三話
店内は整頓されていた。アニーが研究に没頭する時は往々にして店内は混沌の様相を呈するのだが、今回は勝手が違うようだ。床に紙類が散乱していないことに加えて、いつもは非自然的な色をした液体が入っている、蒸留器や抽出器のビーカーやフラスコの中身は空だった。ツイはわずかばかりの違和感を覚えたが、特に気にするようなことでもなかった。ビーカーを一つ拝借して、台所へ向かった。
「コーヒー入れるけど飲む?」
「いえ、お構いなく」
「あ、そう」
ビーカーをおもむろに置き、棚を開け、長方形の符を一枚手に取った。そこにはいくつかの記号が重なったかのような、複雑な字体を織り成した魔術式が書かれている。鉄製のケトルを用意し、注ぎ口を作るようにその魔符を折り、傾ける。すると、幾何学的模様から水が湧き出、ケトルが音を立てた。
ちょうどいい塩梅の水量で止め、ケトルの取っ手を手にした。段差で張り出した一角にある、ミミズののたくったような字が横並びに陳列され、それが内包された真円が書かれている場所があるので、円内に底面が収まるようにして置いた。そうして「イ、エン、オクハ」と唱えると真円が熱を帯び始めた。ツイはそれを見送り、先ほどの魔符の皺を伸ばして元の棚に戻した。
ビーカーに円錐のドリッパーを乗せ、紙のフィルターとコーヒー粉を設置した。
すぐ側にあった椅子を寄せ、腰を掛けた。そうして、懐からマッチと煙草を取り出し、煙草を口に咥え、マッチを擦り火を着けた。紫煙を肺に入れ、一息に吐き出す。
湯が沸騰するまで手持ち無沙汰だったので、彼は女の方を横目で見た。彼女は常識の言語体系から外れた文字で書かれているような、分厚い本を読んでいた。
「あんた、名前は?」
「……え? あ、すみません。何ですか?」
本に集中するあまり、聞こえていなかったようだった。面を上げ、二人の視線が交わった。そうすると、ツイは改めて彼女のことがよく見えた。
空間を黒く染める艶めいた髪、青玉と比較しても何ら遜色ない、あるいはそれ以上の輝きを有する二つの瞳。白磁製の如き肌の造形は、人体美の一つの終着点だった。まるで宝石のような女だ、と彼はそう思った。
「名前だよ、あんたの名前」
「ああ。サフィール、と言うそうです」
彼女は、どこか他人事であるかのように、また同時に、全くの空虚さを湛えた無表情でそう名乗った。
「ふーん。あんたも魔術師か? 字が読めるから、まあ平民ではないようだが。もっともそんな分厚い本は中々ないし、大方魔道書だろ」
約百年前に、魔力が発見され、研究が進み人々の生活の質は飛躍的に成長したが、教育機関は未発展な土壌に甘んじていた。字が読める平民は多少いるにはいるが、まずもって、いないと考えても問題はなかった。先ほどの酒屋の店主、ジョーなどは好例で、ツイが始めて来店した際、字の用いられたメニュー表を渡されたのでいたく驚いたのだ。
彼は答えを黙って待ったが、返答はなかった。心中で疑問符をいくつも並べ、煙草を一口吸った。次いで二口。そして三口目に吐いた煙が虚空に散った頃、漸く彼女は口を開いた。
「すみません、わからないんです。私、記憶がないので」
ツイは驚き、固まったが、煙草の灰を床に落としかけて我に返った。それでもおしのように黙っているのは、何と声をかければいいのか困窮しているからである。
「アニーを訪ねたのはそれが理由か」
彼女から口を開く気配はなく、結局彼は気まずさを埋めるべく選択をした。
「それすらわからなくて……気がついたらこのお店のベッドに寝かされていました。それが昨日のことです」
「そっか。まあ、アニーは心的魔術を使えるからな、すぐに治るさ。心配しなくてもいいよ」
「はい……ありがとうございます」
ケトルが蒸気を吹き上げ、甲高い音を立て始めた。