1.幼馴染の吸血鬼
肉体にぷつりと穴が空いてわたしの血液が緑へと乗り移って行く。
わたしは気が遠くなって、そんなときにはいつも何故だか、あの夏休みの通学路だとか、梅雨の日の窓辺だとか、冬の日の両親の背中だとか、そんないくつもの、いつだか分からない風景たちの記憶が頭を去来して、音もなくただ通り過ぎる。
緑がわたしの血液を吸うそれは、時間にしたらとても短くて、計ったことはないけれど長いときでもたぶん一分かそこらだろう。体感はあっという間だけれど、何故だか終わった後には一時間ぶんくらいそうされていたみたいな疲労感がある。
彼はとても綺麗な人間のかたちをしていたけれど、わたしには普通の人間とは少し違って見えた。
緑にはおよそ人間らしい質量がきちんと感じられなかったし、張りぼてのお人形のような表情は欲望が存在しないのではないかと思わされた。わたしの血液だって、目の前にあるから呼吸するように取り込んでいるだけで、彼は欲望薄く、虫みたいにただ生きているだけだった。
ふだんは空虚に見えるけれど、きっと本当はちっとも悲しくなんてない彼は、血液を摂取した直後だけはやにわに生気を帯びて、そのときだけまるで人間みたいに嬉しそうにするし、重力をともなった辛そうな顔だってする。
それは彼自身ではなくて、わたしの血液が纏った喜びや、悲しみの残り香のように感じられる。緑はまるでわたしの血液をガソリンにして動く人形なのではないかと錯覚しそうになる。
血液と共に彼に乗り移ったわたしの感情の残り香は鏡よりも生々しく、時に喜びを、時に憂鬱をわたしに感じさせる。だけどそれが彼そのものに吸収される頃にはまた能面のような人形のようなペラペラした生き物に戻ってしまう。彼の空虚によって食べられたわたしの感情の行方を、わたしは知らない。
そんなぺらりとした強い空虚を持った彼が学校や世間で他の人間に埋没し、気付かれずにすんでいるのは、案外とそんな人間が多いからだろうか。休み時間にだってスマホを前にぼんやりしている生徒は思いのほか多い。
ただ、緑に関しては高校生としては自意識の薄さが独特で、やはり集団の中では浮いて見えた。
彼は同じマンションの四階の隅の部屋に住んでいた。きちんとした両親もいる。聞いたことはないが恐らく血液を摂取したりはしないごく普通の人間だ。彼の親は彼が血液を吸うことを知らない。
彼はひとと同じように生まれたけれど、生まれた時からその部分だけひとと違っていた。
彼は気が付いたらここにいたし、かなり幼い頃から自分が血液を吸う生き物だということをしっかりと知っていた。
彼の来歴は分からない。それがたとえば赤ん坊の頃どこかで咬まれてなったものなのか、もしかして緑という子どもの身体を乗っ取ったのか、生まれつきなのか、はたまた悪魔と契約でもしたのか、一体なんなのか、知らないし、考えようともしない。
そしてそれに対して、いまこそ考えるべきだと、わたしは主張する。
初夏の朝、マンションの内庭は草木を刈る直前で、草木に籠った熱気で蒸せかえるようだった。
「だって緑、おかしくない?」
「なにが?」
「他の人は血なんて吸わないのに、なんで緑はそうなの?」
短い吸血行為の後、緑はいつもより少し元気で、唇が濡れている。吸われた後のわたしはいつもより少しだけ元気がない。
そこにわたしが若干の不公平を感じて苛立つのも無理はないと思う。こんな風な暑い日は特に。
習慣化しているそれは世話が焼けるというにはあまりに当たり前で、だけどずっと小さなお荷物をもたされているような不満を感じさせるものだった。
太陽はすごい速度で上昇をして、直射日光がじりじりと髪の毛を焦がす。
わたしはますます苛々して、八つ当たりのように緑に問いかける。
いったいお前はなんなのだ、いつから、何故、吸血鬼なのだ、何故、きちんと他人と同じにできないのか。
緑は口元を手で拭った。深い緑がかった黒い目をわたしに向けて答える。
「真白は自分がどこから来たか、ちゃんと知っている?」
わたしの出元ははっきりしている。わたしは血液を吸ったりしないし、恰幅の良い父と優しくてドジな母から生まれたごく普通の人間だ。
わたしの不満気な顔を見て緑はさらに続ける。
「じゃあ自分が食べ物を摂取することに不思議さを感じたことはある? それについて考えてみるべきだと思う? 自分の存在がどこから来たのか記憶を辿ってみたことは? 母親の腹から出る前、あるいは出て来たときのことを覚えている?」
普段しゃべるのも億劫そうにしているのに、吸血後の彼はいつもより饒舌だ。一度も噛まずに滑らかにしゃべる。
「ぼくにだって何か生まれた瞬間や、どこから来たのか来歴はあるのだと思うよ。ただ、真白と同じように、当たり前に忘れてしまっているだけだ」
彼に言わせるとそんなことを気にするのは一部の哲学的な人間だけだと言う。
「真白は最近そんなことばかり言ってる。以前は言わなかったのに」
「……そうかな」
「真白は思春期だから、そんなことばかり考えるんだろう」
ぼくが血を吸うからって、そんなの前からだし、当たり前だし、今さらどうでもいいことじゃないか、そう言う彼が吸血鬼であることは今現在わたししか知らない。それに彼のいいかげんな記憶の限りでは、彼はわたしの血液しか吸ったことはない。
わたしと彼は幼い頃から一緒にいたし、もの心ついた時にはもう、わたし達の間でそれは行われていた。
一日にだいたい二回、一分ほど。
お互いの家族の旅行やイベントごとがある日もあったはずなので、正確には毎日休みなく、だったとは思えないけれど、覚えている限り可能な日はほとんど。わたしと緑は繰り返しそれをしていた。
この習慣がいつからなのか、何故始まったかすら、もはや淡い記憶に紛れて分からない。
ただ、子どもごころに人とちがう異常なそれを、他の人の目から隠してあげなければならないと思ってはいたので、それくらいの分別はつく年齢だったのかもしれない。だから最初は弟のおねしょを隠してあげるお姉さんくらいの感覚で始まったそれは、いつの間にかしっかりと習慣化していた。
あまりに当たり前で、普通のこと。
そしてわたし達にとっての“普通”が、世間にとっての“普通”ではないということが気になり出したのはごく最近。
確かにわたしは緑のいう通り、思春期なのかもしれない。