その五
その数日後、またもや“堤中納言”様が“虫愛ずる姫君”のお邸を訪れまして、例によって姫君とお話をなされました。
「いやはや、今回ばかりはどうにも無茶な真似をなされたようでございますな」
「既にお聞きになられておられますとは、さすがにお耳の早いことでございますね」
「まあ、人の口の端に上る出来事に聞き耳を立てますのは私の数多い悪癖の一つですからな」
「それならば、お隣の姫君と中将殿とのお噂については、何か聞き及んでいることはございませぬでしょうか」
「中将の方は、何やら物忌みをするというので邸の方に籠り切っておりますな。まあ、少々色好みが過ぎていたようなので少しは薬になれば宜しいでしょう。それよりも、問題はお隣の姫君の方でして」
「如何ようなことでしょうや」
「今回の話はまだ内々の噂話に留まっておりますが、噂が公になるにつれ話に尾鰭がついて燎原の火の如く広まるのは火を見るよりも明らかかと存じます。そうとなれば、お隣の姫君の評判にも傷がつくのは避けられぬかと」
“堤中納言”様が少し言葉を区切りますと、“虫愛ずる姫君”は日頃より慕っている“蝶愛ずる姫君”が自らの浅慮に因する軽挙妄動によって悪意ある言葉を周囲をから投げかけられる姿を思うと、その身をお案じなされて胸が苦しく締め付けられるかの如き心地となられました。
姫君は、しばらく考えられましてから“堤中納言”様に言葉をかけられました。
「お隣のお邸には、姫君のお祖母様がご同居なされておられます」
「それが、如何がいたしましたか?」
「お祖母様は篤く神仏に帰依し、お頭を剃り上げておられます」
「はあ」
「なので、お眠りになられる時は冷えぬようにお頭にお召し物を被っておられるそうでございます」
「ふむ。なるほど姫君が申されようとしていることが見えて参りましたな」
「そこで愚考をいたしますに、如何でございましょうや。『“中将”殿は“蝶愛ずる姫君”をお邸へと連れ帰ったが姫君が鬼の類いへと変じた』といったかの如き話を『“中将”殿が“蝶愛ずる姫君”と間違えてお祖母をお邸へと連れ帰った』という話にして噂を流すと申しますのは」
これをお聞きいたしますと、“堤中納言”様は実に愉快そうに軽やかな笑い声をあげました。
「なるほど、姫君のご聡明さにはいつものことながら舌を巻かざるを得ませんな。しかしながら、そう上手く噂が人口に膾炙いたしますかな」
「そこで中納言様の御助力を賜りたく存じます」
「私のですかな」
「何しろ中納言様は、余計なお話が余程お好きなようでございます故。“あのお方”に今回の件を事前にお告げになられましたのは中納言様でございましょう」“虫愛ずる姫君”は微かに皮肉っぽい声色を微かに滲ましまして申されましたが、気恥ずかしさを覚えて、あえて“右馬の佐”の名前を出さずに“あのお方”という呼称をお使いになられました。
「わかりますかな」と、“堤中納言”様は姫君のやや皮肉の篭った言葉を理解ているご様子でございましたが、それを受け流すようにお答えになられます。
「はい、わかります」
「いや、これはまた参りましたな。見事なご推察でございます」
先日の企てについて、事前に知っていたのは“虫愛ずる姫君”とそれに加担した男の童たちのみ、それをどこかで“堤中納言”様が耳になされて、“右馬の佐”に告げ、その結果“右馬の佐”が姫君の護衛のための侍たちを姫君の周囲に待機させたのであろう、そうでなければあのような立派な侍たちが都合良く現れたりしないはずである。事情を知り姫君の身を案じて、あのような者たちを手配をするとすれば、“堤中納言”様か“右馬の佐”より他にないと、姫君はあの夜より分ってあられました。
そこで、試しに“堤中納言”様にカマをかけてみますと、あっさりとお認めになられましたので先のお考えが確信へと変じました。尤も“堤中納言”様の方は隠し立てをなさるお積もりもないようでございましたが、何だか今回の件が全て“堤中納言”様の掌中で転がされていたような気がいたしまして、“虫愛ずる姫君”は何だか釈然といたしません。
「承りました。私の数多い悪癖の一つである口の軽さをお役に立てる時が来たようですな。それがご期待に添えるかはわかりかねませぬが、先の姫君のお話が巷間に流布するよう尽力することにいたしましょう。何しろ今回の件につきしては私に責を問われるが処がございます故」と申されながらも“堤中納言”様は申し訳なさよりも、楽しさが勝っているかの如き御様子。
「そのようなお心遣いは御無用と前にも申しましたが、今回ばかりは中納言様の御言葉に甘えさせていただくことにいたしたく存じます。それはそうと、今回妾があのような行いをせねば、中納言様は如何なさるお積もりでございましたでしょうや」
「さて、どうしましたでしょうかな」と、堤中納言様はお得意の惚けたお声。
「それにいたしましても、今回の身代わりなどは、召し使っておられる女房か女の童にでも任せておられれば宜しかった物を何故に、姫君御自らがあのような真似をなされたのですかな」
「そのようなことを命ずれば、命ぜられた者の評判を貶めることになってしまいます。妾はそのようなことは好みません」
「まあ、なるほど、気深い(思慮深い)のも結構ですが姫君の方は如何いたしますか?」
「如何とは、何のことでございますしょうや?」
「いや、私はこの件でまた姫君の御評判に傷がつかぬかと案じております故」
「そのような御心配は一切御無用のことかと存じます」
「それは、また何故にですかな」
それをお聞きになられますと姫君は、悪戯っぽく微笑まれながらこう申されました。
「妾は“虫愛ずる姫君”でございます故」
人はみな 花に心を 移すらむ 一人ぞ惑ふ 春の夜の闇【人は皆、(奪われたかのように)花に心を移していますが、私は一人春の夜の闇の中で惑っています】。
お時間です。
ここまで、本作品を読んでいただいた方、誠にありがとうございました。
そんなわけで何とか、新章も書き終わりました。前回も完結設定にさせていただきましたが、今回も次章を書く予定がないので完結設定とさせていただきます。
今回は前回と違い次作の構想が全くないので、どうなるかわかりません。
それでも、もしかしたら何かを思い付いて続きを書くかも知れません。
それでは、重ねて本作を読んでいただき、誠にありがとうございました。
※誤字脱字のご指摘は、歓迎しています。