10.病気の吸血鬼
その日わたしは学校を早退して苦山氏を訪ねてひとり、休診日の“げんき歯科クリニック”に居た。
「緑の様子がおかしいんです…… 飲んでも飲んでも、満足しないんです」
貧血が酷くてフラフラで半泣きのわたしを苦山氏は病院の上の階の居住スペースに迎え入れて、紅茶とチーズスフレを出してくれた。
苦山氏が「これどうぞ」とボックスティッシュを出してくれたので鼻をかんだ。
それから涙でぐちゃぐちゃになったわたしに病院のグッズなのか歯磨き粉のイラストの“けんま君”のハンドタオルをくれたので、それで涙を拭いて、少し落ち着いた。
部屋を見回す。本棚からは本がはみ出るほど、パソコンの周りにも未開封のお菓子や栄養ドリンクなどが所狭しと置かれ、住んでるというよりはもっと雑然とした趣味丸出しの休憩部屋という印象だ。
ひとつだけ写真立てが置いてあって、そこに苦山氏とどことなく似ているけれど、もう少し可愛くて細い少年と、それよりはもう少し幼く見える少女が笑顔で写っていた。苦山氏の年齢は知らないけれど、もしかして子どもがいるのだろうか。
「何かありました?」
目の前に紅茶のカップをかちゃんと置かれ、思いのほか間が抜けた声で聞かれて顔を正面に戻す。少し気が抜けた。
「実は最近親に、家で二人きりで会うのを禁止されまして」
「あぁ〜まぁ、リョクくんは十六歳、あ、マシロさんはまだ十五なんでしたっけ? まぁ、ありがちですねぇ」
「それで、最近学校で血を吸わせていたんですけど……その、回数が多くて、こっちが貧血になるくらいで」
「なんだか恥ずかしい話をされてるみたいで照れますねぇ」
照れなくていい。この丸眼鏡。真面目に話を聞け。キッと睨むとたじろいだ。
「それで、この間ついにバレたんです」
「え」
丸眼鏡が真顔になった。
「他のクラスの女子に……緑が、吸血鬼だって」
深津さんの目を思い出す。彼女は真面目な子でショートカットに眼鏡のルックスも相まって潔癖にも見える。作文で表彰されたこともある図書委員の文学少女だ。
校内で密着していたわたし達を見た彼女は最初は嫌そうにしていたけれど、緑の口元に付着した血液に気付くと、どこか嬉しそうに目を輝かせた。
「まぁ、高校生くらいの子には二十人に一人くらい、守護霊が見えるとか、式神使える、前世を覚えている、みたいな子がおりますから、大騒ぎにはならないでしょう。大丈夫じゃないでしょうか」
確かに、感受性の強い多感な女子高生が“吸血鬼が出たぞ”なんて言っても誰も信じないだろう。でもそこは問題ではない。そもそも彼女はきっと、誰かに言おうなんて思っていない。
「それでその後その子は緑のことが好きになったらしく、血液をその……」
「提供する、と?」
顔を上げた苦山氏の眼鏡の縁がきらりと光った。黙って頷く。
「でも緑は断ったんです」
「なぜですか」
「わからないけど……嫌、みたいです」
「ははぁ」
「苦山さん、吸血鬼の研究してるんでしょう? 他の人間の血液を受け付けない体質とかってあるんですか? あと人間て一回にどれくらい血を吸われると死ぬんですか? わたし、大丈夫なんでしょうか」
「んん〜」
苦山氏は顎をさすりさすり、考えた。
「緑はわたしの血液の、中毒なんでしょうか。そういうことってあるんでしょうか」
苦山氏が立ち上がり、歯科医とは思えないくらいに甘い紅茶の二杯目を用意する。その間部屋は沈黙が支配した。
よっこいしょ、とちいさく掛け声をかけて椅子に座りなおした彼は手元のチーズスフレを手掴みで咥え、もしゃもしゃと咀嚼して飲み込む。それからことさら時間をかけるように紅茶をこくんと飲み込んでから口を開いた。
「これはワタクシが吸血鬼とか、研究者だとかとは関係なく……ごく個人的な意見というか、感想、なのですが……」
えらくもったいぶった前置きをしつつ、奥歯にものが挟まったかのように、モソモソと彼は言う。先延ばしするかのように、またお菓子を口にひとつほおりこんで、ゆっくりと咀嚼する。
「人間に対してはあまり中毒という言葉は使われんのです。だいたいが他の言葉が使われます」
「なんですか」と聞いたわたしに苦山氏は何故か照れたように「ですからその……」と言いよどむ。それから、非常に真面目くさった顔で答えた。
「愛とか、恋とか」
窓の外で鳥がピィ、と鳴いた。
「……まさか」
鼻から息がもれた。
「マシロさんは、リョクくんのことを好きではないですか?」
「えぇっ! とんでもない!」
好きかと言われると、首を横に振りたい。
わたしは彼のことをちっとも好きではない。彼は親とか兄弟とか、あるいはもっと近しい自分自身みたいで、好きとか嫌いとかいう対象じゃない。
そう言うと、苦山氏はふむ、と考え込む。
「一度、やめてみたらどうでしょう」
「え、なにを」
「吸血行為を」
「え?」
「前も言いましたけど、吸血は緑くんが生きる為に必ずしも必要なことではないんです。現代を生きるほとんどのモスキータは血液なんて吸わずに生きてますから。あなたの健康にとっても、その方が良いかと」
「……」
「ていうか以前ハッキリそう申し上げましたのに、まだやめてなかったんですね、ちょっとそっちにビックリです」
机の端っこの木目にじっと視線をやる。いつの間にかチーズスフレのかけらがついていた。
くちびるをぎゅっとかむ。
「その、続けてると、何か悪い影響はあるんでしょうか……」
何故だかそれは、わたしにとって、手放しで賛同したい提案ではなかった。もし代替え案があるならそちらにしたい。
「いいですか、マシロさん」
苦山氏が机をばん、と叩く。
「吸血に限らず、どんなことでも毎日繰り返すことに影響がでないはずはありません」
「……」
「簡単な思考実験ですが、例えばここに仲の悪い二人の人間がいる。彼等に毎朝顔を見るたびに「おはよう」と一言だけ挨拶をさせてみたら、それを十年続けたらどうなるでしょう。あるいはひとりの人間に毎日一分間鏡にむかって罵倒を投げかけさせる。それを十年続けさせたとして、まったく、なんの影響も起こらないと思いますか?」
「……」
「たとえばあなたが毎朝コインを三十秒間手のひらにぎゅっと握る、その程度の行為を繰り返していたとしても、十年も続ければおそらく何かしらの影響はあるんです。指の骨がそこだけかたちが変わるかもしれない。あるいは爪の色に影響が出るかも。それをすることで気持ちが前向きになっているかも、死にたくなって来るかも。思わぬ影響がどんなところに出るかもしれない。けれどそれは人や状況によってちがう。分からないのです」
窓の外は残暑の陽がやたら白くて、眩しかった。部屋の中は涼しいけれど、きっと外は熱射だろう。
「マシロさん、あなたは恐らく吸血に依存している」
「わたしが?」
わたしの方が、依存していたんだろうか。
いや、依存しているのは緑の方で。
わたしも気付かないうちに、もうずっとそれに依存をしていたのだろうか。
「いいですか、もしあなたが現状に危険を感じているのなら……」
「……」
「止めるのです。今すぐにそれを。何としても」
吸血を止める。
本当の事を言うと、その提案は自分の中に既にあって、なんとなしに、何十回か却下されていたものだった。気付かないふりをしていたとも言う。
わたしにとって緑に血液を吸われることは、必要ではないけれど当たり前のことだった。
そしてながく、緑にとっては必要なことだと思い込んでいた。だから夏休み前に初めて苦山氏に会ったときに、それが無くても生きていけると言ったときに、本当はものすごく困惑したのだ。したけれど、目を逸らした。なぁなぁにして、まぁいいかと習慣化したそれを続けた。
だから今ハッキリとそう提案されて戸惑った。
止める。
たとえば毎日入っていた風呂を止める。入らなくても死なないから。
たとえば毎日食べていたお菓子を……いやちがう、どれもふさわしくない。
毎日繰り返した行為。無感情な緑が血を吸ったあと、いつだって、わたしの感情を食べられたような気持ちになった。
わたしの血液をガソリンにして動いていたみたいな緑。その彼に血液を渡すのをやめる。
そうして覗き込んだ深淵に、感情をひとつ発見する。
緑がわたしの血を吸うのを止める。
わたしの一部である血液や、それと一緒に移る“何か”ごと、取り込むことを止める。
緑がわたしじゃなくなる。
緑のかたちをしたわたしがひとつ、いなくなる。
緑がわたしと離れて、ひとつの完全な“瀬高緑”という生き物になる。
それはまるで、佐藤真白が死んでしまうみたいに、こわい、と感じた。




