005 元下働きの女の独白
シーナはレスター辺境伯爵家でかつて働いていた下働きの女だ。
年は16歳で成人したばかりだった。
屋敷に勤められる栄誉に与り、勤め始めて一月が経った頃、唯一の家族である弟が病にかかった。
それもかなり重い病だ。
高熱が続き薬を買うのに働いていたお金はほとんど消えていった。
医者に掛かろうにも大金が必要だ。
そんな時、お嬢様の部屋の掃除を任されるようになった。
お嬢様はレスター辺境伯爵夫妻に溺愛されて育っている。
お嬢様は先日7歳になったばかりだった。
少し風変わりなお嬢様で光る者や綺麗な物は好きでもそれは一部であり限定的だった。
それも加工されていない物が特に気に入っていた。
最近のお嬢様の流行りはお金で遊ぶこと。
それも金貨だ。金貨は一枚で100万鉄貨と同等の価値がある。
貨幣は鉄貨1枚が1円、大鉄貨1枚は10円、銅貨1枚は100円、大銅貨1枚は1,000円。そして銀貨1枚は10,000円、大銀貨1枚は100,000円の価値がある。
お嬢様がよく遊んでいるのは金貨1枚で1,000,000円(100万)。
その上は大金貨1枚で10,000,000円(1千万)、更に白金貨1枚は100,000,000円(1億)の価値がある。
とても貧しい私のような平民では見る機会のないものだ。
お嬢様の部屋を任されて数日、目の前には美しい装飾の付いた宝箱のような入れ物に入って蓋が開いたままの金貨の山がある。
その金貨は手を伸ばせば届く距離だ。
私の心に弟の顔が浮かぶ。
両親は流行り病で亡くなって弟まで亡くせば私は一人になってしまう。
気が付けば私は宝箱から1枚の金貨を盗み屋敷を後にしていた。
お嬢様は全くと言っていいほど勉強が出来ない。
わがままで教師の言葉もまるで聞いていないような出来の悪さだと聞いている。
だから、私は目の前の状況が理解できなかった。
屋敷から抜け出した私は自分の家に駆けこんだ。
弟の顔を見てほっとして手の中の冷たい金貨が僅かに罪悪感を募らせる。
だが、この一枚の金貨さえあれば弟を医者に見せることが出来る。
そうすれば、弟の病はきっと治り今まで通り幸せな暮らしができると信じていた。
「私の金貨を返しなさい。」
大きな音を立てて扉を開けて入って来たのは屋敷にいるはずのお嬢様だった。
その後ろには困惑してこちらを見ている同期のサラの姿があった。
同じ掃除係をしている彼女とは屋敷でも仲が良く友人と呼べるような存在だった。
なぜ彼女がとシーナは突然の事態に訳が分からなかった。
「サラ、私の金貨を取り返して。」
お嬢様に命じられてサラが複雑な表情を浮かべたまま私の手を掴んだ。
その手を引き離そうとして私は暴れた。
「どうか、お許しくださいお嬢様。これさえあれば弟を医者に見せることが出来るのです。」
私の叫びは空しく響き、サラは悲しげに私の手から金貨を取り躊躇いながらもお嬢様の手に返した。
それで満足したのかお嬢様はゆっくりと弟のベッドに近づく。
「いけません、お嬢様!病がうつります。」
サラの言葉を聞かずにもぞもぞとベッドに上ったお嬢様は弟の額に手を当ててその頭を撫でた。
そして、そのままベッドから降りてサラに向かって帰ると告げたのだ。
お嬢様はあんなに金貨を持っているのに、一枚くらい良いじゃないか。
なぜ、なぜと私の心が暴れる。
「この人でなし!弟が死んだらお前のせいよ!たった一枚じゃない。どうしてよ!」
私の口からお嬢様に思っていた事がボロボロと吐き出された。
叫び声をあげた私にお嬢様は今まで見たこともないくらい冷たい目で私を見た。
その目を見て圧倒される。
馬鹿なお嬢様だと笑っていた私だが、お嬢様に自分とは格が違うのだと言われたようだった。
「駄目なものは駄目なの。」
ただ一言そう言ってお嬢様はサラと共に帰っていった。
残された私はしばらく涙を流したまま動けなかった。
「姉さん、泣いているの?お屋敷はどうしたの?」
後ろからした弟の声にはっと気が付いて振り向いた。
ずっと高熱で目覚めなかった弟が体を少しだけ起こしてこちらを見ていた。
「ジェイク、ごめんね。お医者様に連れて行ってあげられなくて。」
「泣かないで姉さん。」
そう言って弟が布団から体を起こそうとする。
慌てて駆け寄ると弟が奇妙な顔をして布団を捲った。
そこには茶色の小さな袋が入っていた。
「なんだ、これ。」
弟が摘まみ上げると中からチャラリと金属の音が聞こえる。
袋を開けると中には5枚ほどの金貨が入っていた。
私は唖然とした。
間違いなく、これはお嬢様が残していったものだ。
忘れたなんて都合の良い事は考えられない。
たった一枚の金貨でここまで追いかけて来たくらいなのだ。
「これは一体。」
馬鹿にしていたはずのお嬢様に助けられて私は再び涙を流した。
これで弟を助けることが出来ると。
だけど、私が今回の事で後悔したのは無事に弟が快癒した後の事だった。
あんな事があって屋敷に戻れるはずがなく、別の仕事を探さなければならなかったからだ。
だけど、どこに行っても門前払いで雇ってもらうことなどできなかった。
お嬢様からのお金は半年もしない内に残り少なくなってしまった。
そこで初めて私は自分のしでかした事の大きさに気が付いたのだ。
弟が治ってから何度も屋敷に向かってお嬢様に詫びようと思ったが会う事さえ許されなかった。
私はお嬢様を裏切り、救われたものの許されることは無かったのだ。
そして私が屋敷をたった一月で辞めることになったのも、噂はあっという間に広がってしまっていたのだ。それは間違いなく自業自得な事だった。
ある時パン屋で働いている青年がトボトボとパンを買いに来た私に声をかけてくれた。
以前から何かと気にかけてくれていたトニーに私はこれまでの事を話した。
黙って聞いていたトニーは話を聞き終わると私にひとつの質問をした。
「どうして、周りに相談しなかったの?」
「え?」
「今みたいに、どうして?」
そう言われて私は同期のサラがどうしてあんなに悲しそうな顔をして私からお金を取り上げたのかにやっと気が付いた。
「私が、間違っていたのね。」
「領主の屋敷を辞めさせられた君を雇ってくれるところなんて早々ないだろう?」
「はい。でも生活しないといけないから、最近では市で弟と裁縫したハンカチとかを売ってみているのですけれど、あまり売れなくて。」
「だろうね。皆領主様に睨まれるのが怖いのさ。でも、今のままだと生活出来なくなってしまうね。俺からこういうのが得意な奴に相談してみるよ。」
そう言ってトニーは笑った。その数日後、高級宿エバンスの女将であるエレンに声をかけられたのだ。
「アルの坊やが3月だけでもいいから試してくれっていうからさ、あんた運がいいよ。」
「アル様ですか?」
「なんだ、あんた知らないのかい?アル坊はこの町じゃ有名な子だよ。初めはスラムの奴らを使って何をしようとしているのかと思っていたけど、今じゃこの町一番の相談役さ。あんなに小さいのにね。」
そうして私は高級宿エバンスで掃除婦として働くことになった。
今では働きを認められて従業員として雇って貰っている。
それが決まってから少しして弟は鍛冶屋の親方であるダンさんに弟子入りした。
今ではあの重い病を患っていたとは思えない程元気に働いている。
ある日、女将にアル様へお礼を言いたいとお願いしたところ快く引き受けてくれた。
部屋をひとつ貸して貰いアル様を呼んでくれたらしい。
今までのお礼を言おうと部屋に入って私は固まった。
「やあ、シーナ。お礼が言いたいんだって?」
そこに居たのは間違いなくお嬢様だった。
髪形や服装は違っても見間違えることなどあり得ない。
私はこの日初めて、お嬢様に真の忠誠を誓ったのだった。