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七つの樹に七つの果

幸せな夜の娘

作者: 七ツ樹七香

 

「夜の娘、エル・ディアナよ。来なさい、別れの祝福を」


 スッと背筋を伸ばして、名を呼ばれた女が立ち上がった。

 漆黒のベールを目深にかぶり、同色の丈の長いドレスを身にまとい祭壇へ進み出る。年老いた司祭の手で薄いレースがあげられ、美しい顔立ちが月下に露わになった。


「翻意なきか」

「はい」

「二度と戻らぬと」

「はい、お許しをありがたく思います」

「名を」

「エル・ディアナ」


 ディアナは、はっきりと自分の名を告げた。司祭の手がこぼれ落ちた言葉を拾い、空中に氷で描かれた美しい綴りの文字を浮かばせる。夜の司祭がその文字に手をかざして名を削る。

 最初の二文字、そして最後の一文字が砕けて地に落ちた。


「ディア。人の子と添い遂げるために、そなたに与える名は、ディア」


「さようなら、エル・ディアナ」

「元気でね、ディア」


「あなたの夜に、さようなら」


 美しい夜の娘たちが口々に別れを告げた。

 ディアは、冷ややかに思えるほど丁寧に膝を折り踵を返す。その背はただ、まっすぐだった。

 天色(あまいろ)の瞳に浮かぶくっきりとした意思が、彼女の決別を輝かせた。

 彼女の向かう先は愛した青年との「幸せ」なのだ。


 精霊と呼ばれるものだったのだろう。自分は。

 ディアは帰途を辿りながら、もう夜の闇が自分にやさしくないことに気づいていた。目の利かぬ暗闇は、慣れた道でもカンテラ一つで歩むには心許ない。親しみ愛した夜とは、こんなにも心細いものなのか。

 ふっと息をついて、彼女は微笑んでみせた。


 明日の朝、彼女は人間になる。


 小さな家の戸を開くと、星屑がさやかな灯りで家主を迎えた。

 これも明日の朝には輝き費え、二度と光りはしないだろう。主人を失う星屑は、ただの石ころになって果てる。


 まだ、僅かな力の残るうちに最後の仕事が残っていた。

 ディアは、最後まで残していた夜の娘の証を砕かねばならなかった。


 夜の娘たちは虹色の種を握って産まれる。その種から育つのは、人の知る理から外れ、根を持たず宙に浮いて育つ「夢の木」だった。か細い枝とほっそりとした幹で伸びゆく木が、夜の娘たちが朽ちるまでの友になる。

 夜の娘は十を迎えたその時に、生木を裂いて己の髪を一筋飲み込ませる。その裂け目を閉じあわせると木はまばゆい光とともに、「木」から夢を産む「杖」に姿を変えるのだ。


 産まれた杖に娘は誓う。

 人の子の夢に、何をもたらす夜の娘になるのかを。


「ありがとう、遠き日の夢。あなたのおかげだった」


 ディアは大切にしまいこんでいた杖を取り出し、愛おしむように胸に抱いて名を呼んだ。


 『遠き日の夢』


 それが杖の名だった。ディアがディアナと呼ばれた頃、人に与えた夢。

 幼いディアの肘から先までの長さだった杖は、生い立った彼女の支えになるほどに、やわらかな胸の辺りまで育っていた。


『杖は砕き、燃やしなさい。貴女の杖が、なんの夢も持てないほどに』

『どうして、そんな。木に戻ることは――?』

『できません。主を失えば杖の持つ夢は、静かに悪夢に変わリましょう。夜毎人の夢に忍び、貴女を探しまわるでしょう。どこにも貴女がいないと知ることもなく』


 長に知らされた「掟」はディアを一度は打ちのめした。

 けれど――。

 ディアは、艶のある杖の柄を握った。

 手にしっくりと馴染む愛しい感触。ディアは簡素な机に横たえた杖の石突から先端の飾りまで、指の背で撫で上げる。

 杖の節々には月のかけらを鍛えた金の飾りを巻いて、最上部の翼の意匠の金具には炎のゆらめきに似た宝石を抱かせた。少しずつ作り上げた、ディアだけの杖。

 石突の飾りを爪で弾き、呟いた。


「この夜に、さよなら」


 はじけるように金具が割れた。

 夜の物は夜への別れの言葉で朽ちていく。三つに砕けて飾りは落ちた。仲の良かった夜の娘たちと、そろいでつけた思い出の品だった。

 次の飾りをパチリと弾く。


「あの夜に、さよなら」


 千の夢を人に届けた褒美、流星の尾を連ねた金鎖が砂のようにさらさらと机の端からこぼれ落ちる。輝いていた飾りがさみしげな音を立てて次々と儚くなっていく。

 そして、一番大きな宝石をそっと撫でて彼女はひと粒涙をこぼした。


「ディアナの夜よ、さようなら」


 この夜の先にいる恋人が、夢の中で夜の娘(ディアナ)に贈ったものだった。

 彼がはにかみながら差し出した、彼女の知らぬ太陽のような宝石。

 (想い)を聞き届けると、石には途端にクモの巣のような細かいヒビが走り、やがて砕け散った。

 瞳を伏せた彼女は、震えた息を詰める。

 最後だ。


「『遠き日の夢』よ、さようなら」


 別れの言葉を合図のように、鈍い音がして雷に打たれたように杖が裂ける。無残に樹皮はめくれ哀れに反り返った。

 彼女は耐えて嗚咽しなかった。涙の溜まった目で杖の行く末を見つめた。

 未来と呼べるものを手に入れるために、己の捨てたものの末路を見なければならなかった。

 たったひとつ、信じる愛のために、名を捨て家を捨て仲間を捨て、生きるべき場所を違え、あの人の元へ行く。

 なぜすべてを捨てるのかと尋ねる友人がいた。泣いて引き止める者もいた。


 ディアナだったディアは、窓辺から静かに夜をみた。

 生きた世界、戻りえぬ夜。彼女は光さす明日(あす)へゆく。

 乾ききった杖の裂け目には、幼い日の夜の娘が込めたひと筋の髪の毛がのぞいていた。

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