10.落下
「真白が好きだよ」
緑のさらりとした告白に、わたしは溜息を吐いた。
「緑って、恋愛をちゃんと分かってる?」
「ちゃんと、ってどういうこと?」
「恋愛は、緑の思っているようなものとはちがうんだよ」
たしなめるように言うけれど、緑の瞳は開いたまま、唇はなまめかしく、妙に生きてる感じだった。いつもの緑と印象がちがっていて、息を飲む。
「じゃあ真白は分かっている?」
「えっ、」
意外な反撃が待っていた。わたしは、ちゃんと……分かっているはずだ。少なくとも自分が分かっていないなんて、疑ったことが無かった。
「恋愛の好きと、家族に対する好き。友達への好き。小さな生き物に抱く好き。強く大きなものへの憧憬。食物に対して、無機物に対して、音楽に対しての好き。架空の人物、あるいはスクリーンの向こうにいる人物への親愛。その全てに明確な線引きと基準がある? あるいは美しい風景を見た時の気持ち、性的な欲求、羨ましい、そうなりたいという同化の願望、それに似た憧れ、その全てをきちんと考えて、区別をして分かっている?」
「それは……」
わたしはたぶん相当目を丸くしていたと思う。緑が思った以上に、緑のまま、正気だったから。おまけに緑の口から“性的な欲求”だとか出てきたのもちょっとぎょっとした。
「でもぼくはそんな区別は必要無いと思う。対象が何だって、とらわれて夢中になるなら変わらない」
分割の話。武藤の顔が一瞬だけ浮かんだ。
「だからぼくには真白のほうがよほど分かっていないように見える」
「そう、なの?」
「真白は親愛や友愛や恋愛を、色んなものをごちゃまぜにしているくせに、やたらと名前を付けたり区切ったりすることに縛られている」
そうかもしれない。
わたしの中で緑はきっと、今でもずっと家族で、幼馴染で、自分の一部で。だけど新しく友達にもなった。気持ちの境目は曖昧なものなのに、幼馴染とか、友達とか、その都度ラベルを貼り付けてその通りに扱おうとした。自分でつけたラベルに影響されて、気持ちまで引っ張られて。
「前にも言ったけれど、ぼくは以前と変わっていない。ただ、必要だから言葉をつかうようになっただけ」
そう言ってから緑はすっとわたしの目を見た。
わたしの知っている緑は、いつももっとぼんやりと、混濁していた。
だけど、うちに燻る感情は混濁の奥に隠れていただけで、昔から存在していたのだと、緑は言う。
「ぼくは昔から真白しか必要としていないし、ほかのものは要らない」
躊躇いなく言い切った緑の顔がまっすぐ見れなくて、背後の月を見た。
「……うん」
本当は前から知っていたような気がする。だけどやっぱり今初めて知った気もした。
たとえそこにずっとあったとしても、言葉になっていないそれは、まだ存在はしていない。言葉になった瞬間からそれは質量を持って存在する。だからきっとそれは今、言葉にされて初めてこの世に生まれた。
冷たい冬の空気を震わせて、緑の声を身にまとって誕生したそれは、わたしの胸をとんとついて、震わせた。
「真白、ぼくには答えが必要だ」
緑はわたしの背中に手をまわす。
反射的に首を横に捻る。唇を当てやすいように首筋を差し出す。もう何年も前から癖のように、わたしは緑にそうされると、そんな動きをしてしまうのだ。
だけど空いた首筋にはいつまで経っても何の感触も来なくて。
代わりに唇に柔らかいものがふわりと触れた。
いつもみたいに身体に小さな穴が空くわけでもない。血液だって、一滴も無くならない。
それなのに、唇に触れるものの正体に気付いてしまうと、わたしの心臓はばくんと音を立てて、身体は熱を持って立っていられないくらいのふらつきを覚えた。
頭の中を、緑と過ごした膨大な記憶、何百回、何千回の吸血の記憶が駆け巡っていく。だけど幾ら探しても、これは同じものが見つからない。そのことに脳が戸惑っている。
わたしと緑との分離が完全に完了したのは、その瞬間だったのかもしれない。
突然空にあいた穴からぽんと放り出されるみたいに、わたしの心は投げ出された。
緑のした小さな接触は、わたしの心を思ったより遠くに落下させた。
そうして落ちて、落ちて、着地した先で。
目を開けた時に、わたしは自分の外側にいる緑という人間に、初めて出会った。
「真白?」
白い息と共に吐き出された小さな声にはっと我に帰る。
そこにいた緑の深い緑を思わせる瞳は、きちんと人間の温度をまとったまっすぐなもので。
大人になって彼を置いて行ったつもりのわたしは、本当はもしかしたらいつの間にか置いて行かれていたのかもしれない。そこにいた彼はわたしが思っていたより、ずっと男の人だった。
じっと見つめられると自分の顔がじわりと熱くなる。
熱い。駄目だ。
わたしはそこから空気を掻き分けるようにバタバタと、転がるように何歩か後ずさりして、ヨロヨロと数歩逃げ出す。
おかしい。
苦山氏の話では吸血の際に緑の唾液が変質していて、だからわたしはぼんやりしたり、すっきりしたり、甘やかだったり気持ちが良かったはずなのに。
ほんの少し唇が触れ合っただけでそんなことが起こるなんて、何かおかしなものがまたあるのだろうか。
いや、わたしは本当は分かっている。
頭がぼうっとしてしまうのも、ドキドキが止まらないのも、息が短くなるのも、身体が熱を持つのも、吸血鬼の唾液だとかは全く関係ない。
多分これは愛とか、恋とか言うんだろう。
立ち止まって振り返ると後ろにいた緑に簡単に捕まえられる。
「待って」
振り返って見た幼馴染の顔は友達のそれでもなくて、知らないうちに一足飛びに大人みたいな顔をしている。
いやだ。
置いて行かないで。
大人になるなら一緒がいい。
第二章:ともだちの吸血鬼 おわり




