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こうして二人の会話は、いつ果てるともなく続いて行ったのだが、もうそろそろ帰る時間を気にしたほうがよかったのだ。というのも外はすでに夜のとばりも降り時計の針もすでに六時をとっくに回っていたからである。ところが二人は話しに夢中になってしまい、時間のことなどすっかり忘れていたのである。しかし禮子は、その点抜かりはなかったようで、こうなることはどうやら想定内だったらしく、家に帰ってから姑達にこのことをどう説明するか、それもすでに考えているようだった。「あら、もうこんな時間だわ。ちょっとお喋りしすぎたようね」すると紫音は眠りから突然目覚めた人のように時計を見ると顔を曇らしたのだ。といのもおばあさんに今度のことをいったいどう説明したらいいのだろうかと考えずにはいられなかったからだ。それを察した禮子は、「何も心配しなくてもいいのよ。私がちゃんと話をするから、あなたはただ私の言うことにうまく合わせてくれればいいのです」と言って、紫音を元気づけるのだった。ところがその時すでに、禮子が思っていた以上に柏木家では二人の不在に衝撃が走っていたのである。
最初に家の異変に気が付いたのは、その日珍しく会社から早く帰ってきた兄の卓だった。というのも、いつもなら家政婦と一緒に必ず出迎えてくれるはずの禮子がそこにいなかったからである。これは確かに彼にとってみれば異変に近い出来事であり、彼女に何かあったのかと内心ひどく心配してしまったからだ。しかしこの時は木戸専務が側にいた関係で、その家政婦に詳しく聞くわけにもいかなかったのである。それにこの日は彼自身がおばあさんにある重大な話をするために普段より早めに、それも木戸専務を連れてのご帰宅だったので、彼自身もあまり余計なことに気を取られたくなかったという事情もあったのだ。ところが、彼の心配はそう簡単には収まらなかったのである。というのも、彼自身がこうした予期せぬ出来事に敏感に反応してしまったからで、いつもとは違う家の雰囲気に、どうも今日は日が悪いんじゃないかという彼本来の心配性が発動して、今までの意気込みもなぜか急速にしぼんで行くのを感じるのだった。しかしこの時の彼は、いつもとはちょっと違っていて、いやいやこんなことくらいで一々動揺していてはダメだと、そういう弱い自分を叱り飛ばすのだった。しかし彼も木戸専務を応接室に案内したあと、「妻はいったいどうしたのか」と我慢できずに家政婦に問い質すと、その家政婦は、「奥様は若奥様とご一緒にお出かけになったまま、まだお帰りになっていないのです」と言うなり、そそくさとまるで逃げるようにしてそこから立ち去ってしまったのだ。こういう何やらとても気になる振る舞いも普段だったらそれほど気にもしなかっただろうが、この時ばかりはなかなかそうもいかなかったのである。彼も最近のこの家の状況が、かなりおかしなことになっているくらいは知っていたからだ。しかし二人の外出がいったい何を意味しているのかまではまったく分らなかったのである。なるべくいいように考えたかったのだが、どうも彼の思いとはかなり違って妙なことになっていたようなのだ。というのも二人の嫁の外出が、どうやらただの外出騒ぎではないようだったからだ。彼もご多分にもれず家のことにはあまりタッチしたくないほうだったので、いったいこの家の中枢で今何が問題になっているのか、あまりよく理解していなかったのである。しかし時間が経つにつれて、どうやらこの嫁たちの行動が、かなり異常なものとして受け取られていたことが分かったのだ。というのも、すでに六時を過ぎても二人から何の連絡もないまま、未だに帰って来ていないという事実はどう考えてもおかしかったからで、何か事故にでも巻き込まれたんじゃないかと誰もが口には出さずとも思っていたくらいで、その異様な雰囲気にさすがの家政婦たちも黙っていられなくなったのだ。すると先程逃げるように去って行った年長の家政婦が、禮子から口止めされていたことを白状し、何を言われたのかまですっかりバラしてしまったのである。禮子はその家政婦にこう言ったのだ。「これから私は若奥様と一緒に出かけますが、どうかこのことはおばあさまにも、お義母さまにも内緒にしておいてくださいね。もちろんあなた達にはそれ相応のお礼はいたしますから、どうか今回だけは何も見なかったことにして頂きたいのです。でももし何らかの不都合なことが生じて、どうしても話さずにいられなくなったら、その時はどうぞ、あなた達の判断でお話しになってくれてもまったくかまいませんので」と。確かにこんな話しが二人の姑の耳に入ったらそれこそ不審に思うことは確実で、要するに禮子は最初からそう思われても仕方がないようなことを彼女たちに吹き込んでおいたのである。案の定、家政婦は禮子が思っていた通りの行動をし、予定通り問題を大きくしてくれたというわけである。
家政婦の奇怪な話を聞いた二人の姑は、二人一緒に出掛けたことにどうこう言うつもりはなかったのだが、どうして私たちにそれを内緒にしておく必要があったのか、そのことに強い不信感を持ったことは確かなのだ。最近の柏木家では、二人の姑に代わって二人の嫁が、次期社長を巡って、いわば代理戦争をしていたわけで、その二人が裏でいったい何をやっているのかと、色々と憶測を巡らさざるを得なかったわけである。ところが兄の卓は、そんな嫁たちの外出騒ぎにいつまでも気を取られているわけにはいかなかったのだ。彼には会社の存亡に関わる重大な話を、これからおばあさんに打ち明けなければならなかったからである。
その前に、なぜ卓がこうした行動に出たのか、そのことをちょっと話しておいたほうがいいと思う。というのも、彼のような人間が今までにない決断をこれからしようとしているからである。いわば何事にも波風を立てないことをモットーにしているような人間が、なぜか知らぬがここに来て今までにないような意気込みで、おばあさんに向かってある計画を押し進めようとしていたからである。
それこそ彼にとってみれば今までまったく解決の見込みのなかった問題が、そのことによって一挙に解決し、何よりも会社の将来に希望が持てることだけは間違いなかったからである。この人事によってすべてが上手くいくと彼は確信したのである。第一経験不足の弟に社長を任せるなんてこと自体無謀なことなのだ。それも今のような会社そのものがおかしくなっている時期に彼を社長にして上手くいくわけがないのである。弟が今やるべきことはそんなことではなく、父親が築いた柏木物産という会社のために、経営というものをもっとよく勉強することだと兄はそう思ったのである。彼には模範とすべき人物が側にいたからだ。その人物とは木戸専務のことで彼を社長にして、その下で自分の将来のためにももっと経営というものを勉強すべきだと思ったのである。これは極めて正しい判断だと言えるだろう。しかしなぜ彼がこのようなことを思いついたのかというと、ある日、妻の禮子と自分の進退のことで話をしたことがあったのだが、その時木戸専務を社長にしたらどうかというアイデアが突然彼の頭に閃いたのだ。要するに、二人は時間的な差はあれ、ほとんど同じことを思いついたわけである。彼はその時なぜかそのアイデアを妻には言わなかったのだ。なぜ言わなかったのかは、そこにかなり込み入った理由が潜んでいたからである。というのもその時彼は、自分が今の地位から退くようなことを妻と話し合っていたのだが、次第に彼女が不満そうな雰囲気を示し始めたからである。最初いったい何が不満なのかよく分からなかったのだが、どうやら彼が社長という地位を弟に譲ってしまうことが不満なんだと思い当たったわけである。ところがどうもそうではなく彼自身がいともあっさりと社長を辞めてしまうことに彼女の不満が隠れていたことが分かったのだ。このことは何であれ妻の意見は無視できないと思っている彼のような夫には、かなり深刻な影響を与えかねいない問題だったのだ。というのも自分の地位は自分だけのものではないことをこの時悟ったからだ。しかし彼もこの時ばかりは自分の弱さに打ち勝って、意外にもそういういつもなら考え込んでしまうような問題を自分の意志によって退けたのだ。会社そのものをダメにした責任は自分にあることは間違いないわけで、その責任は潔く取らなければならないと思っていたからである。自分のふがいなさを認めるようで彼自身も決して心穏やかではなかったのだが、この際妻の思いなどに拘っていては、それこそ取り返しがつかないことにもなりかねないからである。今まで一生懸命働いてくれていた社員たちのためにも自分はさっさと辞めるべきなのだ。とはいえ妻の不満もそれはそれで決して無視できないことは確かなのだが、彼の決意もこの時ばかりは揺るがなかったのである。というわけで、彼の頭に突如閃いた渾身のアイデアも彼女の不満に配慮して、その時は封印せざるを得なかったというわけである。
もっとも彼にとっては自分の地位のことなど最初からどうでもよかったわけで、というのも一番大事なのはこの会社が再生するかどうかにあったからだ。それにはやはり彼に次期社長をやってもらう必要が絶対にあったのである。これだけはどうしても承知してもらわなければならないわけで、さっそく翌日、自分のアイデアを彼に打ち明けたのだが、木戸専務はその話を極めて複雑な思いで聞いていたのである。というのも、確かにそういう話は過去にも一度あったのだが、その時は先代の遺言もあり自ら辞退することにしてその話は立ち消えとなったのである。しかし彼としても現在の会社の状況を考えると、このままではますますおかしくなることだけはよく分かっていたのである。とはいえ彼に出来ることといえばこれからなるであろう新社長の下で、今まで以上の舵取りをする覚悟で何とかこの危機的状況を凌がねばならないと覚悟していたわけである。それが突然社長から彼に次期社長になってくれないかと話があり、そのわけを聞くと、どうやら弟をいっぱしの社長にするために力を貸してくれないかという話であり、恐らくそれまでの繋ぎ役として引き受けてくれないかと彼は理解したわけである。なるほど、それならきっとおばあさんも納得してくれるのではないかと思ったのだ。この会社はやはりおばあさんの先代に対する思い入れが異常に強い会社だったので、外部の者が社長になるなんてことは、そう簡単に許されないのではないかと思われたからである。しかし繋ぎ役としての社長ならおばあさんもきっと許してくれるのではないかと、卓も一応そういう配慮をすることで、この話もそれほど抵抗もなく受け入れてくれるだろうと判断したのである。しかし果たしてそううまく行くかどうかは彼も正直不安で仕方がなかったのだ。とはいえこの話は弟の社長就任よりずっと現実的で、確実に会社の再生に繋がるはずだと彼にしては珍しくそう確信したのである。そういう確信が彼をして今までにないくらいの行動を起こさせたとも言えるのだ。というのもさっそく木戸専務にこれから自分と一緒におばあさんに会ってくれないかと、彼にしては考えられないような早さでいきなり頼み込んだからである。社長がこれほどの意気込みを見せることなど今まで一度もなかったので、さすがの木戸専務もこれはひょっとして、本当にあのおばあさんを説得してしまうんじゃないかと密かに思ったくらいだったのだ。
こうして二人は事前に何の打ち合わせもないまま、ただ彼の意気込みだけを頼りに柏木家に乗り込んで行ったというわけである。しかし、この柏木家という女の館は、今ではすっかりその様相が変わってしまい、つまり男の意見がなかなか通らない、いわば女の掟によって動くようになっていたからである。ところがその掟に従っていた二つの勢力は、時に分裂したり元に戻ったりを繰り返していたのだが、それが突然起きた嫁たちの不穏な行動によって、一気に二人の姑の間に緊張が走り、もはや二度と元に戻らないことにもなりかねないところにまでいってしまったのである。もちろん嫁たちの行動は、小さな事件だったかも知れないが、それはまた見る人によってその捉え方が全然違ってしまうことは確実で、実際これからの交渉にどのような影響を与えるかは誰にも分からなかったのである。果たしてそうした姑の心の変化を卓は敏感に嗅ぎ取ることができたのかというと、恐らくまったく感じていなかったと見た方がいいかも知れないのだ。いや確かに彼も嫁たちの行動を問題視したことはしたのだが、それは単に遅くなるなら連絡くらいすべきだと、いわば極めて常識的な範囲で彼女たちの行動を批判したに過ぎなかったからだ。というのも、そういう嫁たちの行動の裏に何があるのかまでは考えが思い及ばなかったからである。こういうところにも彼の性格が色濃く表われているわけで、何事も余計なことは詮索しないという、ある意味周りの人間とうまくやっていくには一番いいやり方でもあったのだが、ひょっとして今の彼にはそれどころではなく恐らく自分のことで手一杯だったのかも知れなかったのだ。それは誰にだって限度というものがあるわけで、それ以上のことを考えるとかえって間違いを起こすからである。だから、たとえおばあさんにとってそれが問題であったとしても、彼はそのことは切り離して考えなければならなかったのだ。そうしないと交渉どころではなくなるからだ。というわけで、彼も自分の問題と嫁たちの問題を分けて、これから始まる難しい交渉に臨もうと思っていたのである。
しかし現実というものは、いつだって不確実で人間の思うようにはなかなかいかないものだ。いくら頭を切り替えて問題に臨もうとしても、現実がそう都合よく切り替えてはくれないからである。おばあさん自身がこの問題を頭から切り離すなんてことができなかったからだ。恐らく嫁たちの行動が、おばあさんにとっては決して小さな事件なんかではなかったからである。
「卓、いったいこれから何が始まるんです?お前から私に話があるなんて今まで一度だってなかったのにね。何か変ですね。それにどうして木戸専務がご一緒なのでしょうか。それにしても今日は何か知りませんが色々と変なことが続きますね。お前も知ってのとおり二人の嫁がなぜか知りませんが、一緒に出掛けたまま未だに帰って来ないのです。こんなことは今まで一度だってありませんでしたからね」
「確かにおばあさんのおっしゃるように、私もその異変にいち早く気づいた口でしてね。というのもいつもならちゃんと出迎えてくれるはずの妻が、今日はいなかったからです。こんなことは今まで一度だってありませんでした。でもね、そんなことはよく考えればちっとも変ではないと私は気が付いたんです。というのも彼女だって時には羽を伸ばしたくなることだってあるでしょうからね。ですから心配する必要など少しもないのです。まあ遅くなるならなるで、連絡の一つくらい入れるべきだとは思いますがね。でも二人とも子供じゃないんだから、何もそんなに心配しなくてもそのうち帰ってくるでしょう。とはいえ、このことは後で問題にはなるでしょうがね。でもねおばあさん、こっちは妻の外出騒ぎなんかよりもっと大事なことを、これからおばあさんと膝を交えて話し合いたいと思っているわけなんです。その問題とは、おばあさんもご存じの次期社長に関してのことなんですが、つまり次期社長は決して弟ではないということを、ここではっきりさせたいと思っている次第なんです。正直に言って彼には社長という重責にとてもじゃないが耐えられないと思うのです。彼に部下たちを束ねて引っ張っていけるだけの十分な力があるとも思えないからです。それに今の会社の危機的な状況を考えれば、そんな嵐の中をどうして彼にその舵取りを任せられるというのでしょうか。それがどれくらい無謀なことか、どうかその辺のことをもう一度お考え直し頂きたいと思っている次第なんです」
こうして卓にとっては自分のアイデアをおばあさんに向かって主張するという、いやただ主張するだけではだめで、それをおばあさんに絶対承認させなければならないという、まさしく彼にとって前代未聞の大仕事が始まったわけである。




