題は会社の問題と同じようにとても重要なことなんです。この家が崩壊したら困るのはおまえ達自身ですからね」と言って、おばあさんはこの難しい問題の解決を、長男である彼に図らずも突き付ける結果となったわけである。しかし卓のような男にとって、こういうほとんど会社のこととは関係のない話を聞かされると、いったいどう返答すればいいのかまったく分らなくなるのだった。こういう話をいったいどう判断すればいいのか、こういった想定外の話にどう対処すればいいのか、彼にはさっぱり分らなかったからである。ましてやその原因が自分の妻である禮子にあったのだから、もう呆れるしかないわけで、これではもはや交渉どころではなく何が何やらさっぱり分らなくなるのだった。
とはいえ、おばあさんがなぜ弟を社長に指名したのか、その疑問がここに至ってようやく解けたわけだが、そのおかげで長男である彼がこの問題の責任を必然的に持つはめとなったのだ。つまりこの女同士の権力争いに否応なく巻き込まれることになったわけである。これから逃げることなど恐らく出来ないだろうし、もしそんなことをしたら社長でなくなった彼は、もはやこの家では無きに等しい存在になってしまうに違いなかったからだ。これは冗談ではなくこの家では前例があったからだ。それは彼の祖父、つまりおばあさんの連れ合いのような存在になってしまう可能性があるからだ。それは妻の性格を考えればまったくあり得ないとは言い切れないからである。つまり歴史は繰り返すというわけだ。それはともかく、この話はあまりにショックであり、男としてなかなか理解し難いものではあったのだ。そんなことのために弟を社長にしようなんて普通考えるだろうか。つまり、この家の秩序を守るために会社の将来を犠牲にしてもいいと、このおばあさんは考えたわけである。今更おばあさんのやり方に驚いても仕方がないのだが、その傍若無人なやり方に彼も少なからず怒りを覚えたのである。しかし、そう簡単におばあさんのやり方に怒りを覚えてもいられなかったのだ。というのも彼女と結婚したのは彼の意思でもあったので、夫としてこの問題を何とかする責任があったからである。ところが誰でもそうだとは思うが、やはり結婚する前と、した後では事情はかなり違ってくるわけで、つまり理想と現実という問題にどうしてもぶつかるからである。彼も結婚する前はある種の理想を持っていたわけで、偉そうなことを言って母親を驚かしたこともあったわけである。とくに彼は妻のような女性こそが、最も理想的な相手だと思い込んでいたので、最初からかなり無理な関係を築こうとしていたことが分るのだ。というのも妻に対しては常に一目置いて、彼女の言うことならどんなことでも反対しなかったからだ。するとある時妻からいきなり、もっと自分の立場を自覚して下さいと言われて、いったい何のことだろうと一瞬考えてしまったことがあったのだ。そういうわけで彼の理想も次第に現実という坩堝の中で変化せざるを得なかったわけである。するとさっそく彼の身体に変化が表れ始めたのだ。結婚してからというもの、なぜか原因不明の動悸やめまい、訳の分らぬ焦燥感や挫折感といった、甚だ具合の悪いものに悩まされ出したからである。しかし、その原因が自分の理想にあったとは想像すらしていなかったに違いない。だから、おばあさんの言うことなど取り合う価値もないと思っていたくらいなのだ。この家を乗っ取るなどという話なんか、およそおばあさんの妄想だと思うしかなかったのだ。確かに彼女は紫音と違って強い意志を持った女性であり、ある種の権力欲というか、そういうものに惹かれるタイプだということくらいは彼も何となく分っていたのである。弟が以前彼女の性格をみんなの前で皮肉っていたことを思い出すのだった。しかし、そんなことは弟の言いがかりにすぎないと今でも思っているくらいで、というのも妻に対する信頼は絶大だったからで、それは彼女がたとえどんな女性であろうと、彼にとっては無くてはならない存在だと信じていたからである。




