武田信玄公
毎日何処かで戦いが繰り広げられた関東平野、しかし今日は静かに沈黙しておりここ鶴岡八幡宮では眩しいほどの容姿で祭壇の前に立つ上杉輝虎、鎌倉には上杉や武田そして関東の諸侯が集結しておりその数15万と勢揃いで狭い土地にあふれかえっており関東管領を継ぐ者として長尾から上杉にかわり配下皆喜びにうち震えており厳粛なうちにおわった。
「前倒しで本来は川中島の決戦があったんだよな」
嬉しそうに昌景と話している信繁が生き残ってくれており勘助が亡くなったあと右腕として期待をしているせいで思わず呟いてしまう、
「御屋形様は西上を目指すのでしょうか」
昌豊が聞いてくるので、
「上杉家が足利幕府を再興するために向かうと思うが私は先ずは関東を押さえた後に考えるとしよう」
急いだおかげで本来川中島の年には桶狭間があったはずだが未だ1551年を過ぎたところ、三河の対応いかんによってはだろうが踏ん切りがつかず影響がないいや少ない関東を主戦場に戦いを続けていこうと考えている。
輝虎に率いられた関東勢は小田原に向かう、本来は小田原の包囲の後だがそれが入れ替わる。
私は小田原に向かわず北条の城を落とすために先ずは川越に向かった。
「さて援軍もない綱成もいない川越城、一気に落とすぞ」
鉄砲隊を並べ盾を先頭に前に進む、早号で弾幕をはりつつ迎撃で顔を出す北条勢を次々と倒し昌景が先頭になり破城槌を押し出し城門の前に来る。
鉄砲は途切れずにおり本来なら石や油を落とすはずができずに昌景に突破された。
昌豊が突入して次々と門を破り1日持たずに落城した。
「城主である北条氏尭が首にございます」
報奨を与えるとすぐに輝虎へ届けさせ小田原を動揺させるためさらし首にさせ次々と周辺の城を落としていると問題が発生した。
「忍城の成田長泰が領地の分配を不服として忍城へ戻っており直ちに討伐せよと管領からの知らせにございます」
「わかった、昌景よ先発し忍城に入城る前に捕捉し殲滅せよ、昌豊は忍城を占領せよ無理はしなくて良い、籠城の準備をさけなければ問題はない」
小太郎の配下からの使者なので長泰よりも早く情報が伝達されたと思いながら赤備えに補足をさせるため先発させ昌豊には兵糧の運び込みや領民が入城できないように急がせた。
「途中で捕捉しましたが成田長泰は取り逃がし入城しました」
忍城の包囲を終えて敵の総数は2千にも満たず小太郎の配下が先に侵入して兵糧庫に火を放ったと言うことですぐには攻めずに様子を見させた。
「忍城はほっておけば落ちよう、その間に北条に対する準備を進める」
八王子城は昌豊(内藤)に任せ河越には信春(馬場)を松山城には板垣から一条に名を変えた信方が孫の正信と入り、そしてその北にある鉢形城には昌信(高坂)そしてここは盛胤(原)、そして上州の平井城を幸隆(真田)に任せ箕輪の業正(長野)に入れ上州の南東にある金山城に山上道及をいれて対北条への新たな布陣となり、弟の典厩信繁は信濃の守りで高島城、長篠には二郎三郎こと徳川家康が入り今川への牽制としている。
「申し上げます。秋山殿が津久井城を攻め落としたと報告がありました」
津久井城は八王子城の南でそこから今の厚木を経由すれば小田原まではすぐであり、甲斐に対しての侵入路も御殿場経由でしか北条はできなくなりそこも富士山の登山口である吉田に幸隆が堅城をたてて押さえていた。
「昌豊に引き継がせ虎盛(小畠)をいれよ」
急な戦線の広がりに不安はあるが小田原を輝虎がおさえているので次の行動をと思い里見に押し込められた下総より北へ攻めさせ国府台まで確保するように書状を書いて送った。
私はそのまま5千の兵を率いて津久井経由で小田原に着陣をして輝虎に合流する。
北条に攻められ瀕死であった宇都宮や佐竹とその周辺の諸侯が攻めていたがさすがは総構えの城であり攻めきれずにおり不満がたまっていた。
「兵も農作業があり帰陣を望んでおります」
ここで踏ん張れば落とすこともと思うがさすがにほっとくわけにもいかずに輝虎は撤退を決めた。
「信輝殿すまぬが後を頼む」
「輝虎殿もしばらくは内政と越中の安定を」
関東の諸侯は撤退を始め前線には武田の城がにらみをきかせているが、逆に北条からの攻撃にさらされると言うことで小太郎配下が網を巡らし信春を中心とした相互の連携で初期の攻撃を防ぎ私が援軍としてと言う話で甲斐へと戻った。
「先ずは戦死された村上義清の後だが、息子4人とも命を落としており末と長子の子がおりますが」
義清の孫は10才であり末子は5才であり未だ継がすには、
「備中(横田)を後見人に、戦場には立てぬが十分その責を勤めよう」
先の戦いで足を負傷し回復できずに原虎胤の息子を養子に迎え康景と私が名を与え継がせていたので任せることにして備中を呼び出す。
右足を引き摺り座ると平伏した備中に、
「まだ隠居とはいかぬ、村上家を切り盛りして成人させよ」
「この不自由な身に御屋形様に何と言って良いか、見事成人させましょう」
そう言って北へと旅だった。
北条との決戦は勘助を失い備中等の多数の負傷者をだし、北条方も綱成やその息子為昌そして重臣である大道寺盛昌や遠山景綱等等が亡くなっているのを小太郎経由で確認しており次の戦いは景綱が城主をつとめていた江戸城と考えながらいくつかの指示を出して評定を終えた。
「元気に育ってるな、春日に諏訪は」
久しぶりに二人が揃う奥へと入る。
「今回の勝利おめでとうございます。弟への合力お礼を申し上げます」
「無事にお帰りになられて私達も嬉しく思います。子供達に顔を見せてやってください」
それぞれの子供は神妙に座っており私はそれぞれに木製の馬を与え楽しませよるがふけていく、
「北条との戦いは更に苛烈を極めるであろう、なかなか戻る事も出来ぬが躑躅ヶ崎を頼むぞ」
北条ともだが北条の力が弱まれば今川も武田との関係を決断しなければならぬが太源和尚がいる限りは表立ってはと思っていると小太郎が知らせてきた。
「和尚が亡くなったと」
「流行り病により、先月末に」
これで北条と今川の二正面での戦いを強いられる事になるので至急、輝虎と里見そして美濃と織田に和尚の死とそれに対する動きについて書く、
里見については国府台で勝利したが城は落とせずに撤退をしたと知らせが来ており江戸城の攻略に一抹の不安を覚えている。
織田と斎藤は濃姫の信長への輿入れで信秀は三河への圧力を強めており父の後をついだ松平元康が幼いながらも和尚の助力を得て防いでいたのもまた変わると、
「それと一向衆の動きが活発化しており、加賀から越中へ、長島から尾張へと一揆を拡大しております」
本来は兄である信玄の正室三条の方の姉妹をめとっている次代の本願寺の顕如とは義兄弟なのだが、私が信玄を追い出したせいで関係は険悪であり影響力はない、
「それと未確認ですが加賀の一向衆を束ねているのは晴信様かと」
大人しくしているとは思わなかったが上杉と対決する事になると頭がいたい、
「確認をせよ、それいかんによっては輝虎殿へと知らせ私も越中へでなければなるまい」
一向衆との戦いになると思いながら対応を迫られることになった。
翌年、越中と尾張以外は動きはなく静かで田植えを終える頃に知らせが来た。
「やはり兄上か」
「徳栄軒信玄と名乗られ指揮されていると」
「一向衆じゃないじゃない、比叡山と組んだのか」
もう何がなんだかわからないまま輝虎へと使者をだし三条の方の所に顔を出した。
いまだに美しい三条の方に少しだけ息をのみながら、
「実は兄上が一向衆を率いており出家もしたとなにか知りませぬか」
そう聞くと困った顔をしながら文箱より手紙の束を取り出して渡してくれる。
「読んでも良いのですか」
兄上からの手紙でありあのクーデターの後に京へ上がったのでさほど気にはしていなかったがやり取りがあったのを聞かなかったのは私の失敗である。
「聞かれたら見せよと文にも書いてありますから」
信玄は決心をしたと言うことだろう、上洛の事を書いており折を見て呼ぶと書いてあり今回加賀での門徒を指揮する立場になり三条と義信を呼びたいと言うことで、
「私は止めませんが、無論今まで通り手厚い保護と義信を一人前にしたいとは思っていますが」
そう言うと丁寧に頭を下げられ、
「今までの恩を仇で返すことになるやも知れませぬが、晴信様の元へいきたいと思います」
「わかりました兄上の元まで無事送り届けましょう」
数日のち準備が整い加賀へと向かった。
内政を行い関東は民を安堵するため動く、しかし四公六民の税のため甲斐や信濃と同じ税率に反発をすることになると、
「3年の猶予と関の撤廃とする」
北条を封じ込めに3年と決め各城主に伝え甲州街道等を拡張する様に命令し佐久経由上野や棒道による甲斐から信濃への道や、諏訪から飯田、飯田から天竜経由の長篠城そして美濃への道を拡張する事を命した。
北条は重臣が多数戦死して建て直し中で氏康の子供も未だ元服前なので早々動けないと思う、今川は和尚が亡くなったことにより細やかな事が義元ではしばらく手に余るだろうし三河も元康の器量がと思いながらいつ暴走するか、織田は道三と共に長島の一向衆に手を焼いている。
輝虎は越中と能登の攻略を進めているが信玄の率いる一向衆からの攻撃と葦名の北越後への圧力と謀略にさらされている。
佐竹と里見は北条の佐倉城や国府台に圧力をかけているが北条玄庵が押さえに入り膠着状態だった。
「佐渡の金山銀山は順調なのと鉄砲の量産も火薬の自前も問題ないし鉛だけ少し足りないな」
探してはいるが鉛は飛騨の神岡に城をたて採掘をさせていたが毒素があるためなかなか難しい状況であった。
「足軽の雇用は1万を越え平時には工事を戦時には兵として順調に増やしております」
流入した農民は開墾した土地をあて二男や三男は足軽として雇い農兵の動員を押さえるようにしており、各家臣にも少しずつだが行っていた。
「駿河からは税をかけられているため越後経由の品物の流入が著しく直江津の規模も拡大しておりますが、冬の通行が難しく江戸を落とすことをお願いしたいです」
「それについては尾張の織田と斎藤と通商を結ぶこととし蟹江経由で岩村そして飯田への道を拡張して関もほとんどないように話はついている」
戦いの間に信長への手紙と共に信秀と同盟を結んだ道三(斎藤)とのやり取りを何度も行い経済効果を認識してくれている2人だからこそ出来たことである。
「でも船で大量にじゃないとな効率が悪いからだな」
最後は独り言を言いながら領内の見廻りに向かった。
「お願いの義にございます」
農民なのか列を飛び出してくるのを近習が取り押さえる。
「淡路守(多田)聞いておいてくれ、罪にはとうなよ保護が必要なら任せる」
直接聞くと言うことは一見良さそうだが支配者としてのけじめがあるのでそう行動をする。
「信長ならだけど、ここはな」
そう言いながら道路の拡張した場所の確認と修正を指示しながら淡路守からの話を聞いた。
「未だに法を破っていると言うことか」
家臣にもと思いながらも無くなるはずもないと思いながら氏康が行ったことを思いだし、
「小太郎調べがついてるであろう、淡路守に伝え対応を頼むぞ」
「それと北条が行った目安箱を各領地に設置せよ、紛失した場合はその領主に責任をとらせる」
動かせないようなものを設置して小太郎の配下に回収をさせれば良いと思い領民達におふれをだした。
「輝虎殿からの援軍依頼か」
越中と能登への出陣をすることを刈り入れと同時にと言うことで兵1万6千を率いて糸魚川の急流のそばを進む、
「白馬の雪渓がよく見える。小さい頃母親と登ったな」
ずいぶん昔の記憶から思いだし周りが怪訝な顔をするのを気にせず足を止め休憩しながら見上げ途中温泉につかりながら日本海に出ると勝山城で上杉勢と合流した。
「援軍感謝いたす」
「輝虎殿の手伝いができるなら嬉しいことはありませぬぞ」
3万の軍勢は西へと親知らずを抜け富山の城へと入った。
「出迎えご苦労」
輝虎の従弟長尾景直が椎名へと養子に入り富山城を守っており元の領主である神保が一向衆と手を組み争っており、能登の畠山は始めは一向衆と戦っていたが一向衆に蹂躙された責により当主である畠山義続が無理矢理息子義綱に家臣から隠居させられ継がされて、家臣は能登七人衆として権力を握ってそれの討伐を行うと言うことだった。
「高岡城の一向衆を攻撃する」
3万4千で向かう、一向衆は8万であり数だけならと言うことで作戦をたてる。
「先ずは決戦を行う前に、武田勢は後方へ回り込んでもらいたい」
高岡城の南西に位置して加賀との通り道である一乗寺城とその周辺を攻めるように言われて出陣をした。
先ずは南下して重要な増山城に迫り一気に攻める。
「典厩よ淡路守が攻める間に搦め手を攻めよ、淡路守は鉄砲で圧力をかけ破れるなら攻め落とせ」
鉄砲隊を千連れてきておりこの時代では圧倒的な火力であり攻城戦が開始された。
楯を並べ矢から鉄砲隊を守りながらすすむ、この時代は未だに鉄砲は未知の武器であり射程に入ると一斉射撃を繰り返した。
轟音がとどろき城内では初めて躑躅ヶ崎で発砲したときのように混乱をしており堅城と言われた増山城の正門を突破に成功し淡路守は突入する。
「信繁隊も搦め手を突破」
籠城している一向衆を次々と討ち取り、今回は降伏を許さずに落城させ家臣に周辺の城も落させていき本隊は庄川を渡ると蓮沼城を速攻で攻め落とし一乗寺城へと攻めた。
「総攻めをせよ」
200mもの高さがある城だが規模は未だ小さく数に任せて攻めれば落ちよう規模なので命令をした。
1万で周囲から攻め登り本体6千は鉄砲隊と共に一向衆に備えた。
蟻のように斜面を登り取り付く、最初は防いでおり難しいかと思うが登りやすいところに味方敵とも兵が集まっておりそれに気がついた味方は少ない郭を登り突破したようだった。
一刻(二時間)程で鬨の声が上がり加賀への道は閉ざすことができた。
「輝虎殿へ山門は閉じたと知らせよ」
知らせると共に加賀への道の奥に陣をはり一乗寺城が側面になるようにして守りをしいた。
「これでは加賀から敵が来れば挟み撃ちになりますぞ」
確かにそうだが兄信玄は高岡城におり加賀の坊主は積極性はないと聞いており念のため2千程で加賀側の警戒をしているが、本来の歴史でもこの頃は本願寺の僧侶が門徒に対して支配を強めようよしておりそれが門徒である農民との軋轢をうみはじめているのを小太郎の配下に援軍の依頼と共に噂をたて上無しを広言している農民をあおりたて、坊主には農民の反意を伝えていがみ合うようにしていた。
「まあ何かあれば知らせが来る。何れにしても一向衆は一枚岩でもないし我慢強い正信があれほどひどい者達はおらぬと言っていたからな兄上も苦労しよう」
「正信とは」
「昔の知り合いだ」
笑いながら誤魔化し輝虎から高岡城に進撃するようにと言われて北上した。
「一向衆は攻めるか守るか撤退するかで意見が別れております」
8万もの兵だが烏合の衆なら怖いものでなく決戦に向け進んだ、
「上杉勢は庄川を渡り陣をはりました」
高岡城の周辺に一向衆は展開して迎え撃つのかゆっくりとだが陣を構えてそれぞれを迎え撃とうとしていた。
「敵は倍以上だが、何だろう8万か」
数に違和感を覚えるし同時に信玄が指揮するにしては積極性が無いのも気になりながら展開をした。
先鋒は弟である信繁、左翼は三枝で左翼は多田がそれぞれ主将を勤めており中軍には私の直属で信廉が遅いが初陣となっていた。
「大兄(信玄)との戦いですが」
今更な事を言う信廉に苦笑いしつつ、
「不甲斐ない姿を見せれば落胆されようぞ」
「わかりました見事な指揮を見せましょう兄上」
元気よく頷くと私が手をあげ下ろし陣太鼓を鳴らさせた。
上杉勢は車懸かりの陣で進軍を始め、私は魚鱗の陣をしいて突撃をさせると一向衆はすでに積極性は無く陣も統一性がなく受け身で攻撃を受ける。
信繁は陣の奥へ奥へと突き進みそれを三枝と多田が押し広げていく、一向衆も抵抗はしているが組織的な抵抗にはほど遠く徐々に逃げ始めて勝利をと思ったときに知らせが来る。
「西の森から一向衆が、その数2万」
やはり伏兵かと思いながら本隊のみを動かす。
「小矢部川で迎撃せよ、押し止めれば信繁もこよう」
急ぎ左へ進路を変えて迎撃の準備をした。
「大兄でしょうか」
信廉にとっては初だが私にとっては懐かしい鎧姿が見え私を呼んだ。
「お久しぶりです兄上」
私が叫ぶと信玄も、
「信輝も久しぶりだな、三条と義信を礼を言うぞ」
「無事に到着して嬉しい限りです」
「ところでこのまま戦えばお互いかなりの被害が出よう、見逃してくれぬか」
少しだけ考え、
「今回限りですぞ、次回は兄上とはいえこのようなことしませぬ」
嬉しさと悲しさをおぼえながら川沿いを南下して撤退していく信玄を見送りつつ高岡城の一向衆を殲滅した。
「輝虎殿すまない」
戦いが終わった評定で私は詫びる。
「事情はわかりました。それは致し方無しと」
落城させた城は輝虎に引き渡すと今回の目標である畠山討伐のため北上をする。
「堅城と呼ばれる七尾城か」
湾を見下ろす山の上にあり見上げながら包囲する。
「遊佐宗円が内応を約束しておる」
互いに内部で牽制しあい最初は温井そしてそのちからが衰え対頭してきた長続連に対する危機で内応を確約していると言うことで上杉勢を中心に攻城戦が始まる。
北口からは本体が西から裏手に南へ回る部隊、
「西と南は切り立った崖、正面は尾根に挟まれておりなかなか難しかろう」
内応をする予定の遊佐が何時なのか知らないので気をもみながら数日が経過する。
前日と違う雰囲気で南へと上がる上杉勢にこのタイミングかと思いながら日が上るのを待った。
歓声が上がり攻城が開始され一刻、城内からも歓声が上がり夕方そして夜に突入しながら城に火の手が上がる。
それは朝方まで続き鬨の声が上がり呆気なく七尾城は落城した。
「畠山義続殿を保護しました」
未だ幼い子供がつれてこられ遊佐以外の七人衆も捕まり連れてこられる。
「信輝殿ならどうされるかな」
不意に輝虎に聞かれたので、
「当主を押し込め幼き者を据えたこと、何より一向衆と組んだ事に同情の余地はありますまい」
「義続殿は正室を与え一門格として迎え入れ重臣の後ろ立てて七尾を能登を守らせれば」
そう言うと納得したのか輝虎は伝えた。
「一乗寺城を改修してもう少し大規模にすれば加賀からの展開も難しくにらみを効かせられると思いますし、その西側の街道に反対側に城を築けばその重要性は増すとかんがえますぞ」
佐々が城を築き十分守れたことを思い出し提案して甲斐へと引き上げることになり信玄と輝虎の戦いは別の地で繰り広げられることになるのだなと思いながら挨拶をして雪が積もり始めた春日山経由で善光寺へ出て戻った。
「越後は寒かった。あんな雪でよく動き回ってたな、ここもそう変わらないけど日本海からの風がきつすぎる」
この年は特に大雪で動くことができずに雪がとけるまで館にこもることになった。