その三
「それは、随分と情けの薄い殿方のようでございますね。殿方というのは、皆そのような御方達なのでしょうか」と“虫愛ずる姫君”が仰られました。
「うーん。元来こう言った話はそう珍しくもない物ではあるのですがね」と堤中納言様。
「しかしながら、妾の父は他家の女人に通ったりはいたしませんよ」
「按察使の大納言様のような地位にあられるような御方が、他家に通うことがないというのも、少し珍しいことではありますが、もしかしましたら、大納言様は北の御方に強い慕情を抱いておられるのかも知れませぬな。まあ、誰しもが“光の君”のようには参りませんよ」
「どなたですか? その“光の君”とは」
「これはしたり、姫君は『源氏物語』を御存知ないと」
「はい。お恥ずかしながら」
「それならば、『はふはふと 君があたりに したがはむ 長き心の かぎりなき身は【這いながらでも、あなたのお傍に付き従いましょう、いつまでも変わらぬ長い心を持っている私ですから。】』と言う歌は御存知でしょうか?」
“虫愛ずる姫君”はその歌を聞いて、今度こそ心の臓を貫かれたような気になりました。何故ならば、その歌は以前に上達部(上級貴族)の御子“右馬の佐”━━毎度の事で我ながら辟易といたしますが、“右馬の佐”とは役職名でございまして、現在は相応の地位を得ておりますが、無用な混乱を避けるために“右馬の佐”で通させていただきます━━から初めて文を送られた際に書かれてあった物だからでございます。
“虫愛ずる姫君”は、虚を突かれたようにしばらく半ば茫然としておられますと、堤中納言様は「どうです。このような一心を込めた歌を詠めるという殿方もおられますよ」と仰られました。
「そ……、その歌の事を何処でお知りになられたのですか?」“虫愛ずる姫君”は我に返ったように思わず上級貴族の姫君にあるまじき大きな声で中納言様に問いました。
「ナニ、何処でも何も按察使の大納言様から直々にお聞きしたのですよ」
「そうですか……」先程とはうって変わって今度は消え入りそうな声でそう仰りましたが、姫君の心中如何に、といった感じで、余人には窺い知れない御様子でございましたが、几帳越しにいる堤中納言様だけは、何もかも心得たという顔をしているのが、何とはなしに感じられました。
“虫愛ずる姫君”は、几帳越しに堤中納言様から何もかも見透かされているかの如き、ありもしない不安を覚えましたが持ち前の気丈さで、自らの気持ちを立て直すかのように居住まいを正し、堤中納言様に話の続きを促しました。
御邸では、新しく妻となる姫君を明日、迎え入れる用意を整えているところでございましたので、妻は夫に出て行くということを告げる事には参りませんでした。
しかしながら、女人の足を以て目的の地に赴くには頼りないがために役立てようとする車を都合しようにも、頼むべき伝もなく、「車ですらも誰にも借りられようか、夫に『見送っていただきたい』と申したいところでもありますのに」と思うのも烏滸がましく感じられましたが、他に手もなく、致し方なく殿方に頼むことにいたしました。
「今宵、他所へ移ろうかと思いますので、しばしの間、車をお貸し下さい」と申されました殿方は、「ああ、何処へと参るというのだろう。せめて、その去り際を見送ることにしよう」と思い、忍んで妻の所へ参りました。
妻は、車を待ちながら端の間に座し、明るく光る月の元でさめざめと涙を流して泣いておられました。
「我が身かく かけ離れなむと 思ひきや 月だに宿を すみはつる世に【私がこのように、家(宿)をかけ[影]離れることになろうとはおもいませんでした。月の光ですら澄み[住み]渡る世なのに(“影”・“澄む”は月の縁語)】」
と仰りながら泣いておられましたが、殿方が傍らへ参りますと、気丈に涙を隠して何事もないかのように、お顔を逸らしました。
「車は牛の都合がつかないので、馬ならば用意することができる」と殿方は仰られました。
「すぐ近くの所なので、車を使うには及びません。ですが、その馬をお借りして、夜の更けぬうちにここを立つことにいたします」と妻が急ごうとするのを、殿方は哀れともお思いになられましたが、あちらの姫君の者たち皆は“明日には”と思っているはずだから逃れる術もあらばこそ、心苦しく思いつつ、馬を引き出させて簀子を敷いた所へ寄せました。
殿方が妻が馬に乗ろうとして、立ち出たる姿をを見ると、月の明るい光に影を落とし、背丈ばかり伸びた髪は艶やかに美しくお見えになられました。
殿方は、手ずから妻を馬に乗せると、その服のここかしこと整えてましたが、妻はゆゆしく心憂かったので、あえて思いを胸に秘めて、何も仰せになられませんでした。
妻の馬に乗った姿、髪の形は大変美しく、それが更に哀れと思わされ殿方は「私も送る供をしよう」と仰せになられました。
「すぐそこの所ですので、お構いなく。馬もすぐにお返しいたします。あなたはここにおらっしゃいませ。私が行くのは見苦しい所なので、人にお見せできる所ではございません」と仰せになられてみると、「さもあらん」と思いまして、その場に留まり、腰を下ろして待つことにいたしました。
この妻は、供を多く連れず、以前より見慣れた小舎人童一人のみを供にして馬の歩を進めました。
妻は殿方の視線がまだ自らを捕えている内は、自らに強いて想いを隠しておられたのですが、門を出るとなり感情の発露を押さえきれずに馬の背で泣く姿に、伴の小舎人童は、大いに同情しながらも、かつての召し使い“いまこ”を先導にして、はるばると大原を指して道を行きました。
しばらく後、小舎人童が、おずおずと妻に「『すぐそこ』と仰せになられましたが、供人も僅かなのに、何故にこのような遠くまでこられたのですか?」と尋ねましたが、妻は何もお答えになられませんでした。
そこは既に人目も無い山里でございましたので、小舎人童は心細くなりながらも仕方なく、先導に導かれるままに妻の供をして歩いて行きました。
殿方の方は、急に寂寞の感じられるようになった御邸でただ一人、自らの胸の裡を眺めておいでになられておられました。妻のその美しい姿を思い返して、恋しく想い、「妻は私の事を、どのように思っているのだろう」と思いながらも、小舎人童が帰って来るのを待っていたのでございますが、久しく戻らないので、簀子の端に足を指し下ろして、他に寄りかかりながら、身をお臥せになられました。
妻の方は、未だ夜中にならぬ先に目的の地へと到りました。見ればそこには陋屋があるのみでございまして、小舎人童が「何故に、このような所にいらっしゃられたのですか」と、自らも心苦しくなりながらも申しました。
妻は馬から降りると「早く、馬に乗ってお帰りなさい。きっとあの御方もお待ちになられていることでしょうから」と仰られました。
「『何処へに泊まっているのか』と君よりお尋ねになられましたら、如何様にお答えすればよろしいのでしょう」と小舎人童に問われると、妻は泣く泣く「かように申うしあげなさい」と仰せられてから歌をお詠みになられました。
「いづこにか 送りはせしと 人問はば 心はゆかぬ 涙川まで【何処へと(私を)送ったのかと問う人があれば、心ゆかぬまま涙川(へと行きました)[心“行かぬ”と“行った]”】」
これを聞くと、小舎人童も泣く泣く馬にうち乗り、ほどなくして殿方のいるお邸へと戻って参りました。