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紫音の約束   作者: 吉田和司


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  こうして二人の会談は、お互い探るような緊張した会話から、女同士のよくある軽いお喋りに変わって行き何となく続けられたのである。しかしもうその頃になると外はすでに日も暮れかかり、すぐに夜のとばりも降りて来るので、そろそろ帰らないとまずいことにもなりかねなかったのだ。ところが二人のお喋りは、いつの間にかお喋りの域を超えて、お互い本音丸出しのかなり際どい話しにまで発展してしまったのである。もともとこの二人は以前からお互いの性格について興味があり、出来ることならもっと深くお互いのことを知りたいとは思っていたのである。紫音はどちらかというと控え目で物静かなタイプでもあり、何事も一歩退いて物事を見てしまうという癖があったためか、対象にのめり込むようなことはなかったのだ。しかし、だからこそ禮子という女性になぜかとても惹かれていたのである。反対に禮子はというと、一歩退くよりも、すぐにのめり込んでしまうようなタイプだったため、今までだって紫音という女性に興味があったのだが、彼女が醸し出す一種独特な雰囲気が何となく邪魔をして、なかなかその懐に入って行くのを難しくしていたのである。しかし禮子はこの時、彼女の不可解に見えるそういう性格が、実際のところどういった性質のものなのかどうしても探ってみたくなったのだ。

「前から思っていたんですが、あなたのその冷静さは生まれつきなんでしょうか?いやごめんなさいね。突然変なことを聞いて、でもね、私は常々思っていたんですよ。あなたのその冷静さはきっと生きることを難しくしているんじゃないかって」

「まあ、いきなり何を言い出すかと思ったら、私は決してそんなに冷静な人間ではありませんよ。でも、最近生きることが何だかとても難しく感じるようにはなっていたので、確かにあなたのおっしゃることは間違いではないかも知れません」

「私ね以前からあなたのそういう素直さにいつも驚かされているんですよ。だってあなたはとても素直じゃありませんか。自分というものがちゃんと分かっている人でなければ、とてもそこまで素直にはなれませんからね。でもひょっとして小さい頃からそう育てられて来たのかも知れません。となるとそれはあなたの本心ではなく作られたものだとも言えますね。ですから本当は驚くほど頑固で疑り深いのかも知れません。どうかこんな失礼な言い方を許してくださいね。何も喧嘩を売ろうとしているわけではないのです。なるべくなら本音であなたと話しをしたかっただけなんです。私のような女はね、あなたのような女性を見るとなぜか知りませんが変な嫉妬を感じてしまうんです。それにこれは決して褒められたことではありませんが、私のように長いこと水商売をやって来た女は、なかなかあなたみたいに素直にはなれないんです。どうしても裏を見ようとするもんですからね。だって人には誰だって裏がありますからね。どんなに清純な女性でもやはり裏があるからです。もっとも私なんか裏ばかりで出来ているような女ですから、どうしても考えが屈折して、どうせ人間なんてってすぐ思ってしまうわけなんです。でもこれからは自分のそういう癖を改めたいと思っているんです。で、それにはまず自分が正直にならなければいけませんので、これから言うことは私の本心だと思って聞いて下さいね。もう今となっては、あなたに話してもそれほど気を悪くなさることもないと思うので言ってしまいますが、正直あなたのお父様にはそれほど愛情を感じていたわけではないんです。当時も二人の結婚は財産目当てだとか、市長夫人を当て込んでの欲得結婚だとか色々言われましたよ。でも本当のところは誰も知らなかったと思います。ところが華音さんは初対面でこう言ったんです。「あなたは父のことなんか少しも愛してなんかいない」って。その一言は私の胸を引き裂きました。確かにその通りだったからです。実際彼女の指摘は私の本心を白日の下に晒したのです。そんな愛情のことなんか彼女に指摘されるまでまったく考えてもいなかったからです。恐らくそんなものがなくても結婚は出来るとでも思っていたのでしょう。でも本当にそうでしょうか。今になってみれば自分が間違っていたことは明らかです。そんな結婚などありえませんからね。そうでしょう紫音さん。女にとって愛情こそ一番の要ですからね。そりゃ人によって愛情の形は違ってはいるでしょうけどね。ですから、あの人と別れたのは何も彼が嫌いになったからではないんです。自分の嘘に耐えられなくなったんだと思います。橘さんという方は人として常識もありそれほど変な人でもないし、決して嫌いではありませんでした。政治家としても町の発展のためにまじめに働いていらっしゃって、とても尊敬出来る方だってことは間違いありませんからね」

「娘の私が言うのもなんですが、あなたにとって父は男としての魅力があまりなかっただけなのかも知れませんね」

「何と返答すればいいのかちょっと困ってしまいますが、でも、あなただって妹さんと同じように私を疑っていたんじゃありませんか?」

「私は妹とはまるで違ったことを考えていました」

「それはまたとても興味ある発言ですこと。よろしかったら、その妹さんとは全然違う話しとやらをぜひお聞かせ願いたいもんですわ」

「そうですね。でもたぶん気分を害されるんじゃないかと思うのですが」

「いいえ、そんなこと気になさらないでください。この際ですからお互い本音で喋りましょうよ」

「そうですか。ではお言葉に甘えて私がその時何を思ったか言いましょう。私の見たところ、あなたはまだ亮さんのことが忘れられないのだと思います。もちろんあなたはすでに結婚されているわけだし、こんな失礼なことを言っても怒らないとは思いますが、でも以前彼から受けた心の傷が、心の深いところでは未だにあなたを苦しめてるのではないでしょうか?ですからあなたは、もちろんそんなつもりなどまったくないのに、なぜか彼の側から離れられないでいるんだと思います」彼女はこう言って、禮子の表情のちょっとした変化も見逃さないようにしながらその反応を待つのだった。すると禮子は彼女のその言葉の意味をすぐに理解したのだ。いや理解したというより、紫音という女のまれに見る鋭さに今まで以上に驚いたのだ。彼女は恐らく、いつまでも消えない心の傷に苦しんでいる自分のことを、父親と同じように哀れに思っているに違いないと確信したのである。しかしそれ以上に彼女を面食らわせたのが、だから彼の側から離れられないでいるのだ、という言葉の意味にあったのだ。それは自分がなぜ彼の側で暮らすようになったのか、そしてそれこそがいちばん我慢のならないことなのだが、彼に対する未練がましい思いがまだ残っている証拠だとそう思われることだったのだ。

「それでは何ですか?あなたの考えによると、私が未だに亮さんのことが忘れられないので、こうして彼の側にいつまでもへばりついているというわけなんですね?いやもしそれが本当なら一層のこと、この家から出て行ったほうがいいのかも知れませんね。もちろん冗談ですわ。そんなことをしたらきっとあなたを悲しませることになるでしょうからね。それこそ自分が言ったことを死ぬまで後悔することにもなりかねません。私もそんなことになったら嫌ですし、あなただって困るでしょうからね。でもまあ、もとはと言えばこちらが求めたことなので、あなたを責めることなんか出来ませんがね。でも、あなたがまだそんなことを思っていたことに対しては、正直それは少し考えすぎで間違ったことだと、この際はっきりと申し上げておきますわ」

「もちろん何の根拠もないことを、さもそうであるかのように確信ありげに言ったことは謝ります。本当に申し訳ありませんでした。でも私は何もあなたを疑っているわけではないんです。ただあなたとの今までの関係を考えますと、どうしても以前あったことが思い出されまして、ついそんないい加減なことを言ってしまったのだと思います。でもたとえそうだとしても、私はあなたを責めません。だって、自分の父親でさえ未だにあなたに未練を抱いているんですからね。それを思えば、どうしてあなただけを責められるというのでしょうか?」

「人間なら仕方がないとでも言いいたいのですか?まあ、あなたがそこまでおっしゃるのなら私はもう何も言いませんが、でも、正直にいってとても驚きましたわ。そこまで人の心を読まれるとは思ってもいませんでしたから。どうやら、あなたという人を見直す必要がありそうですね」

「自分で言うのも変ですが、最近の自分は正直に言って何かおかしいのです。自分という人間が、突然今までとは全然違うものになったとでも言えばいいのでしょうか、今まで考えもしなかったことが目の前で起こったことで、自分の中の何かが突然変わってしまったんじゃないかって時々思ったりするんです」

 つまり彼女は、あの禮子のお店で父親と出会ったことが、自分にとってとても重要なことだったのではないかということを言いたかったのだと思う。実際のところあの体験は、父親に対する見方を根底からひっくり返ってしまったくらい画期的な出来事だったからだ。彼女にとって父親というものは子どもの頃からある意味偶像のような存在であり、たとえ家で酔っ払ってわめき散らしていたとしても、それは特別な状態で許されるものだと思っていたのである。父親の権威はそのことによって決して揺らぐことはなかったのだ。もちろんそれは子どもの頃の話しなのだが、ところがそれがそのまま大人になっても彼女の内部では、偶像としての父親というイメージがそのままずっと消えずに残っていたのかも知れないのだ。それがたまたま、あのような対面の仕方をしたお陰で、どんなことをしても許される偶像としての父親が、ただの飲んだくれで、それこそ娘にとってまったく目を背けたくなるような、とんでもない男だったのではないのか。今まで父親という生身の人間を見ないで、何か違ったものを見ていたのかも知れないとようやく気が付いたのである。こうして偶像としての父親が崩壊したことで、彼女自身も同じように心の中で何かが崩壊しなければならなかったのだ。だから自分の素直さも決して本心からのものではないのかも知れないのだ。それは偶像でもあった父親のために、ただ素直な子どもを演じていただけなのかも知れなかったからである。

「自分の父親が、あなたと結婚すると聞いたとき、確かに妹のようには考えませんでしたが、何かおかしいとは思っていたのです。何でそんなふうに思ったかと言いますと、父があなたのような人と結婚することがどうしても理解できなかったからです。それは今考えれば、私自身に何かしらの偏見があったからそう思ったのかも知れません。あなたが初めて我が家にいらっしゃったとき、偶然亮さんも来ることになり、そこで二人はあのレストランでの邂逅以来再び出会ったわけです。そして何が起こったか。妹はあなたと口論しはじめ、亮さんも突然怒り出してしまったのです。でも結局はあなたの鋭い反論にみんな黙ってしまったというわけです。で、今でもよく覚えていますが、父は亮さんが今日何しに来たのかを思い出し、自分が邪魔をしてしまったことをわびて話の続きを彼にするよう促したのですが、なぜか彼は黙ったまま何も言い出せなくなり、私はそれを見て気絶してしまったというわけです。何で気絶したのかは未だによく分からないのですが、でも私が病院のベッドで目を覚ましたとき、じつに不思議な感覚に襲われたのです。それは今考えればついに自分の運命に出会ったという恐怖と、何とも言えない充実した感覚とでも言えばいいのでしょうか、うまく表現できませんが、これが自分に与えられた人生だったんじゃないのか、こういう関係こそが自分に必要だったんじゃないかってそのとき確信したんです。その時からです。あなたが私にとって要注意人物となったのは」こう言って、紫音はちょっと笑ってみせるのだった。もっとも何で笑ったのかよく分からないのだが、しかし禮子は、一緒に笑うどころか身動き一つしないで彼女の話をそれこそ真剣な眼差しで聞いていたのである。そして静かにこう言ったのだ。

「それじゃ、今でも私は要注意人物のままなんですね?」

「そうですね、正確に言えば、以前とは違った意味で、まだ要注意人物のままなのかも知れません」

「ああ、それはじつにおもしろい話ですね。二人の関係もまた新たな局面を迎えたというわけですね」

「でも、これだけは言っときます。私にとってあなたという人は、最初から強い憧れを抱かせるような人だったことだけは間違いなかったのですが、それ以上にあなたの強い意志に負けてしまうのではないかといつも恐れていたのです。とくに主人と結婚するまではね」

「ああ、だから要注意人物の意味合いが変わったとおっしゃったわけですね。それが今回の問題だというわけだ。心配の質が変わったんですよ。女として成長したのかも知れません。女は結婚したら亭主をまったく違う目で見るようになる。それは確かですからね。どう見るかは人によって違うでしょうが、でもあなたのように冷静な女性が自分の亭主を見るとき、いったいどんなことが起きるのか、これは非常に興味ある問題だと思います。私ね、以前からあなたを見ていて一つだけ気づいたことがあるんですよ。それはねあなたの魂は実に静かですね。あまりに静かすぎてちょっと戸惑うくらですよ。でも、もちろんそれだけではありません。それだけではまだ何か足りないんです。何か肝心なことが抜けてるんです。ええと、そうですね。こう言ったらどうでしょうか。あなたのその静かな魂には何とも言えない冷たさがある。そうです。冷たい感触とでも言えばいいのでしょうか。いつもひんやりとしたその眼差しで何事も見ていく。それがあなたの冷静さの正体なんだと。つまりそれがお父様にはない、あなただけの特徴だと言ってもいいのかも知れません。いえ、だからって何もあなたが冷たい女だと言っているわけじゃありませんよ。そういう性格的な意味合いではなくもっと次元の違ったことを言いたかったんです。そうですね、こう言ったらもっとよく分かるかも知れません。お父様の魂は煩悩に取り憑かれて、ただこの世をさまよっているだけなんですが、あなたの魂はこの世から一歩退いて、この世のすべてのことを冷めた目で見ているとでも言えばいいのでしょか。要するにあなたの生き方は人とはどこか違っているんだと思います。まあ並の人ではないことだけは確かですね。だからこそ煩悩に溢れたこの世の中ではどうしても生きるのが難しくなってしまうんだと思います」

「それなら何ですか、あなたの考えによれば、それが生きることを難しくしている原因だとおっしゃりたいわけですか?」紫音は彼女の話しをどう捉えるべきかこの時とても悩んだのだ。というのも、そんなバカなことがあるもんかと言って笑い飛ばすことが出来なかったからだ。もちろん彼女の言うことを頭から信じたわけではないのだが、それでもそういう冷たさは確かに自分の中にあり、それが時々自分でもはっきりと自覚する時があったからだ。しかし今まではそれがどういうことなのか深く考えることもなく、ただ今回禮子に指摘されたことによって、急にそれが人間としてあってはならない欠点なのではないかと思い始めたのである。

「そうですね。そう取ってもらってもいいと思います。でも、言っときますが、これはあくまでもあなたの性格のことを言ってるわけではありませんからね。そこはどうか誤解なきようお願いしますよ。それでないと、とんでもない誤解の上にあなたという人間が出来上がってしまいかねませんからね。いくら人間には裏があると言っても、それだけを取り出して云々してもそれはそれで不都合なことになってしまうからです。でも、こんな言い方は失礼かとは思いますが、以前のあなたを知っている私から言わせてもらいますと、あなたもずいぶんとお変わりになったのではないでしょうか。というのも、あなたもやはり色々と経験したお陰で、それなりに自分の本質を認識されたのではないかと思うからです。もっとも本人はそれほど自覚はないのかも知れません。でも他人の私から見ると昔のお嬢さんの頃のあなたからはまったく想像もできないくらい、あなたの魂は一段とその鋭さを身に付けたようにも思われるからです」

「ちょっと、お聞きしてもよろしいでしょうか?あなたのご指摘は一々ごもっともだとは思いますが、というのも私も自分の冷たさは時々感じていたからです。でもそのような私を見てあなたはどうお感じになりますか?私のような女はやはり人間として何かが欠けているのでしょうか?」

「まったく気になさることなんかないと思いますわ。それは決してあなたの欠点なんかではないからです。先程も言いましたが、どうやらあなたは私の話をすっかり誤解されてしまったようですね。これは悩むような問題ではありません。また悩んでもどうしようもないのです。いわばあなたの持って生まれた宿命みたいなものでそれを変えるなんてことはとても出来ないからです。ですからそんなことに悩むより、ご自分のそういう宿命をもっとよく自覚されたほうがいいのかも知れません。少なくともそのほうが道から外れることもなくなるでしょうからね」


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