その二
洛中の、少しばかり下った処に卑しからぬ身分の、さる貴族の殿方が居を構えて住んでおられました。
この御方、身寄りもなく財も無いが為に、自ら事も叶わぬ境遇の姫君を、にくからず思い妻にして邸に住まわせ共に睦まじく暮らしておられました。
そんな暮らしが数年ほど過ぎた時のことでございました。
この殿方が、親しく付き合いをしている貴族様の所に訪れるうちに、どうした拍子かそのお邸の姫君に懸想の心を抱きまして、その姫君もその想いにお応えになられ密かに通うようになったのでございます。
すると、「女房と畳は新しい方がいい」何ぞというヒドイ諺がございますが、この御方も新しく縁を結んだ姫君と北の御方(正妻)を引き比べ、何か珍しく思われそれだけに、北の御方より心深い慕情を胸に抱くようになられました。それが故に以前は人目を憚りながら通っておられましたのが、徐々に衆目を忍ばず通うようになられました。
そうとなれば、その事がその姫君の親御様のお耳にも入る次第となり、渋々ながら殿方に「あなたには、連れ添っている北の御方がおられるが、こうとなれば余儀もない」と、御二方の仲を親御様のお墨付きの物とされ、殿方に姫君の許へ通わせるがままにいたしました。
さて、「人の耳に戸は立てられぬ」と申しますが、今度はこの事が北の御方に、自らの夫が公公然として他の姫君に通っているということが、お耳に入ります。
すると、北の御方は「今となっては私達の仲も仕舞いのようです。あちらの御邸の方々も、このまま夫を通うがままにはしておかないでしょう。きっとこの邸に新しい妻として姫君を迎えさせようとするはずです」とお思いまになられました。「それに引き換え妾には、どこにも行き場もない身の上、この邸を出たら何処へ行けば良いのでしょう。しかしながら、妾の中の慕情の念が辛く果てぬ先に自ら出立をしなければ」などと健気にも思っておられました。
新しい姫君の親御様の方では殿方に「姫は、北の方も定めておらず、熱心に心寄せる方に娶わせようと思っていたが、このような本意ではない形で見初められたのでは、口惜しくもあれど言う甲斐がないので詮方なきこと。ならばこそ、このよう厚遇を以て応じているのです。ですが世の人々が、『妻を邸にすえたる人などが、私の姫に慕情を抱いているなどと申しても、あなたの真の心は妻にありて、そちらを大事に思うに違いない』など言われるがままにしておくと心安からずしながらも、同意せざるを得ません」と靦然と申しました。
これに殿方が、「人の数にも入られぬような、常人たる私でありながらも、慕情の心ばかりは勝る人なきかと存じます。邸に連れ帰られぬのを、心無きと思し召されるならば、ただ今にも連れ帰りましょう。世の人の言葉は私とは異なります」と申しますと、親御様は「せめてそのようにして下さい」と慇懃ながらも強要するように答えましたが、殿方の方は内心「ああ、今の妻を何処へと遣わそう」と思い、今の妻の事を悲しくも思いましたが、新しく邸に迎えんとする姫君の事を想う慕情が強く、「妻には事情を話して、その様子を見よう」と考えお邸へと帰って行きました。
殿方が、帰って来て妻を見ると、普段は未だ少女の面影を宿した子供らしさを思わせるところがあるような、そのお顔は日頃の思い悩みにより、少し面痩せていて、痛ましく哀れげでございました。
「すこしお待ちになって下さいまし」と、“虫愛ずる姫君”が堤中納言様の言葉を遮って申されました。
「何ですかな?」
「あの、今のお言葉の所だけ話し方の調子が他と異なるかのように思うのですが、何か含む所のあってのことでしょうや?」
「いや、何も含む所などありません。それならば、もう一度今の所を話してみましょう、『普段は未だ少女の面影を宿した“子供らしさ”を思わせるところがあるような、そのお顔は“日頃の思い悩み”により、少し面痩せていて、痛ましく哀れげでございました』と、いかがでしょう?」
「今度は明らかに“子供らしさ”と“日頃の思い悩み”の語調が強くなっている気がいたします」
「そうですかな? いや私としては何もそこに含む物はないのですが、気のせいではないでしょうか」
この返答に、“虫愛ずる姫君”は白々さを覚え、明らかに自らのことを当て擦っているのは明白だと、お思いになられたのでございますが、これ以上何を言おうといつものように“柳に風”といったような返答が帰ってくるのが目に見えておりましたので、小憎らしくお思いになられながらも話の続きを促しました。
さて、恥ずかしさによって平素の如く口を利くことができない妻に対して、殿方は心苦しく思いながらも先程思い付いた言い訳を口にすることにいたしました。
「あなたを想う心は変わりないが、あちらの親御の断りもなく通うようになってしまったので、あちらの体裁を保つために同情の心から通い続けることになってしまった。あなたが辛いと思っていると知りながらも、今となっては悔いるばかりだが、今さらに縁を絶つ訳にもいかない。それで今度はあちらで『“土忌みをする”ので、姫をあなたに預かってくれ』と申されたのだが、どうした物だと思うかね? 何もあなたが他に行く事もないと思うかね? 何、そんなに心苦しく思うことはない。こうとなれば、端の部屋へ移ればいいだけです。忍びながらに忽ちと何処などへも行かれようはずかないのだから」と申しました。
ここで“土忌みをする”と言ういささか馴染みの浅い言葉について一言申し添えますと、“土忌みをする”とは陰陽道の風習で土の神のいる所で工事、造作を行う際に祟りを恐れて他所へ仮住まいするということでございます。まあ、この場合では殿方が新しい妻をお邸に迎え入れるための口実として使われております。
これをお聞きになった妻の方は心中で、「ここに新しい北の御方を迎え入れようとして、このようなことを仰ているのでしょう。あちらの姫君は親御様があられるので、こちらに来なくても都合のつかないこともないでしょうに、それに比べて妾は何処へも行かれぬ身の上。その事は常から夫も知っているはずなのに」と辛く恨めしくも思いましたが、そのような素振りを見せずに答えました。
「そうなさるべきかと存じます。早くに邸にお迎えして差し上げてくださいまし。妾は何処へなとも行きましょう。今まであなたが、かくにも懊悩していたにも気付くこともできずにいたとは、憂き世に疎い自らが恥ずかしく思われます」と申しました。
この言葉に流石に殿方も憐憫の情を覚えまして、「何故にそのように宣うのか、そのようにあらず、ただしばしのことだ、姫君が帰れば、またあなたを迎え入れよう」と申しましてから部屋を出て行った後で妻は、召し使っている者と差し向かいで涙を流して泣いて過ごしました。
「心憂き物は男女の仲とは世の常。如何にいたしましょう。あちらが推して参った際に、惨めな姿を見られてしまうも身が苦しい。陋屋かも知れませんが、大原に住む“いまこ”の許を訪ねてみましょう。今となっては、彼女の他に頼れる者はないのですから」と妻は申しました。
今子とは以前、妻の御両親が存命中の頃、ささやかなお邸で召し使っていた者でございます。
「そのような陋屋などには、北の御方が片時もおわせられような処とは思いませんが、然るべき処が見つかるまで、まずは仮住まいと定めることにいたしませ」
などと語らった後、“立つ鳥跡を濁さず”とばかりにお邸の中を掃かせるなど清くいたしましたが、心中に大層な悲しみを抱きいておりますものでございますから、泣く泣く今までの思い出の詰まった文などを恥ずべきものと思い火にくべました。