その四
明晩、例の女の童“弁の君”より“堤中納言”様の召し使っておられます少舎人童に連絡がございまして、それを中将へとご報告をいたします。
「報告がございました。今宵が宜しきかとのことでございます」
それをお聞きになられました中将は、喜び勇んで牛車を仕立て、自らの召し使いを数名伴いまして目立たぬように、やや夜の更けた頃合いを見計らっておられますと、“弁の君”が辺りを用心しいしい手筈通りに中将をお邸の中へと招き入れてしまいました。
ほのかな暗闇の中で、“蝶愛ずる姫君”の部屋の中に、闇よりも更に暗い漆黒を思わせるかの如き美しさを帯びた長く豊かな黒髪を顔と身体に纏わせるかの如くしております小柄な女性の姿が横たわっていると思われました。
中将は、これぞとばかりに闇の中、自らの中に横溢せんかの如き喜びの感情の命ずるがままに、姫君を急ぎかき抱いて、そのまま牛車の中へと乗り込ませておしまいなられると、急ぎ車を走らせました。
牛車の中では腕の中に抱いた姫君から「こは何ぞ、こは何ぞ」なぞと可愛いらしい狼狽の声が聞こえて参ります。
やがて、中将のお邸へと着きますと、牛車の動きが止まり、有頂天の心地でいた中将は姫君をよく見ようとして、覗きこむようにそのお顔を見てみますと、あにはからんや、ほの明るい月の光の下でも分かるほどに顔面真っ黒。その上どうした物か所々が不気味な斑模様を形作っておりました。
その姫君と思われました女人は、ニカッとお歯黒をしていない白い歯を見せながら顔面に笑顔と思しき表情を浮かべたかと思いますと、「どうしたことでしょう。あなたはどなたですか」と宣われます。
中将は、その顔のあまりの恐ろしさに、蝉が鳴くような悲鳴を挙げて、腰を抜かされますと供の者を呼んで、姫君をお邸の外へと放り投げるかのように追い出しておしまいになられました。
姫君は、しばらく中将のお邸の門から歩いて離れましてから、暫く佇むと「“けらを”、“ひきまろ”、“いなかたち”、“いなごまろ”、“あまひこ”出てきなさい」と仰せになられました。
すると、それまで隠れて様子を窺っていたと思しき“虫愛ずる姫君”が召し使っておられる幼い男の童たちが周囲の木々草々の陰から虫が飛び出るかの如く出て参りました。
「姫君。御無事でしたか?」“けらを”が心配そうに“虫愛ずる姫君”に問い掛けました。
「大事ない。それよりどこかに顔を洗える処ははないでしょうか。さすがにこの顔で帰るわけにはいかないでしょう」
「それは、そうですけど。一体眉墨でお顔を黒く塗るなどと、どのように思いついたのですか?」そう申しました“けらを”と他の男の童たちは心配半分好奇心半分といった面持ちでございます。
「前に、“堤中納言”様よりそのような話をお聞きしたのです」
「ははあ。それにしても、“蝶愛ずる姫君”のお邸へ泊まられ、お部屋をお借りして入れ替わり、そのお化粧で殿方を驚かすなどと、そこまでせずともお隣のお邸へ用心を促す位で良かったのではないでしょうか」
「いえ、この手の話は一度防いでも幾度も同じ事が起こります。何しろお隣の姫君は洛中に名高き方故」
「ははあ」
「姫君。数人の立派な侍と思しき者どもが、私たちを付けてきています」不意に“いなごまろ”が、小さな声で“虫愛ずる姫君”にそうと告げました。
「鬼退治でもないでしょうに、捨て置きなさい」と、“虫愛ずる姫君”は涼しいお顔。
「そうでしょうか」と申しながらも“けらを”たちは各々不安そうな表情をいたしております。
「それにいたしましても、このようなことをされましては、お邸に戻られたら、また大納言様と北の方様からのお叱りがあるでしょう」と“けらを”が申し上げますと“虫愛ずる姫君”は何も申さずに、自らが慕い、その身を案じてくださる御両親のことを思いますと、それを申し訳なくお思いになられ苦虫を噛み潰したかのような苦い表情を浮かべながらも何も申せられませなんだ。
「今回ばかりはまったく肝が冷えました」と、“けらを”。
「“肝が冷える”などと難しい言葉を何処で学んだや?」
「いえ、お邸の方々が姫君のことを、お話しする際によく使っておりますので真似をしたのでございます」
そうと言われて“虫愛ずる姫君”のお顔には先程とは違った種類の苦い笑いの表情が浮かばれました。
“虫愛ずる姫君”は、途中川で顔に塗られた眉墨を洗い落としますと、一行は自邸の門の前へと着きました。
すると姫君は“けらを”に向かって「後ろの侍たちに『見送りご苦労でした』と伝えてきなさい」とお命じになられました。言われた“けらを”の方は意味が分からずに、立ちすくんでいるとしばらくしてから、姫君は少し恥ずかしそうに「それと『“右馬の佐”様に妾がくれぐれも宜しくと申していました』とも伝えなさい」と付け加えます。すると不心得顔のままの“けらを”は、侍たちの処へと駆けて行きました。
既に高く登った月の照り返しを受け、夜桜が咲き乱れ散る中に佇んだ“虫愛ずる姫君”のお姿は、それはもう空から降り注ぐ光と、舞い落ちる桜の花が溶け合って無縫の天衣を纏って地に落ちたかの如き神々しさすらも感じさせる美しさでございました。