その五
殿方は、いつまでもこうして話を引き延ばしてはいられないとお思いになられていたのではございますが、ある日思い立たれますと持ち前の突発的な行動力を発揮されまして「一度、あちらの家に伺い、断りの口上を述べよう」として、昼間に姫君の御邸へと向かいます。
姫君の家の方では、殿方がやってきたのを見た侍女が、「突然殿方がやって参りました」旨を報告いたしました。
それを聞くとお化粧もせずに、油断してすっかりくつろいだ気色でいた、姫君は大慌ての有りとなられまして、焦りながら「何処に、何処に」と繰り返し周りの者に尋ねられますと、焦眉の急とばかりに櫛の入った籠箱を取り寄せましてから髪を慌てて櫛削り、鏡も見ずに白粉を顔に塗ったと思っていましたら、間違えた畳紙に納められた黒い眉墨(掃墨)を取り出してしまい、それを顔面中に塗ってしまいました。
姫君は、殿方に向かって「『そちらにて、暫時お待ち下さい』」と侍女に言伝てて、必死に身を装おうといたしております。
そんな事とは露知らず、殿方の方では「いと既に、私の事を疎ましく思っているのであろうか」と、“虫愛ずる姫君”に短慮と評された行動力そのままに、簾垂をかき上げて無理に中に入りますと、姫君は畳紙を隠してから、等閑に顔をならして、袖で口を覆い隠されましたが、薄暗い夕暮れ時にでもしたかの如き、その顔は黒く斑模様のような指の形が刻まれているような有り様でございまして、眼をギョロギョロとさせながら、瞬きをしておられました。
殿方はこのお姿をご覧になられますと、驚愕して何とも醜い姿だと思い、如何にしようと恐ろしくなりなられながら、近寄る事すらできずに「また、しばらくしたら参りましょう」と申しますが早いが、ほうほうの体といったご様子で逃げ出すようにして帰ってしまわれました。
その後、殿方が訪なったと聞き付けた御両親様がいらして、召し使っている者たちに話をお聞きになられらと 「既にお帰りになられました」由。「何とも冷たい御心だろう」と思いながら、姫君のお顔を見ますと、先程申しました様なヒドイ有り様な物でございましたので、一見して悲鳴をあげながら驚愕と恐怖のあまり、揃って倒れこんでしまいました。
姫君はそれを見て、「何故に、そのように驚かれているのですございますか?」とお尋ねになられました。
父君が「その顔はどうしたのだ」と声をうち震わせながら仰せになられると、姫君は「おかしいわね。どうしてそのようなことを仰るられるのでしょう」と思って鏡を見てみると、あにはからんやそのお顔の恐ろしさに、自らも怯えて鏡を投げ捨てておしまいになられました。
「どうしたことでしょう。どうしたことでしょう」と姫君は泣きながら叫びだすと、家の者が「これは、あちらの家の北の御方が姫君の事を疎み、呪詛をかけた物かと思います。それで殿方がこちらへいらしたので、その呪詛が為に、そのようなお顔になったのでしょう」と申しました。
そこで、呪いを払う為に陰陽師を呼ぼうなどと、お邸中が上へ下への大騒ぎとなってしまいました。
そんな中で、姫君の乳母が、お顔の涙の流れた所が常の色をしていることに気が付きまして、紙を揉みほぐしてから、それでお顔を拭くと、そのお顔はいつもの通りの肌色となり、姫君が白粉と眉墨を間違えて塗ってしまった事が分かりますと、一同胸を撫で下ろすと共に、これによって殿方が二度とこの御邸を訪ねないだろうということを思い、「大変なことになってしまったものだ」と、姫君はお顔を青くされたとか、しないとか。
「━━と、まあ。こんなお話しでしたが、いかがでしたでしょうか」と、堤中納言様は“虫愛ずる姫君”にお尋ねになられました。
「お話しとしては、なかなかに面白くありましたね」と、“虫愛ずる姫君”。
「それは何より」
「それにしても、殿方を待つ身にありながら、放漫に過ごし、いざと言う時には不手際を行うとは、その姫君はよほど過ぎたる寵を親御様たちから賜っていたようでございますね」
「そうかもしれませぬな」
「また、涙によって殿方は妻の真の心を知り、姫君は涙によって自らを露呈するというのも皮肉な話のようでございます」
「そうとも取れますな。ですから姫君も殿方を想う時に備えて、不手際を行う事が無きよう、日頃よりお化粧の練習とまでは行かずとも、化粧道具の位置の確認くらいはしておいては如何でしょうか」
「常に化粧しないのであれば、その様なことなどは必要なきかと存じます」
「これはしたり」
「中納言様は、父から仰せになられて妾を訪なったのでございましょう?」
「分かりますかな?」
「はい。分かります」
「いや、これは参りました。流石のご慧眼、姫君には隠し事はできませんな。実は大納言様より、近頃姫君の様子が妙だとの御相談を受けてこちらに参った次第」
「それは、いらぬ御苦労をおかけいたしまして、誠に申し訳ございませんでした」
「まあ、私も姫君と語らうのは楽しいから良いのですが、大納言様には申し訳の無い所があります故」
「どのような所でございましょうや?」
「それは、ほら、御本人を前にしては、いささか申しにくい事ではありますが“虫愛ずる姫君”の件です」と、堤中納言様は珍しく、やや口ごもりながら仰りました。
「ああ、妾の渾名の事でございますか」と、仰りながらも“虫愛ずる姫君”は全く動じた気色もございません。
「実は、その洛中に虫を愛ずる姫君がおられるという噂は私にも一因があると思い、自らの口の軽さを恨めしく思っていたのです」
「その様なことなど、お気になさらずとも妾は何とも思っておりません」
「それは、何よりですな。姫君の許に来たかいがあったと言う物です」と、堤中納言様は少し胸を撫で下ろしたかのように仰せになられました。
そして、“虫愛ずる姫君”に別れの挨拶と再訪を約束した後、堤中納言様は帰って行かれました。
堤中納言様が帰られると、“虫愛ずる姫君”は日頃より側近く召し使っている幼い男の童の、“けらを”を呼び、前に右馬の佐より送りつけられた蛇の玩具を持ってくるように申し付けました。
その蛇の玩具は、その際の騒動の後であまりの出来の良さに、召し使っている幼い男の童たちが欲しがったのを、姫君が賜れまして、始めのうちは、それを皆で振り回して遊んでいたのでございますが、そのうち幼い男の童たちが悪戯の道具としてお邸の女人たちを驚かせるために様々な所に設置などするようになりました。
最初のうちは、皆驚いて悲鳴を挙げたりしていたのでございますが、近頃では皆慣れっことなってしまい飽きられておりました。
“けらを”が、“虫愛ずる姫君”の前に玩具の蛇を持ってくると、それは皆で遊ばれたために、見るも無惨な有り様となっております。
それを見ると“虫愛ずる姫君”は、召し使っておられる女房に化粧道具を納めた籠箱を持って来させて、蛇の玩具を膝に乗せながら中身の確認をいたしますと、膝の上の痛ましい姿となった玩具の蛇を優しくお撫でになられました。
深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ【(趣)深い夜更けの情趣をご存知でいられるのも、(私たちには)前世からの因縁浅からぬ契りがあった物かと存じます】
お粗末。
本作品を読んでいただいた方、誠にありがとうございました。
現在のところ続編を書くつもりは、まったくないのでここで一応完結設定とさせていただきます。
これは、新章を投稿するたびに毎回書いていることですが、本当に書き終えたら完結だと思っています。
それでも、次回の構想はできているので、また何かのきっかけで続篇を書くかもしれません。それがいつになるか、わかりません。もしかしたら明日コッソリ書くかもしれません。
それでもとりあえずは、重ねて本作品を読んでいただいた方、ありがとうございました。