その二
その後、高く日が登り昼頃に目を覚ましました“中将”は今朝方見た“蝶愛ずる姫君”の美貌をまだ夢から覚めぬかのように思い出しましてから、昨夜後にして参りました女人の処へと薄い紙に文を書かれました。
「まだ夜の深き頃に帰りましたのは、貴女が拒みたる御気色故でございます。私の心の辛さをご理解ください」と書きますと、更に「さらざりし いにしへよりも 青柳のいとどぞ 今朝はおもひみだるる【 (私が昨夜のように早く)去ることのなかった昔よりも、青柳の(細い)糸が乱れるように、思いも乱れています《“糸”、“みだる”は“青柳”の縁語》】」と歌を書き加えましてから、それに青柳を結びつけましてから、召し使っている者へ持たせて女人の御宅へと遣わせました。
この文に隠された意味は、“中将”は明け方に“蝶愛ずる姫君”を見た刹那にその心を奪われたが為に、昨夜を共に過ごした女人のことを少しく疎ましく思われ、自らが夜明けを待たずに帰路に着いたのを言外に女人へと責任転嫁しようとする技巧的な物でございました。
誠に以て僭越ながら、このような言動は私などには小狡いなどと礼を失っしたことなぞを思ってしまいますが、古の貴族の方々などの時代にあられましては、このような駆け引きなども必要悪に近い物があったのかもございません。
いやはや、なんとも大したプレイボーイでございますな。
すると、その文を受け取った女人の方も“中将”の迂遠な真意を見抜き不安とともに「かけざりし 方にぞはひし 糸なれば 解くと 見しまに またみだれつつ【心に(糸《縁語》を)かけてもいない私に(風のように)気まぐれに寄って(よって[縒って]《縁語》)来られたあなたですから、私が打ち(糸が《縁語》)解けたと見るや、他の女性に心を乱しているのでしょう】と、自らの哀れさと“中将”の不実さへの非難を皮肉に込めた歌を文に書いて返して参りました。
流石にこの返歌に“中将”も思う処がございましたが、それを読んでいる処へ、友人の上達部(上級貴族)の御子、“源中将”とその隣にの住んでいる仲の良い“右馬の佐”━毎度の事で我ながら辟易といたしますが、“右馬の佐”とは役職名でございまして、現在は相応の地位を得ておりますが、無用な混乱を避けるために“右馬の佐”で通させていただきます━━やって参りました。
“右馬の佐”の手には、貴族様方の遊び道具たる小弓が携えられております。この小弓と申します物は、当時のスポーツの一種で、似たような物で有名な物だと蹴鞠などという物がございますな。これらの遊びは下級貴族の方々にとられましては、その腕前が出世に影響を及ぼす物でございましたが、そこは上達部の御子“右馬の佐”純粋に小弓を遊び道具として用いるために持って参りました。ここにいつもの“右馬の佐”の童心が窺われるかと存じます。
「昨夜は何処へと、隠れておったのか? 内裏で御遊びがありて、君をお召しになられたが、見つけられなかったぞ」と“源中将”が申されます。
これに対しまして“中将”は「ここに居たはずだが、奇妙なこともあったものだ」と、何故か昨夜後にしてきた女人と“蝶愛ずる姫君”のことを思い出しますと、誰にともなく後ろめたくお思いになられ、惚けてお答えになられました。
“中将”は二人の視線から逃れるように、目を外に向けますと桜の花々が咲き乱れ、またその花々の多くがが散りゆく様を見ますと、「あかで散る 花見るをりは ひたみちに【派手やかに舞い散る(桜の)花をみる折には、ひたすらに……】」と不意に脳裏に浮かんだ上の句を呟きますと、それを掬い上げるかのように“源中将”が「我が身にかつは かはりにしがな【我が身を代わりにしても、(花が散るのを)|止めたいものだ】」と軽く下の句を継ぎました。
“中将”はこれを聞きますと「ならば、甲斐がなくや」と世の無常を思い、「散る花を をしみとめても 君なくは 誰にか見せむ 宿の桜を【散る花を惜しいと(君が身をかけた結果)止めても、君がいなければ我が家の桜を誰に見せよう】」と宣われました。
三人ともに気心の置けない仲、戯れつつ皆でお邸を出、うららかな春の陽光に包まれる中漫然と、それでも今を盛りと咲く花を頼りとするかの如く歩を進めながら“中将”の御心中は「どのようにかして“蝶愛ずる姫君”へと繋がる伝などはできぬだろか」などと思慮しておられました。
夕刻、“中将”は父君の前に参上いたしました後。既に空は暮れゆき霞が籠るかの如き趣。その中に桜の花は咲き誇り、また散り乱れたる夕映えを、御簾を巻き上げて眺め出たるそのお顔立ち、言い様もないほどに若き光に満ち、花の香りすらもその気品に無用の物かとされたるかの心地すらいたると自らお思いになられ。琵琶は黄鐘調という調子に誂えて、いとのどやかに優雅に爪弾く御手つきなど「いかなる女人を以てしてもかくまでも映えることはないだろう」などと自意識過剰な自惚れたことを思っておられました。いやはや何とも意見に困りますな。
その後、“中将”のお邸に居座っていた“源中将”と“右馬の佐”や召し使いなどが前に出て様々に合奏をいたしました。
「それにしても、君ならば女人の方でも放って置かないのではないかな。それに今の琵琶の音を聞いて思い出したが、私は以前にこの世の物とも思えぬほどに美しい琴の音を聞いたことがあるよ」と“源中将”。
「ほほう。それは何処でかね」
「それは、ほら何かと名高い“蝶愛ずる姫君”のお邸で聴いたのだよ」
“蝶愛ずる姫君”と言う名称を聞いた途端に“中将”は、ハッと驚いたように目を開かれます。
所がその隣に座っている“右馬の佐”は何を思ったか、対照的に二人には気づかれず何とも申せませんような、曖昧模糊たる表情を浮かべました。
「“蝶愛ずる姫君”の邸とは、あの多くの桜が咲き乱れている処だろう。琴の音を聞いたとは、一体どうしたわけで?」と“中将”は不安を思えて早口になり、“源中将”に問いただしまた。
「どうしたわけも、こうしたわけも。あそこのお邸の塀の外から漏れ聴いたのだよ」
と、聞きますと“中将”は安堵して軽い溜め息を漏らされました。どうやら、今更ながらに自らが“蝶愛ずる姫君”を自分の妻にしたいという想いを胸に抱いていることに気がつかれたからでございます。
「それで、その“蝶愛ずる姫君”とはどうのような方なのだね?」
「何やらどこなの中納言様の姫君で素晴らしい美貌の持ち主だそうな。残念ながら私は拝謁に浴する栄には与っておらぬから、未だに見たことはないがね」と申されながら、“源中将”は隣の“右馬の佐”に同意を得ようかの如く隣に目配せをいたしました。
━━実は、“右馬の佐”の方は先日催された貝合わせの座に忍び入った際に“蝶愛ずる姫君”の御顔を覗き見たはずなのでございますが、何しろその相手たる“虫愛ずる姫君”の姿にばかり目を奪われてしまっていたがために、その御尊顔を曖昧にしか思い出すことができず、またその事を自らの胸の裡にだけ秘めたいとの思いからその場に忍び入ったことも他に漏らしてはおりませんでした。
“右馬の佐”は今も“蝶愛ずる姫君”の話題が出た途端に、連想的に“虫愛ずる姫君”のことを思い出しておりました。
そのため、“源中将”から話を振られましても、言葉を濁すかの調子で「ああ」と同意の言葉を漏らすのみに留まらざるをえませんでした。
“中将”は「そうか」と申されますと、“源中将”に話の続きを促されました。
「何でもその美しさと、聡明さが洛中に高く聞こえたるがために、近いうちに入内するのではないかとの噂もあるらしい」
入内と申しますのは、帝の妻の一人として内裏に入られることでございます。
これを聞いて“中将”の驚くまいことか、思わず大きな声で「そうとなってしまっては全ては後の祭りだ。何とか計らって妻に迎え入れることはできないだろうか」と叫ぶように仰せになられました。
“源中将”は驚きましてから、“中将”が“蝶愛ずる姫君”を想っていることに気がつきましたが、事が入内(帝)絡みのことなので、下手な返事もできずに僅か暫時の後で思いついたことを口に出しました。
「それならば、“堤中納言”様に御相談してみては如何か?」