10
父親は、彼に娘を紹介するとすぐにその場を離れるのだった。あとは二人に任せるしか手がない父親としては、ただうまくいきますようにと、この時ばかりは不信心な彼も神に祈るしかなかったのだ。ところが紫音は、突然父親が居なくなったことで、その無責任な行動に一瞬怒りさえ覚えたのだが、それでも何とか正気を保つと、これからいったい何が始まるのかと子供のように身構えるのだった。まったく何も知らされていない彼女としては、それがたとえおかしな態度だったとしても、そうしないわけにはいかなかったのだ。とはいえ、彼女もいつまでもそんな子供じみた態度でいるわけにもいかないので、何とかこの見知らぬ男と話しをしなければいけなかったのだが、それでもいったい何を話せばいいのか、その切っ掛けさえ掴めないのだった。
一方、好奇心だけでやって来た亮は、彼女を改めて近くで見たのだが、その子供のように純粋で邪念のない、その瞳にさっそく心を奪われてしまったのである。どちらかと言えば少年のような眼差しとでも言ったほうがいいくらいの、その澄んだ瞳から受ける印象は、一人の成熟した女性というよりも、まだ女性に成り切れていない、どこか中性的なものを強く感じるのだった。そういう彼の感受性は、なかなか面白いものであったが、それにもまして彼女のいかにも相手を警戒するようなその様子が、さっきからずっと気にはなっていたのだ。それはまるで、この場にいることが自分の本意ではない、と語っているようだったからである。もしそうだとしたら、それは甚だ妙なことになってしまうのだった。橘氏の話しによれば彼女自身が、どうしても自分に会いたいと言うから、こうしてやって来たのに、それでは話しが全然違ってくるからだ。それとも自分はあの男の妙ちきりんな計画に、まんまと乗せられてしまったのだろうか。しかし、もしそうなら彼女だって父親の犠牲者なのかも知れないではないか。この疑惑は彼をまた違った考えに誘うのだが、もしそうだとしても彼女を非難する資格など自分にないことぐらい承知していたので、それがまた彼を混乱させてしまったのだ。しかし、いつまでもこんな状態でいるのもおかしいので、何とか話しを始めなければならなかったのだが、彼はこの時ふとこのまま疑念を抱え込んでいるより、一層のこと、彼女の真意を直に確かめて見るべきではないだろうかと思い、一風変わった質問を思い切ってしてみるのだった。
「それにしても、あなたのお父様は実にまめなお方ですね?いや、そのですね、今回のこの事は正直に言ってしまいますが、橘さんの肝煎りで実現したようなものなんです。実を言いますと、もちろんここだけの話しでお願いしたいのですが……」と、最初はどこか冗談めかした笑みを浮かべながらも、次第にまじめな顔になり訴えるような調子でこう続けるのだった。
「私はどうやら、あなたのお父様にうまく乗せられたようなんです。いや、もちろんこれは私の思い過ごしかも知れませんが、しかし、それは、あくまでも一つの可能性として聞いて下さいね。ほかでもない、どうやら僕たちは、ここでお見合いをさせられているようなんです。失礼ですが、あなたは、お父様にどう説得されて、ここに連れて来られたのですか?私の見たところ、どうもご自分から進んで来られたとはとても見えませんでしたのでね。いやまったく失礼なことをお聞きして大変申し訳ないのですが、そういう私もですね、もう嫌われるのを覚悟で正直に言ってしまますと、今回のことはあまり気乗りのしない話しだったんですよ。なぜかと言いますと、あまりにもこの話には裏がありそうでしてね。いや、もちろん誤解なさっては困りますよ。私は何もあなたのお父様のことを、悪く言いたいわけではないのですから」
すると彼女は我が意を得たりと思ったのかさっそくこう答えるのだった。
「まったく、そうですよ。私もここに無理やり連れて来られたのです。それも、その理由すら聞かされずにです。あなたがどういう方かさえも、ろくに教えてくれないんですよ。ただ、どうしてもお話しがしたいんだと、それだけ聞かされました」紫音は、自分がここにいるのは決して本意ではないことを白状してしまい、ひょっとしてその訳をあなたはご存じなのではといった表情までして見せるのだった。亮はそれを聞いて『ああ、やっぱりそうか』と思い、こうなると話しがややこしくなるばかりで、いったい全体あの男は何を考えているのだろうと訝るのだった。このわけの分からぬお見合いは、そもそもわれわれ二人にとって、どういう意味があるのだろうか。いや、そんなことより、このお見合いのからくりをこの際はっきりさせ、その上でこれからどうすべきかを考えなければならないと思うのだった。それにしても彼女も随分と正直な女性だと彼は思うのだった。とはいえ彼女の話を聞いたことで疑惑はますます深まるのだが、それより彼女の真意をもっと知りたいと思い、さらにこんなことにまで言及するのだった。
「しかしそれは妙ですね。今のお話しを伺って不思議に思ったのですが、私の聞き及んでいるところによりますと、こんな言い方は失礼かと思いますが、あなたのほうこそ私に会いたいと、それもぜひにという強いご要望があったことなので、それなら私も喜んでと思った次第なんです。その話しは信頼できる筋からのものですから間違いはありません。ここだけの話し、あなたのお父様は、かなりいたずら好きで剽軽な方なのかも知れませんね。おそらくどうしても二人を対面させたかったので、こんな手の込んだお芝居をして見せたのだと思われます。あなたもそういう父親に乗せられてしまったのでしょう。私もまんまと乗せられてしまいました。しかもですよ、あなたが言われたこととしてお父様からお聞きしたことなんですが、私に一目惚れしたとまで言われては、男たるもの会わないわけにはいかなかったのです。しかし、それもまたフェイクだと分かった今、私たちはいったいどうすればいいでしょうか。このまま何もなかったこととして、お互い黙って別れるべきなのでしょうか?それともここは一つ、あなたのお父様に一泡吹かせてやるべきでしょうか?」
「うちの父が、そんなことまで言ったのですか?」と言って彼女は絶句してしまったのだ。いくらなんでもそんな嘘は女としてとても耐えられなかったのだ。どうにもやりきれない恥ずかしさで、できることなら今すぐにもこの場から逃げ出したいくらいだったのだ。それでも何とか気を取り直して父親の嘘を詫びるのだった。「とても信じられませんが、もしそれが本当なら父に代わって私が謝ります。父をどうか許してやってく下さい」
「いや、とんでもない。許すもなにも、私は決してそんなつもりで言ったわけではないのです。いや困ったな」自分の迂闊な一言が、彼女に大きな動揺を与えたことにびっくりしてしまい、焦った彼は失言を取り消すには、もはや自分の気持ちを素直に言うしかないと思い、こんなことまで口にするのだった。
「もう、すでにあなたとこうしてお喋りをしていますが、なぜかお互いのことにはまだ少しも触れていません。そこで一つ提案があるのですが。さきほども言いましたが、このまま二人は黙って別れるべきなのでしょうか?それともお父様のこしらえたこの舞台で、僕たちの筋書きを新たに作るべきでしょうか?それでは私の思いを言いましょう。私は実を言うと、あなたを一度だけ、お見かけしたことがあるんです。もうずいぶんと前のことですが、ある場所で偶然あなたをお見かけして、なぜかこう思ったのです。自分はこういう女性と結婚したら、きっと幸せな人生を送れるだろうにと。いや、笑ってはいけません。これは決してフェイクではありません。私の本心です。今こうして直にお目に掛かって、それが正しかったのではないかと思うようになりました」
こういう言葉が彼女にどう影響したかは分からないが、それでも、このまま別れるのはなぜか残念な気持ちにはなっていたのだ。それに何となく彼とこうして話していると、次第に緊張感から解放されている自分に気づくのだった。飾り気のない話しぶりにもすごく好感が持てたし、その顔立ちも品がよく、決して美男子ではないが、その憂いのある繊細な表情が、どこまでも彼女の心をなぜかざわつかせたのである。もちろんこうした印象は、その場の雰囲気でどうにでもなるものだし、彼女だって、何もこれが彼のすべてでないことぐらい承知してはいたが、こういう幻想も極めて強いイメージとなって、彼女のピュアな心を蚕食していったとしてもなんら不思議ではなかったのだ。というわけで、この奇妙なお見合いは、このまましばらく続行されることになったのだが、果たしてこれが嘘から出た真となるのか、それとも絵に描いた餅に終わるのかそれは分からないが、そこは男と女の不思議なとこで、二人とも妙に打ち解けてしまい色々と話しに興ずるのだった。ところが、このあとしばらくして実に奇怪な出来事が、彼らを待ち受けていたのである。
ここは、かなり人気のある高級レストランで、昼間でもいつもは客で賑わっているのだが、たまたまこの日は客も少なく、室内は静かで落ち着いた作りの雰囲気と同時に最高の食事が堪能できたのである。紫音もここに来るまで感じていた、あの重苦しさも綺麗さっぱりとなくなっていて、まるで嘘のように彼とお喋りしている自分がそこにいたのである。ついさっきまで、こんなことになろうとは思ってもいなかったに違いないのだが、人の気分などそんなものかも知れないのである。なるほど気分とは実に奇妙な実体だ。誰しも思うようにならない気分に苦労した経験は一度や二度ではないだろう。まるで気分が自分を支配しているようでますます憂鬱になるのだ。しかし、思うようにならないのは、気分ばかりではないのはもちろんである。生きること自体が、そもそも思うようにならないものだし、起こって欲しいことはなかなか起こらず、起こって欲しくないことが、まるでわざとのように襲って来ることがあるものだ。彼にとってそれは偶然なのか、それとも奇怪な巡り合わせというものが、底知れない因縁の鎖となって彼を縛っていたのか、それは定かではないが、なぜか底意地の悪い運命を感じてしまうのだった。それも、よりによってこんな時を狙って来ること自体、人を馬鹿にしている証拠だと眉を顰めたくなるのだった。
一見して曰くありげで、いかにも垢抜けた服装に身を包んだ若い女性が、(と言っても見た目からいって三十は過ぎていただろう)なぜか偶然を装うような驚いた表情をしながら、ためらう素振りなど一切見せない明瞭な足取りで、こちらめがけて歩いて来るのだった。それはもう間違いなかった。彼はさっそく心構えをして彼女が何を言うか想像してみるのだった。しかし、それはどうみても、この場にふさわしくない不吉なものでしかなかったのである。ある意味、この女とは出来ることなら二度と顔を合わせたくはなかったし、会えば必ず例のことをお互い思い出さずにはいられなかったからである。案の定、危惧した通りのことを空々しくも、その女は言ってのけたのだ。
「ほんとうに驚きましたわ。こんなところでお会いするなんて、実際にこんな偶然もあるんですわね。いやね、どこかで見たことがある人だと思って、つい声を掛けてしまったんですが、いやどうぞご心配なさらずに、すぐに退散いたしますから」彼女はこう言ってチラッと紫音のほうを見たが、それには何の反応も見せずに、「それにしてもあなたもお気の毒でしたわね。ほんとに心配したんですよ。ああいうことになって、さぞかしあなたも辛い立場に立たされたことでしょう。ご心痛お察しいたします。でも嬉しいですわ。だって、あなたのお元気そうなお顔を拝見できたんですもの。これですっかり安心できましたし、私のわだかまりも、ほんの少しですが解消されたのですから」彼女のこの話しは、亮には嫌味にも聞こえたのだが、彼女からすれば決してそんなつもりなど少しもなかったのである。ところが、それが素直に彼には伝わらなかったようだ。それも無理からぬことで、詳しいことは、いづれ分かるので今はただ彼女がいったいどういう女で、彼とどういう関係にあったかを大まかに話しておこうと思う。
この女は以前、例の夫人との不倫関係にあったころに彼と知り合ったのだが、彼女はその夫人とも知り合いで、夫人の家で二度ほど彼と会ってもいたのだ。その時どうやら亮に気があったらしく、かなり強い好意を示すまでに至ったのであるが、夫人がそれに感づき女の嫉妬心から、一昨日来やがれとばかり彼女を家から追い出し、そのまま出入り禁止にしてしまったという曰く付きの女なのである。そのとき彼女は、夫人の理不尽な仕打ちを不審に思い、さっそくいろんなことを嗅ぎ回っている最中に、新たに別の女との嫉妬事件が持ち上がり、彼の不倫もあえなくそこで終了してしまったということは、以前に彼の口から聞いた通りである。
そこで不思議なのは、この女が果たしてたまたま偶然に、この場所に居合わせたのかということだった。そういう偶然は確かにあるにはあるだろうが、あまりにも出来すぎだと思われた。これには何か裏があると疑ってみる必要があるのだ。案の定あとで分かったことではあるが、すべては何もかもご存じだったのだ。この日のこの時間に、この場所で二人が会うということもすっかり分かっていたのである。それでは、その情報はどこから得たのか。驚いたことにその情報源は橘氏その人であった。なぜ、そんなことが起こったのか。そこには実に奇怪な事情が、この二人の間にあったからである。以前、橘氏がいずれ再婚するという話は、噂ではあるが話題になっていたことをご記憶であろうか。実を言えば、その話はかなり確かな情報だったのだ。つまりその相手が誰あろうこの女であったわけだ。しかし奇怪な話しはまだ続く。彼女はこの話しを二日前に橘氏本人の口から聞いたのだ。というよりも橘氏がよせばいいのに自分の娘のことを、この女に話したついでに御曹司のことまでペラペラ喋ってしまい、将来この二人の結婚が実現すれば、自分のこれからの選挙にもなにがしかのプラスになり、おまけに娘の将来も保証されるだろうといったことまで話してしまったのである。しかし実際はその裏に、まだ彼にとって実に切実な思いが隠されていたのだ。それはいずれ明らかになると思うので、ここでは橘氏がただそのように話し、彼女はその話しを利用したらしいということだけを指摘するに留めておこう。
亮も、やはりこの女がどんな経緯でこの場所に来たのか、たまたまなのか、それとも誰かの手引きか一応疑ってはみるのだったが、それよりも、もっと大事なのは紫音がこの女をどう感じ、どう見たかということである。彼はチラッと紫音の顔を窺うのだった。案の定その顔はこのいきなり現れた、それもいかにも馴れ馴れしいその口の聞き方に何か曰くありげなものを感じているような表情で、この女の話しを聞いていたようだ。ただ恐らく、この女が何を言っているかまでは分からなかったに違いない。それが唯一、彼にとっての救いであったかも知れない。まだすべてが語られたわけではなかったからだ。そこでもうこれ以上彼女に喋らせないためにも何とかしなければいけないと思い、早いとこ退散させるにはどうすればいいのかと頭を捻るのだった。しかし、これはどうも彼のほうが考え過ぎであったようだ。彼女からすれば何もここで自分達の過去を、洗いざらいぶちまけたいと思っているわけではなかったからだ。ただ、あることを自分なりに確かめたかっただけなのである。ところが彼のほうは、紫音のことを考えるとどうしても焦ってしまい、さっさとお引き取り願おうという思いが強くなり、話す言葉につい毒念のようなものが紛れ込むのだった。
「確かに私もあなたのその後のことを考えて、多少なりとも心配していたんです。だってそうでしょう、あのようなはなはだ不名誉な扱いを受ければ、誰だって嫌な気持ちになって当たり前ですからね。それとも気丈なあなたのことですから、夫人の呆れ果てた仕打ちにどこまでも耐えられるはずだとは一応私も考えましたがね。いや、決して嫌味でこんなことを言っているのではありません。あなたとしても、やはりそれなりに苦しまれたはずだからです。私は何もあなたのことを、どうこう言ういわれもありませんが、ただお気の毒な方だと思っているだけなんです。でもあなたとこうして再びお会いできたのも何かのご縁かも知れませんので一応ご忠告申し上げておきますが、あなたも私のことなど、さっさとお忘れになって、ご自分の人生をどうかお進み願いたいということです。そういう私もですね、あれ以来心を改めまして新しい生活に踏み出す決心をしたわけです。私が何を言いたいのかお分かりでしょう?」
もちろん何を言いたいのかはよく分かったが、それにしても随分と素っ気ない、どこまでも正しいご忠告だっただけに、なおさら自分の思い描いていたものと大きく懸け離れてしまい、それが何よりも彼女をがっかりさせてしまったのだ。しかしそれも仕方のないことなのかも知れなかった。とはいえ、自分の期待していたことが思うように行かなかったとき、やはり人間は何かしら自分との折り合いを付けなければどうにも落ち着かなくなるものだ。彼女も自分のこの行為は、どうやらまったく余計なものであったと悟ったのだが、悟ったとはいえある種の空虚感はどうしても感じずにはいられなかったのだ。そこで、自分に納得いくような後始末をつけなければどうにも収まりがつかなくなってしまったのである。
「ところで、あなたはご存じないとは思いますけど、あたし今度結婚しようと思っていますの。いえ、まだはっきりとは決まっていないのですが、まあ、そんな話しがあるんですよ。それも相手はおじいちゃんですわ。つまり、ある資産家の後妻にでも入ろうと思っているんです」
この話しは亮からすれば願ったり叶ったりの話しのように聞こえたのだ。とすれば、彼女は今度こそ自分のことを諦めたということにもなるからだ。これは実にめでたいことであり、そういうことなら彼もこの女に対する今までのわだかまりも消え、お互いのこれからの人生をなんら邪魔することなく生きて行けるというわけである。彼はすっかり穏やかな表情になり、彼女に対する態度も今までと違って見違えるような前向きなものになるのだった。そういう男の変化を見逃さなかったこの女は、一瞬心臓に針でも刺されたような痛みを感じ、その結果、別れ際にこんな捨てぜりふみたいなことを言うはめになったのである。
「もし今度またお目にかかれることがあったら、必ずこの時のことを思い出して、二人で腹を抱えて笑いましょうね。それを楽しみにしておりますわ」
もちろん、亮には何のことやらさっぱり分らなかったのだが、ただその言葉の裏に何やら不吉なものを感じて、あれほど穏やかに別れられると思っていたのに、これですべてがぶち壊されたと、自分がそうさせたにもかかわらず、彼女に対する怒りだけが込み上げて来るのだった。




