「人の食べている料理は、なぜか自分のよりおいしそうに見える」
第七話「人の食べている料理は、なぜか自分のよりおいしそうに見える」
(一)
西暦一九五八年二月十三日、南極観測隊員を回収するため、白夜の中を南極観測船『宗谷』はアメリカ合衆国所属の砕氷艦『バートン・アイランド』の後を追いかけるように南極海を航海していた。しかし、航海とは言え密集した氷の中をかき分けて進んでいる状態であった。
目まぐるしく天候の変化が続く中、前々日までに八名の観測隊員と飼育していた何匹かの飼育動物を回収できたが、まだ、基地には数名の隊員と犬が残されており、遅々として進まない作業に、船員をはじめ、関係者の顔に徐々に疲れの色が浮かんでいた。
「昭和号はいつ飛ばせるんだ」
ブリッジにいる航海士はどうしようもできない苛立ちを、誰に言うまでもなくつぶやいた。相づちを打つこともできずに黙って通信士席に座る青年は、船橋の窓に打ち付ける雪の粒を不安そうに見ている。
嶋之教授の曾祖父、嶋之武義は、まだ二十代という若さで松木満二艦長のもと、この船で通信助手を務めていた。
(帰還が遅れると、この船自身も氷の海から脱出できなくなる)
相川操舵手、大場機関長らも口には出していないが、迫り来る回収のタイムリミットに胸が締め付けられるような思いをもっていた。
雪雲は抜けたが、まだ荒天は続く。
「あそこに何か見えんか」
皆の沈黙は艦長の言葉で破られた。
「はい、前方海上に浮遊物を発見しました、距離、五百メートル」
双眼鏡を覗く南武航海士は艦長の言うとおり、前方のいくつもの氷が浮かぶ海原に何か黒い物体を認めた。
「バートン号が投棄したドラム缶じゃないか」
その当時の遠距離航海では、廃棄物の投棄についてさほど問題にはなっていなかったこともあり、大多数の者も相川操舵手の言葉に同感した。
「艦長……何やら見たことのない動物のようです」
「ナガス鯨の尾びれだろうよ」
「セイウチかアザラシじゃないのか?」
船員のやりとりを聞いていた嶋之もたまらず窓に近付き、その物体を見た。
一メートルほど海から突き出た物体の表面には焦げ茶色をした長い毛が密集している。
「何なんだ……あれは」
自分の知りうる知識では言い表せないものであることに違いないと嶋之は直感した。
「こっちを振り向くぞ……」
南武航海士の声は緊張している。
「カメラを準備しろ、八ミリもだ」
艦長は記録に残そうと落ち着いた声で、船員たちに指示をした。
「機関室にあります」
大場機関長は、飛び出るようにしてブリッジから船倉に近い機関室に向かった。
「顔だ、あの動物には顔があるぞ」
それは、巨大生物の頭であった。尖った耳に顔の半分を占める大きな二つの目玉と牛に似たような鼻を持っていた。
巨大生物は、航行する宗谷を監視するようにずっとこちらを向いている。
(ワレワレハ、オマエタチヲミテイル、コノチニハクルナ)
嶋之の頭にその言葉が突然浮かんだ。
「えっ」
艦長をはじめ、皆は巨大生物を指さし、観察しているので嶋之のことを誰も気に留める者はいない。
(誰が……)
嶋之ははっと気が付いた。
自分を見るもの、それは水面に浮かぶようにこちらを睨む巨大生物だけであった。
(二)
「わしの独り言はここまでじゃ」
嶋之教授は、そう言って僕の横の席からのっそりと立ち上がった。
「その生物は何だったのですか……」
教授は黙っている。
蝶たちは花の蜜を十分に吸って満足したのだろうか、空へもつれ合うようにして飛んでいくのが見えた。
「写真とかは残ってないのですか?」
「機関長がブリッジに戻ってきた時には、そいつは暗い海中に帰っていたそうじゃ」
「教えてくれませんか、そいつの正体を、それが今度の天底と何の関係が……」
「ストレスによる集団幻覚……わしはそう信じておった……南極での大きくて小さな出来事じゃ、どうじゃ、これからライスカレーでも食いに行かぬか」
教授はこれ以上、僕の質問に答えるつもりはないらしい。
「行きたいのですが、病室にも用意されていると思いますので……」
「どのような状況であれ、兵糧や物資を無駄にするのはよくないからのぅ、月形の判断でよしとする、南極での活躍を期待しておるぞ、お前たちこの学園の出身者に皆の未来がかかっているからのぅ」
そう言って立ち去る時の教授の瞳に、なぜだか涙が浮いているように僕は感じた。
教授と別れた僕が病室に戻ると、見舞いに来た皆は帰ったようで静かだった。
賑やかな張本人、山川先輩はベッドで気絶していた。多分、また余計なことを言って継先輩に弾を撃ち込まれたのだと思う。
(三)
「ねぇねぇ、カネトちゃん、何やってるの?」
ピリカは自室の机上に青い光で映しだされたパーソナル端末のキーボードを一心不乱に叩くカネトの邪魔をするように覗き込んできた。
「侵入」
「えっ、どこ?お兄ちゃんの部屋」
「興味のない対象です」
モニター内にいくつかのログイン画面が出てきたが、カネトは別画面の画面一杯に流れていく数値を修正し、あっさりと突破していく。
「これ、悪いことしてるの?」
「良いことじゃないのは確かです……よし……成功」
画面が瞬時に変化し、装飾具の勾玉に似た赤い色のマークが映しだされた。カネトは机の上に置いていた携帯端末を耳にそえた。
「あっ……彩胡さん、成功しました、はい、制限時間いっぱいまでレコードしておきます……ええ、ダウンロードは無理そうです」
「カネトちゃん、この模様きれいだよね、でもこの色は血の色だよね、青とか緑だったらいいのに」
ピリカは画面に映された輪郭を指でなぞっている。
「あっ」
ピリカの指がずれて、机上のキーボードに触った。アラートと共に画面に『WARN(警告)』の文字があふれかえる。
「まずい」
カネトは、携帯端末を投げ出し、キーボードで修正を図ったが、何をしても反応しなくなった。すぐに別画面に切り替え、回線を遮断した。
「危なかった……今頃、職員室は大騒ぎになっているはずだけど」
侵入を隠すダミープログラムは職員室経由で走っている。
「ピリカ、今日は私の半径二メートル以内に近寄らないでください、不快指数が増します」
「ごめんなさい、もうしません……」
「許可します、おこしてしまった事象は元には戻りません、ですが、もうこの手は使えなくなっちまいやがりました」
カネトは悔しそうに舌打ちをした。
(四)
一連の説明を終えた職員が帰った後の研修室に、彩胡と和賀の二人は黙ったまま席から動かずにいた。
「どうやって、みんなに説明したらいいのでしょうか」
先に口を開いたのは和賀であった。
「事実を言うしかない、ここに刻まれているのも含めて全部……ただ、今は伝えることを許可されていない」
職員が置いていった机上の小さな記録媒体を彩胡は手に取って言った。
「もし私たちがその時までに間に合わなかったら……」
和賀の顔は職員が立ち去ってからも青ざめたままである。
「半平くんかピリカちゃんに撃ってもらうしかないかもね、この前みたいに」
「そう……そうかもしれません」
二人は、彩胡の携帯端末にカネトからの報告のコールが鳴るまで押し黙ったままであった。彩子が耳に端末をあてるとカネトが抑揚のない声で、状況を説明し始めた。
「成功、やったわね……それで記録の方は上手くいきそう………ダウンロードの方は?」
端末の向こう側で、ピリカの声とカネトの慌てた声が聞こえ、すぐにノイズと共に通信が途切れた。
「何があったの!」
彩胡がカネトへの呼び出しをかけてもオフラインなままであった。
「どうしたのですか?」
和賀が横から彩胡の端末を覗き込むように見た。
「『天底』の戦闘記録情報が欲しかったんだけど、ばれたかな」
「この前のですね」
カネトからすぐに呼び出しのコールがきた。
「失敗……それでバレたの?良かった、でも、もうそのルートは無理ね、原因はピリカか……私の方からも注意しておく、プロテクトだけはしっかり張っておいて」
彩胡は残念そうに表情をしかめて通信を切った。
「失敗したのですか?」
「まぁね、あれだけ、多くの損害があっても天底の情報がまったく出てこないなんて、あまりにも不自然だし、まずは半平くんたちの回復を待ってから動くしかないわね」
「はい、わかりました」
天井に設置された監視カメラが、ずっとその姿を追い続けていることに、二人は気付いていなかった。
(五)
一週間後、僕の脚はだいぶ良くなり、松葉杖がなくても一人で歩くことができた。病院棟から自分の部屋に戻り、またいつもの生活が始まろうとしていた。
あれから僕が乗っていたシロガネを見に行ったけれど、まだ、装甲板も未装着なままで、下半身もコクピットから下は何も付いていない状態だった。それでも形が残っているだけ良い方で、他の班で撃破されたシロガネは廃棄されてしまったようだ。
僕のシロガネは、蓄積データだけを抜き取って練習機用に時間をかけて再生すると彩胡姉が言っていた。
だが、僕の日常は感慨にひたっている暇はない。
「お兄ちゃん、トランプしようよぉ、ねぇトランプぅ」
ピリカは椅子に座り机に向かう僕の背中から抱き付き、たまっていた宿題をしなければならないという使命感を根こそぎ削いでいく。
「ああ、もううるさい」
あまりにもうるさいので、僕はタブレットペンを投げ出し、振り向いた
「お兄ちゃんが一緒にやってくれなかったら、もっと邪魔しちゃうもんね」
両腕を組み、挑戦的な目つきをするピリカがいる。
「一回だけ、一回だけでいいからぁ」
「本当に一回だな、一回やったらもうしないからな」
「やったぁぁ!」
床の上を何度も飛び跳ねて喜ぶピリカの姿は、まるでアルプスの牧場にいる子ヤギのようであった。どこからかホルンの音色に合わせて、山羊飼いの少年とアルムの小屋に住む陽気な少女がいるような気がした。
「なぁんだ、宿題をやっていたんじゃないのか、おっトランプかぁ、俺、得意なんだよね」
山川先輩は呼んでいなくても良いタイミングで部屋に戻ってくる。
続いて部屋をノックする音。
「半平くん、数学の先生から休んでいた講義のプリントを預かってきました」
「よぉ、良いところに来たねぇ、ルルちゃん、半平がトランプ一緒にやらないかって」
山川先輩、僕はそんなことを言っていない。
「あっ、良いですけど」
ピリカは大喜び、僕も少し喜んだが、訪問者はこれだけではなかった。
「半平、来てやったぞ、ん?お前たちオイチョカブでもするのか、それなら私が胴元をやってやる、全員小銭用意しとけよ、」
継先輩だ。
「山川先輩、緊急の用事って何ですか」
カネトだ、山川先輩は頼んでもいないのに、全員にメールを送っているらしい。
「半平くん、退院祝いですね、みんなとトランプをしようなんて、ご招待ありがとうございます」
和賀さん、僕は招待なんてしていません。
「半平様、わたくしがあなたを勝たせて差し上げますわ」
蝶子、君に勝たせてもらわなくても良い。
「半平くんも宿題やらなくて大丈夫みたいだし、さぁ、ピリカちゃん、何する?」
彩胡姉も、僕たちの輪の中にいつの間にか加わっている。
「んーとね、ばば抜きぃ!でもね、一番最後にばばを持っていた人が勝ちになるの」
ピリカの一言ですぐに内容は決まった。『逆ばば』だ
「そういえばさぁ、前に約束していた一番スコアの高いのが自分の命令を自由に下せるってやつ、このゲームで勝負つけないか?」
「ああ、そう言えばシロガネ壊されちゃったから、それも良いかもね」
彩胡姉、お願いします、そんな山川先輩の甘言にのらないでください。やばい……なんか何人かの目が異様に光り出している、想像したくない、何をされるのか想像したくない、ていうか僕はもう負けモードに入っているのか……。
一回戦、ピリカの勝ち(こいつは感が良い、ルールの理解というより本能だけで動いている)
二回戦、山川先輩の勝ち(鼻の下をもう長く伸ばしている、スケベパワー全開のようだ)
三回戦、彩胡姉の勝ち(余裕の笑みを浮かべている)
四回戦、ピリカの勝ち(純真無垢な力は認めざるを得ない、でも普通のルールではそれは負けと言うことなんだ)
五回戦、山川先輩の勝ち(口が半開きになってるよ、何か視線が上を向いているよ)
六回戦、彩胡姉の勝ち(この自信満々の笑みは、どこから来ているのだろう)
そして、逆ばば抜きは運命の最終戦を迎えた。
(六)
「へい、ジョー、ニッポンの基地は魚臭いと聞いていたけれど、そんなに臭くないねー」
ブロンドヘアが似合う青い目の少女は、真新しい学園の制服に身を包み、自衛隊員が守衛を務める校門を抜けていく。
話しかけられたジョーという黒人少年は両手を頭の後ろに組みながら校舎に続く道の真ん中を歩いて行く。
「俺も舞子ガール探しているんだけどよ、どこにもいないぜ、フランソワ、やっぱり本校の連中にだまされたな、おっ、メカニックエリアが学校のこんなに近くにあるんだ、行ってみようぜ」
「ストーップ、時間が遅くなりまーす!」
ガゼルのように軽やかに走るジョーの後を、面倒くさそうにフランソワは見ている。
外国人の二人が修理ブースに入ってきても、整備担当の大人たちは見向きもしない、ただ、学生たちは見慣れない二人を見て、コソコソと目配せをした。
「誰、あの子たち?」
「うちの学園の制服着ているよ、留学生か何かかなぁ?」
サツキたちが自分を見ていることに気が付いたジョーは、ニコニコと手を振りながら走り寄ってきた。
「はぁーい、ジャパニーズガール、わーお、君たちがWMTをメンテナンスしているのかい!アメージングだよ、僕の国ではバッファローみたいなビックメンたちが担当しているんだ、文化でも女性でも隣の国の方が上回っているのを俺は否定しないよ、日本最高でぇーす」
そう言いながら、ジョーは早々とサツキの手を取っている。
「ビューティフル、このオイルに染まったユーの手は、ジパングアートだ、できるならユーの名前が知りたい、これもディスティニーだ」
「何すんのよ」
サツキは、手を振り払って床に置いてあったレンチを握った。
「オーノー、許してくださぁーい」
ジョーは、神に祈るように両手を前に組んで、床に膝をつき、サツキの顔を見上げた。
「日本の皆さん、ごめんなさーい、初めての日本でジョーは浮かれすぎていまぁーす」
騒ぎを聞きつけて集まってきた整備員の輪の中に、フランソワは割って入っていった。
「なので、煮るなり、焼くなり、銃殺するなり日本の皆さんの好きにしてくださぁい」
「フランソワ、冗談はノーだぜ」
「本気でーす」
「オーノー!」
二人のやりとりが続く中、再び残ったのはサツキと整備課の女子だけとなった。
「で、外国人のあんたたちが何の用でここにいるの?」
サヤはかぶっていた帽子をとり、二人の会話に割って入った。
「留学してきた転校生でーす!」
ジョーとフランソワの声が双子のようにハモった。
(七)
トランプの最終戦は一部の勝者をのぞき、一般ギャラリーと化している。残っているのは、山川先輩、彩胡姉、ピリカに僕の四人だ。ちなみに僕は、ここで勝ったとしても何も良いことはない。
「彩胡さん、遠慮なく取らせてもらう、俺のスペシャルな人類愛実現のために!うなれ、俺の右腕ぇ!」
先輩のここで言う人類愛は、自分の周りに水着の女子中高生をまとわりつかせる自堕落な人類哀と予想される。
山川先輩は残った彩胡姉のカードの一番右を引き抜いた。
「し、しまったぁー!」
漫画であれば、山川先輩の背景に今、稲光が走っているはずだ。
ハートのエースを引き当て、手持ちのクローバーのエースとペアになり、山川先輩は撃沈した。真っ白くなった先輩の指から、カードが音もなく滑り落ちていくのが見えた。
とりあえず、先輩の悪の触手からルルを守ことができただけでも、僕の勝ちと言ってもいいだろう。
「それじゃ、私の番ね」
彩胡姉は僕のカードを取ったが、揃いはしなかったようだ。
次は僕の番だ、ピリカは僕に自分のカードを取らせまいとする。
「ピリカ、そんなに離れちゃカード、取れないよ」
「お兄ちゃん、ピリカに勝ってほしいんだよね」
別に勝ってほしいとは思っていない。
「だって、ピリカが負けちゃうとお兄ちゃんのお嫁さんになれないかもしれないんだよ」
いや、別になってほしいとお願いしたことはないから。
「ピリカちゃん、頑張って、未来のお婿さんのために」
「はぁーい!」
和賀さん、応援するタイミングと相手が違うと思います。
「ワガママはいけません!」
油断していたピリカの隙をついて、僕は一枚カードを引き抜いた。
「!」
何だ、ピリカ、実は油断していたフリだったのか、見えた、見えたぞ、僕が選んだカードを取る前に、カードをずらして、隣のカードを取らせたのを!やっぱり、これが純粋な本能の力なのか!
僕の残っていたカードはペアになり、軽く撃破されてしまった。
「彩胡さんの願いって何なの?」
「うふふ、秘密」
継先輩の質問に、彩胡姉は残っているどちらかがジョーカーの二枚のカードで口元を隠し、微笑んだ。
「ピリカちゃん、さぁ、どっちか選んで、右かな?左かな?」
彩胡姉は、これ見よがしに、口元からピリカの前にカードを突き出した。
「ピリカ、真ん中選びまーす!」
ピリカはカードを取らずにむんずと彩胡の胸を握った。
「きゃっ!」
「私も彩胡お姉ちゃんみたいに、ほわほわなマシュマロみたいなおっぱいが欲しいな」
「やるなピリカ!彩胡さんを動揺させるなんて、なかなかできないぞ、もう一回やってくれ!うぐっ!」
いつの間にか山川先輩は復活していたのだか、すぐに継先輩に張り倒されて僕のベッドに後頭部をぶつけていた。
「右がいい」
彩胡姉の目が光る。
「と思ったけど……左にしようかなぁ、さっきカード見えなかったしぃ」
ピリカ……お前のさっきの行動はカードを覗き見ることだったのか、この勝負の駆け引きは本能だけじゃない、こいつは……こいつは計画的だ、恐るべし児童パワー!僕はもしかして見くびっていたのかもしれない!
「作戦には時間が決められているわ、タイムリミットよ、ピリカちゃん」
彩胡姉に促されて、ピリカは一枚のカードを選んだ。
「左ね」
「うん」
引き抜いたカードはスペードのクイーン、ピリカが自分で持っていたハートのクィーンとペアになった。ピリカの負けだった。
「はい、勝利」
彩胡姉は、最後に残ったジョーカーを僕たちに見せた。
「ジョーカーは、私たち年長者にお似合いよ、ピリカちゃんにはまだ早い」
「お兄ちゃん、ジョーカーに邪魔されたぁ!」
頬を膨らませているピリカよ、彩胡さんはジョーカーではない。
「それじゃぁ、私がみんなに命令できるんだもんね、私の命令は……」
僕たちは彩胡さんの次に出てくる言葉を待った。
「私と和賀がおかしくなったら、全員私たちのことを遠慮なく撃つこと」
何を言っているか僕には分からなかったけれど、和賀さんは笑顔のままうなずいている。
「どういう意味だ」
「私にも理解できません」
継先輩もルルも不思議そうにしている。
「それ、ギャグが面白かったら、どついても良いってことでしょうか?」
カネトは言葉の意味を冷静に分析している。
「そう、とりあえずカネトちゃんので正解にしておこうかな、あと、今日のみんなのランチは山川君のおごりで」
「何で俺が!」
「私の自慢の胸に触ったでしょ」
「俺は無実だよ、みんなも見ていただろう!触ったのはピリカゃないか!」
「ピリカちゃんがしたようなことを頭の中でずっと想像していたんじゃないの?」
「彩胡さん、何でわかったんですか!」
山川先輩は声をつまらせた、その途端、二人のやりとりを笑顔で楽しんでいた皆の態度が豹変した。
「ごちそうさま!」
「さっすが、山川くん、太っ腹ぁ」
冷たい声を残し、皆はさっさとランチルームへと向かう。
部屋にいるのは僕と先輩の二人だけ。
「何か、俺、悪いことしたか……半平よ」
「キジも鳴かずば撃たれまい……って、日本の言葉ありましたよね……先輩の場合、ハヤブサですけど」
その後のランチルームには、既に和賀さんと彩胡さんが、僕や山川先輩退院祝いのパーティーの用意をしてくれていた。そこには、整備課のみんなや看護課のみんなも昼の休憩時間に合わせて参加してくれている。小遣いの残額を心配していた山川先輩はいまだに狐につままれたような顔をしていた。
僕はにこやかな顔で出迎えてくれているこの二人のような先輩に追いつきたいと心からそう思った。
第八話「二兎を追う者はふつう三兎も四兎も追い続けている」
(一)
三笠班が正式に南極行き第一次の日本学生代表として決定した。まだ出発する日は聞いていないけど、三笠班の他に大和班の蝶子も加わり、整備課や看護課の学生も、同行することとなった。そして、その他に……。
「ねぇねぇ、フランソワ、パリに彼氏がいたんだって」
「えーっ、初耳、で、で、どんな関係だったの?」
「もちろん、最初のキスの相手もその人だったわ」
「きゃー、で、どういうふうにされたの」
クラスの女子に囲まれて、昼の学校にふさわしくない話を自慢しているフランスからの留学生、フランソワだ。
「でも、私は遠距離恋愛には向かないって、自分にもわかっている」
「とすると、もう誰か気になる子いるの?」
聞くつもりは全くないんだけど、耳が勝手にその声を拾おうとしている。4時限めの現代国語まで宿題は間に合いそうにない。
「ツキガタハンペイ」
「ええーっ」
驚いたのは僕だ、なぜ、僕の名前がここに出てくるんだ。
「どうして月形くんなの?もっとかっこいい男子いるじゃん」
他の女子よ、僕は聞きたくないけど、聞こえている。
「月形くーん」
女子に名前を呼ばれた僕は、まるで聞こえていないような素振りで振り向いた。
「何だよ」
「ちょっと、こっちへ来て」
フランソワを囲むようにして集まり、何かを企んでいる女子の集団の中へ突撃するほど、僕は強くない。
「今、宿題やっていて手が離せないんだけど」
「そんなのいいから、フランソワが用事だって」
ちょうどそこへ職員室に呼ばれていたルルともう一人の学級委員が帰ってきた。ますます、僕はそんな罠の中に足を踏み入れたくはない。
始業予鈴が鳴ったので、皆、それぞれの座席に着くが、さっきまでフランソワと話していた女子はコソコソとまだ噂話をしている。
若い経済の男性教師は教室に入るやいなや、拍手をして僕とルルとフランソワの名前を読み上げ、三人に前へ出るように言った。
「みんなも知っている通り、南極での大会出発日が決まった、このクラスからは留学生入れて三人だ、さぁ、前に出てきて」
黒板を背にした僕の横にフランソワ、ルルが立つ、女子からは別な意味での囃し声が上がる。
「九月四日に出航することがさっき国から発令された、いよいよ世界大会だ、頑張ってくれ」
「出発式まであと三日しかないじゃないですか!」
驚く僕やルルを尻目に教師は興奮気味に大会がどれだけ大きな規模で行われるか、それが国の経済活動にどれだけ影響を与えるかをとうとうと語り出した。そして、僕たちに大会に向けての抱負を発表するように促した。
「精一杯頑張ります」
「一生懸命努力します」
僕もルルも当たり障りのない言葉だった。
「私はフランスの特別枠の補欠ですが、半平とルルと一緒に勉強してきまぁーす、別の意味でも彼と頑張りまぁす!」
(誰だ……彼って)
フランソワは、僕の手を握り、身体をピタリと寄り添わせてきた。
(お、俺のことかぁー!)
「日本とフランス、まさに国の枠を越えた大会が生んだお似合いのカップルじゃないか」
「私もそう思いまぁす、『愛こそは全て』でぇす!」
確かにあの甲虫四重奏楽団の曲はフランス国家から始まっている……ていう場合じゃない。
クラスは大盛り上がり。
ルルは僕と目を合わせない。経済学の教師よ、余計なことは言わないでくれ、僕の心の市場経済は今、大恐慌に陥っている。
(二)
「エンジン臨界点突破、各部の数値は安定しています」
「機体制御にエラーは見られません」
「ヴァーチャルシミュレーション上の目標は全て撃破、正常に信号が流れています」
中央制御室の硬化ガラスを隔て、格納庫にはずらりと居並ぶ新型『シロガネ』の最終点検を行っている。どれもロールアウトしたばかりで、傷一つなく銀色に輝いている。右胸にあたる部分には、セキレイやキジなど異なる鳥のシルエットが描かれている。
マイナス五十度に冷やされた空気が実験ヤード内に注ぎ込まれると、数秒もしないうちに全機体の排熱によって摂氏二百度以上まで上昇した。
「さらに五パーセント伝達回路に過負荷」
高周波数で鳴り続けるエンジンの機動音は、大人数の狂人によるオペラ公演のように、厚いガラスを隔てながらも聴く者の神経を逆なでていく。
人間でいえば目の位置に取り付けられたシロガネの外部カメラに、赤や青い光点が真横に流れ続け、時折、白色の光が強く瞬いた。
「新型の性能は期待数値をはるかに上回っている」
「これに『玉梓』が乗れば……」
「もう何の心配もありませんな」
立ち会っている多くの軍事関係者や科学者は、随時報告される結果に胸をなで下ろしていた。
「大佐、ご覧の通り、予定通りに進んでいます」
政府高官の男の声に、大佐と呼ばれる男は大きくうなずいた。
「残りは南洋の実験場で行う、『クガネ』明朝出航だ」
大佐の言葉一言に、周囲は突風が吹き付ける笹藪のようにざわついた。
「そんなに早くですか?来週末と聞いていたのですが」
「準備の都合もある、難しい」
そのような言葉に、この男は耳を貸す素振りも見せず、金属製の杖を床に力強く突き、椅子から立ち上がった。
「遅いくらいだ……いつも言っているだろう、奴らは待っていてはくれない」
「わかりました、すぐそのように手配いたします」
一番、近くにいた背広姿の男は、そう返答し、携帯端末を内ポケットから取り出した。
大佐はその様子を見届け、部屋の後ろを振り向き、実験の様子を最後まで見ていた少女に声をかけた。
「棺の出来はどうだ、お前にとってはまだ物足りないかもしれないが」
「はい、十分です、必ず命令を遂行いたします」
それからまもなくして、指示や命令が日本国内の関係者の中で飛び交うこととなった。
(三)
ルルは、たいてい一人でいる。誰に対して厳しいことを言う訳でもなく、グループを作って行動する訳でもなく、静かに本を読んでいる時が多い。今も、校舎の中庭にあるベンチに一人座っている。
昼休み、何とか僕はルルと話がしたかった、放課後まで待てば三笠班で会えるのだけれど、その場にはまず間違いなく妖怪のような邪魔者が多数ひしめいている。
僕は制服のネクタイが曲がっていないか、口の周りに昼食のカレーが付いていないことを念入りに確かめ、彼女の視界に入らないように近付いた。
普段は何でもなかったのに、意識すると何でこんなに緊張するのだろうか。時山……これはノーマルだな、無難と言えば無難なのだが、時山さん、これは仰々しい、時山ちゃん、一昔前の業界人のようだ、これは軽薄すぎる、ルルちゃん、ここまで言えたら最高だけど、今の二人の間柄だと何だか小学生同士みたいだなぁ。考えよう、何て、何て言えば良いのか、ルル……これは最終目標だ、僕はこれを目指して生きることにしよう、言い響きだよ、ルル……。
「ルル!」
何、今、何て言っちゃった?何か大きな声で口に出しちゃったような気がするんだけど。ルルが振り向いたよ。ちょっと驚いた顔したけど、あ、あれ……怒られちゃうのかな、イヤそうな顔されたらどうするんだ……ヤバいヤバすぎるんですけど。
「半平くん?」
ルルは、僕の余計な心配を払拭するように笑顔で僕を迎えてくれたが、僕はその場に棒立ちになってしまった、動かない、僕の身体が動かない。
「あ、あの……」
ルルは読んでいた文庫本を閉じ、僕の話の続きを待っている。
「話を……あの……話をしたかったんだ」
「話……?」
そうだ、南極に行ったら何をしたいとか、そんなちょっと先の未来のことでも言えば、話の切り出し方としては無難だな、そう無難、無難な話が一番だ。
「僕と君の未来……未来について話さないか」
「半平くんとの未来?」
うわぁ、僕は何を口走っているんだ、これって、何、僕とつきあってくださぁいって言っているのを、変化球で言っているように思われるじゃないか、いかん、僕はそんな人間に思われたくない、軽々しい男だとは、思われたくないのに、何を言ってしまっているんだ、そうだピュアな心、ピュアな精神、子供のように純真な心を持たなくては……子供のように。
「子供のことさ」
「子供?」
だぁーって!僕は何言っているんだ!何、いきなり子作り宣言してんだよぉ、変化球どころじゃない、時速百八十キロを越える剛速球だよ、僕は剛速球を投げちまったよぉ、バットだって、軽く折ってしまうよぉ、折れたバットの先が、ピッチャーのグローブに突き刺さっちまうよぉ、変態、これじゃぁ変態じゃないか、軌道修正だ、軌道修正……。
二人の間の足下をコロコロとドッヂボールが転がってきた。
「しいましぇーん」
小等部の子が遊んでいたボールだった。まだ一年生か二年生くらいか、ピリカよりも小さな子たちがボールを追いかけてきた。
僕の拾い上げたボールが、子供たちに返ると、みんなが礼儀正しく頭を下げて、また遊び場に戻っていく。
「半平くん」
「へ?」
「半平くんを見ていると、本当にみんなに好かれているんだなぁって思う、何か、ほっとするっていうか、安心するっていうか、とてもうらやましい」
僕のさっきまでの言葉を気にもしていないのか、ルルの微笑みは日の光に輝いている。
「そんなことないよ、ルル……いや……時山の方が好かれているって思う」
「私……私はみんなに嫌われているから……前にいた学校では……ううん、未来、未来のことだよね」
ルルの表情に少しだけ陰りが出たが、また優しい微笑みが戻る。
「嫌ってなんかいないよ、嫌いなわけないじゃないか……だって、僕は君のことが大ス……」
寸止め、寸止めたぁと思ったけれど、僕の脳は暴走しちまったぁあ!
「大好きだ、笑っている時なんて、天使のようだよ、僕はいつもルルの笑顔に助けられている」
あっ、言っちゃった?言っちゃった?
でも肝心の所は僕ら南極行きの生徒を呼び出す緊急放送のチャイムに消されたことがすぐに分かった。
「全ての課程において、南極派遣にかかわる生徒は、すぐに体育館に集まるように、繰り返す、全ての課程において……」
助けられたのか、邪魔されたのか、僕は複雑だった。
「半平くん」
「あっ、あの、何も、何も気にしないで、っていうか空耳かなぁ、なんて」
「あまり男の子に自分の名前呼ばれたことなかったから、さっきはちょっと驚いちゃったけど、今度は驚かないようにするね」
それは僕がこれから、名前で呼んで良いということかぁ?これは一歩前進したのかぁ?いきなりバリアを破ってしまったんだけどぉ、直撃しちゃったんだけどぉ、どうしよう、次は、次の攻撃が大切だ、何て返したら良いのだろう?迷うな、迷うなよ、言っちゃえ!このまま突撃だ!行け!半平、人生で数少ないチャンスを逃すなぁ!
「これから名前で呼んでもいいの?」
ルルは、ちょっと頬を赤くして、軽くうなずき、体育館の方へ走っていった。
この時の僕は誰にも見せられない、人生で一番だらしない顔をしていたと思う。
(四)
「明朝出航」と聞かされた僕たちの発する驚きの声とざわめきは体育館中に広がる。
「各員は、必要最小限の荷物をまとめ今日、十七時発のシャトルバスに乗り、新港に停泊中のクガネに乗船する。家族への連絡は、こちらで一括して行うので心配することはない」
僕たちは乗船するクガネという母艦をまだ見たことがない。浦賀という神奈川県の造船所で建造されていたという噂を聞いたことがある程度だった。
機体メンテナンスの設備や資材などは、全て用意されていること、医療関係も充実していること、そして最後に新型のシロガネも搬入済みであることなどが、僕たちに伝えられた。
「詳細は乗艦してから、各自すぐに準備にかかれ」
この一言が全ての質問を断ち切った。
寮に戻った僕らは言われたとおり、出発の準備を始めた。
「あれ、半平、俺の歯ブラシ知らないか、みんな使っても良いけど断ってほしいよな」
山川先輩の歯ブラシなんて使いません。
「知りませんよ」
「おっ、あった、あった、次はっと、あれぇ歯磨き粉知らないか?」
先輩、歯磨きセットにこだわりすぎです。
僕たちは慌ただしく準備を終え、感慨にひたる余裕もなく部屋を後にした。短い間だったけれど、この場所は本当に色々な思い出を僕に与えてくれた。
「半平、ピリカが行けなくなったのは寂しいよな」
この出航に小等部のピリカは参加できないという通知が降りていた。僕も政府の決定に賛成だった、いくら競技とはいえ、この前のように機械が暴走しないとも限らないし、命を落としてしまうかもしれない。それは僕も同じかもしれないけれど、小さな子を危険な目に遭わせたくはない。
カネトから事前に聞いた情報によると、ピリカはへそを曲げてしまったのか、僕たちを見送らず、部屋に一人閉じこもっているらしい。
「先輩、ちょっとピリカの所に行ってきていいですか」
「ああ、大好きだったお前になら顔を見せてくれるんじゃないか、俺はさっき会うことが出来なかったよ」
僕は部屋を出て、廊下の奥に進む。
誰も居ず、シンとした廊下、あの賑やかだった寮内が嘘のような光景だった。
僕はピリカとカネトの部屋の前に立ち、ノックした。もう、カネトは彩胡姉と集合場所に行っている。
「ピリカ、部屋の中にいるかい?ちょっと入っていいかい?」
返事はなかったが、ちょっと部屋の中で何か動く気配がした。
「入るよ」
思っていたとおり、ピリカは奥の畳敷きの部屋で背中を向けて座っている。
「ピリカ……」
「……」
「返事をしてくれないんだね、ピリカ、僕は、君が行かないのは賛成なんだ……嫌がらせとかじゃないよ、ピリカが一人なのは寂しいと思うけど、必ず帰ってくるから」
「帰ってこないもん……もう会えないもん」
ピリカはこちらを振り向かない、窓の外枠に雀が二羽止まった。
僕は靴を脱いで、ピリカのすぐ後ろに座った。
「会えるよ、また……」
ピリカは頬を涙で濡らした顔で振り返った。いつものふくれっ面の泣き顔ではなく、僕の心も締め付けられてしまいそうな哀しい表情だった。
「何で来ちゃったの……」
「何でって……お別れのあいさつくらいしたかったから」
ピリカは僕の胸の中へ小鳥のように飛び込んできた。
「もう会えないの、ピリカとはもう会えないの、だから悲しくなるから、お兄ちゃんやみんなの顔を見たらもっともっと悲しくなっちゃうから、会わないようにしてたの、我慢してたの!何で来ちゃったの、何でだよぅ!」
そう言いながらピリカは大きな声を上げて泣いた。
「大丈夫だよ、ちょっと行ってくるだけだよ、お正月頃には戻ってこられると思うよ、僕たちはピリカの分まで頑張って優勝してくるから、賞品は何かな、南極のペンギンだったら面白いね」
僕は場当たり的な冗談を言ったけれど、これで機嫌が直るかどうかなんて分からない。
「私が言いたいのはそんなことじゃないの!」
「それならどんなことなんだい?」
ピリカは答えず、まだ、顔も上げない。
「歌でも歌ってあげようか」
「いや」
「面白い顔見せようか」
「見たくない」
「みんなに見せたことないけど、下北半島の猿の真似には自信があるんだけど」
「猿いや」
「やっぱり賞品の話だね、鯨もおまけに付けようか……それともシロクマがいいかな」
「お兄ちゃん……南極にはシロクマはいないよ……」
ちょっと泣き声が止んだ。シロクマのことは冗談じゃなく、僕は南極にいないというのを初めて知った気がする。
「ピリカは頭良いんだね、でも南極って言ったらやっぱりペンギンだよね」
僕はこの場をなごませることに頭をフル回転させたけれど、出て来る言葉はあまりにも稚拙であった。
「南極にはペンギンよりもシロガネが……」
ピリカはそう言ってちょっとだけ、顔を上げた。
「お兄ちゃん、ピリカが守ってあげる……絶対守ってあげるから」
「うん、僕たちを日本で見守っていて、それだけでもすごく心強いよ」
僕の服をピリカは強く握る。
「お兄ちゃん、ありがとう……大好き……いつも優しくしてくれて……嬉しかったよ……」
ピリカは最後に大きく一度、顔を僕の胸に埋めてから、身体を離した。そして、小さく頭を下げた。僕はピリカの頭を軽くなで、玄関に向かった。
部屋を出る時に、僕が振り向くと、ピリカは力なく微笑んでいたけれど、とても寂しそうだ。
この時、まだ僕はピリカの涙の本当の意味を知らなかった。
(五)
「はぁーい!ジャパニーズメン!ちょっと準備が遅いんじゃないですか!」
ジョーがエレベーターホールの所で、小さなスポーツバックを持って僕と山川先輩を待っていた。
「あれ?お前、そんな荷物少なくていいの?」
山川先輩の言葉と同じ感想を僕ももった。
「私の荷物はボストンの学園から直接クガネに届けていまぁす、古いパンツはガールにいやがられるからね、もしかして、山川、古いパンツしか持っていないのですか、それだとおかしいね」
「馬鹿野郎、昔から船に乗る男は新しい下着を身に付けるもんなんだよ、いざとなったらなぁ、日本男子なんてふんどし一本で……」
先輩、ふんどしなんて僕は持っていない。
「船の中で、僕のWMTも待っているんで、乗ったら見せてあげるよ、僕のに比べたら君たちが今まで乗っていたシロガネなんておもちゃだよ」
「お前、いちいちむかつくこと言うな、何でアメリカ人のお前が、この船に乗るんだよ、そこからが違うんじゃねぇか」
「私の国の昔の言葉にこんなのがあります『悪魔を知らないより、知っている方がいい』、ニューモデル、ノー、モデルね……おー、日本人のモデルのような女性は天使のような悪魔です」
「それどういう意味だ?」
「悪魔のような継や彩胡のバージンをいただきたいという意味です、ああいう娘たちほど、見かけによらず実はとっても純情ね」
「何!」
「おっと、忘れていたルルも蝶子も和賀もね、みんな僕のことを夢中にさせてくれます」
「黙っていたらいい気になりやがって、この変態野郎」
「ノー、ふつうの国際親善でぇーす、でも変態と言う山川の言葉は否定しません、僕は生まれたときから全てが手に入らないと気が済まない性格です、山川からの『変態』は褒め言葉でぇす!」
山川先輩は怒り心頭で何も気付いていないようだけど、ジョーが本当に気になっているのは、はじめに少しだけ言いかけた新型のシロガネのことだと思った。
「先輩、バスに乗り遅れますよ、ジョー、君も」
「そうだったね、半平、噂通りクールボーイね、山川、さっきの質問ね、僕やフランソワは本国より命じられたスパイだよ、でも日本のみんなに公認済みのね、もっと仲良くなりたいね」
ジョーはあっけらかんとした表情でそう言うと、バスの方に走っていった。後を追うようにして、僕は山川先輩をなだめ、リムジン型のシャトルバスが何台も連なっている乗車位置へと向かった。
その先には山のように大きな空母の影が海霧の中に浮かんでいるのが見える。
「あれが……クガネ」
僕たちの乗る船は想像以上のものだった。僕はそれがジョーの言う悪魔だという意味をまもなく知ることとなった。