4.雨の日の吸血鬼
放課後、委員会の後に岸井君を通路の端に誘ってこの間の断りの返事をした。ここのところずっと続いている鬱陶しい梅雨でわたし達の会話は都合よくかき消されている。
「全然気にしてないから、これからもよろしく」
岸井君はそう言って笑ってくれた。
「でもさ……俺、考えるって言われてからまたちょっと見てたんだけど、本当に瀬高と付き合ってないの?」
「付き合ってないよ」
岸井君はどうしてもそこの違和感が拭えないようだった。歯切れの悪い感じで聞いてくる。
「佐藤って、瀬高にお弁当作ってる?」
「あ、それはうちのお母さんが作ってるの」
緑のお父さんはいま短期で単身赴任していて、赴任中の仕事時間も内容も不規則で辛い為月の半分は緑のお母さんがそちらに行って、溜まっていた家事をやったり、食事を作ったりしている。だからその間緑はうちで毎日夕食を食べているし、緑とわたしのお弁当は月の半分はまったく同じになる。
お弁当は朝渡す時もあるけれど、忘れていてお昼になってから渡す時もある。ついでに誘って一緒に食べることもある。
岸井君はそんなのをどこかで見たのかもしれない。
「でも、瀬高に聞いたら、付き合ってるって」
「……聞いたんだ」
ちょっとムッとした。わたしが付き合ってないと言ったのに、わざわざ緑の方に聞いたんだ。もし付き合ってるなら、わたしは彼氏がいるのにもっとモテたいから嘘を言っている嫌な女みたいだ。
「わたしが嘘をついてると思う?」
わたしの言葉に岸井君は目を泳がせる。
「いや、それは……どっちかっていうと……嘘をついてるのは、瀬高の方な気がするんだけど……」
岸井君は虚空を見て、ううん、と唸る。そうしてぽろりと落ちてしまったかのように、言葉が出て来た。
「なんか、お前ら、異常じゃね?」
ざかざかと窓に雨がぶち当たる。
薄暗い廊下は気まずいほど湿っぽい。
「……べつにいいじゃん、誰も困ってない」
出した声は思いのほか震えていた。
冷静に考えれば岸井君の言い分も少しは理解出来なくもない。わたしと緑は、たぶん側から見たら近過ぎるんだろう。少し違和感を感じてしまうくらいには。けれどその時わたしは異常と言われたことでカッとなってしまっていた。
岸井君の方はわたしの強い怒気にも気付かない様子でそのまま続ける。
「佐藤って友達いる?」
「えっ、いるよ」
「うん、佐藤って結構誰とでも話すんだよな……」
何が言いたいんだろう。苛々する。だけど、この時まではまだかろうじて冷静さを持っていられた。
「でも、女子って本当に仲良い奴とはいつも一緒にいるじゃん」
「なにそれ……」
休み時間にみんなで話したり、一緒に教室移動をしたりする友達はいる。休みの日だって約束して出かけることも、稀だけどある。ただ、わたしは他の子たちみたいに特定の同じ友達といつも一緒には行動しなかったし、面倒なときはひとりで机に座ってぼんやりしている時もあった。
だからどうやらわたしが友達だと思ってる関係性は岸井君から見ると友達ではないらしい。これにはショックと怒りで言葉も出なかった。なんでそんなことを言われなきゃいけないんだ。歯をくいしばる。
口を開くと怒りで涙が出そうだったから、彼を睨みつけて、そのまま黙って急ぎ足でその場を離れた。
緑を探さなくては。
*
「緑」
緑は教室の机で突っ伏して、いつものようにわたしを待っていた。目の前に立つとわたしの気配に顔を上げる。
「いますぐに、お願い」
わたしの目を見てその望みを正確に理解した緑はすぐに立ち上がる。もう眠そうな顔なんて、全然していない。瞳はぎらついているようにすら見える。
教室に鞄を置いたまま人気のない屋上に続く階段に移動して、緑がわたしの背中に手をまわした。
わたしは血の気が多いのだろうか。
はやくはやく。この渦巻いた感情を散らばして、吸い取って欲しい。
ばくん
暗闇に飲み込まれるように、一瞬にして血が抜けていく。
ぐったりと弛緩した身体を緑が支える。
瞳の内側は暗くなって、それから明るくなった。
頭の中のスクリーンに広がるのは幼い頃の自分の家。
なんでもない木目の天井に陽が射していて、きらきらして、光がゆらゆら揺れて泳いでいた。そんなことに小さく感動できた幼いあの日の記憶。
外には高い空を思わせる鳥の鳴き声が小さく聞こえる、穏やかな午前中。窓から入って頬にあたる風の感触まで再生されたような生々しさ。
それとはちがう、音が聞こえる。
はー、はー。
それが思ったより大きな自分の息の音だと気付いた時には、昂ぶった感情の波はだいぶ引いていた。ばしゃばしゃと、窓を打つ雨の音も、遠くから戻って来た。
目は開いていたけれど、目の前のものが焦点を結んで、ようやく緑の顔が眼前に現れた。
まだ少しだけ、苛立ちは残っている。
「ね、もう一回」
強請るように言うけれど身体を離される。
「駄目」
「いいじゃん、けち」
「駄目だ。貧血になる」
仕方がない。小さく残ったわだかまりは緑に八つ当たりして投げてしまおう。
「緑のせいで、わたしまで異常扱いされたよ……」
岸井君の表情に悪意は無かった。あれは、異質なものを訝しむような顔だった。それがなおさらショックだった。これが振られた腹いせならばどんなに良かったことか。だから怒りが消えたら静かな悲しみとやるせなさだけが残ってしまった。
わたしに突然そんなことを言われても緑は表情を変えないし、事情を聞こうともしない。
「真白は真白だし、ぼくはぼくだ」
唇を小さく拭いながら、たんたんと返す。
「でも、緑のせいだ」
ほんの少し眉根を寄せたその表情は、何故だか困ったような笑いに見えた。