その四
「それにしても、その御方はよく涙をお流しになられる方ですね」と、“虫愛ずる姫君”。
「そのようですな」と、堤中納言様。
「想い人につれなくされると、女人は涙を流す物なのでしょうか?」
「それは、どうでしょう。人によるとしか申し様がありませんし、その想いの強さにもよるのかもしれません」
「妾も、想い人につれなくされれば、涙を流すのでしょうか?」
「それも、どうでしょうな。姫君は今まで慕情によって、涙を流された経験がおありですかな?」
そうと言われて、刹那の一瞬、右馬の佐の事が脳裡に浮かびましたが、姫君はその思いを打ち消すかのように頭をお振りになられました。
「そのような、経験などございません。それに今までのお話だと女人が殿方に慕情を抱いたならば、常に涙を流しかねぬような憂き世に身を置くことになりそうではございませぬか。妾はそのような事は嫌でございます」と“虫愛ずる姫君”はキッパリと断言をなさられました。
その言葉に対して、堤中納言様が軽く爽やかな声で「ハハハ」と笑うのを聞くと、“虫愛ずる姫君”は可愛いらしい小さな口を尖らせまして「何が可笑しいのでございますか?」とお尋ねになられました。
「いや、姫君があまりに可愛いいものですから、つい笑ってしまいました」
「妾は可愛いくなどありません」と、“虫愛ずる姫君”は頬をほんのりと桜色に染めながらも、その点に於いては譲るつもりがないとばかりに抗弁をなされますと、堤中納言様はまたも「ハハハ」と明るくお笑いになられました。
「これは、失礼をばいたしました。それでは姫君のご機嫌をこれ以上損ねないうちに、話の続きをいたしましょう」
“虫愛ずる姫君”は、また何だか少し悔しくなられましたが、話の続きを聞くことにいたしました。
いつの間にか眠り込んでいた殿方が、ふと気がついて辺りを見ると、月は既に端近にございました。
「妙だな。帰りが随分と遅い。よほど遠い所に行ったのかもしれない」と思うと、妻の事を哀れに思い、「すみなれし 宿を見捨てて 行く月の かげにおほせて 恋ふるわざかな【住み慣れたこの家をを見捨てて、月の影が隠れて行くように、(妻が)恋しく思われる】」と、歌を詠みました。
そこへ、小舎人童が帰って参ります。
殿方は、「何故に、これ程までに遅く帰ったのか。どこに住まう家を定めたか」と問いました。
それに対しまして、少舎人童は妻の有り様を教え、先の歌を伝えました。
殿方は、それを聞くと悲しくなり、涙が頬を伝わりました。
「私の表で泣かなかったのは、気丈にも冷然を装っていたからなのか」と、妻の自分への気遣いをさせぬための健気な振る舞いを思い出すと切なくなり。一も二もなく「迎えに行こう」と思い立ちます。
小舎人童に、「そのような山里の陋屋へなどに行くとは思わなかった。そんな所では身を害してしまうだろう。やはり迎えに行くぞ」と申しました。
「夜の明けぬ先に」と、殿方は小舎人童を供にして妻の許へと、急ぎ駆けつけました。
道中、小舎人童は、「御方様は、常に泣き続けておられました」、「勿体なくも、あのような御方様が」などと口にいたします。
殿方は先の場所に着くと、ひどく小さくて粗末な家があり、それを見る程に悲しさを覚えながらも、その戸を叩きました。
妻はこの家に来てより、更に泣き臥しておられましたが、戸を叩く音を聞くと「誰そ」と問います。
すると、外から殿方の声で「涙川 そことも知らず つらき瀬を 行きかへりつつ ながれ来にけり【涙川がどこかは、知らなかったが辛き瀬[世]を行き返りしながら(涙の川を伝って、あなたの許へと)辿り着きました】」という歌が聞こえて参りました。
妻は、その声が聞き慣れた夫の声に似ていたので、我が身の未練を浅ましく覚えましたが、「開けよ」と更に声が聞こえて参ります。
妻は、このような処に自らを訪なう者など、有りはしないと思いつつ、一日程離れただけとは言え一生の別離と思っていた愛しい夫の声に引き寄せられるように戸を開けました。
殿方は、陋屋の中に入ると妻が泣き臥せていた所へ寄って行き、泣く泣く謝罪を口にいたしましたが、妻はその言葉に慰められることなく泣き続けました。
「さらに、かける言葉もない。このような処とは思わずに、あなたを送り出してしまった。むしろ、あなたが私に真の御心を告げられなかったのが恨めしい。他の様々な話は、後で落ち着いてしよう。夜が明けないうちに帰ろう」と申しますと殿方は、妻をかき抱いて馬に乗り、そこを去りました。
妻の心は突然のことに混乱と放心の狭間にありながら、「如何なる心の変わり様か」と思いながらも、共に元のお邸に着くと二人で横になってから、殿方は慰謝の言葉の数々を妻にかけられました。
そして、妻をまたとない者として「あなたがこの様子ならば、今よりは、更にあちらへは参らぬことにする」と申しました。
自邸に迎え入れるようとしていた姫君に対しましては、「この家の者が病を患ったために、折りが悪いので、いらっしゃられましても、あなたが困苦すると思いますので、家内が落ち着きましたら、改めて迎え入れることにいたします」などと口実を伝え、ただ妻と共にのみ過ごされましたので、あちらの姫君の御両親は思い嘆かれました。
妻はこれをまるで福地の園にいる夢のようだと、嬉しくお思いになられましたそうでございます。
これを、聞きますと“虫愛ずる姫君”は少し恥ずかし気に顔を俯かせになられました。なぜならば“福地の園”とは、以前に右馬の佐から蛇の玩具と一緒に送られた歌への返歌の末尾に自ら書いた物だっからでございます。
“虫愛ずる姫君”は、堤中納言様がこの言葉を用いたのは、意図的な物だとは分かってはおられても、また何かを言えば先程同様に笑い声であしらわれてしまうということが、容易に想像できましたのでここでは、あえてその事についてお触られにはなられませんでした。
「妻の方は、最終的に幸福になられたようで何よりでございますが、殿方の方は何だか短慮で場当たり的な方のようですね」と“虫愛ずる姫君”。
「気深い姫君から見るとそうかもしれませぬな。ですが、私は何も殿方について酌量するつもりはありませんが、按察使の大納言様や姫君のような身分にある者にとって、下々の者たちの個人的な事情など分かりかねる物かもしれません。このような貴族間での姻戚関係などには、様々な思惑が重なり、心ならずも新しい妻を家に迎え入れたり、金銭的に苦しいがために、想い人が自家におりながらも他家の姫君の許に通わなければならない者もおります。この場合ですと、殿方の方では最初は遊びのつもりだったのが、親がかりで支援も受けられることになったがために窮余の事態になったとも考えられます」と、堤中納言様。
「それでも、妾ならそんな不義理な夫には愛想を尽かして、山里の陋屋で暮らす事の方を好みます。それに山里なら種々様々な虫がいて楽しそうです」
この最後の言葉を聞きますと堤中納言様は、また「ハハハ」と楽しげに笑い「いや、全く姫君と語らうのは楽しいですな」と仰りました。
“虫愛ずる姫君”は、自らをからかう事のない、この肚に一物もなきが如き言葉を無視いたしまして、「それで、あちらの姫君のお家の方はどうなりましたのでしょうか」と問いかけました。