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五話

 液体ネコはふと、虚空を見つめたかと思うと、再び液体に戻った。黒い液体は地面に広がり、そして、複数の字体を自身で綴った。それは「アニー、帰宅、不可」といった意味だった。

「液体ネコは賢い。訓練次第ではこうして情報を伝えることすらできる。恐らくアニーが使わしたんだろう。それにしても……帰宅不可。どういうことだ?」

 ツイがそう尋ねると、またもや黒い液体は地を這い形を変えた。今度は「女」となった。

「女って……彼女か。帰宅不可の返答になってないぞ。アニーはどうしてるんだ?」

 彼はそう聞いたが、液体ネコはネコ特有の笑っているんだか憮然としているんだか分からない無表情で、ただじっと、ツイの両目を自身の両目で見つめ返していた。その様子は、何も知らない、というよりは、何かを知っていても決して口を割ろうとはしない幼子のそれを彷彿とさせた。もっとも、人間が勝手にそう思っているだけで、ネコの立場になってみればまるで違った視点を持つだろうことは、容易に分かることだが。

 ともかくツイはその表情の人間味に絆され、それ以上追求する気勢を削がれてしまった。「まあ、大方、何かしらの急用ができたかなんかだろ。顔も広いし、なにかと忙しい身だしな」と、半ば自らに言い聞かせるように呟いた。

「あの、アニーさんはお帰りになられないのでしょうか」

 おずおずと、遠慮がちにサフィールが尋ねる。彼女も液体ネコの文字を見ているため、顛末を理解しているはずなので、状況の再確認という意味合いが強いだろう。事実、彼女の声は僅かに震えており、顔色からも不安が窺えた。

 その有り様を見た瞬間、彼は記憶がないというのは、どんな気分なのだろう、と考えはじめていた。想うべき寄る辺もなければ、来るべきよすがもない。自分を含め、自分を知っている者はなく、関連性を失った身。それは白紙上の染み、砂漠の虫、時化て捨てられた一本のマッチ。ツイの想像の中の彼女は、自意識に対しても、それ以外に対しても、まさしく孤独そのものに映った。

「今日は帰らないようだ。事情はよく分からないが、まあ明日には帰ってくると思う。師匠は義理堅く、約束は絶対に破らない。あんたの記憶は絶対に戻るさ、だから、安心してくれ」

 この孤独な女に対し彼にできることは、励ましくらいのものしかなかった。

 心的魔術の権威、アニーといえば、魔術学の黎明からをその目で見てきた大魔術師として、その道を志す者からは広く慕われている。しかしツイは、唯一の弟子でありながらも、心的魔術を一定以上修めることができなかった。彼の魔力の質は、心的魔術に適合しなかった。

 彼は、次第に、心の中で沸々と湧いてくる自己嫌悪を認識した。そして、それらを認識した勢いのまま無理矢理飲み下した。下らない感傷に浸るよりもまず、サフィールのことを気にかけてやる必要がある、これも弟子としての務めであり、まず、できることをしようとした。

 彼女の目を真っ直ぐに見た。誠意を表そうとしたのである。

 それに気がついた彼女は、蒼い虹彩を幾たびか瞬かせた後、微動だにしなくなってしまった。彼は何を勘違いしたのだろうか、と思った。恐るべきは、目蓋含め、眼球運動の一切すら停止してしまっているように見える点である。果たして人間はこうまでして完璧に停止してしまえるものだろうか。その所業はツイの動作をも止めさせ、空間ごとその場を固定していると錯覚させるほどのものであった。

「え?」

 ツイがそう言うのと同時に、その静寂は消え、何事もなかったように彼女は両掌をすり合わせていた。

 疑問符が脳内を支配したが、束の間、夜の帳が下りていることに気がついた。彼は明光石と呼ばれる特殊な鉱石を光源とした、真鍮製のランタンに明かりを灯し、木机の上に置き、「とりあえず、飯にしよう」と、言った。


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