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橘家は代々その町の名士だった。町と言ってもほとんど田圃ばかりの極めてのどかな土地柄だった。今の当主の父親は、かなりの資産家でもあり、何かとその町に貢献して来たこともあって、選挙に出たらどうかと周りの取巻き連中におだてられ担ぎ上げられると自分もその気になって立候補したところ、なんとぶっちぎりの得票数で市長になてしまったという幸運の持ち主でもあったのだが、果たしてそれがよかったのかどうかを考えるとどうもそうではなかったようなのだ。というのも、もともと政治など素人同然な上、おまけに右も左もよく分からずバタバタしているうちにある騒動に巻き込まれてしまい、そこで嫌と言うほど人間の汚さを見せつけられほとほと呆れ返っているさなか、ある議会中によほど頭に来たのか演壇にあったコップの水を反対派の議員にぶちまけて、「水でも浴びて頭を冷やしやがれ!」と怒鳴り、さっさと辞職してしまったという曰く付きの人物だったからだ。
こういうちょっと変わった親を持つ家系ではあるが、父親が亡くなる時に一人息子の道臣に政治家には絶対なるなという遺言を残して死んだという話しがあったくらいだから、よほど人間というものに失望したのかも知れない。もっとも、本人も秘かに思い至ったところではあるが、自分の中にも随分ときちがい染みた闇の部分があることに嫌でも気づかされたらしいのだ。どうやら、そんな話しを誰かに漏らしていたようで、そういうところから息子に残した遺言の意味がどうやら分かりかけて来るというものだ。それはつまり政治というものは、本人すら気付いていなかった闇の部分が自然と浮かび上がって来ては対立してしまう世界だから、そんなところに何も進んで身を投ずることなど、少なくともまともな人間になりたいのなら近づいてはいけないという意味なのだ。つまり政治家の背後には、その人間を選んだ物言わぬ支持者がいるということで、それがその人間の影を太らすことになりかねないからである。もはや彼は選ばれた人間であり、その時点で個人的な欲望など失っているからだ。彼は一種の公人となり自分の人生を捧げながら万人の欲望の生け贄となりいずれ食い尽くされる。食い尽くされたくなければそんなところに身を投ずることなどしないことだ。それでも、その世界に身を投じたいというのなら、よほど覚悟を決めて掛からないと酷い目に遭うだけだろう。なるほど人間は自分の中にある権力欲に目覚めると、他の欲望と一緒でそれを行使したくなるのは自然の道理である。どんな人間にも暗い欲望というのはあるのだから、それに目覚めれば本人が望む望まないに関係なく、まともな人間を一旦はやめざるを得なくなることはどうも避けられそうにもないからだ。
そういうわけで、この遺言が息子にある決意を固める結果になったのである。つまり、息子である彼も父親と同じ道に進む決心をしたということである。ひょっとして彼はそういう父親の考えをどこか軽んじていたのかも知れない。彼はある時こんなことを知人に漏らしていた。「おやじは、もともと政治家などに向かない人間だったのだ。あまりに人が好く、万人に慕われることを何よりも大事にしていたくらいだから。万人に慕われるって、いったいどんな政治哲学からそんな結論が出てくるのだろう。まあ、おやじはどこまでも理想家だったから、そんなのどかなことが言えたのかも知れないが、おれはもっと現実的にこの町のことを考えているんだ。おれには秘策がある。おれはそれを実現してみせるよ」これだけでも、彼が一廉の野心家であることが分かる。彼は父親が死ぬとすぐ市会議員に立候補し当選したのだ。つまり彼の次なる野望は父親の後を継ぐということにある。しかし、彼のそういう理想と現実とはなかなか縮まることはなかったのだが、それがここに来て一気に実現できそうな雰囲気になって来たのである。ところが、そういう彼の遠大な野望にも関わらず、彼も人の親としての悩みがないわけではなかったのだ。つまり彼のような現実的でありながら、どこか浮ついた野心的願望にのめり込もうとしている男にも、やはり世間にはよくあるとても厄介な問題が起きていたのである。それは彼のような男からすれば極めて馬鹿げた取るに足らない問題ではあったのだが、いやむしろ問題というよりどこの家でも必然的に起きる一種の家庭的ごたごただったのだ。
彼には年頃の二人の娘がいたのだが、一人は今年三十になる長女の紫音と、もう一人は二十四になる次女の華音あと長男の二十二になる大学生の貴臣で、この息子のことはいずれ話すことになるので、今はこの二人の娘が、なぜ父親にとって我慢のならないごたごたとなって彼を煩わすようになったのか。それは言わずと知れた年頃の娘を持つ家庭ならどこでも起こる、いわゆる結婚というものにまつわる煩わしさにほかならなかったのだ。それは何も二人の娘に貰い手がないとか、恋人が出来ないといった話しではないのだ。第一親の目からみても二人とも器量好しだし、性格から言っても別にそれほど気になるような欠点などなかったし、家は資産家で何の問題もないのだが、どうやらこれは彼女の心の中で突如点火したある疑念が原因と言うべきものであった。ただ彼女は、まだはっきりとそれを理解していないだけで、そういう今まで感じたことのない心のざわつきが彼女の気持ちをいつになく落ち着かないものにしていたのである。そういった愛する娘の不安定な心持ちが父親に影響しないわけがないのだが、この父親もまだそれとは気づかずにただ煩わしい気分となって彼をイライラさせていたのである。
この日も、朝からそのことで紫音もすっかり鬱ぎ込んでいて、もう少し自分の気持ちを分かってくれてもよさそうにと思うのだった。それは彼女の真実の気持ちだったし、それに相手の男性に対する不安がどうしても起きて来てしまい、いくら父親の懇意の人とはいえ、なぜこうも自分に内緒で物事が進んでいることが理解できなかったのだ。しかし、そうは言っても、彼女は内心父親の意思にはとても逆らえないだろうという思いがどうして拭えなかったのである。それが何よりも一番辛くもあり情けなくもあった。彼女は子供の頃から、素直で親の意見に逆らうことなど一度もなく育って来たからである。彼女は父親の一番のお気に入りだった。それは今でも変わらないのだが、それだけに今度のこのごたごたは父親にとっては意外でもあり、あの素直で良い子だった娘がなぜといった思いもあって、それこそ大袈裟に言えば父親始まって以来の頭を悩ます大問題となっていたわけである。確かに父親からすれば、この話は娘にとって申し分のないもので、誰が見ても反対する理由などどこにも見つけられないほど完璧なものに感じていたからだ。それくらい父親から見てもお似合いの二人で、誰からも祝福されるべきものであると自画自賛したいほどであった。ところが、どうもこの話しには裏があるようなのだ。それは、父親の関係したある筋から漏れ出た話しなのだが、どうやら彼が今度の市長選で何かと世話になる、ある大企業の御曹司がこの結婚と何かしら繋がりがあるらしく、もちろんこんな事情があることなど娘は知るよしもなく、おそらくこの先もずっと知られることもないだろうと思われるのだ。そういう裏事情があったとはいえ、親にとってはそんなことよりこの大企業の将来社長になるであろうその息子とうまく結ばれれば、何かと都合がよかったことだけは確かで、もちろん娘にとってもいいに違いないと勝手に思い込んでいても何ら不思議ではなかったのだ。とはいえ彼もこういう親の利己的な裏事情に内心どこかで疾しいものを感じてはいたのだが、そんなものは娘の将来を思えば取るに足らないものだという親のエゴによってすっかり打ち消されていたのである。そういう親の身勝手さは娘にとっては迷惑千万なものだったが、ただその時の紫音にとってとても不幸だったことは、こういうことを相談する相手が誰もいなかったことなのだ。もっともこの家には、ばあやと呼ばれていた一人のお手伝いさんが居たにはいたが、慕ってはいたがあくまでも他人でもあり、このような込み入った悩みを言っても却って迷惑だろうと思ったりしたのだ。でもそれが思い違いだったことが後ほど分かったのである。それにまた肝心の母親は、三年ほど前に他界していて、妹に相談すると言っても、この妹にはなぜか子供の頃から手を焼いていて、どう扱えば大人しく言うこと聞くのか皆目分からなかったのだ。とはいえ妹はどこまでも開けっぴろげで気の置けない性格だったし、決して人から嫌われるものなど少しもなかったのだが、どうやらこの姉からすればどこまでも人の話しを聞かない手の焼けるやんちゃな子供だったようなのだ。しかし、決して嫌いなわけではなかった。そういうわけで、彼女の今の状況は何の打開策もないまま、どうやら彼女の意思の届かないところでその秘密の計略が着々と進められていたのである。