9.禁止される吸血鬼
気がつくと夏休みの終わりが来ていた。
わたしと緑は相変わらず一緒に過ごしていた。
そして変わらず毎日吸血をさせていた。
だいたい一分。といっても正確に測っているわけでは無い。それは三十秒のこともある。たまに家の外で血を吸われたりもする。吸血中の緑はわたしと反対に異様に注意力が高いので、人に見られたことはないと思う。
頭をぼんやりとさせながら、緑の頭の位置、前は背伸びしていたのに今は少し屈んでいることに気付く。
「暑い……」
「家の中に入ろう」
緑の家に入る為に揃ってエレベーターの方に歩き出す。
「なんかくらくらする。緑、吸いすぎじゃない」
「量はいつもと変わらない。暑いからだよ」
「ほんとに?」
「真白が倒れないくらいには、ぼくの方で調整してる」
「ほんとにぃ?」
「本当」
緑が薄く笑う。ふだんから表情薄い彼の笑った顔はたいてい吸血後のこの時間帯にしか現れない。わたしとしては物珍しいし、面白いので割と見るのは好きだ。
*
八月の終わりになっても暑さはまったく揺らがない。それなのに明日からはまた学校だ。くたびれる。夕食の後、リビングでテレビに視線をやってぼんやりしていると母親に聞かれた。
「ねぇ、真白は緑くんと、付き合ってる?」
「ううん」
何気ない様子だったので深く考えずに返事をして顔を見ると、母は思ったより真面目な顔をしていた。
「付き合ってないよ」
重ねてはっきり言うと母はまた少し考え込んだ。
それから優しさを混ぜ込むように小さく微笑みながら言う。
「じゃあ……あまり、二人きりでいるのはどうかしら」
*
身勝手なものだ、と思う。
まだ覚えていない幼稚園くらいの頃、もしかしたらそれよりも前から、わたしと緑は親によって同じ部屋にいれられて遊ばされていた。小学校低学年の頃も、わたし達が嫌がらないのを良いことに、たびたびそうされた。自分たちがおしゃべりに興じる為に。
親を介さず一緒に過ごし出した小学校低学年の頃も、共働きの彼等にとっては都合良く、とがめられることはなかった。
それは小学校高学年あたりから少しけげんな顔をされるようになり、中学になってやんわり咎められるようになった。女の子の友達と遊ばないの? だとか、妙な顔で、まだ仲が良いのね、だとか。それでもその程度ですんでたのは親にとっては中学生はまだ子供の延長だったのと、緑が極端に小柄で女の子みたいだったからだろう。
しかし、わたしも最近気が付いたけれど、彼はいつのまにか背も伸びてわたしの身長を越したし、身体つきが柔らかさを失っている。これはもう、どこからどうみても男だった。
その事に親も思い当たったのか、ついに、禁止令が出た。
曰く「緑くんの家に、彼の親がいないときに行ってはいけません」
始業式の後学校の廊下の隅でそう告げると緑は大きく目を見開いた。瞳を震わせて、珍しく苛立った声を出す。
「じゃあ、付き合ってるって、嘘言えば良かったのに」
「……」
「なんでそう言わなかったの?」
「……付き合ってるから許されるわけでもないよ」
付き合ってると答えれば、またちがう方向の指導があったのかもしれない。付き合っていないとの回答を得て、この方向性になっただけだ。つまりは高校生の男女が片方の家で、二人きりで籠っていることそのものを心配したのであって、付き合っているいないは単なる疑問であって、問題ではないのだ。
お母さんは、たとえばこの間ニュースで妊娠して学校を辞めることになった子の話だとかを交えて、年頃の男の子は抑えがきかないところがあるから、こちらが気を付けてあげなければと、遠回しなようでかなり直接的に釘をさしてきた。
そこについて緑にそのまま伝える気にはなれなかった。緑はその辺に疎そうで、どこまで分かっているか疑問だし、わたし達はそんなことを話す間柄じゃなかった。
とにかくわたしとしては付き合っていないから、二人きりでいても変なことは起こらない、大丈夫、と言いたかったのに。
「どうすんだよ」
緑がまた苛立ちと焦りの籠った声をあげる。その反応の強さにわたしの方がたじろいだ。
「どうしよう……」
答えは見つからなかった。もちろん緑の家は留守がちだし、こっそり会うことは出来る。
ただ、これまで親に禁止なんてされていなかったので、そこまでして会うべきなのかと思ってしまう。
今まで、ただ当たり前と思って普通に、まるで呼吸のようにやっていたわたしと彼の全ては、いま突然禁止された。
悪いことだと戒められてまで、それをするべきなのか。わたしには分からない。
緑は息を吐いて「仕方ない」と言った。
「え」
「家が駄目なら学校でやればいい」
緑がわたしの手首を取って、引き寄せた首筋に咬み付いた。
「わ、ちょっと!」
誰が見ているかわからない。
びっくりして引き離そうとすると思いのほか強い力で抱き寄せられて、軽くもみ合った。慣れた行為とはいえ、お互い暴れすぎると怪我になる。だからもがくように、ぐっと静かに押し合って、転がるように二、三歩乱れて離れる。
「真白、動かないでよ。危ない」
「……ここは駄目だよ」
「じゃあ、どこならいい」
「……」
「どこならいいんだよ」
わたしはそれまで見たことのない緑の目と、強い語調に戸惑った。
少し考えてから、黙って歩き出す。解放されていない屋上に続く埃っぽい階段に移動して、頷くと勢いよく身体を抱き寄せられた。
わたしの血液が、出て行く。
日が射した階段の淵が視界に入って、床の明るくなった部分が眩しい。怒りで気持ちが通わなくなった幼馴染に血を抜かれながらそれを見ていたらむしょうに悲しくなった。
その日からわたしと緑は帰ってから互いの家に行くことはなくなり、その代わり彼は校内で吸血を行うようになった。
何故だか彼はずっと焦っていて、その感じはわたしに伝播するのか、とても不安になる。
だから彼の焦りを鎮めようと大人しく吸血をさせる。けれど幾らしても、まるでわたしの焦りや悲しみばかりが彼に乗り移るかのように、緑は落ち着かなかった。
頭の中に、いつだか分からないくらい幼い頃の風景がぱらぱらと舞って、花びらみたいに踊る。
七五三、運動会、夏祭り、入学式、泣いた日、たくさん笑った日。怒った日。自転車に乗った日。虹を見た日。誕生日。それから数百以上の、全てのなんでもない日の狭間に。
わたしは緑に今まで、何百回、何千回それをされたのだろうか。
緑の噛んだ腕に残った小さな痕を、ふたりでじっと見つめた日のことは、そこだけ切り取られたように妙に覚えている。
緑との吸血は、あまりに繰り返し過ぎて、いちいち覚えていない。昨日も今日も一昨日も。その日それをやったかなんて、改めて聞かれても具体的に思い出せない。それくらい当たり前で。
たくさんの記憶、切り取られたシーンが頭の中に無作為に駆け抜けて。
よく晴れた日曜日の午後、どこかの公園の端で。
くすくす笑いながら、緑に血液を差し出すわたしが見えた。
*
鳥の音がちよちよと静かな中聞こえて、保健室のベッドで目が覚める。
カーテンがそよいで、窓の外の青空がちらりと視界に入って、また見えなくなった。
ひとの気配がして身体を起こす。
衝立の近くにいたらしい岸井君と目が合った。
「佐藤、大丈夫か?」
「大丈夫。ちょっと貧血気味で……」
「ちゃんと朝食べた?」
「食べてない、今何時?」
「もう昼だよ」
一時間目のあと、体調に限界を感じて駆け込んだのだ。それが気がついたらお昼になっていたようだった。
「……なんか、買いにいこうかな」
「購買? 俺も行こうかな」
「岸井君はどうしたの?」
「え、あ、紙で指切ったから、絆創膏もらいに……ついでに佐藤の様子を見に」
「え、あ、ありがと」
身体を起こして上履きを履いて立ち上がる。立ちくらみでふらつくと岸井君がそっと支えてくれた。何か鉄分の入った飲み物でも買いたい。
「あのさ、夏休み前に言ったこと……ごめん」
唐突に言われて顔を見る。そういえば夏休み前、彼とわたしの間には小さな衝突があった。
「気にしてないよ、こっちこそごめんね」
笑ってみせると彼はずいぶんホッとした顔をした。
わたしの方はあれから色々あってすっかり忘れていたけれど、彼の方はずっと気にしていたのかもしれない。
廊下は午後の強い陽が差し込んで壁にくっきりとしたコントラストを作っていた。
廊下のずっと先に緑が立って、こちらを見ているのが何故だかはっきりと見える。いつもみたいに、ぼんやりとした顔で。だけど前とはどことなく違って見える。
この夏、当たり前だと思っていたことがほんの少しずつ、色んな方向から揺らぎ出していた。
初めての緑の同類との遭遇。“哲学的な吸血鬼”の苦山氏。“変態の吸血鬼”園部、“享楽的な吸血鬼”の三神。親に突然禁止されたこと。
人と少しだけ違う吸血鬼、吸血人間である瀬高緑のこと。彼との関係。