その一
本作品は『堤中納言物語』中『花桜折る中将』の翻案小説です。
毎度、馬鹿馬鹿しいお噺を一席。
「山桜 匂ふあたりに 尋ね来て 同じかざしを 折りてけるかな【山桜の匂う(かおる)辺りまで訪ね(尋ね)て来て、あなたが 插頭しているのと同じ花を折ってしまいました】」という古い歌がございますように、見目麗しき花などを手折って手元に置いたりしたくなられる御方も多くあられるかと存じます。
「花盗人は罪にはならない」とは、後世の狂言の台詞でございますが、現代社会におきまして公共施設や他人の私有地などから、花を盗んだりいたしますのは、犯罪となりますので為念のほど。
古くから、女性の美しさをして花に例えたりいたしますが、およそ千年昔の貴族の方々はその花を手折るために虎視眈々と目を光らせておられました。
何しろ、男性の貴族様からいたしましたら、既成事実さえ作ってしまえば宜しいのでございますから、当然そうとなられます。
絵巻物などに描かれおります高家の姫君が外出する際に使用されました豪華な牛車なんぞという物はそんな貴族様方々からの襲来━━いわゆる辻取りというやつでございますな━━から身を守るためのものでございまして、その周囲を侍たちに守護らせておりました。
今回、これからいたしますのは、そんな花盗人かの如き振る舞いをなされる貴族様に纏わるお話でございます。
今は昔、と申しますと今からおよそ千年昔のお話です。春の月の光が皓皓と輝く深更の刻。
とある、頗る色を好みたる上達部(上級貴族)の御子であられます朝廷より“中将”と申します官職を賜っておられます御方が月の光に謀られ、少舎人童を一人供にし、通っておられる女人のお邸を後にいたしまして自邸への帰路についていた時のことでございます。
今までのお噺の時代考証とは少し異なりますが、この当時の貴族様と申しますと通い婚というのが、通例でございまして、妻にあらざれでも互いに想う男女ならば男性貴族様が夜に姫君を訪ない、深夜に帰宅するというものでございました。
“中将”は途上にて、後に残してきた女人を思い「私のことを愛おしいと思っているだろう」などと今になって後ろ髪を引かれるお気持ちになられましたが、すでに女人のお邸より遠い所まで来てしまっていたがため、立ち戻ることもせずに何心もなく、そのまま歩を進められました。
辺りに見られる小家などにも、時刻のために生活の音なども漏れ聞こえず、静寂の中にただ清らかな月の光を浴びている処々の桜の木の花々は、霞と見紛うばかりに夥しく咲き乱れておりました。
常ぬらぬその美しさの中を行く、“中将”は殊に美しき木立を前にいたしまして、そこを過ぎがたくお思いになられますと、後に残して参りました女人に翌日送る文に書くために思いつかれまして「そなたへと 行きもやられず 花桜 にほふ木かげに たびだたれつつ【そちらを去らねばならなかったのは、(美しく咲く)花桜の木陰の匂い(香り)に誘われたからです】」と歌を誦じました。
“中将”はしばらく、その場に佇んでおられましたが、不意にそのお邸についての記憶が甦られて「そういえば、 確かここには洛中に美女と名高い蝶を好むことで有名な“蝶愛ずる姫君”が住んでいたはずだ」などと思い出されまして、「なんとかして、その姿を垣間見たいものだ」と、その瀟洒なお邸の築地の周りを歩いてみますと、一ヶ所だけ崩れた部分をお見つけになられました。
当時の他の物語にも描写が散見されますように、築地面と申します物は案外と脆く壊れやすい物だったようでございます。
すると、先程の“中将”の歌を聞いていたと思われる頭に新雪を被せたような 、恐らくはこのお邸に召し使われていると思しき白髪の老人が現れました。
お邸の中には老人以外にも人気があると思われ、ここをかしかと覗ければ咎むる人ありかとの様子でございます。
“中将”の姿を確認し、高家の貴族の御方の姿と見て、戻ろうとする老人を、呼び止めると「こちらに住み給う方を慕って来た者だが 何とか取り次いで貰えぬか」なぞと今までに心にもなかった軽佻浮薄な言葉で、懐柔しようとなされましたが、老人からは「その様な事はできかねます」との、取り付く島もない答えが返って参りました。
これをお聞いたしますと“中将”は、「世は無常な物と知りたれど、このように明るい月の明かりが照らす、夜にありても光は遠い物だ」と、嘆息混じりの苦笑いを浮かべておられましたが、自らを監視していると思われる老人の気配が消えるまで隠れて待ちましてから供の者を先に自邸へと帰らせまして、一人築地の破れ目から、身をお邸に中へと忍び入る事に成功なされました。
この一連の行動を鑑みますに、この“中将”はこの手の事に余程手慣れている物かと存ぜますな。全くどこぞの別の上達部の御子とはえらい違いでございます。
今や月に代わり、太陽が山際よりその姿を覗かせようかという刻限。中から静かに妻戸が開く音が聞こえて参りました。
“中将”が、庭にある透垣の薄の繁茂している所へと身を隠しておられますと、お邸の中より静かに妻戸が開く音が聞こえて参りました。
すると、お邸から「“少納言の君”。夜が明け始めたのかもしれません。こちらへ来てご覧になられてはいかがでございまぬか」と、良きほどなる女の童と思しき声が“中将”の耳まで届いて参ります。
その姿は着なれていると思われるがために、よれた宿直姿で、蘇芳色らしく衵は艶やかさを帯び、更に小袿を羽織っておりました。櫛けずられた髪の毛先がその小袿に映えて、“中将”には何とも可愛いらしく思われました。女の童は扇で輝く月の光を遮るように顔を隠すと、誰にともなく口からついて出たかのように「月と花とを」なとど呟きますと花の方へと歩んで参りました。
まあ、ここら辺のうら若い女性の夢見る乙女かの如き言動は、現代とも通ずる所がございますな。
これに対しまして、色好みの“中将”はその声に応じようかといたしまして、しばらく見ておられましたが、お邸の中から“少納言の君”と呼ばれた女房と思しき声で「他の者は何故に未だに起きて参りらないのでしょう。“弁の君”、こちらへ参りなさい」と女の童を呼び寄せると、二人で話をしはじめました。
以前のお話でも、申しましたが“女三人寄れば姦しい”とはこれまた現代にも通ずる所があるようでございますな。
どうやら、二人は今日こちらのお邸の姫君が物詣━━と申しますのは、社寺に参詣 することでございます━━へ赴くらしく、“弁の君”は留守居を仰せつかっているようでございますが、その事に対しまして“弁の君”は不満顔でございます。
「それは面白くありません。それならば、私はただお供にだけ参りまして、近いところにて待ち、ただ御社には参らなければ良いではないですか」と“弁の君”。その呼び名の通り中々に弁が立ちますな。
すると“少納言の君”の方は「あなたは、今、月の障りがあり不浄の身の為物忌みの最中ではないですか、それにその口振りはまるでお隣の“虫愛ずる姫君”のような事を申しますね」と窘めました。
“虫愛ずる姫君”を引き合いに出されて較べられては、敵わないとばかりに“弁の君”はそのまま“少納言の君”の言葉を了といたしました。
“虫愛ずる姫君”と聞いて、“中将”はそう言えば洛中に虫をこよなく好むという奇妙な姫君いるという話を小耳に挟んだ事がある気がいたしましたが、今はそんな気味の悪い姫君の事よりも、このお邸の“蝶愛ずる姫君”に対する興味の方が遥かに勝っておられましたので、すぐにその事を忘れてしまわれました。
しばらく後、五、六人ほどの者が皆服装を整えて出て参りましたが、その中で高雅にして悠揚な動きの女性に目を留めた“中将”が「あれが、噂の“蝶愛ずる姫君”だろう」と思って見ておられますと、当時貴族の女性が外出する際に用いました被衣を滑らかに纏った姿は正に“中将”のこれまでの人生の中でこれほどに美しい女性は見たことがないと申しますほどに美しく。その少ない言葉数からは、鈴の音がなるかの如き軽やかさと涼やかさを兼ね備え、その響きにも高家の姫君としての高貴さを伺わせておられました。
“中将”は、「僥倖にも“蝶愛ずる姫君”を見ることができた」とお思いなられながら、思わず溜め息をつきましたが、既に日は高く登り心に名残りを惜しみながらも、先程垣間見た“蝶愛ずる姫君”の事を想いながらお帰りになられました。