8.夏の終わりの吸血鬼
「真白、出かけるの?」
「うん、緑のところにいるから」
サンダルを足に引っ掛けながらお母さんに答える。「なんかあったら呼んで」と付け加えて玄関を出た。
扉の外は、真っ白な夏だった。
四階の端の緑の部屋に行くにはエレベーターよりも階段を使った方が早い。熱射に焼かれながらパタパタと歩く足下の影が濃かった。
緑の家の鍵は開いていたので、そのまま入った。
用事は特に無い。というか、何も用事が無くて暇だから緑のところに来たのだ。用事があったら緑のところになんか行かない。
「あれ、こっちに居たんだ」
部屋に見当たらないので探すと何か箱を持ってリビングのエアコンの真下に座って居た。近くの床に置かれた麦茶のコップはだらしなく汗をかいている。黙ってそれを手に取ってごくごくと飲み干した。
夏休み中も彼はあまり変わらない。
彼は血液、甘いお菓子、それから昼寝が好きでその辺りがあればだいたい満足だ。わたしもそこまでじっと観察をしているわけじゃないけれど、何年も一緒にいると兄弟程度には知っている。
緑と部屋にふたりでいてもあまり会話は無い。純粋に、趣味も合わないし彼と話すようなことが無い。
視界の端でモソモソ動いているなと思ったけれど、しばらくそちらは見なかった。そしてそちらに視線をやった時、彼は床を一面に使って大きめのジグソーパズルをやっていた。
「あれ、どうしたのそれ」
「家にあった」
彼は適度に頭を空にしながら集中する単純なゲームが好きなようで、デジタルだろうがアナログだろうがそういうものばかりをやっている。
緑はしばらくもくもくと作業していたけれど、途中麦茶のコップに手を伸ばして、それが既にわたしによって空にされていることに気付いて新しく入れに行った。
「あ、わたしの分もついで来てくれればよかったのに」
戻って来た緑にそう言うと、不思議そうな顔をして手元のコップを渡そうとする。
「いや、今はいい」
「ふたつも必要なくない?」
確かにコップがふたつあると洗い物が増える。床もふたつぶん水滴がたれる。けれど、自分の飲みたい時に中身が空という事態は防げる。ただまぁそれについてそこまで議論したいわけじゃないので、そこでなんとなしコップの数については有耶無耶になった。
さっきちらりと見たときには枠しか出来ていなかったそれは、二時間ほど経って、きちんとパズルの柄を見せ始めている。
なんの模様だろうと緑の斜め後ろから覗き込む。魚がたくさん泳いでいる海のイラストの様なそれはなかなか綺麗だ。
「真白、どいて」
言われたけれど依然パズルを覗き込んでいたわたしが退かなかったので緑は手を伸ばしてわたしの膝立ちの足の間、その下の床にあるピースを見つけ出して無造作に拾いあげる。
「それ、そこじゃない?」
ピースを指でつまんでじっと見つめる緑にスペースを示すと彼はそれをぱこんと入れた。どうやら合っていたようだ。
なかなか楽しくなって来たので、気が付いたら一緒になってやっていた。
黙ってもくもくとピースを埋める。
ひろって、眺めて、嵌め込む。嵌らなければまた眺めて、時々諦めて他のピースをつまむ。
8割型パズルが完成したころ、わたしは眠くなってきた。
*
ばらばらばらばら。
音が聞こえる。
それが低空飛行のヘリコプターの音だと気付くまで時間がかかった。眠りから現実に半分覚醒する。
今が何時くらいなのかは分からないけれど、まぶたの上に光は感じるのでまだ明るい時間だと思う。
もう少し寝ていたい。
そのまま目を開けずに微睡んでいると身体が抱き寄せられる気配を感じる。
ちくりとした痛みというほどでもない感触が首筋に走って、わたしは眠りとはちがうまどろみに引きずり込まれる。
ばらばらばら、ばら。
ヘリコプターが遠ざかったのか、わたしが意識を飛ばしたのか。音が小さく、やがて聞こえなくなる。
まぶたを閉じたまま前を見つめると、そこには瞼の裏側の画面が見える。暗いような赤いような色。
そのスクリーンには高い空が映し出されている。空は青より白っぽくて、少しだけ寒々しい。きっと冬の空だ。
いつなのかは分からないけれど、それを見上げていた時の自分の気持ちのかけらだとか、手が冷たかったこととか、切れ端ばかりが胸に再生されて、懐かしい気持ちになる。
つめたくて高い空。
いつかどこかの道で見上げた。
なんの変哲も無い日の記憶。記憶ですらないあの日の“気分”でしかないのに、何故だか胸が締め付けられるように切なくなる。その時特別幸せだったわけでも無いのに、もう二度と戻れないと思うとこの場所に帰りたくなる。
だけど、毎日どんどん離れていく。
そうしてまた、こうやって気まぐれに顔を出して、わたしの心を連れて行く。
ぎゅっと抱きしめられる感触。
血が抜ける。
気が遠くなる。
あ。
おちる。
死んでしまうって、もしかして心地良いのかもしれない。
目を開けたときに緑の膝に頭を載せていた。深い緑色を思わせる黒い瞳が、わたしを見つめていて、一瞬どこだっけ、と頭が混乱した。あまりに寝ぼけて、家の布団じゃ無いことにかなり驚いた。
頭がスッキリしている。
毎回、血液を抜かれて何故こんな気持ちになるのだろうというような諸症状が現れるけれど、最後の感覚はいつも同じ。緑に何かが移されて、わたしはどこかに荷物を降ろしたように整えられている。
身体は疲れているけれど、心は少し整頓されていることの方が多い。
身体を起こして見た緑の顔は、抜けかけの生気の名残が見える。もしかしたら血を吸ってからだいぶ時間が経っているのかもしれない。
「いま何時」
「三時、もう陽が落ちる」
「あのさ、血を吸うのはわたしが起きてるときに、許可をとってからにしてよ」
「え、なんで?」
「……なんでって」
あまりに不思議そうに聞き返されて答えを探すのも面倒になって「まぁ、いいけど」ど髪の毛の乱れを直す。
何でだっけ。それは気にするようなことだったっけ。気にしなければならなかったっけ。よく分からなくなる。
あの“変態の吸血鬼”、園部のニヤニヤ笑いを思い出した。
よく考えたら首筋に口をつけさせるなんて、いやらしいし、おかしいことかもしれない。
そう考えた後に、そもそも血を吸われているのだからそういう問題でもないと思い直す。あまりに当たり前になってしまっていて、何がおかしくて変なことなのか、境目が曖昧になる。
あれもこれも、何てことが無いことだけれど、緑以外にされたら結構びっくりする、というか受け入れがたいことだったりする。同じコップでお茶を飲むのも、手を繋ぐのも。
そんなこと考えたこともなかったけれど。
ふいに緑がわたしの脚のあたりに手を伸ばしたので、びくっとして避けてしまう。
緑は正座したわたしの腿のすぐ横にあるパズルのピースを拾いあげる。
あれ。わたしは今なんで、避けたのだろう。恐いともちがう、だけど当たり前のような気もする。そこまででぼんやりと、思考停止した。
ふと視線を写すとパズルは最後のピースを得て、出来上がっていた。




